相葉君は、せめて職員室にまだいるであろう先生に、図書室で倒れたことを話し、車かなにかで送ってもらった方がいいと言い出したが、私は丁重にお断りした。

 今日は、これ以上誰かと関わって、余計な心労を溜めたくなかった。

 図書室の床から起き上がってからは、体はスッキリ動いたし、自分の足で帰宅することも問題なく感じたからだ。

 それに、少しは涼しく感じてきた九月の夜風に当たって、頭を冷やしたかった。

 私がなにごともなかったかのように、カバンを持ち、昇降口に向かったので、相葉君は慌ててついてきた。

 頼んでもないのに、ずっと着いてくる。本当に私のことが心配のようだ。

「……貧血だなんて、やっぱり最近、調子悪いのか?」

 やっぱり? 貧血なんてただの方便だ。どうしてあそこに、倒れていたかは分からない。たしかに“あっち”の世界にいたはずなのに、いつのまに図書室に戻ってきたのか? ……こっちが聞きたい。

「単なる生理痛よ。なによ、やっぱりって?」
「!? ……そ、そうなんだ。あ……いや、このごろ渡辺なんか、思いつめてるみたいだったから……」
「……」

 確かに本のことで、相当思いつめていた。でもそんなことを知っているのは、当の私だけ。

 なのにこの男は、なんでそんなことに気付くのだ……。胸の辺りがザワザワする。

「思いつめてなんか……いないわ。普通よ」
「そっか……なら、いいんだけど」

 これ以上、この話題には突っ込まれたくない。

「そんなことより、なんであんな時間に図書室に? もう……手伝いは不要だって、佐々木先生に伝えといたはずだけど」
「知ってるよ……たまたまだよ。図書室通ったのは」
「もしかして、私に用があったんじゃないの?」
「!?」

 どうやら図星だったようだ。

 相葉君は、しばらく黙ったまま顔を上げなかったが、やがて改めて私に向き直ると、意を決したように口を開いた。

「ずっと……あの日のこと謝りたかった、本当にごめん! あんな酷いこと、するつもりじゃなかったのに……本当にオレ、どうかしてた! ……って、こんなの言い訳がましいけど、許してくれって、言える立場じゃないんだけど!」

 相葉君は九十度以上に頭を下げ、ほとんど下げた頭が、膝に付くんじゃないかと言う姿勢で捲し立てた。

「……あの日のこと?」
「その……えっと……お前を、押し倒したこと」

 私はその謝罪に、何故か冷静になって考えていた。
 
 この男は、一体なにについて謝っているんだろう?

 私の腕を乱暴に掴み、床に押し倒した暴力行為についてか?

 それとも、押し倒したにも関わらず、捨て台詞を吐いた上、その後なにもせず、逃げ出したことだろうか?

 そうやって逃げ出すことで、女の私に恥をかかせたことだろうか?

 いや、もし床に倒れているのが百花なら、ことにいたったかもしれないことだろうか?
 
 ……。


「許さない」
「……!?」

「……」
「……そう……だよな……」

 相葉君は観念したように、再び頭を垂れた。

 ものすごい落ち込みよう、死神にでも魅入られたような、深い絶望が色濃く顔に出ている。
 
 私は思わず、その表情に見入ってしまった。

 心の芯に響き渡る苦悩の顔……きっと私ほどこの表情の素晴らしさを、理解出来る人間は他にはいないだろう。
 
 は!? ……私ったら、また! しかも、こんな男にまで!

 ……絶望した。まったく自分の卑しい喜び観念には、絶望させられる。

 私は申し訳なくなって、次の言葉を口にしていた。
 
「ウソよ。……もう気にしてないから。怪我とかも、特になかったし。相葉君も気にしないで……」

 相葉君は憑き物が落ちていくように、安堵の表情を浮かべていく。泣き出しそうな顔だった。

 なんて単純なんだろう……なんて純粋なんだろう。
 
 不思議と全身に温かいものが駆け巡って行き、そして胸が締め付けられた。
 
 私が世で言うところの、“真っ当な人間”になることはもうないだろう。
 でも眩しいくらいの、純粋で、バカで、真っ当な人間が、今、目の前にいる。

 そして、真っ当な人間の願いを、手助けすることはできる。

 私は今、その“力”を持っている――

 
 私は持っていたカバンを開いた。

「……これ、あなたに譲るわ」
「え?」
「書籍整理を手伝ってくれた、お礼」
 
 私はカバンにしまっていた、あの“願い叶えの本”を相葉悠一に差し出した。

***
 
 私が世で言う、真っ当な人間になることはもうないだろう。
 
 でも、真っ当な人間の願いを手助けすることで、少しでも真っ当な人間に、近づきたかったのかもしれない。

 許されたかったのかもしれない。

 きっと本当に“一生に一度”のことだろう。

 そのチャンスを与えてくれた、相葉悠一に心から感謝した。

 その純粋な願いに担えたという誇りは、いつでも私の頭上に輝き、世の中の“常識”から自分が逸脱していることを思い出し、生きていく自信がなくなったときには、いつでもそれを見上げ、きっとこれからも生きていける。
 


つづ