千冬が灯璃と町へ行ってから二日が経った。
 仕事へ行く灯璃の見送りをしたあと千冬は自室へ戻り、文机に向き合っていた。
 恥ずかしくない花嫁となるための勉強をしたいという申し出に灯璃は何冊もの教材を用意してくれた。
 しばらく座学をしてから講師を呼んで実践に入っていくことを決めている。
 (まずは、あやかしについて学ばないと)
 千冬が手に取った教材には、『あやかしの歴史』と書かれている。
 あやかしは多種多様存在しているが無知な千冬は鬼や妖狐くらいしか知らない。
 例えば鬼といっても灯璃が当主を努めている鬼城家を筆頭に数多の分家がある。
 花嫁、妻ならばすべての名前は覚えなくてはいけないし、どのような者が当主で何を生業としているのか勉強する必要がある。
 (せめて今日はこの教材の半分は進めておきたいわ)
 使用人たちに家事を任せている分、早く知識を身につけたい。
 千冬はよし、と気合いを入れて教材を開くと筆を持った。

 「失礼致します、千冬さま」
 朝から勉強を始めて随分と時間が経過した頃、襖の外から詩乃の声がかかる。
 教材から顔を上げて動かしていた筆を止めた。
 「はい」
 返事をすると襖が開けられる。
 「そろそろ昼食にしませんか?お疲れでしょう」
 皿におむすびを二つ載せて運んできてくれたのだ。
 端には自家製のたくあんが添えられている。
 詩乃の柔らかな笑みが無意識に力が入っていた身体を適度に抜かしてくれる。
 「ありがとうございます。いただきます」
 正直、空腹は感じていないが、せっかく丹精を込めて作ってくれたのに断るのも気が引けて一旦、教材を閉じる。
 「今日はもう長時間、机に向かわれていますからお身体のためにもお止めになった方がよろしいのでは?」
 心配そうな表情を向けられるが千冬は首を横に振った。
 「いえ、わたしは平気です。これを食べたらまた再開します」
 自分で提案したのに簡単に休憩や休みをとりたくない。
 継母達に虐げられていた、というのを理由にしたくないというのもある。
 人より勉強が遅れているので止まっている暇はないのだ。
 「わかりました。ですが決して無理はなさらないでください。灯璃さまは千冬さまが元気なお姿の方でいらっしゃることが嬉しいのですから」
 詩乃の優しい忠告を胸にしまい、頷いた。
 「食事のおかわりもありますし、基本的な勉強ならば私や他の使用人たちでもお答えできるかと存じます」
 「本当にありがとうございます。いつも詩乃さんや皆さんに助けていただいてばかりで……」
 こうして静かな環境で集中して勉強に取り組めるのは周囲の力添えがあるからだ。
 一人では何もできなかったし、改めて感謝しなければいけない。
 千冬の礼に詩乃は首をゆっくり横に振った。
 「何をおっしゃいますか。我々こそ千冬さまが健気に頑張られているお姿に励まされているのです。そのお力になられるのでしたら嬉しいことですわ」
 (そう思ってくださっていたなんて……)
 自分を見て誰かが励まされているとはつゆ知らず胸の中がじんわりと温かくなった。
 どれだけ一生懸命に頑張っていても継母達には視界に入るだけで目障りだと言われたこともあった。
 しかし詩乃をはじめとした使用人たちはそんなこと一言も放たない。
 急に花嫁に選ばれて戸惑ったが優しくしてくれる灯璃や使用人たち、この屋敷を大切にしようと思えたのだ。
 それが前へ踏み出した千冬の今の心境である。
 「では私は一旦これで失礼いたしますね。お皿は廊下に置いといてくだされば大丈夫ですから」
 「お気遣いありがとうございます」
 詩乃はにこやかな微笑みを絶やさないままお辞儀をすると部屋を出て行った。
 部屋に再び静寂が戻る。
 (これを食べたらまたさっきの続きをしなくちゃ。早く座学を終了させて実践に移りたいもの)
 千冬はいつもより少し大きく口を開けて残りのおむすびを食べ進めたのだった。

 「千冬さま、そろそろ灯璃さまがお戻りになられるお時間です」
 「えっ……!?」
 詩乃の声に慌てて教材から顔を上げて壁に掛けてある時計を見るとお昼で見たときよりも、かなり針が進んでいた。
 もう日課にしている玄関でのお迎えの時間なのだと気づき、すぐに立ち上がる。
 勢いよく襖を開けると詩乃が少し驚いた表情をしていた。
 「あっ。煩くして申し訳ありません」
 「いえ、大丈夫ですよ。もしかして千冬さまはあれからずっと勉強されていたのですか?」
 「はい。少しでも早く進めておきたくて」
 千冬が頷くと同時に外から自動車のエンジン音が聞こえる。
 灯璃が仕事から帰ってきたのだ。
 「お迎えに行かないと……!」
 千冬は足早に玄関へ歩き出すとその後を詩乃も慌てて追いかけた。

 「おかえりなさいませ」
 「ああ。ただいま」
 何とか出迎えに間に合い、他の使用人たちと共に頭を垂れる。
 早歩きをしたせいか、若干息がきれる。
 (こんな調子では駄目ね。明日から気をつけないと)
 乱れた呼吸をこっそり整えていると、ばちっと灯璃と目が合う。
 「千冬どうした?」
 ばれないようにしていたつもりだが、容易く気づかれてしまった。
 灯璃は近づくと手を伸ばし、千冬の頬に触れる。
 長い廊下を早く歩いたせいで顔が熱い。
 元々、千冬には体力がほぼ皆無のためすぐに息がきれてしまうのが悩みなのだ。
 火照った頬に灯璃のひんやりした手が心地よい。
 「い、いえ。何でもありません」
 「嘘はよくないぞ」
 「うっ……」
 端正な顔がずいっと近づき、赤い瞳に正面から射抜かれる。
 このまま隠し通すのは不可能だとわかった千冬は観念して正直に伝えた。
 「実はさっきまで勉強をしていて。気づいたら灯璃さまがおかえりになる時間で慌てて玄関に来たのです。け、決して走っていません」
 走ったか否かは疑われていないのに何故か突発的に一言を付け足す。
 頬を赤くさせ訴えるような姿に灯璃はくすっと笑う。
 「大丈夫。わかっているよ」
 ゆっくりと頭を撫でられて、ようやく呼吸と気持ちが落ち着いた。
 灯璃は荷物を使用人に預けると千冬の華奢な身体を抱き上げた。
 「きゃっ……!」
 突然の浮遊感に最初は何が起きたのかわからなかった。
 おそるおそる目を開けるとすぐ近くに灯璃の顔が近くにあって今の自分の状況を数秒かけて理解した。
 「あの、灯璃さま?何故わたしを抱き上げているのですか?」
 「勉強で疲れているだろう。それに千冬は身体が弱いのだから息がきれるほど急いで出迎えなくてもいいんだよ」
 「し、しかし……」
 もう呼吸も整ったし自分ひとりで廊下くらい歩けるのだが。
 灯璃の逞しい腕はしっかりと千冬の身体を支えていて離すつもりはなさそうだ。
 「夕食の準備が終わるまで私の部屋でゆっくりしよう」
 低く甘い色香漂う声が鼓膜を震わせると全身に緊張が走る。
 抱きしめられたことはあるのに、お姫さまのように触れられるのは初めてで恥ずかしくなった。
 どうにかなってしまいそうだが、あまり腕の中でこれ以上動くのは危険だと思い、このまま身を預けることにした。
 灯璃は普段とは違い、甘えるような千冬を見て満足そうな笑みを浮かべると長い板張りの廊下を歩き出した。