【九月一日(月曜日)】

 ギャハハハハという男子特有の下品な笑い声が、隣の理科室から聞こえてきた。

 こういった場合の会話というのは、不思議と耳を塞いでいても、聞こえてくるもので、どうやら内容は一夏の体験こと、「猥談」らしい。

 ……吐き気がした。
 
 百花を見事射止めた、ナントカ先輩のことを思い出す。
 どうせそのナントカ先輩も、ここにいる馬鹿で助平で最低な男子たちと同じで、結局は、百花の体が目当てに違いない。

 そう考えると、ナントカ先輩を殺してやりたくなった。

 再び馬鹿で下品な喚き声が、隣の理科室に響く。

 ――訂正。

 この世界の男なんて、いますぐ全員死滅すればいいのに。

***

 図書室のこの窓際からは、校庭が見渡せる。

 放課後の今の時間、運動部の面々が各々の部活動を勤しんでいる。

 校庭周りを、規則正しい早さで走りこんでいる野球部、広いサッカーコート内で、パス練習をしているサッカー部、ハードルをいそいそと設置している陸上部、そして金網のさらに向こう……打ち込みをしているテニス部。

 私の大好きな場所だった。
 でも今では、大嫌いな場所だ。

 この遠さじゃ、顔なんて確認出来るわけものに、すぐに分かってしまう。

 一体この力は、なんなんだろう?

 どんなに遠くに離れていても、彼女のみを見分けられてしまう、この力は……。
 
 ふと目の端に、視線を感じた。

 向き直ってみると、同じクラスの相葉悠一が、作業机の向こうに馬鹿みたいに突っ立っていた。

 この男子の名前は、よく覚えている。

 “アイバ ユウイチ”……。一年A組、出席番号一番。

 私にとって“出席番号一番の人間”というのは、特別な存在だ。

 きっと今までの人生で、出席番号六番とか、十八番とか、二十一番なんていう、半端な番号しか割り当てられなかった人間には、決して理解出来ないだろう。
 
 私は“渡辺”という姓と性別のせいで、昔からずっと出席番号はクラスで一番最後だった。一度たりとも例外なくだ。

 おかげで出席をとるときや、点呼のときなんて、忘れられること多数。小さいころの私は純粋で、そんなことで心を痛めたりしていた。

 名前を呼ばれない……認知されない、それは、そこに存在していないも同じことだ。

 対して一番の人間は、絶対に他人から忘れられたりしない。

 ただ名字が“ア行”だっただけで、“ワ行”だっただけで、幼少期からの環境を大きく左右されるわけだ。

 そんなこと……と鼻で笑うやつには、私の気持ちなんて理解出来ないだろう。

 いや、別に分かってもらわなくても構わない。むしろ“分かった”なんて、心の広い人間ヅラはやめてもらいたい。

 そう、その感情が味わえるのは、出席番号ラストの人間の特権なのだ。

 特権だなんて思えるようになったのは、やはり、出席番号一番の人間のおかげだった。

 ことの始めは、小学校の入学式のときにやる“新入生挨拶”でのことだ。

 中学にでも上がれば、成績上位者が担当するのが一般的だろうが、お受験もない公立小学校では、そういった役回りは“出席番号一番”に回って来る。

 まだまだ男尊女卑の息づく日本。“出席番号一番”はおおかた男子だ。

 体育館の教壇の前に立ち、緊張しまくりで震えながら挨拶をする彼は、見ているこっちまで、つらくさせた。

 哀れだった。ついには泣き出してしまったその男子生徒に、心底同情の念を禁じ得ない。

 ことあるごとに“出席番号一番”を持ち出され、なにをするにも一番先、面倒ごとを先生に押し付けられる……それを思えば先生に忘れられるくらい、どってことない。

 しばらくしてそれに気が付いた私は、自分の存在を忘れられるたびに、すべてのしがらみから逃れた、世界の傍観者にでもなったような、優越感に浸れた。

 自然と笑みが零れて来る。

 それに気が付かせてくれた“出席番号一番”は私にとっては、特別というわけだ。
 

つづく