出戻り公主は呪われた皇帝に囲われる

「要するに、私が沙藩の元正妃だから、玉榮も私の後宮入りに賛成したんだな」

 それだけは、華月と玉榮の利害が一致したのだろう。

「賛成というより、黙認……ですかね。沙藩との関係が微妙なのは事実。貴方の扱い方は揉めました。でも、会った時、貴方の格好や言葉遣い、諸々を見て、あいつは貴方を使えないと見下し、処遇を私に一任したのです。私としては逆に幸運でしたけど」

 華月が唇を噛みしめていた。
 紅琳が莫迦にされているだけなのに、なぜ華月が腹を立てているのだろう。
 皇帝と面会できないことに怒って、傍若無人に振る舞っていたのだから、紅琳にも問題があったのだ。

「構わないよ。誰だって、一国の公主、妃が貧相な格好で、後宮の池で魚釣りしたり、木登りしたり、食べられる草を探して歩いていたりしたら、怖いよな。そんなんだから、離縁されるんだって、陰口叩かれても仕方ない」
「えっ? 貴方、食べられる草を探していたんですか。いいな。一緒に、探したかったですね」

 さすが、紅琳の「友」だ。
 そんなところに、興味津々らしい。

「一緒は、不味いかな」
「ええ。分かっていますよ。今のように、命を狙われている身では、貴方の足手纏いになってしまうでしょう」
「いや、そういう意味じゃなくて」

 皇帝と食用の草探ししていたなんて、醜聞どころの騒ぎではない。
 ――けど、華月は自分の身の上を、恨んでいる。
 諦念と虚無が入り混じった華月の表情に、紅琳は思わず手を伸ばしかけて、やめた。

(……華月が女なら、抱きしめてたのに)

 ――が。その時だった。
 まるで、その考えを実行するか如く、馬車が大きく傾いた。

「うわっ!?」
「紅琳!」

 差し出された手に縋って、紅琳は華月の胸の中におもいっきり飛び込んでしまった。
 柔らかくて、花の香りがする。
 ……ではなくて。

「悪い。油断した」
「いえ」
「車輪がぬかるみにでも、はまったのか?」
「でも、もう動き出しましたね」

 紅琳は会話をしながら、そっと離れたが、華月は名残惜しそうに自分の手を眺めていた。

「どうした、華月?」
「ああ、意外に豊満だなって」
「はっ?」

 しかし、華月は夢見心地の虚ろな目で、謎のことを呟き始めたのだった。

「紅琳。あの……。私は、貴方のことは、しっかり責任を取るつもりでいるんです。出来る限りのことをするつもりでいます」
「どうしたんだ? 急に改まって」
「騙まし討ちのような真似をしてしまいましたが、貴方は私の妃。私は貴方のことが好きで……。つまり、私には貴方しかいないのです」
「遠回しに言われても、私には分からないよ?」

 ――好き?
 それは、身内に対する「好き」ではないのか?

「では、直截に話します。紅琳。先日も話した通り、現状、私の子を生めるのは、貴方しかいない。私には他に兄弟もいましたが、皆、夭逝してしまった。私の命も危うい今、玉榮の呪術を破る方法を探すのも必要ですが、私の子孫を絶やさないことも重要なのです。私には決して玉榮に与せず、私の体を理解して寄り添い、子を生み育ててくれる妃が必要なのです」
「うん、まあ、相変わらず回りくどいけど、筋は通っているか」

 勢いに流され、頷いてしまった紅琳だが……。

(ちょっと、待て?)

 何だか上手く、丸め込まれているような気がするのだが……。

「しかし……な、華月。私達は親族で、友だ」
「ええ。親戚であり、友であり、夫婦でもある。最高ですよね?」
「友と夫婦は、だいぶ違うぞ」

 ずいっと、華月が身を乗り出してきたので、紅琳も思わず腰を浮かせてしまった。

「酷いな。先日、私の唇を断りもなく奪ったくせに。こういう時は逃げるんですか?」
「あの時は、緊急事態で、仕方なく……だ」
「私、初めてだったんですよ。責任取って下さいよ」
「あんなの数に入れるな。なかったことにすればいい」
「覚えていないから、もう一回したいんです。まったく、沙藩王には泰楽帝の命令で嫁いだのに、私の妃になることは出来ないんですか? 紅琳は、そんなに私のことが嫌いなんですか?」

 ここで、潤んだ上目遣いのまま、紅琳の両手を握りしめないで欲しかった。

(可愛い娘に、そんなことを訴えられてもな)

 紅琳は、懸命に華月から視線を逸らすしかなかった。

「沙藩には十年近くいても、子が出来なかったんだ。あんたとだって出来るはずがない」
「試してみる価値はあると思いますけど?」
「いや。あんたは、切羽詰っているのかもしれないが、私なんざと、頑張って子を成そうなんて、究極の選択をしなくても良いんだ。それに後継なら、男女的なことをしなくても、出来る術があるかもしれない。知恵を絞れば、必ず。……な?」
「つまり、紅琳は私に男女的なことをしないまま、一生を終えろということですか?」
「何、言って……」

 ――要は、それが華月の本音なのだ。

「健全な十八歳の男が、女人に触れることが出来ないのですよ。自分の身体を触っていたって、しょせんは自分ではないですか」
「それはそうだけど」
「正直、自分が女でいるせいで、白粉の香りも、あざとい色気も嫌いな私ですが、男としての欲はあります。このまま女人と睦み合うことも出来ずに、玉榮に殺されてしまうなんて、あんまりです。私、死んでも、死にきれません」
「いや、まあ、そうだな。生々しいけど、あんたの言い分は分かった。……けどな」
「失礼します。紅琳さま!」
「……李耶?」

 慌てた様子で、馬車の扉を開け放ったのは李耶だった。
 彼女は何事かを告げようとしたようだが、直ぐに、紅琳と華月の固く握られた両手を発見してしまい……。

「あら」

 目を輝かせながら、硬直した。

「誤解だ」

 紅琳は、華月の手を乱暴に振り払った。
 李耶は意味深に笑っている。
 絶対、永遠に揶揄されるやつだ。

「ふふっ。紅琳様ったら、隠さずとも良いのに。ですが、女人同士のあれやこれに目覚められたのなら、私に一言、仰って下されば」
「あのな、李耶」
「そうよ。邪魔なんてしませんから、どうぞ、ご存分になさって下さいな。紅琳ちゃん」
「えっ?」

 李耶の背後から届いた声に、紅琳は目を見張った。
 完全に低音の男の声なのに、ねっとりとした女口調。

 ――間違いない。
 紅琳の癖のある「友」、建 朔樹(さくじゅ)が李耶と並んで、不気味な微笑を浮かべていた。
◇◇
「この男が、紅琳の……友人?」

 建 朔樹の詳細を、きちんと説明していなった分、華月は心底、驚いていた。
 よほど、紅琳には、まともな友人がいないと感じたのか、それとも、奇抜な格好の男が単に珍しかったからか。
 以前は、花の刺繍入りの真っ赤な道服を着ていた朔樹だが、さすがに今はやめたらしい。ひらひらの斬新な袖は変わらないが、十年前より地味な紺色の道服を身に着けていて、長髪も無難に一つに束ねていた。
 三十歳は越えているはずなのだが、風貌は何一つ変わっていない。昔から性別年齢全部が不詳で、とにかく謎だらけの男だった。

「朔樹は変人だが、私の育った集落の中では、腕の良い呪術師だった。長と仲違いして、市井に住むようになって。昔は私も朔樹に泊めてもらうことが多かったんだ。仲良くさせてもらっていた」
「……嘘でしょう?」
「何だ。私の友人がそんなに珍しいのか?」
「貴方、こんな若い……男の家に泊まっていたのですか?」

 ――そこか……。
 ふしだらと言わんばかりに、華月に睨まれて、紅琳は頭を掻いた。

(……面倒臭い)

 朔樹の家は散らかっているということで、人気のない裏道で立ち話をしている。
 ほとんど、すれ違う人はいなかったが、それでもたまに出くわす人の視線が痛かった。
 主に、華月の美貌と、朔樹の格好のせいだ。
 紅琳は早口で説明した。

「華月。見ての通り、朔樹は、見た目男だが、心は女だ。だから、愛する対象も男。私は対象外なんだよ」
「本当に?」
「あら。嫉妬しているのね。可愛い子。でも、そうなの。あたし、男が好きなのよ。だから、男の貴方の方に興味があるの」
「分かるのですか? 私に掛けられている呪いが?」
「ええ」

 朔樹は、即答した。
 その辺り、腕も落ちていないらしい。

「見た目は女の子でも、女の子の魂じゃないもの。多少敏感な人なら、見抜けるんじゃないかしら?」
「はいはい、どうせ、私は鈍感だよ」
「……違いますよ、朔樹様が凄いんですって!」

 李耶が紅琳を押し除けて、身を乗り出した。

「先触れも出していないのに、朔樹様、私達が来るって、分かっていたんですから」

 朔樹は家の前の通りで、紅琳の到着を待っていたらしい。
 李耶とは初対面にも関わらず、すぐに馬車の中に、紅琳がいることを当てたそうだ。

「そうなの。紅琳ちゃんが来るってことは、昨夜、夢を見て、分かっていたのよ」
「何だよ。お見通しだったってわけか?」
「ふふっ。あたしを誰だと思っているの。……この国のさる御方に掛けられた呪いのこと。皇城の術師は洗脳されているかもしれないけど、在野の術師は随分前から気づいていたのよ。でも、泰楽帝は術師に嫌われているし、率先して解こうという人間が今まで現れなかった」
「私、知っています。泰楽帝って、国中の優秀な術師を半強制的に集めて、本気で不老不死になろうとしていたんですよね?」

 伝聞でしか知らない李耶は、他人事のようにあっけらかんと尋ねた。
 朔樹で良かった。

 ――泰楽帝は、恨まれている。

 その話を、気安くすることが出来る術師は、朔樹くらいのものなのだ。

「そうなの。晩年になるほど、なりふり構わずね。……で、研究が進まないからって、処刑された者も多くいたのよ。紅琳の母上も間一髪逃げて、須弥の集落で匿ったの。一時期は国ごと滅ぼしてやるって息巻いていた術師もいたけれど、その辺り泰楽帝も周到で、いろんなモノに、自分を守らせた。本当、狡猾なオッサンだったわ」
「だから……か」
「華月?」

 突如、華月が嗤い始めた。
 
「だから、いくら私が術師に問い合わせても、解呪は出来ない。無理だと。協力を申し出た者は一人もいなかった。……つまり、現状、この国の呪術師達は、国なんて滅んでしまえば良いと、そう思っているということですよね」

 普段の柔い声ではない。 
 地を這うような低い声。
 まるで、自身を呪っているようだった。

「この国は衰退している。泰楽帝の時から、傾いて、今では宰相の玉榮が国を我が物顔にしている。自分お気に入りの官僚を贔屓して、税を悪戯に上げて、私服を肥やし、諫言する者を皆、密かに葬って……。私は、奴の傀儡になる為に、生まれて来たのですか?」
「華月」

 ――辛いのだろう。

(自分の危機を、国の異変を察知して、足掻いているのに、誰も手を差し伸べてくれないことが……)

 後宮から外に出て、改めて紅琳も痛感した。
 十年前、活気に満ちていた皇都は、うら寂しく閑散としている。
 疎らに歩いている人達の表情も暗く、衣裳も質素になったようだった。
 こんな姿を目の当たりにして、この国の皇帝である華月が何も感じないはずがないのだ。

「ここでは華月……様で宜しいでしょうかね?」

 朔樹が初めて華月を「様」付けで呼んだ。
 最初から、華月が皇帝であることに気づいていたのだろうから、彼なりに、色々と見極めていたのだろう。

「確かに、術師達は蒼国を恨んでいる者も多くいます。ですが、私達にもいろんな人間がいます。依頼を皆が断ったのは、別の要因でしょう」
「……別の要因?」

 華月が眉を吊り上げて、問いかけた。
「貴方様がご自身の「呪」について調べても、分からなかったのは、呪術師が仕掛けた「呪」として、調べていたからではないか……と」
「意味不明なんだけど?」
「紅琳ちゃん。私も半信半疑なんだけど」
「いいから、答えて下さい!」

 必死の形相の華月が、朔樹の肩を激しく揺さぶった。上下に揺さぶられて、声を震わせながら、朔樹は白状した。

「多分、宰相の玉榮って、人ではないんじゃないか……と?」
「はっ?」

 三人が一様に、それ以上の言葉を失くした。

「どういうことですか?」

 口火を切ったのは、好奇心の塊の李耶だった。
 朔樹は頬に手を当て、言葉を選んでいるようだった。

「古い伝説があるのよ。王の寵愛を一身に受け、国を傾けた妃は、実は化け物だったという話。泰楽帝は、呪術に傾倒するあまり、そういったモノを呼びこんでしまったのではないか……と」
「泰楽帝が、妖を召喚した……と?」
「だから、半信半疑って言ったでしょ。でも、そう考えると腑に落ちる。女身化なんて術、人では扱えないもの。それに、華月様……」
「えっ?」

 唖然としている華月を、朔樹は真っ直ぐ見た。

「貴方様は須弥の集落とは連絡を取ったのでしよう? その時、長老も同じようなこと話していませんでした?」
「えーっと。それは、その」

 なぜか、華月がバツが悪そうにしている。

「あれ? 確か、長老から「分からない」って突っぱねられたって」
「実は、須弥の長からは、どんな呪術師にも、私にかけられた呪いを解くのは困難だと」
「うん。……で?」
「申し訳ないです。紅琳」
「何で、謝るんだ?」
「呪いを解きたければ、貴方を娶るように……と。言われたんです。だから」
「はっ?」

 律儀に謝罪されて、紅琳の方が戸惑った。

「何だ。そういうことか」
「怒らないのですか?」
「なぜ、怒るんだ?」

 華月は解呪したい一心で、訳も分からず、紅琳を娶ったのだ。それの何がいけないのだ。

「しかし、私は……。離縁して傷心のまま帰国した貴方を、私の目的の為に妃に据えました」
「まさか。あんた、そんなこと、気にしていたのか?」

 それもあって、二カ月間、紅琳に告白するのを躊躇っていたのか?
 思わず、そんなだから、玉榮に良いようにされてしまったのだと、突っ込みたくなってしまう。

「ねえ、紅琳様」

 詳しい事情など知らせてもいないのに、李耶が紅琳の袖を引っ張った。
 賢い娘だ。言わずとも、一連の会話から、すべて察しているに違いない。
 ――可哀想じゃないですか。どうにかならないんですか?
 心の声全開の切ない表情で訴えて来る。
 とどめとばかりに、朔樹が追い打ちをかけた。

「紅琳ちゃん。今日ね、こんな往来で、あたしが貴方達と会わざるを得なかった理由、分かる?」
「ああ、家が散らかっているって?」
「それだけじゃないの。本当はね、そこの華月様に呪いがかけられていたからなの」
「えっ!? 私にですか?」
「大丈夫ですよ。もう祓いましたから」
「そういえば」

 李耶が恐々としながら言った。

「こちらに向かう途中、馬車が何もない所で横転しかけました」
「あれは、ぬかるみに車輪がはまったとかじゃなかったのか?」
「違いますよ。突然、傾いたんです」
「事故に見せかけて殺す気だったのかも。間に会って良かったわ。まあ、紅琳ちゃんもいるし、大事には至らないって安心していたけど」
「……朔樹」

 それ以上言うなと、睨んで威嚇したが、彼は大きな図体を窄めるだけで、まるで悪びれていなかった。

「でも、困ったものよね。玉榮は直接手を下さず、子飼いの術師にやらせている。形振り構わなくなってきているみたいだし、早晩手を打つ必要があるわね」

(朔樹、絶対、愉しんでいるだろう?)

 疑いたくなるほど、彼は活き活きとしていた。

(仕方ない)

 やってやるかと、紅琳が覚悟を決めた瞬間、しかし、華月が重々しく口を開いた。

「……紅琳、貴方は早急に後宮から出て下さい。手配しますから」
「はっ?」

 ここまできて、さっぱり意味が分からない。

「あんたは、解呪したいんだろう?」
「勿論です。その為なら、貴方のことを巻き込むのもやむを得ないと、本気で思っていました。でも、術を仕掛けられていたと聞くと……。玉榮は本気です。私は貴方達を喪いたくありません」
「あのな……」
「紅琳様。私の事は好きに使って下さって構いませんから」

 李耶に小突かれて、紅琳はつんのめりながら華月の前に出た。
 彼女の了承も得られたし、朔樹も協力してくれるだろう。あとは須弥の長の言う通り、紅琳の体質で、何とかやれるはずだ。
 
「華月。私は簡単に死なないよ。それより、何もしないで、あんたを死なせてしまう方が嫌だ。……だってさ、私は公主なのに、この国の事なんて、考えた事もなかったんだ」
「……紅琳」
「あんたは、幼い頃から、そんな身体にされて、命も狙われて、後宮で女のフリまでして、気の休まる暇もなかっただろうに、腐ることなく、解呪の方法を探し続けていた。偉いよ」

 沙藩国王と離縁したのも、紅琳の我儘だった。
 蒼国の事など考えたこともなく、むしろ、滅びることを望んでいた。
 どうでも良いと、開き直って、逃げていた。

 ――だから。

「この国の……あんたの為、やるだけのことをやってみるよ」

 命を懸けるなんて言える程、青臭いものではないけれど、華月を見殺しにするなんて、紅琳に出来るはずもないのだ。
◆◆
 彗 紅琳に「皇后」位を授けると、皇帝・蒼 慶果は、久々に出御した朝儀の際、突如、勅命を下した。
 それは、玉榮にとって晴天の霹靂だった。
 皇后というのは、この国で二番目に権力を持つ存在だ。
 本来であれば、宰相である玉榮を始め、重臣達と綿密な話し合いを経て、決定する重要事項であるというのに……。

(どういうことだ?)

 まさか、その場で皇帝を叱りつけることは出来ず、玉榮は陰で激怒した。
 慶果には妖術を掛けて、半分、女の身体に変えている。
 本当は、玉榮が表に立ってしまうのが手っ取り早いのだが、たまに、自分の正体を見抜いてしまう面倒な人間がいる為、警戒して「宰相」の位に留まっているのだ。
 慶果とは秘密を共有して、協力しているふりをしているが、奴は玉榮にとっての操り人形に過ぎなかった。
 最近、人形の分際で反抗的な態度が見られるようになったので、そろそろ、廃棄して、新しい「皇帝(おもちゃ)」を擁立しようと考えていたのに……。

(慶果の奴め、なかなか、しぶとい)

 一度、玉榮自らが動き、死の淵まで追いやったのに、なぜか奴は復活した。
 自分が殺されることを知って、策でも講じたのか?

(……が、まあ、それも時間の問題だろう)

 問題は、皇后・紅琳の方だった。

(あいつ、何者だ?)

 沙藩との関係悪化を鑑みて、慶果の言う通り、後宮に留め置いたものの、常識外のことばかりしでかして、妃嬪たちの嘲笑の的となっていた。

(一度会ってやったが、玉榮が妖であることも気づけなかった。母が須弥の出であっても、呪術も使えない、無能な女そのものだったのに)

 だから、沙藩王に見限られて、正妃でありながら、離縁されたのだ。

(慶果め。女身化を紅琳に話して、二人で結託したのか)

 まさか、あんな奇妙な女を皇后に据えるとは……。
 慶果には、自尊心というものはないのか?

「とにかく、紅琳にも消えてもらうしかない」

 術のせいで、慶果は、まともに政が出来ない。
 だが、紅琳は違う。
 皇帝の名代として、国を動かすことが出来てしまうのだ。

 ――実際、玉榮の畏れていた通りとなった。

 紅琳は積極的に、政治に介入してきたのだ。
 他の妃嬪達や官吏からの妬み、嫉みをものともせず、暗殺や呪詛を仕掛けても、傷一つない健康な身体を維持し、今まで玉榮が築き上げてきたものを崩そうとしていた。

(なぜ、紅琳は、ぴんぴんしているのだ?)

 いつ見ても、紅琳は元気そのものだった。

(もしかしたら、いつも一緒にいる侍女の李耶という娘が呪術師なのではないだろうか?)

 失敗続きの子飼いの呪術者を始末していたら、次第に暗殺を依頼できる人間が少なくなってしまった。
 玉榮は、とうとう自分で動かざるを得なくなってしまった 
 こうなったら、紅琳、慶果、そして呪術師らしき侍女も、諸共に死んでもらおう。
 妖である玉榮の血は、凄まじい呪の力がこもっている。
 これで、先代の皇帝を始め、大勢の人間を殺してきた。
 慶果にも、後宮の庭の花に撒いた毒の血を、傷口から体内に取り込ませて、抹殺するつもりでいた。

(我の血を、奴らの体内に入れる)

 飲食物や、奴らが触れそうなモノに悉く、玉榮は己の血を含ませた。
 悪いのは人間だ。
 深い眠りに就いていた玉榮を呼び出したのは、泰楽帝ではないか?

(我を縛り、宦官として仕えさせるなんて、本当に愚かであった)

 泰楽帝から召喚された同じような境遇の妖達を滅して、ようやく手に入れた地位と権力。
 精々、楽しまなければ損だ。
 
 程なくして、紅琳と侍女が、原因不明の発作で倒れたという報告が、玉榮のもとに舞いこんできたのだった。
◇◇
 久しぶりに、朝儀に玉榮が出席するという報告を受けて、紅琳も華月も臨戦態勢で待ち構えていた。
 ………今日、決着をつける。
 二人で、そう決めていたのだ。

「これだけ待ち望んでいるのに、朝儀を遅刻とは。良い身分ですよね。玉榮の奴。今日はやっぱり来ないんじゃ……」
「来るさ。私が死にかけているなんて、奴にとっては、またとない好機だからな」

 朝堂の一等高い所に設けられた緋色の玉座。
 玉座に腰を掛けている男姿の華月の隣に、袍衫姿に男装した紅琳が侍っていた。
 眼下では、玉榮子飼いの大臣がどうでも良い議題を取り上げて、延々と話しているが、耳を傾ける意味がないので、無視している。

(御簾、用意して貰って良かった)

 華月が何らかの事故で、女身化した時の為に、用意させた玉座を覆う「御簾」が良い成果を発揮していた。
 二人の姿も隠れるし、雑談していることだって、小声だったら、誰にも気づかれないだろう。

「でも、やっとここまで来た」
「やっと……って。あんたのせいで、ここまで遅れたんだからな」
「私の?」

 やはり、無自覚らしい。
 今まで多忙だったので、遠慮していたが、紅琳は華月に一度言っておきたいことがあった。

「本当はもっと早く決着をつける予定だったんだ。それが……華月が私を皇后なんかにしたから」
「何がいけないのですか?」

 ここまで言っても、分からないらしい。

「悪いに決まってるだろう。誰が皇后にして欲しいなんて、頼んだ? 私は多少、高位でないと、玉榮と張り合えないって話しただけだ」
「何にしても、私の中での妃は貴方だけなんですから、皇后で良いと思います」
「やめてくれ。あんたは知らないだろうが、玉榮だけじゃなく、他の妃達にまで、いらぬ顰蹙を買って、面倒なんだからな」
「今更、降格なんて出来ません。だから、誰にも言い返せないくらい、私が貴方に夢中なのだと、皆に知らしめてやれば良いものを。どうして、貴方は、私が近寄ると逃げるのですか?」
「当たり前だ」
「なぜ?」
「本能的な危機感だ。悪いか?」
「……陛下」

 囁き声で言い合っていると、華月の腹心が咳払いをした。
 視線で、華月に「前を見ろ」と訴えている。
 大勢の官の間を縫って、前方にやって来る豪奢な冠を被った中性的な男。

 ――玉榮が、姿を見せたのだ。

「来ましたね」
「ああ」

 今まで睨み合っていた紅琳と華月は、笑顔で頷き合った。

「久しいな。玉榮。待っていた」

 華月が、玉座から立ち上がる。
 この時の為に細心の注意を払って、男の姿を維持して来たのだ。
 皇帝・慶果としての華月は、紅琳が威圧されるくらい、覇気に溢れている。
 冕服がよく似合っていた。
 正直、何も知らずに正装姿の華月に出会っていたら、紅琳は反射的に跪いていただろう。

「陛下。まだ朝儀の途中ですが?」
「私は、お前に会いたかったと告げたはずだが?」
「はっ」

 反論を許さない気迫に、玉榮も渋々叩頭した。

(玉榮の奴、皇帝が瀕死の妃を想って、腑抜け状態に陥っていると思い込んでいたな)

 美貌を歪めながら、玉榮はぎこちなく挨拶を続けた。

「ここのところは、陛下におかれましても、お加減が宜しいようで、何よりです」
「ああ、妃のおかげだ。彼女がいると、力が漲って来るのだ」

 華月がにやけているが、それは二人の脚本にはない言葉だ。

(……華月)

 案の定、玉榮が食いついてきた。

「ああ、お妃様といえば、先般、倒れられたと聞きましたが、ご容態は如何でございますか?」

 一瞬、ざわっと、朝儀の間がどよめいた。
 玉榮の一言は、この場に集った者にとって、寝耳に水に違いなかった。
 何しろ、紅琳が臥せているという話は、玉榮にしか伝わらないようにしていたのだから。
 周囲の反応を堪能しながら、華月はしれっと答えた。

「妃は快方に向かっているが、まだ安心はできない状況だ。しかも、彼女の侍女まで、体調を崩してしまってな」
「何たることでしょう。私に出来ることがあれば、お申し付け下さい」
「本当にそう思っているか? 玉榮」
「陛下?」
「実はな、我が妃を呪術師に診せたところ、彼女とその侍女共に、妖術が仕掛けられていると言われたのだ」

 少し大仰な芝居だったが、玉榮には効いたみたいだった。
 ぎょろりと大きな目を剥いて、玉榮は黙り込んでしまう。
 この間隙を逃すまいと、華月は早口で捲し立てた。

「信じ難いことに、呪術師は犯人が「お前」だと言うのだ。しかも、お前は人ではないなどと、荒唐無稽なことを……」
「一体、何を?」
「済まない。玉榮。私はお前の忠義を信じているが、呪術師が「試しに」と、符を置いていった。お前に、その符を触れさせてみれば、本性を現すと……」

 玉榮の前に、そそくさと華月の臣が符を差し出した。

「人であるのなら、ただの紙だ。妃を安心させる為に、一つ触ってみてくれないか。玉榮」

 ――さて。

(どうする、化け物?)
 紅琳と華月、二人で息を潜め、玉榮を見守っていると……。
 突如、御簾の中に黒い靄のようなものが発生して、紅琳と華月の視界を奪った。
 外から視えないことを、逆手に取られたらしい。

「紅琳。これは?」
「平気だ」

 紅琳は片手で空気を横に切る。
 たったそれだけの所作で、今までの異変は消失し、元通りの世界が戻ってきた。

 ――術を無効化したのだ。

「何?」

 有り得ないことが起きている。
 玉榮が血相を変えていた。
 その姿がその場にいた者達には、奇異に映ったのだろう。
 玉榮の傍から、綺麗に人が離れていった。

「愚かだな。玉榮」

 頃合いと見計らった紅琳は、御簾を上げさせた。

「……紅琳?」

 玉榮がわなわなと震え始める。
 自分の妖術で、瀕死だったはずの紅琳が、元気に、この場にいるのだ。
 ――嵌められた……と。
 ここが断罪の場である事に、ようやく気づいたらしい。

「お前は人ではない。奉楽帝が道楽で、呼び出した妖。大昔に蒼国の皇帝の寵妃に化けて、国を転覆させようとした古狐だろう」

 華月がきっぱりと告げる。

「何を仰っているのやら?」

 玉榮は、あくまで白を切ろうとしていた。

(それで、逃げ果せるつもりか?)

 紅琳は鼻で笑った。

「白々しいな。お前は、私の侍女まで妖術で殺そうとしただろう?」
「侍女?」
「李耶だ。彼女は沙藩の王室の血を引いている」
「何故、そんな者がここに? 間者ではないか?」
「私が知っていたので、良いだろう?」

 華月が平然と認めると、玉榮は顔を引きつらせ、沈黙した。

「……で、彼女がお前に殺されかけたことを、沙藩王も知ってしまった。あちらの術師達が、お前の事を血眼で調べているよ」

 ――李耶を巻き込むということは、国家間の問題に持ちこむことが出来るということ。
 もっとも、術を仕掛けられていると分かった時は、李耶と手を取り、喜んでしまったのだが……。

「沙藩は蒼国より呪術が盛んで、妖の世界も多様だとか。近頃、彼の国とは上手くいっていなかったが、お前の件で力を合わせることが出来そうだな」
「……ですから、陛下。私がやった証拠は」
「お前は、己の血を使って暗殺をする。秘密を知った者は、後々始末していたそうだが、術者とて愚かではない。上手く逃げ果せた者もいる。証人はいくらでもいるんだ」
「下劣な公主が、ふざけたことを抜かすな!」

 逆毛を立てた玉榮の口元には凶暴な牙が光っていた。
 目の色が真紅に変化している。
 ……本体は、古狐。

(本当に、妖怪だったみたいだな)

 玉榮独特の匂いは、獣臭を隠す為だったらしい。

(……だけど)

 狐の妖術なら、紅琳には効かない。

 ――自分に向けられた「術」を無効にする力。

 華月が紅琳に触れても、女身化しなかった理由。
 紅琳の身体を媒介して「妖術」が、無効化されたからだ。

「お前の負けだ。玉榮。長く人に化けていたお前が、元の姿に戻ったところで、力を発揮できるはずがない。大体、私達が無策でお前と対峙するはずがないだろう。在野の術者達にも協力を仰いでいる」

 淡々と紅琳が言うと、激昂した玉榮は冠を投げ捨て、髪を振り乱して喚いた。

「はったりだ! 大体、離縁した妃に、沙藩王が協力などするはずがない! それに、慶果。お前の方が、我より、よほど!」
「ほう……。私が人ではないと申すか? 玉榮」

 華月は言うなり、紅琳を抱き寄せて、玉榮に見せつけるように、ぴたりとくっついた。

「私はこのように、妃一筋の普通の男だが?」

 分かっている。
 この芝居は、重要だ。
 華月は解呪したと見せかけて、優位な立場で、玉榮から解呪の方法を聞き出すつもりなのだ。分かっているけど……。

(やりすぎだろ?)

 まさか、頬擦りまでされるとは思ってもいなかった。
 紅琳の肩を強く抱きながら、華月は冷然と命じた。

「この化け物を、捕えよ」

 計画していた通り、朔樹特製の符を貼った武器を持った衛兵たちが、一斉に玉榮を囲んだ。
 朔樹の符は身動きを縛るものだ。待機している術師も大勢いるので、どう転んでも玉榮に逃げ場はない。
 奸計に長けた狐だけあって、即座にそこまで計算したのだろう。
 ややしてから抵抗を諦めた。
 
 ――玉榮は、あっけなく捕らえられた。

 意外な程、大人しく連行されていく玉榮の後ろ姿を見つめながら、華月はぽつりと呟いた。

「終わった?」
「ああ」
「……そう……か。終わったんですね。紅琳、貴方のおかげです。有難う」

 澱みのない、綺麗な瞳が紅琳を至近距離から覗きこんでいた。
 紅琳は華月を直視できず、そっぽを向いた。

「私は、何もしてないよ」

 偶然、母から継いだ「無能」が役立っただけだ。
 謎が多い能力だから、切り札にはしたくなかったけど。

(もしかしたら、この時の為に天から与えられたのかもしれないな)

 毅然と前を見据えた華月に対して、一斉に叩頭する百官の姿を見て、紅琳は満足げに微笑したのだった。
◇◇
「やっと見つけましたよ。紅琳」
「何だ。華月か」

 後宮の大池の畔。
 人気のない場所を選んで、紅琳は写生をしていたのだが……。

(もう、バレたのか……)

 想定外だ。
 やっと見つけた秘密の場所だったのに……。

(次は、何処に隠れたら良いのか)

 紅琳の目下の悩みは、それだった。

 ――玉榮の正体を晒し、捕縛してから一カ月半が過ぎようとしていた。

 妖に国が乗っ取られかけていたなんて、有り得ない醜聞はもちろん口外禁止にした。表向きは、玉榮を反逆罪で捕えたということにしている。
 それでも、後宮内では真実が知れ渡っていて、紅琳の存在は、妃嬪たちの蔑視の的から畏怖の対象に変化していた。
 ともかく、これ以上、後宮内で悪目立ちしたくないのだが……。

「私に話があるのか? 華月」
「玉榮のことですよ。朔樹殿が見張ってくれているのですが、解呪の方法を吐かないのです。尋問方法を変えた方が良いのでしょうかね?」
「何だ、そんなこと。解呪なんて時間の問題だろう。急ぐ必要もない」
「しかし、私には死活問題。心が落ち着きません」
「悲観的に考えなくてもさ。完全な男に戻ったら、念願の欲望解禁なんだ。妃なんて選び放題。どの娘が良いか、今のうちに、吟味してれば良いじゃないか」
「妻に浮気を勧められる夫の気持ちって……ね?」
「別に、浮気じゃないだろう?」
「……で? 貴方は堕落した皇妃として、再び離縁されることを目指しているというわけですか?」

 華月の呆れ果てた溜息に、紅琳は肩を竦めるしかなかった。

「これが最善なんだ。私は皇后の器じゃない。二度の離婚で、更に悪名を上げてる方が性に合ってる」
「最近、以前のように、私と政務をしないのも、そういうことですか。いつも貴方は逃げてばかりで、一向に私と会ってくれなかった。ここだって、李耶を懐柔して、ようやく教えて貰ったんですから」

(李耶の奴)

 あれほど、華月に居場所を教えるな……と、頼んでおいたのに、簡単に言いなりになってしまうなんて。

「華月。政務は皇帝がするものだ。今までは、不測の事態に備えて、私もあんたといたけれど、妃が出しゃばるとロクなことにならない。あんたが一番よく知っているはずだろう」

 紅琳は華月を淡々と諭しながら絵を描いていた。
 離縁したら、後宮の景色を見ることは出来ないのだから、早めに仕上げておきたかったのだ。

「他人事ですね」
「私の役目は終わった。後はあんたの仕事。私は、画家として忙しいんだよ」
「一応、友からの助言ですけど、残念ながら、貴方のその絵の腕では、画家と名乗るのは難しいと思います」
「はあっ!?」

 紅琳の肩越しに、華月は斬新な構図の絵を見たのだろう。
 率直な友の意見に、紅琳は唇を尖らせるしかなかった。

「あんたには、この私の躍動感溢れる豪快な筆致で描いた画が、理解できないのか?」
「まったく」

 一蹴されてしまった。

(おかしいな)

 なぜか、昔から紅琳の絵は、評価されないのだ。

「もう暫く、絵の勉強をしてみたら如何ですか? 後宮でなら、いくらでも学ぶ時間を取れますよ」
「後宮でなくても、学ぶ時間は得られるだろう?」
「……しかし」
「いいか、華月。あんたは立派な皇帝になる。私はそう見込んだんだ。佳い女性を妃に迎えて、跡取りを沢山作って、この国を繁栄させてくれ。私は今後、あんたの友として、遠くから……」
「紅琳」
「はっ?」
「貴方、処女ですよね」 
「………っ!?」

 瞬間、絶句して硬直した紅琳は、筆を膝の上に落としてしまった。

「突然、何てことを言うんだ!? あんた、また変な呪いでも掛けられたのか?」

 おかげで、お気に入りの着物に、墨染みが出来てしまったではないか。
 ぎこちなく振り返ると、皇帝しか身に着けることが出来ない、濃紫色の衣を堂々纏った華月が、むくれ顔で紅琳を見下ろしていた。

「私は、いたって正常で問題ありません。ついでに、人払いは徹底していますから。今の会話は、私と貴方しか知り得ません」
「いや、そういう問題ではなくて」

 赤面を隠すように、紅琳は下を向くが、華月はお構いなしだった。

「貴方が男慣れしていないことは、分かっていました。触れようとすると、避けたり、ぎこちなかったり……。私がそういった話をすると、貴方は顔を真っ赤にして目を逸らす。今のように……ね」
「試していたのか、私を?」
「いや、まさか。ただ触れたいという欲望の中に、照れる貴方を見てみたいという探究心があっただけです」

 凄まじく言葉を装飾しているが、要するに紅琳の反応を「試していた」のだろう。
 六歳も年下の甥っ子に対して、情けない話だった。

「しかし、そんなこと暴いて、一体」
「……だから、沙藩王と貴方の婚姻は、契約だったのでしょう?」
「えっ?」
「貴方は妃とはいえ、名ばかりで、沙藩王と「夫婦」ではなかった」

 そして、その場にしゃがんだ華月は、紅琳としっかり目線を合わせた。

「契約条件は何だったのです?」
「何で、そんなことまで、分かったんだ?」
「分かりますって。貴方は私の妃なんですから」 

 自信満々に妃の部分を強調されると、何とも複雑な気分だった。

(どうせ、嘘を吐いたところで、墓穴を掘るだけだ)

 だったら、白状するしかない。
「あー。察しの通り、沙藩王には、私と出会う前から、恋仲の女性がいたんだ。だけど、彼女の地位は低く、一人の女性を寵愛するには敵が多すぎた。命が脅かされる心配があって……。丁度その頃、蒼国から私との縁談話があって、王は私の体質のことを知った。絵を描く時間をたっぷり与えるから、お飾りの妃をやって欲しいと頼まれたんだよ」
「はあっ!?」

 紅琳が仰け反るほど、怒りを露わに華月が叫んだ。

「その程度の契約で、貴方は沙藩にいたのですかっ!?」
「その程度って、な。当時は私に選択肢なんてなかったんだ。蒼国にいても、私は皇帝暗殺未遂犯だ。それにお妃さん、可愛かったんだよ。護ってやりたかったんだ」
「貴方って人は」

 再び前を向いて、絵筆を持とうとした紅琳の背中に、華月がずるずると寄りかかって、座った。

「おい、華月。やめろ。着物が台無しになる」

 結構、体重を掛けてくるので、重苦しい。紅琳はすっかり前のめりになってしまった。

「貴方は悪女というより、究極のお人好しですよね」
「それは、あんただろう?」
「いいえ。私には出来ませんよ。そんなこと」
「そうかな? 私は結局、自分のことしか考えていなかった。契約の下、絵だけを描いて満足していれば良かったのに、いつのまにか、それだけじゃ、物足りなくなってしまった。沙藩王は優しい方だ。今回のことだって、私が頼んだら協力をしてくれた。……もう二度と頼る気もないけど、嬉しかったよ」
「もしかして、貴方、沙藩王のことが好きだったんですか?」
「好きだよ」
「…………」

 息を呑んだ華月の心情など分かるはずもなく、紅琳は平然と話を続けた。

「私は沙藩王と、お妃さんの二人が好きだった。ずっと三人、仲良く出来るって。でも、二人の間に子が生まれて。何でかな? 私だけ、取り残されてしまったような気がしてな」
「……紅琳」
「ほら、華月。もう良いだろう? いい加減、離れ……」
「離れません」
「何、言って。……うっ」

 一層、華月が重心を掛けてきたので、紅琳は黙るしかなかった。

「私なら、貴方をそんな気持ちにさせない。たとえ、解呪出来ても、私は貴方以外の妃はいらない。正直、女の私は、どんな妃嬪よりも美しいので、ただ綺麗なだけの女では萎えてしまうのです」
「いや、あんた……無自覚に、酷いこと言っているからな」
「田舎生活……。私も、連れて行ってくれるんですよね?」
「覚えていたのか?」

 小さく舌打ちしたのを恨んでか、華月の口調は辛辣だった。

「あの時、私、本気で泣いていたんですからね」
「……可愛いな。華月は」
「ええ。いいですよ。今はそれで。可愛いとか、放っておけないとか、そんな感情で構いません。貴方の中では、私は未熟で、皇帝といったって、まだ頼りないかもしれませんけど、でも、いつか……沙藩王より良い男になります。……だから」

 ――と、その時だった。
 必死な華月の言葉を遮って、頭上から叫声が落ちてきた。

『陛下! 紅琳ちゃん。大変よ!!』

 頭上を旋回していた大きな鳥は朔樹の声をしていた。

「人払いの意味って……」
「ああ、術師には効果ないみたいだな」

 紅琳は、華月の肩を軽く叩いてから立ち上がった。

「どうしたんだ? 朔樹。玉榮を見張ってくれてたんじゃ?」

『その玉榮が逃げちゃったのよ! どうしましょう。今、指示を出して、探しているけど、見つからなくて……』

 さすが、皇帝三代にまで取り憑いた妖怪。
 紅琳もたまに監視しに行っていたが、もっと警戒すべきだったらしい。

「不味いな。早く見つけないと。朔樹は引き続き、探索を! 私もすぐに合流するから」
『分かった』

 大鳥は空高く羽ばたいて、その場から消えた。
 こうしてはいられない。

「私も朔樹と一緒に探しに行って……。ん?」

 飛び出しかけていた紅琳の腕を、華月が掴んでいた。

「何を言っているんですか? 貴方、私の妃ですよ。勝手に後宮出たら駄目ですよね?」
「あのな、そんなこと言っている場合か?」
「行くなら、私も一緒です。当然でしょう。この事態、貴方こそ分かっているのですか?」
「分かって……!」

 ……と、そこまで言いかけて、紅琳は空を仰いだ。

(そうだった)

 華月の方が、深刻だった。

「やはり、貴方に後継ぎを生んでもらうしか」
「話が飛躍しすぎだ。華月」
「大丈夫です。紅琳。私、沢山勉強したんです。初めての貴方にも、悦んで貰えるよう、技術は保証しますから」
「そんな保証いらないよ」

 はあ……と、肩を落とし、深呼吸をしてから、紅琳は華月が掴んでいた手に自分の手を絡ませた。
 仕方ないだろう。
 紅琳も、まんざらではないのだから……。

「後宮は、女が大勢いて危ないからな」
「……紅琳」

 数瞬の沈黙。
 華月は強く手を握り返してきた。

「ああ、正直、少しだけ玉榮に感謝してしまいました。私は最低ですね」
「はっ?」

 今、華月が何を言ったのか……。
 真っ赤な顔で前を走る紅琳には聞こえなかったのだが、次の言葉だけは、やけにしっかり耳に届いてしまった。

「ねえ、紅琳。私のこと、本当は気に入っていますよね?」

 ――その後、皇帝を引っ捕まえて、後宮内を全力疾走した暴力女として、紅琳は国外にまで悪名を轟かせることになるのだが…… 。
 その時の紅琳は、知る由もなかった。

【 完 】

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