汐斗くんもお風呂からあがってきたので、再び私は汐斗くんの部屋に戻った。ウッドデッキも落ち着くけれどやはり汐斗くんの部屋が一番落ち着く気がする。この空気とかがそうさせてくれるんだろうか。汐斗くんにお姉ちゃんと何か話してたの? と聞かれたので、心理学科ってどういうことしてるのかなとか聞いただけだよと答えた。自分から相談したことを言うのは少しためらってしまう部分があったから。

「心葉、勉強か?」

「あ、うん、少しだけ」

 勉強をやる気なんか今日は起きないとか言っていたけれど、少しここに来て勉強をしようといういつもの気持ちが再び出てきたし、流石に全く勉強しないのは私の中ではかなり心配になってきてる。だから、英単語の勉強を少し始めた。

「汐斗くんそれ、何?」

 汐斗くんは何かラムネのようなものを何個か口に含ませたあとに、水をがぶり飲んだ。

「あー、これ? 薬だよ」

「あ、ごめん」

 汐斗くんはさらりとそう答えた。そうだ、汐斗くんは……。そう考えると、私はそれを知っていながら、汐斗くんのことをしっかりと理解できていないことに、申し訳なく思う。痛いところをついてしまった。

「いや、別に気にしてないから大丈夫だよ。というか偉いなー。なんか言われたくなかったら申し訳ないんだけど、中3から高校2年の頃までだいたい2年強ずっと受験勉強の時並に勉強しててそれが続くのがすごいよな。僕の場合中3の夏から本格的に始めたけど、辛かったし、終わったときは本当に爽快だなって思えるぐらい本当に嬉しかったもん。それを2年も続けてるって……ほんとすげえよ」

 汐斗くんは薬のことについてはさらりと流した。だから、別に嫌なことを聞かれたとは思ってないのだろう。

 というか、言われてみればもう2年以上も受験期みたいなことをやっているんだな。まだまだ続く……そう思うと終わりの見えないマラソンをしているようでかなりきついし、辛い。

「そんな、偉くはないよ。というか、やっても皆よりできないし。これはさっきも話したけど、私みたいな人がこの高校入るのは違ってたんだなって今では……。でも、汐斗くんみたいな人がいてくれてよかった」

 今、私が言った通りこの高校に入ることは違ったのかもしれないけど、でも、決して悪いことばかりでもなかった。汐斗くんみたいに優しい人がいたり、私に「頑張ってるねー」だとか「すごいな」とか言ってくれる友達がいたり……そんなこともあるから、100パーセントこの高校に来たことが違ってたわけでもないのかもしれない。

「まあ、僕なんて全然役に立てないけどな。僕でいいなら全然使ってくれ。というか、僕は点数を取れるかどうかの話をしてたんじゃなくて努力することが偉いなって言っただけだぞ。僕だったら何も勉強せずに100点取る人よりも、努力して70点取る人のほうがよっぽど意味があると思うけどな」

「そうなのかな」

「うん、まあ、陰で応援してるから頑張って!」

 私は汐斗くんに見守られながら、英単語の勉強を進めた。英単語を覚えるまで何回もノートに書き出していく。それから、いつもみたいにやった部分の確認としてそこまでの単語テストしていく。

「あっ……」

「ん、どうした?」

 私が急に声を出してしまったせいか、汐斗くんが少し心配そうな表情で私を見てきた。でも、そういうんじゃない。私は今テストした結果と汐斗くんを交互に見る。

「いつもより今日は覚えられてる気がするんだ」

 自分でテストをしてみた結果、いつもよりも倍とまでは言えないけれど、驚くぐらいに暗記できて、そしてあっているのだ。ほんの数時間前までは勉強する気にもなれなかったはずなのに、なぜだか今日は覚えられる。何でかは分からないけれど、でもできる。どうしてかも気になるけれど、素直に嬉しい。

「そうか……あ! 心葉……。いや、何でもない」

「……ん?」

 何か、引っかかることがあったのか私に何かを言おうとしたが、途中でやめた。私はどうしたの? と言う感じで汐斗くんを少し見たが、それは少し悪いかと思い、特に気にしてないよという表情をしてから視線を変えた。

 私が切りのいいところまで勉強をやっていたら、夜の12時を少し回っていた。流石にこのままやっていては、汐斗くんにも迷惑がかかるだろうから、ここでやめて教材を全部カバンにしまった。

「あ、終わった? じゃあ、心葉はここで寝な。僕の汗の匂いがするベッドで悪いけど」

「えっ、汐斗くんは一緒にここにいないの?」

「まあ、流石にいれないな。家族になんか疑われても嫌だし。それに色々あるし」

「確かにそうか……。てか、私、変なこと言ってたじゃん! ほんとごめん」

 汐斗くんとはちゃんと関わってから数時間しか経っていないけれど、もう信頼しきっている自分がいるので、そういうことをすっかり考えていなかった。だから、一緒に寝ようとかいう意味に解釈できることを言っていたことに気づき、急に申し訳なくなった気持ちと、ものすごく恥ずかしいという気持ちが出てきてしまった。できることなら少し前の時間まで巻き戻したい。

「ははっ。別にそんな風には考えてないから大丈夫だよ。でも、少し嬉しかったな。僕を嫌ってないようで。そして少しは信頼してくれてるみたいで」

 かなりの問題発言(?)をしてしまったのにもかかわらず、汐斗くんは優しい言葉を私にかけてくれた。そんな、こんなにも優しい汐斗くんを嫌うわけないじゃん。私に勇気を出して声をかけてくれた人を信頼しないはずないじゃん。別に、少し前まで時間を戻す必要なんてなかったみたいだ。

「じゃあ、おやすみ、心葉」

 私にバイバイをしてから汐斗くんは自分の部屋から出ていく。いや、待って、まだ――

「汐斗くん」

 私は、汐斗くんに声をかけてしまった。その声に反応して、汐斗くんは振り返ってくれた。別に止めるほどのことじゃないのに、答えによっては怖いのに。

「――あのさ、どんな私でも、嫌いにならない?」

 私が汐斗くんを嫌いになることは絶対にない。でも逆に、汐斗くんは私を嫌いにならないだろうか。どんな私でも嫌いにならないだろうか。本当の味方でいてくれるだろうか。

「それが心葉なら、嫌いにならないよ……それが言えるかな。じゃあ、おやすみ」

 汐斗くんはそんな言葉を言い残して、階段を下りていく。心葉の姿なら、嫌いにならない……そういうことをいいたかったんだろうか。何が自分なのか私は分からないというのに。

 汐斗くんがいなくなってから少し経ったところで、汐斗くんのベッドに寝転んだ。ふかふかしている。汐斗くんのベッドは悪いけれど本人も言っていた通りほんの少し汗の匂いがした。でも、その匂いが不快だとは思わない。むしろ、いい匂いにまで思えてしまう(それは流石に言いすぎか)。

 いつもなら少し考え事をしてしまったりしまうけど、今日は電気を消したらすぐに目をつぶることができた。

 


 ――これは夢なんだろうか。そうだ、夢だ。つまり、明晰夢(めいせきむ)というやつだろう。汐斗くんの家で寝た私は……。

 『心葉の中学校日記』

 私の机にそう書かれた日記が置いてある。これは、あの辛いことを書いていたリングノートとは真逆で楽しい思い出だったり、嬉しかったことがびっしりと時々おかしい文が混ざってしまうぐらいに書かれているものだ。でも、この日記は中学2年生のときで終わっている。言うこともないかもしれないけど、3年生からは勉強の日々が始まったから。

 そのノートを誰かが見ている。後ろ姿しか見えないので、それが誰なのかは分からない。

 1ページ目が開かれる。

 ――1年。入学式。

『今日から〇〇中学校に入学しました。担任の先生は体育の先生で、たい焼きが好きだそうです(笑)。たい焼きを買うまで3時間並んだこともあるそう! 今日から始まる中学校生活楽しみだー! ワクワクが止まりません。笑顔で卒業式を迎えられることが今の目標です!』 

 ――2年。修学旅行。

『これは、修学旅行のホテルで書いてます。とにかく1日目、楽しかったです! 清水寺とかからの景色はすごくきれいで、班の子が沢山写真を撮っていて、あやうくバスを乗り過ごすところでした(笑)。ちなみに、部屋では女子4人で定番だけど恋バナしました! 少し胸がドキドキした!』

 なんか、このときの私、すごく楽しそう。今の自分じゃないみたい。

 本当にこれ、私だったんだろうか。

 これが白野心葉だったんだろうか。

 ――2年。終業式。

『今日で楽しかった2年生も終わってしまいました。あっという間だったな。楽しい時間ほど早く過ぎてしまう……それを自分の心で実感できました。本当に私と仲良くしてくれた人たちありがとう! 明日からは親ができるだけ高校は高いところに行ったほうが視野が広がったり……とか言われたので、私はそこまで高い高校に行きたいとかではないけれど、その希望に添えるように勉強漬けの日々を頑張っていきたいと思います! 頑張るぞ私! 何事もやればできるんだから! 白野心葉、ファイト!』

「そうか……」

 何かを悟ったような声がした。

 見えていなかった人物の姿が少しだけ見えた。これは、少し汐斗くんに似ている気がする。この感じは。

 でも、本当に汐斗くんなんだろうか。

 そうだとしたら、なぜ汐斗くんが私の日記を見てるの……? 私の過去を見ているの……?



 「……こ、こ、は」
 
 誰かが私の名前を呼んでいる。一音一音大切に文字を口から出しているかのような。その声が音楽かのような。私を求めているような。

 ――私のお母さん?

 でも、私のお母さんは遠くに出張中。というか、昨日は少し違う体験をした気がする。私、昨日はどこで寝たんだっけ……?

 ――そうだ、汐斗くんの家だ。

「心葉、朝だよ」

 なんでこんなにも小鳥のようなさえずりに聞こえるんだろう。でも、私は起こされているのだ。もう朝だよと。

 まだこのベッドで寝ていたいという気持ちも少なからずあるけれど、その声で目を覚ました。

「おはよう」
 
 やっぱり、その安心する声は汐斗くんだった。なんか、不思議な感覚。間違ってるのかな、私は。少しだけ朝のまだ眠たそうな感じの残る汐斗くんが新鮮に見えた。

「もう……朝?」

 私はそう問いかける。もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれないから、確認のためにもそう聞いた。

「うん、今日も学校だしね」

 私が完全に目を開けると、眩しい太陽の光が瞳にも差し込んだ。隣りにあったデジタル時計には6時40分と表示されていた。電車に乗って学校に行くことを考えれば、準備とかもあるしもうすぐ起きないといけない時間になっているだろう。

 私はまだ夢の続きを見ていたい気持ちもあるけれど、体を起こした。いつもなら朝起きることは精神的に辛いと感じる部分もあるけれど、今日はそんなことなんてなく、むしろ起きるのが気持ちいぐらいだ。

「どう、僕のベッドでよく寝られた?」

「うん、10時間ぐらい寝られたときの爽快感……? みたいなのを感じる気がする」

「それならよかった。朝は太陽の光を浴びるといいって言うから、窓開けて少しそれやったら下に来な」

「うん、分かった」

 汐斗くんの言う通り、まず部屋にあった窓を開けて、私は太陽の光をかき集めるように、太陽の光に当たった。朝、太陽に浴びると色々なホルモンだとかが増えるみたいだけど、そんな気がする。朝の太陽ってこんなにも気持ちいいんだ。自然の力ってすごいなと単純に思ってしまう。

 太陽の光を十分に浴びてから、この姿で人の前に顔を出すのは失礼だし、思春期の私には恥ずかしいので、顔を洗って目やにを取ったり、少し整えてから、皆の前に顔を出した。

 昨日と全く変わらないような光景が食卓には広がっていた。昨日と同じように汐斗くんの家族と話しながら朝食を食べた。やっぱりこの空間好きだ。

 昨日と違うのは朝食を食べ終わり、自分の支度が全部終わった後、朝食の後片付けを行なった。お母さんにはそこまで気を使わなくていよと言われたが、お世話になってるだけではいけないからということを言って、お母さんとともに洗い物をしている。泡がなくなってきたので、スポンジに追加で洗剤をつける。

「おー、早いし、きれいに洗ってくれてるね。ありがとう」

「一応親が出張だったりするして、家でもやって慣れてるので」

「あー、そう言えば昨日そんなこと言ってたね」

 それに小さい頃、お母さんに家事を色々やらされたのでその感覚もきっと残っているんだろう。

 お礼の気持ちも込めて私は洗い物を続ける。水道から出る水で泡を流す音が耳の中に入る。シャー。

「1日だったけど、私たちは心葉ちゃんがいて楽しかったよ。家族が多いから騒がしかったり、狭かったりして色々不便なところもあったと思うけど……」

「いえいえ、そんなことないです。すごく心が休まりました。皆さんが優しくしてくれたので、とっても過ごしやすかったです。ちょっと悩んでたことがあるんですけど、その悩みが薄れた気がします」

 もちろんこれは事実だ。こんな経験初めてだったけれど、私の心はなにも邪魔するものがない大地にずっと寝そべっていたんじゃないかと思えるぐらい休まった。それに、おばあちゃんが折り紙をくれたり、お姉さんが相談にのってくれたり、汐斗くんは私のことを色々気遣ってくれたり、他の人も私に話しかけてきてくれたり……これが世の中の見本なんじゃないかって思うほどいい人たちだった。

 その環境により、私はほんの少し明日をまだ見てみたいと思えるようになった気がする。でも、まだ完全にではない。悪い自分をこの1ヶ月間で私は汐斗くんと一緒に崩していきたい。

「それならよかった。これからも、汐斗のことをよろしくね」

 お母さんは少しニッコリとした優しい笑顔をしてから、そう言った。

「はい」

 私はそう答えたけれど、でも本当は逆なんじゃないか。私が汐斗くんによろしくとお願いするべきなんじゃないか。だけど――

「よし、これで全部終わり。心葉ちゃん、本当にありがとう」

 お母さんが最後のを終えた。いつの間にかお皿はどれも元の使う前の姿に戻っていた。水切りラックに立てられたお皿から水が下に落ちていく。その水が窓から漏れ出す光に映し出されていた。

「あ、そうだ。手伝ってくれたお礼とかとは関係ないんだけど、お昼のお弁当。お弁当箱は返さなくていいから、もしよかったら食べて。コンビニとかで買うならこっちのほうが節約にもなるかなと思って」

「えっ、いいんですか? わざわざありがとうございます」

 どうしてそこまでしてくれるのか。これがこの人にとっては当たり前なのか。そんなことは私には分からないけれど、ありがたくそのお弁当をいただいた。そして、ペコリとお辞儀した。