【九月四日(木曜日)】
 
 どんなに冷静さを装おうとしても、本のことが気になって仕方がない。
 
 寝ても、覚めても、授業中でも、食事のときでも、思い浮かぶのは本のことばかり。

 まるで、恋でもしているみたいだ。
 
 私はいても立ってもいられなくなり、午後の授業が終ってすぐに、文化部活塔へと向かった。
 
***
 
 部活塔の一番奥、文芸部室のドアの前に立ったとき、はっとした。

 鍵が掛かっている……当たり前だ。

 ドアが開くわけもない。だいたい、無断で勝手に部室に入るわけにはいかないのだ。

 だかもし、この部室の中に関係者がいたとしても、願い叶えの本を探しているからと、中に入るのは想像しただけでも、相当痛い。
 
 ……落ち着け。

 だいたいそんなもの、あるわけがないんだ。
 私はすんでのところで、正気に戻った。
 
***
 
 正気は取り戻したはずだったか、私は空気が抜けかけた風船のように、学内をフラフラと彷徨った。
 一体自分が、どこを歩いているか分かっていなかった。
 
***
 
 次第に眩しい光が、目の端に入ってきた。
 強烈な日差しが、体に染み渡った。このままここにいたら、光が自分を浄化してくれるだろうか?

 気が付けば、校舎間を繋ぐ曲がりくねった渡り廊下に出ていた。
 私は馬鹿みたいに、しばらくそこに突っ立っていた。
 
 
「……渡辺さん?」
 
 聞き慣れない男の声が、私の名を呼んだ。
 ゆっくり振り返って見た。
 その顔には、見覚えがある。
 
「高橋……先輩?」
「ああ、やっぱり」
 
 高橋先輩は日光を一心に受け、そこに力強く存在していた。
 今にも白い歯が、キラッと光りそうで寒気がした。
 
***
 
 私はどうしてこんなところで、この人と世間話をしているのだろう?

 今すぐにでも逃げ出したかったが、私の中にある、常識的社交性がそれをさせない。
 もし逃げ出せば、高橋先輩の心象を悪くし、きっと百花にも迷惑がかかるだろう。

 ちゃんと、笑えているだろうか? 顔が引きつる……。

 さらに話が進んでくると、高橋先輩は百花の好きなものや、行きたい場所なんかについて、私に聞いてきた。
 この世の幸せが、すべて自分のものとでも思っているかのような、浮かれっぷり。

 今ここにナイフでもあったら、私は間違いなく高橋先輩を刺し殺していただろう。

 作り笑いを崩さないようにすることは、地獄のような苦しみだった。

 その永遠のように長く苦しい時間を、私は必死で耐えたのだ。
 
***
 
 どこをどのように通って、図書室にたどり着いたかは、覚えていない。

 習慣というのは恐ろしいもので、体は勝手に仕事をこなすのだ。

 体と精神は別々に存在すると、こんなところで実感させられた。


つづく