汐斗くんと最後に行く場所は、行けること自体が嬉しかったので本当にどこでもよかったけれど、遊園地に行くことになった。これは汐斗くんの提案で、最後に思いっきり楽しもうということから、遊園地を選んでくれたんだろう。
ずっとずっと待っていたその日が来た。まだかなあと思っていたときもあったけれど、その日は当然のように来た。目覚まし時計を集合時間に十分に間に合うよう寝坊したときのためにも何回かセットしたはずなのに、その目覚まし時計が役にたたないぐらい早く起きてしまった。
今日は特別なんだから、普段はやらないけど少し化粧をしていこう。もちろん、自分の姿だと言える範囲で。
カバンに忘れ物がないか、何回も何回も確認する。そして、汐斗くんに渡すためのミサンガも忘れずに入れる。そう言えば、今日、汐斗くんも出来上がった染め物を最後に見せてくれるらしい。それも私の楽しみの1つだ。
でも、カバンに入っているこの紙――いわゆる遺書と呼ばれるものは今日で捨ててしまおう。書かない方がいいとは分かっていたけれど、私の未来の心は自分では分からない。だから、これを読んでもらう気なんてないんだけれど、もし、その時が来てしまったときのために私は親や友達、そして汐斗くんに書いていたのだ。最後に自分の想っていたことを言えずに明日を閉じてしまうのは嫌だったから。
でも、何度も書き直したこの遺書も今日が終わったら、破いて捨ててしまおう。前に描いていた世界とはもう、おさらばだ。こんな遺書は私にはもうきっと必要ない。そんなものがなくたって、きっと私は生きていけるはずだ。あの人と出会えたんだから。
ドアノブに手をかける。
「行ってきます」
この家にはまだお母さんも、お父さんも帰ってきていないはずなのに、そんな言葉を言ってしまう。でも、感じるのだ。
ドアノブに自然と力が入り、ドアが軽い力で開き、外の世界の空気を吸った。
――私は、人生を変えてくれた君と、もしかしたら関わることのできる最後かもしれない特別な日を創るために、家を出た。
少し、早かっただろうか。まだ、約束の20分も前だ。汐斗くんの姿はもちろんまだ見えない。
私の目の前に見える横断歩道から汐斗くんは私のもとに来るはずだ。
時々、車が私の近くを何事もなく通過していく。
汐斗くんが来るのを、私は特別な想いで待っている。
本当に、汐斗くん今までありがとう。ずっとずっと忘れられない……そんな大切な人。
一生、忘れたくない。
「あれ、心葉じゃん!」
「あっ、唯衣花! その格好はどこかお出かけ?」
唯衣花が私の前を通ろうとしたところ、私に気づいたようで、唯衣花が私に声をかけてきてくれた。海みたいに爽やかな服装が、彼女を際立たせている。
「うん。友達と買い物に。心葉は好きな人でも待ってるの?」
「いや、そんなんじゃないよ!」
私は唯衣花の言ったことに対して慌てて否定した。私と汐斗くんの関係はそんなのじゃ――でも、ないとまでは言い切れないのかもしれない。だけど、考えると私の心のどこかを異常に反応させてしまいそうだからやめた。でも、その答えは私のどこかに眠っているはずだ。
「まあいいや。それよりちょうどいいや。これ、お見舞いに来てくれたお礼! そんな高いものじゃないけど、プレゼント」
唯衣花が、ショルダーバッグから丁寧にラッピングされたものを出して、それを私に手渡した。縦に長く、横は短い。私は開けてもいい? と聞いて唯衣花がうなずいた後に、そのラッピングを丁寧に取る。この瞬間が、小さい頃サンタさんにプレゼントをお願いした時、何が届いているかみたいでドキドキしてしまった。
「心葉が好きなピンク色の、ボールペンだよ!」
「唯衣花、ありがとう!」
唯衣花、そんな小さなことまで覚えていてくれたのか。でも、唯衣花に渡したあのミサンガの色も私の好きな色で作ったと前に言ったから、覚えていてくれたのかもしれない。私が好きな色はピンク色だってことを。
「これ、大切にするね」
私は、そのボールペンをそっとカバンの中にしまう。普通のときにはもったいなくて使えそうにないから、本当に大切なものを書く時に私は使うことになるんだろう。でも、そのときはいつ来るのかまだ分からない。
「うん。心葉が使いたいときにでもそのボールペンは使ってよ。話変わるけどこの辺スピード出す車が多いから気をつけてね。じゃあ、バイバイ。応援してるよ」
そう唯衣花は言った後、手を振りながら私からゆっくりと遠ざかっていく。
――応援してるよ。
何をなんだろう。主語は一体何なんだろう。でも、あの笑顔。もしかしたら、私のことを唯衣花は少し分かっているのかもしれない。はっきりとではなくても少し感じているのかもしれない。
まだ、汐斗くんの姿は見えないはずなのに、まるでそこにいるかのように感じてしまう。
この、太陽が暖めて――いや、温めてくれている空気、木の葉の揺れる優しい音、道端に咲く小さな花たち。
私の目に映るいつもの世界は――少し、不思議な世界だった。
でも、本当に今日で最後なのかな。
あの時からだいたい1ヶ月が経ってしまったけれど、今日が終われば、汐斗くんに電話をかけることもなくなるし、ラインをすることも大事な連絡以外しなくなってしまうのかな。まだお互いのことを全然知らなかった1か月前のような関係に、私たちに戻ってしまうのかな。
――今日で、本当に最後にしなきゃいけないのかな。
終わりって作らなきゃいけないのかな。これは小説の中の物語じゃないんだから作らなくてもいいんじゃないかな。
「おーい!」
向こう側に私のずっとずっと聞いていたい人の声がした――汐斗くんだ。赤信号を待っている一人の人が、こっちに向かって手を振ってきてくれている。
私も手を振り返す。すると、汐斗くんも手を振り返してくれた。
もう少し経てば、汐斗くんと……。
約束の10分前なのに、汐斗くんらしい。いや、私と同じで楽しみだから来てしまったっていう理由だったら少し嬉しいかもしれない。
時の流れはどうやっても来てくれるようで、赤だった信号機の色が、いつの間にか青に変わった。
汐斗くんは大地を踏み始めるようにして、横断歩道を歩き始めた。
もうすぐ、私のもとに汐斗くんが来てくれる。
待っていた瞬間。
――!
「えっ、おい、危ない、逃げろ――!」
突然、男の人が、大声で怒鳴る。何か、そのような声がした。
何が起きてるのかはすぐには分からなかったが、私は、その光景を見て分かってしまった。
向こう側から来ているトラックがコントロールを失って、汐斗くんの今渡っている横断歩道の方にものすごい速さで、爆発したみたいに大きな音で向かってきているのだ。
「――えっ」
汐斗くんはその現状は分かったみたいだけれど、あまりにも突然のことで、それに非現実的なことで何をすればいいのか分かっていない様子で横断歩道の真ん中で止まってしまった。自分の判断ができないでいるみたいだ。
でも、このままだと、汐斗くんは――
だけど、私が助けたら、私はたぶん――
そのトラックの暴走は止まらない。それに、汐斗くんは動くことができない。だったら、今、ちゃんと行動できるのは私だけ。私が助けに行かなきゃいけないのだ。一瞬どうするべきか悩んだが、頭が汐斗くんを助けに行かなきゃという信号を出すよりも早く、無意識に動いていた。汐斗くんを助けに行くために、私は走る。足を動かす。
仮に私に明日がなくたとしても、汐斗くんに明日があるんだとしたら私はそっちのほうが断然いい。
私は元々、明日を閉じようとしていたのだから。でも、汐斗くんが明日を伸ばしてくれて、今では、明日を創っていこうと思えてきてるだけ。
だから、本当は、もうこの世界にはいないはずだった。すでに、1か月前にこの世界から消えているはずだった。
だったら、私の世界よりも汐斗くんの世界の方があるべきだ。汐斗くんの世界はないとだめなんだ。
前に見た『小さな闘病日記』を見て分かった。私よりも何倍も苦しい思いをしてるじゃないか、辛かったんじゃないかと。そんなものに勝つことができたのに、望んでいた姿になれたのに、汐斗くんがここで明日を閉じていいはずがない。汐斗くんは明日を開かないと――明日を見ないとだめなんだ。それができるようになったばかりなんだから。今からが汐斗くんにとって本当のスタートなんだから。
――むしろ、明日を閉じたい私が、閉じられるんだからそれは望んでいたことなんじゃないだろうか。神様が与えてくれたことなんじゃないだろうか。
ほら、望み通りなるんだから、いいじゃないか。私の願いが叶うんだから。
それにさ、汐斗くんは私のいない世界のほうがきっと輝けるんだよ。私の存在はきっと邪魔なんだよ。分かってるよ。だからさ――
私は、呆然と立ち尽くしてる汐斗くんにありったけの力を込めて、歩道側に投げ飛ばした。
それから、1秒も立たない間に私に、トラックが容赦なく突っ込んできた。
その感触は言葉で表現なんかできない。
――キキッー。
それから、私はどうなったのか、分からない。
明日を閉じたのかも、閉じてないのかも。
今、私はどこの世界にいるのか。
でも、どの世界にいたとしても、汐斗くんにこれだけは言いたい――今までありがとう、と。
――おい、大丈夫か。
うん、大丈夫? 大丈夫?
私は、望み通り、明日を閉じてしまったんだろうか?
まだまだ見ていたかった汐斗くんの顔はもう、一生見えないんだろうか。
最後に、私は世界を変えてくれた君に「ありがとう」も言えなかった――いや、言わせてくれなかったんだろうか。
私はそう思いながら、この世界を見渡すために、目を開いた。
――私の瞳には、汐斗くんの顔が映った。
……
……
……
「……あっ、よかった、心葉。本当に」
ここはどうやら、まだ私がさっきまでいた世界?
私は地面に横たわっていたようだ。
でも、私……。
「救急車とかは呼んだから。でも、ごめん、僕のせいでこんなことに……謝りきれない」
そうか、私はまだなんとかこの世界にいることができたんだ。ここはまだあっちの世界ではないんだ。
「……いや、今はそんなことは。でも、痛い、痛い」
やはり、トラックに轢かれたからか、色々なところが痛む。全身が。どのような状況で怪我してるのかも私にはよく分からない。声を出すのもやっとなぐらいに痛い。
ここの世界はまだ汐斗くんのいる世界だ。でも、私はもうすぐ、本当に、明日を閉じてしまうんじゃないだろうか。そうとまで思えてくる。この状況をうまくつかめない。今まで感じたことのないぐらい言葉に表せない傷み。
「やばいな、これはもしかしたら、少し厳しいかもだぞ! 救急車はまだ来ないのか!?」
「いや、まだ呼んだばかりだから、もう数分はかかるかと……」
周りの人たちの声だろうか。怒鳴り声も混ざっているし、他にも様々な声が飛び交っていた。私は、今、そんなにも厳しい状態なんだろうか。でも、私の近くには赤いものが見える。
誰か名前もわからない大人が、私の応急処置をしてくれているみたいだ。皆、懸命にこの世界でたった一人の私を助けようとしてくれているのだ。こんな、私を助けようと……。私と関わりなんかない名前すらも知らない赤の他人を助けようと……。助けたところで意味があるのかも分からないのに。
でも、さっき一瞬だけ、あの世界が見えてしまった気がする。
「いや、心葉、大丈夫だから泣くなよ」
優しい汐斗くんがまた、私の顔を見てくる。自分は、泣いているのだろうか、そんなの分からなかった。自覚なんてない。
ただ、私はもうもたないかもしれないことは、自分でも十分に分かっていた。体がそんなことを教えてくれている。
こういう現実――終わり方もあるんだな。
「あのさ、汐斗くん。少し話したい。もしかしたら、明日を閉じてしまうかもしれないから」
「……いいぞ。ちゃんと聞く。でも、明日を閉じるなんて言うなよ! 変わった今の心葉にそんな言葉似合わないよ!」
分かってるけど、ここで弱音を吐かないことなんて、私にはできない。そんなに汐斗くんの思っているほど私は強くないんだ。自分で明日を閉じようとしていたんだもん。本当は、今の私にこの言葉、似合わないこと、そんなことぐらい知ってるよ。だって、汐斗くんが似合わない言葉にしてくれたんだから。
「汐斗くんは、本当に私にとって大切な……私の世界を変えてくれた人でした。それに、いつも優しくて、誰かのことを考えられて、いいところがいつまでも言える人……そんな人、たぶんこの世界で汐斗くんぐらいしかいません。本当にありがとう。私、さっきまではこれが望んでいたことなんだからいいじゃんとか、本当はもうこの世界にいないはずだったからいいんじゃないかとまで思ってた。でも、やっぱりそんなことはなかった。私の望みは、汐斗くんに書き換えられてしまった。だから、私は――」
本当に書き換えられるなんて、思ってもなかった。あの日のままの私だと思ってた。でも、汐斗くんは違った。
汐斗くんの変えてくれた世界が、私にとって今、一番の宝物なんだ。だから――
「――私は、自分の世界、閉じたくないよ。まだまだ、汐斗くんとこの世界を歩んでいきたいよ。明日も、その次も汐斗くんの顔を見ていたいよ。見させてよ……」
私は、自分の力でどんな状態になってるかも分からないけれど、汐斗くんに抱きついた。前と感触は全然違った。ちゃんと抱きしめられない。でも、抱きしめているのは私を創ってくれた汐斗くんだった……それだけは間違いなかった。
「最初は自分の世界を閉じたいと思ってた。でも、大切な人と会ったことで、明日を創りたくなった。こんな自分勝手な人を、神様、どうか許してください、許して……、許して……」
こんな人、多分神様は怒って、私の本当の望みは叶えてくれない。叶えてくれっこないって分かってる。でも、私はまだ生きていたい。こんな素敵な人と出会えたのだから。この世界で出会わせてくれたのだから。
「大丈夫だよ、心葉の心も神様はきっと見てるはずだから」
「怖い、怖いよ。もっともっと君といたいよ。まだ、遊園地だって行ってないじゃん」
「分かってる。分かってるよ。でも、心葉もう喋らない方が……それ以上喋ると、もしかしたら、だめになっちゃうかもしれない。この世界から追い出されちゃうかもしれない」
私の呼吸がさっきよりも苦しい。荒くなっている。泣いているからと、大きな怪我をしているから。さっきよりも悪化している。少し前までの望みに近づいてしまってる。私は、もう、汐斗くんに喋ることも難しくなっている。声はもう厳しい……。声で想いを伝えることは難しい。でも、まだ伝えられる方法はある――文字で。
「汐斗くん……カバンの中に入っている遺書――いや、手紙を見て……、そこに書いてあることを伝えたい。声が無理なら文字という言葉で伝えたい」
「分かった。でも、まだ明日を閉じちゃだめだろ。約束したんだから。まだ、1ヶ月経ってないんだからせめてもう少し待ってくれよ。自由にしていいのはそれからなんだよ」
――うん、約束、必ず守るから。汐斗くんは私が約束を守ってくれるって信じてそういう約束をしてくれたんだから。そんなの、破るわけないじゃん……。私を信じてよ。
でも、それを声に出すことはやめた。本当は声に出してそう伝えたいけれど、無理をしてここで声を出してしまったら、明日を閉じてしまうかもしれないから。約束を破ってしまうかもしれないから。信じてくれた汐斗くんを裏切ることなんて、私はしたくない。
そんな言葉を聞くよりも、汐斗くんはこの世界で明日も人生を創ってくれる方が望んでいると思ったから。
でも、本当は言いたい。それを、汐斗くんの約束を守るためだと思い、人生の中でも一番辛いかもしれないけど、我慢した。そういう想いを込めて、私は目で汐斗くんに伝えた。それ伝わったのかを私に確かめる方法なんてないけど、汐斗くんはうんと大きくうなずいてくれた。
汐斗くんが、近くに転がっている私のカバンから封筒を取り出し、中のものを読み始めた。これは、今は遺書ではない――最後に贈りたい、私の想いが詰まった手紙だ。
この手紙、何度書き直したことだろうか。気持ちが変わるごとに、書き直した。どんどんと世界を向けている……そんなことは自分でも感じられた。それは、汐斗くんのせいなんだろう。
この手紙を書いたときが蘇る。今、汐斗くんがゆっくりと、自分の瞳という部分を用いて、自分の心の中に少しずつ吸収しているものを書いたのは……数日前だ。これが、一番最近書いたもの。今に一番近い私が書いたものだ。
その時のペンを握る感触、紙に触れた手の感触、周りから聞こえてきた音を、今、私は感じている。これを書いているときと、全く同じものを。
『私にとって大切な存在の汐斗くんへ
これはもし、私が汐斗くんとの約束を破ってしまい、自分から明日を閉じてしまったときの遺書になるものだと思います(違ってたらごめんね)。
本当はこんなもの書く必要、ないと思います。だって、汐斗くんがどんな私でも明日を創ってくれるんだから。私の世界をともに歩んでくれているんだから。
でも、もし自分が明日を閉じてしまったとき、私の心にあるものをちゃんと伝えられないのは嫌なので、これを書いています。だから、その想いを伝えるために書きました。そんな私を許してください。許さなくてもいいから、この想いを受け取ってください。
汐斗くんは一言で言うなら私の世界に道を創ってくれた人です。それも、私だけが進むことのできる道を。
そして、本当に、本当に不思議な人です。明日に対して正反対の想いを持っている私に、ここまで関わってくれた。もしかしたら、明日の人生がなくなってしまうかもしれないのに――もしかしたら最後になるかもしれないのに、私にその人生を与えてくれた。そんな人を、憧れないわけありません。ずるいよ。そんな人とずっと離れたくないです。私のことを、仮にどんな世界にいるのだとしても、想ってほしいです。忘れないでほしいです。私を白野心葉として、ずっとずっとその名前を胸に刻んでほしいです。私も、絶対にそうするから。これは、どんなことがあっても約束するから。
本当に、汐斗くんと過ごせた日々は、特別だった。もちろん、その時間全部が楽しいわけじゃなかったけど、全てに意味があると思えた日々を送れたのは本当に久しぶりでした。本当にありがとう。ありがとう。ありがとう……何度も言うよ。何度言っても、多分続いてしまうよ。終わりなんかないよ。
そんな私が感謝してもしきれない汐斗くんの病気が完治に向かっていること、本当によかった。それが、私の夢だった。最後にその夢を見ることができて、私はすごく嬉しかった。汐斗くんがその姿でこの世界を創ってるところを見られないのは、少し残念だけど、そうだと願っています。でも、どこにいても、ちゃんと見てるから、悲しまないでください。私が言えることじゃないけど、君には自分の人生があります。その人生を輝かせてください。ずるいぐらい幸せになってください。私ができなかった分まで。約束してください。私の分まで生きてくれることが、たぶん汐斗くんと出逢えて一番よかったと思う瞬間になるんだと思います。こんなにも、失いたくない人、離したくない人、初めてだったよ。
最後に一つ。もしかしたら、これは書けないかもしれません。そしたら、ごめんなさい。でも、私はそのことをどこにいても思ってます。汐斗――
君との日々はずっと忘れない白野心葉より
PS さよならじゃないからね、信じてる。今までありがとう。私の人生はこれで終点です』
私の書いた文字はどう、汐斗くんに届いているんだろう。
自分の想いは届くんだろうか。
どこにいても、きっと汐斗くんなら私の想い、感じ取ってくれるはずだ。
でも、まだあのことは書けなかった。手紙の最後の部分、書けなかった。汐斗――の続きが。書けなかった。
「こ、こ、は……」
私の名前を汐斗くんは噛み締めながら、その手紙に書いてあることを感じ取りながら、どんな声よりも美しい声で言った。でも、汐斗くんは泣いてなかった。たぶん、こんな私の前で泣いたら……とでも思ったのだろう。
「最後のってさ……いや、無理ならいいや。ごめん。本当に、ありがとう。でもさ、泣くギリギリにいるんだ。こんなにこらえなきゃいけないの、初めてだよ……」
やっぱり、そこが気になってしまったか。最後に書けなかった部分が。何を伝えようとしていたのか。
汐斗くんはその手紙を私の近くにそっと置いてくれた。
私は本当は、この手紙で汐斗くんを泣かせたかった。でも、汐斗くんは泣いてくれなかった。私のために心から泣いてほしかったけど、泣いてくれなかった。あの時みたいに泣いてほしかった。
気を遣わなくてよかったのに……。何でだよ……。
「僕はもっと心葉のことを知りたいし、一緒に笑いたいし、見守りたいし、お互いを成長させていきたい……僕は明日を見えるようになって、心葉は明日を創りたいと思えるようになって……だから、終点じゃなくて、ここがお互いの始まりなんじゃないか。見つけた始まり、簡単になかったことにはできない。心葉、言ってなかったけど、辛いながらも一生懸命に生きる君は、僕の世界を変えてくれた。僕も憧れだったよ……。憧れの人がいなくなったらどうするんだよ」
汐斗くんが私を泣かそうとしてくれる。でも、泣いたら負けだ。こらえたくないのに、こんなにもこらえなきゃいけないのは初めてだ。
じゃあ、私は最後に君に泣いてもらうために、力を振り絞ろうかな。私が勝とうかな。負けたくないもん。君は嫌かもしれないけど、泣くという最後のプレゼントを渡そうかな。でも、もう声は厳しい。だけど、腕は少し動く。その腕を使って私は、近くに転がっていた唯衣花からもらったピンク色のペンを取る。これも、大事にできなくてごめんね、唯衣花。そして、海佳ちゃんもさよならを言えなくてごめんね。私を支えてくれたのに。
いや、このボールペンは大事にできないわけじゃない。私が本当に伝えたいことを書く時に使うんだから……。
――皆、こんな私で本当にごめんね。
私は、そのピンク色のボールペンで、あのときは書けなかった汐斗――の続きを書く。今なら書ける。伝えたい。伝えるのならもう今しかない。私の最後がこれで終われたら、きっとこの世界で一番幸せなんだろう。だって、最後まで君のことを思えるんだから。
私は、ある文字を汐斗――の続きに書いた。崩れた文字で――最後に伝えたかった、たった2文字の言葉を。そのピンク色の文字が太陽の光で表すことのできないぐらいに輝いた。
『すき』
その瞬間、汐斗くんの泣く大きな声がした。
「心葉、まだ終わっちゃだめだろ、まだ約束の時間、終わってないんだから!」
そう叫ばれた。本当に大きな声だった。その文字に汐斗くんの綺麗な雫が落ちた。私からも気づけば雫が垂れていた。この世界がその雫のせいで美しく見えた。いつかその雫だけで小さな水たまりができるんじゃないだろうか。
それから、私は瞳を閉じた。これが、最後の力だったみたいだ。でも、幸せだった。
――こういう最後でよかったよ。最後は、引き分けだったね。
汐斗くん――私の世界を最後まで変えてくれて本当にありがとう。最後に恋して終わったんだな。終わることが出来たんだな。
ずっとずっと待っていたその日が来た。まだかなあと思っていたときもあったけれど、その日は当然のように来た。目覚まし時計を集合時間に十分に間に合うよう寝坊したときのためにも何回かセットしたはずなのに、その目覚まし時計が役にたたないぐらい早く起きてしまった。
今日は特別なんだから、普段はやらないけど少し化粧をしていこう。もちろん、自分の姿だと言える範囲で。
カバンに忘れ物がないか、何回も何回も確認する。そして、汐斗くんに渡すためのミサンガも忘れずに入れる。そう言えば、今日、汐斗くんも出来上がった染め物を最後に見せてくれるらしい。それも私の楽しみの1つだ。
でも、カバンに入っているこの紙――いわゆる遺書と呼ばれるものは今日で捨ててしまおう。書かない方がいいとは分かっていたけれど、私の未来の心は自分では分からない。だから、これを読んでもらう気なんてないんだけれど、もし、その時が来てしまったときのために私は親や友達、そして汐斗くんに書いていたのだ。最後に自分の想っていたことを言えずに明日を閉じてしまうのは嫌だったから。
でも、何度も書き直したこの遺書も今日が終わったら、破いて捨ててしまおう。前に描いていた世界とはもう、おさらばだ。こんな遺書は私にはもうきっと必要ない。そんなものがなくたって、きっと私は生きていけるはずだ。あの人と出会えたんだから。
ドアノブに手をかける。
「行ってきます」
この家にはまだお母さんも、お父さんも帰ってきていないはずなのに、そんな言葉を言ってしまう。でも、感じるのだ。
ドアノブに自然と力が入り、ドアが軽い力で開き、外の世界の空気を吸った。
――私は、人生を変えてくれた君と、もしかしたら関わることのできる最後かもしれない特別な日を創るために、家を出た。
少し、早かっただろうか。まだ、約束の20分も前だ。汐斗くんの姿はもちろんまだ見えない。
私の目の前に見える横断歩道から汐斗くんは私のもとに来るはずだ。
時々、車が私の近くを何事もなく通過していく。
汐斗くんが来るのを、私は特別な想いで待っている。
本当に、汐斗くん今までありがとう。ずっとずっと忘れられない……そんな大切な人。
一生、忘れたくない。
「あれ、心葉じゃん!」
「あっ、唯衣花! その格好はどこかお出かけ?」
唯衣花が私の前を通ろうとしたところ、私に気づいたようで、唯衣花が私に声をかけてきてくれた。海みたいに爽やかな服装が、彼女を際立たせている。
「うん。友達と買い物に。心葉は好きな人でも待ってるの?」
「いや、そんなんじゃないよ!」
私は唯衣花の言ったことに対して慌てて否定した。私と汐斗くんの関係はそんなのじゃ――でも、ないとまでは言い切れないのかもしれない。だけど、考えると私の心のどこかを異常に反応させてしまいそうだからやめた。でも、その答えは私のどこかに眠っているはずだ。
「まあいいや。それよりちょうどいいや。これ、お見舞いに来てくれたお礼! そんな高いものじゃないけど、プレゼント」
唯衣花が、ショルダーバッグから丁寧にラッピングされたものを出して、それを私に手渡した。縦に長く、横は短い。私は開けてもいい? と聞いて唯衣花がうなずいた後に、そのラッピングを丁寧に取る。この瞬間が、小さい頃サンタさんにプレゼントをお願いした時、何が届いているかみたいでドキドキしてしまった。
「心葉が好きなピンク色の、ボールペンだよ!」
「唯衣花、ありがとう!」
唯衣花、そんな小さなことまで覚えていてくれたのか。でも、唯衣花に渡したあのミサンガの色も私の好きな色で作ったと前に言ったから、覚えていてくれたのかもしれない。私が好きな色はピンク色だってことを。
「これ、大切にするね」
私は、そのボールペンをそっとカバンの中にしまう。普通のときにはもったいなくて使えそうにないから、本当に大切なものを書く時に私は使うことになるんだろう。でも、そのときはいつ来るのかまだ分からない。
「うん。心葉が使いたいときにでもそのボールペンは使ってよ。話変わるけどこの辺スピード出す車が多いから気をつけてね。じゃあ、バイバイ。応援してるよ」
そう唯衣花は言った後、手を振りながら私からゆっくりと遠ざかっていく。
――応援してるよ。
何をなんだろう。主語は一体何なんだろう。でも、あの笑顔。もしかしたら、私のことを唯衣花は少し分かっているのかもしれない。はっきりとではなくても少し感じているのかもしれない。
まだ、汐斗くんの姿は見えないはずなのに、まるでそこにいるかのように感じてしまう。
この、太陽が暖めて――いや、温めてくれている空気、木の葉の揺れる優しい音、道端に咲く小さな花たち。
私の目に映るいつもの世界は――少し、不思議な世界だった。
でも、本当に今日で最後なのかな。
あの時からだいたい1ヶ月が経ってしまったけれど、今日が終われば、汐斗くんに電話をかけることもなくなるし、ラインをすることも大事な連絡以外しなくなってしまうのかな。まだお互いのことを全然知らなかった1か月前のような関係に、私たちに戻ってしまうのかな。
――今日で、本当に最後にしなきゃいけないのかな。
終わりって作らなきゃいけないのかな。これは小説の中の物語じゃないんだから作らなくてもいいんじゃないかな。
「おーい!」
向こう側に私のずっとずっと聞いていたい人の声がした――汐斗くんだ。赤信号を待っている一人の人が、こっちに向かって手を振ってきてくれている。
私も手を振り返す。すると、汐斗くんも手を振り返してくれた。
もう少し経てば、汐斗くんと……。
約束の10分前なのに、汐斗くんらしい。いや、私と同じで楽しみだから来てしまったっていう理由だったら少し嬉しいかもしれない。
時の流れはどうやっても来てくれるようで、赤だった信号機の色が、いつの間にか青に変わった。
汐斗くんは大地を踏み始めるようにして、横断歩道を歩き始めた。
もうすぐ、私のもとに汐斗くんが来てくれる。
待っていた瞬間。
――!
「えっ、おい、危ない、逃げろ――!」
突然、男の人が、大声で怒鳴る。何か、そのような声がした。
何が起きてるのかはすぐには分からなかったが、私は、その光景を見て分かってしまった。
向こう側から来ているトラックがコントロールを失って、汐斗くんの今渡っている横断歩道の方にものすごい速さで、爆発したみたいに大きな音で向かってきているのだ。
「――えっ」
汐斗くんはその現状は分かったみたいだけれど、あまりにも突然のことで、それに非現実的なことで何をすればいいのか分かっていない様子で横断歩道の真ん中で止まってしまった。自分の判断ができないでいるみたいだ。
でも、このままだと、汐斗くんは――
だけど、私が助けたら、私はたぶん――
そのトラックの暴走は止まらない。それに、汐斗くんは動くことができない。だったら、今、ちゃんと行動できるのは私だけ。私が助けに行かなきゃいけないのだ。一瞬どうするべきか悩んだが、頭が汐斗くんを助けに行かなきゃという信号を出すよりも早く、無意識に動いていた。汐斗くんを助けに行くために、私は走る。足を動かす。
仮に私に明日がなくたとしても、汐斗くんに明日があるんだとしたら私はそっちのほうが断然いい。
私は元々、明日を閉じようとしていたのだから。でも、汐斗くんが明日を伸ばしてくれて、今では、明日を創っていこうと思えてきてるだけ。
だから、本当は、もうこの世界にはいないはずだった。すでに、1か月前にこの世界から消えているはずだった。
だったら、私の世界よりも汐斗くんの世界の方があるべきだ。汐斗くんの世界はないとだめなんだ。
前に見た『小さな闘病日記』を見て分かった。私よりも何倍も苦しい思いをしてるじゃないか、辛かったんじゃないかと。そんなものに勝つことができたのに、望んでいた姿になれたのに、汐斗くんがここで明日を閉じていいはずがない。汐斗くんは明日を開かないと――明日を見ないとだめなんだ。それができるようになったばかりなんだから。今からが汐斗くんにとって本当のスタートなんだから。
――むしろ、明日を閉じたい私が、閉じられるんだからそれは望んでいたことなんじゃないだろうか。神様が与えてくれたことなんじゃないだろうか。
ほら、望み通りなるんだから、いいじゃないか。私の願いが叶うんだから。
それにさ、汐斗くんは私のいない世界のほうがきっと輝けるんだよ。私の存在はきっと邪魔なんだよ。分かってるよ。だからさ――
私は、呆然と立ち尽くしてる汐斗くんにありったけの力を込めて、歩道側に投げ飛ばした。
それから、1秒も立たない間に私に、トラックが容赦なく突っ込んできた。
その感触は言葉で表現なんかできない。
――キキッー。
それから、私はどうなったのか、分からない。
明日を閉じたのかも、閉じてないのかも。
今、私はどこの世界にいるのか。
でも、どの世界にいたとしても、汐斗くんにこれだけは言いたい――今までありがとう、と。
――おい、大丈夫か。
うん、大丈夫? 大丈夫?
私は、望み通り、明日を閉じてしまったんだろうか?
まだまだ見ていたかった汐斗くんの顔はもう、一生見えないんだろうか。
最後に、私は世界を変えてくれた君に「ありがとう」も言えなかった――いや、言わせてくれなかったんだろうか。
私はそう思いながら、この世界を見渡すために、目を開いた。
――私の瞳には、汐斗くんの顔が映った。
……
……
……
「……あっ、よかった、心葉。本当に」
ここはどうやら、まだ私がさっきまでいた世界?
私は地面に横たわっていたようだ。
でも、私……。
「救急車とかは呼んだから。でも、ごめん、僕のせいでこんなことに……謝りきれない」
そうか、私はまだなんとかこの世界にいることができたんだ。ここはまだあっちの世界ではないんだ。
「……いや、今はそんなことは。でも、痛い、痛い」
やはり、トラックに轢かれたからか、色々なところが痛む。全身が。どのような状況で怪我してるのかも私にはよく分からない。声を出すのもやっとなぐらいに痛い。
ここの世界はまだ汐斗くんのいる世界だ。でも、私はもうすぐ、本当に、明日を閉じてしまうんじゃないだろうか。そうとまで思えてくる。この状況をうまくつかめない。今まで感じたことのないぐらい言葉に表せない傷み。
「やばいな、これはもしかしたら、少し厳しいかもだぞ! 救急車はまだ来ないのか!?」
「いや、まだ呼んだばかりだから、もう数分はかかるかと……」
周りの人たちの声だろうか。怒鳴り声も混ざっているし、他にも様々な声が飛び交っていた。私は、今、そんなにも厳しい状態なんだろうか。でも、私の近くには赤いものが見える。
誰か名前もわからない大人が、私の応急処置をしてくれているみたいだ。皆、懸命にこの世界でたった一人の私を助けようとしてくれているのだ。こんな、私を助けようと……。私と関わりなんかない名前すらも知らない赤の他人を助けようと……。助けたところで意味があるのかも分からないのに。
でも、さっき一瞬だけ、あの世界が見えてしまった気がする。
「いや、心葉、大丈夫だから泣くなよ」
優しい汐斗くんがまた、私の顔を見てくる。自分は、泣いているのだろうか、そんなの分からなかった。自覚なんてない。
ただ、私はもうもたないかもしれないことは、自分でも十分に分かっていた。体がそんなことを教えてくれている。
こういう現実――終わり方もあるんだな。
「あのさ、汐斗くん。少し話したい。もしかしたら、明日を閉じてしまうかもしれないから」
「……いいぞ。ちゃんと聞く。でも、明日を閉じるなんて言うなよ! 変わった今の心葉にそんな言葉似合わないよ!」
分かってるけど、ここで弱音を吐かないことなんて、私にはできない。そんなに汐斗くんの思っているほど私は強くないんだ。自分で明日を閉じようとしていたんだもん。本当は、今の私にこの言葉、似合わないこと、そんなことぐらい知ってるよ。だって、汐斗くんが似合わない言葉にしてくれたんだから。
「汐斗くんは、本当に私にとって大切な……私の世界を変えてくれた人でした。それに、いつも優しくて、誰かのことを考えられて、いいところがいつまでも言える人……そんな人、たぶんこの世界で汐斗くんぐらいしかいません。本当にありがとう。私、さっきまではこれが望んでいたことなんだからいいじゃんとか、本当はもうこの世界にいないはずだったからいいんじゃないかとまで思ってた。でも、やっぱりそんなことはなかった。私の望みは、汐斗くんに書き換えられてしまった。だから、私は――」
本当に書き換えられるなんて、思ってもなかった。あの日のままの私だと思ってた。でも、汐斗くんは違った。
汐斗くんの変えてくれた世界が、私にとって今、一番の宝物なんだ。だから――
「――私は、自分の世界、閉じたくないよ。まだまだ、汐斗くんとこの世界を歩んでいきたいよ。明日も、その次も汐斗くんの顔を見ていたいよ。見させてよ……」
私は、自分の力でどんな状態になってるかも分からないけれど、汐斗くんに抱きついた。前と感触は全然違った。ちゃんと抱きしめられない。でも、抱きしめているのは私を創ってくれた汐斗くんだった……それだけは間違いなかった。
「最初は自分の世界を閉じたいと思ってた。でも、大切な人と会ったことで、明日を創りたくなった。こんな自分勝手な人を、神様、どうか許してください、許して……、許して……」
こんな人、多分神様は怒って、私の本当の望みは叶えてくれない。叶えてくれっこないって分かってる。でも、私はまだ生きていたい。こんな素敵な人と出会えたのだから。この世界で出会わせてくれたのだから。
「大丈夫だよ、心葉の心も神様はきっと見てるはずだから」
「怖い、怖いよ。もっともっと君といたいよ。まだ、遊園地だって行ってないじゃん」
「分かってる。分かってるよ。でも、心葉もう喋らない方が……それ以上喋ると、もしかしたら、だめになっちゃうかもしれない。この世界から追い出されちゃうかもしれない」
私の呼吸がさっきよりも苦しい。荒くなっている。泣いているからと、大きな怪我をしているから。さっきよりも悪化している。少し前までの望みに近づいてしまってる。私は、もう、汐斗くんに喋ることも難しくなっている。声はもう厳しい……。声で想いを伝えることは難しい。でも、まだ伝えられる方法はある――文字で。
「汐斗くん……カバンの中に入っている遺書――いや、手紙を見て……、そこに書いてあることを伝えたい。声が無理なら文字という言葉で伝えたい」
「分かった。でも、まだ明日を閉じちゃだめだろ。約束したんだから。まだ、1ヶ月経ってないんだからせめてもう少し待ってくれよ。自由にしていいのはそれからなんだよ」
――うん、約束、必ず守るから。汐斗くんは私が約束を守ってくれるって信じてそういう約束をしてくれたんだから。そんなの、破るわけないじゃん……。私を信じてよ。
でも、それを声に出すことはやめた。本当は声に出してそう伝えたいけれど、無理をしてここで声を出してしまったら、明日を閉じてしまうかもしれないから。約束を破ってしまうかもしれないから。信じてくれた汐斗くんを裏切ることなんて、私はしたくない。
そんな言葉を聞くよりも、汐斗くんはこの世界で明日も人生を創ってくれる方が望んでいると思ったから。
でも、本当は言いたい。それを、汐斗くんの約束を守るためだと思い、人生の中でも一番辛いかもしれないけど、我慢した。そういう想いを込めて、私は目で汐斗くんに伝えた。それ伝わったのかを私に確かめる方法なんてないけど、汐斗くんはうんと大きくうなずいてくれた。
汐斗くんが、近くに転がっている私のカバンから封筒を取り出し、中のものを読み始めた。これは、今は遺書ではない――最後に贈りたい、私の想いが詰まった手紙だ。
この手紙、何度書き直したことだろうか。気持ちが変わるごとに、書き直した。どんどんと世界を向けている……そんなことは自分でも感じられた。それは、汐斗くんのせいなんだろう。
この手紙を書いたときが蘇る。今、汐斗くんがゆっくりと、自分の瞳という部分を用いて、自分の心の中に少しずつ吸収しているものを書いたのは……数日前だ。これが、一番最近書いたもの。今に一番近い私が書いたものだ。
その時のペンを握る感触、紙に触れた手の感触、周りから聞こえてきた音を、今、私は感じている。これを書いているときと、全く同じものを。
『私にとって大切な存在の汐斗くんへ
これはもし、私が汐斗くんとの約束を破ってしまい、自分から明日を閉じてしまったときの遺書になるものだと思います(違ってたらごめんね)。
本当はこんなもの書く必要、ないと思います。だって、汐斗くんがどんな私でも明日を創ってくれるんだから。私の世界をともに歩んでくれているんだから。
でも、もし自分が明日を閉じてしまったとき、私の心にあるものをちゃんと伝えられないのは嫌なので、これを書いています。だから、その想いを伝えるために書きました。そんな私を許してください。許さなくてもいいから、この想いを受け取ってください。
汐斗くんは一言で言うなら私の世界に道を創ってくれた人です。それも、私だけが進むことのできる道を。
そして、本当に、本当に不思議な人です。明日に対して正反対の想いを持っている私に、ここまで関わってくれた。もしかしたら、明日の人生がなくなってしまうかもしれないのに――もしかしたら最後になるかもしれないのに、私にその人生を与えてくれた。そんな人を、憧れないわけありません。ずるいよ。そんな人とずっと離れたくないです。私のことを、仮にどんな世界にいるのだとしても、想ってほしいです。忘れないでほしいです。私を白野心葉として、ずっとずっとその名前を胸に刻んでほしいです。私も、絶対にそうするから。これは、どんなことがあっても約束するから。
本当に、汐斗くんと過ごせた日々は、特別だった。もちろん、その時間全部が楽しいわけじゃなかったけど、全てに意味があると思えた日々を送れたのは本当に久しぶりでした。本当にありがとう。ありがとう。ありがとう……何度も言うよ。何度言っても、多分続いてしまうよ。終わりなんかないよ。
そんな私が感謝してもしきれない汐斗くんの病気が完治に向かっていること、本当によかった。それが、私の夢だった。最後にその夢を見ることができて、私はすごく嬉しかった。汐斗くんがその姿でこの世界を創ってるところを見られないのは、少し残念だけど、そうだと願っています。でも、どこにいても、ちゃんと見てるから、悲しまないでください。私が言えることじゃないけど、君には自分の人生があります。その人生を輝かせてください。ずるいぐらい幸せになってください。私ができなかった分まで。約束してください。私の分まで生きてくれることが、たぶん汐斗くんと出逢えて一番よかったと思う瞬間になるんだと思います。こんなにも、失いたくない人、離したくない人、初めてだったよ。
最後に一つ。もしかしたら、これは書けないかもしれません。そしたら、ごめんなさい。でも、私はそのことをどこにいても思ってます。汐斗――
君との日々はずっと忘れない白野心葉より
PS さよならじゃないからね、信じてる。今までありがとう。私の人生はこれで終点です』
私の書いた文字はどう、汐斗くんに届いているんだろう。
自分の想いは届くんだろうか。
どこにいても、きっと汐斗くんなら私の想い、感じ取ってくれるはずだ。
でも、まだあのことは書けなかった。手紙の最後の部分、書けなかった。汐斗――の続きが。書けなかった。
「こ、こ、は……」
私の名前を汐斗くんは噛み締めながら、その手紙に書いてあることを感じ取りながら、どんな声よりも美しい声で言った。でも、汐斗くんは泣いてなかった。たぶん、こんな私の前で泣いたら……とでも思ったのだろう。
「最後のってさ……いや、無理ならいいや。ごめん。本当に、ありがとう。でもさ、泣くギリギリにいるんだ。こんなにこらえなきゃいけないの、初めてだよ……」
やっぱり、そこが気になってしまったか。最後に書けなかった部分が。何を伝えようとしていたのか。
汐斗くんはその手紙を私の近くにそっと置いてくれた。
私は本当は、この手紙で汐斗くんを泣かせたかった。でも、汐斗くんは泣いてくれなかった。私のために心から泣いてほしかったけど、泣いてくれなかった。あの時みたいに泣いてほしかった。
気を遣わなくてよかったのに……。何でだよ……。
「僕はもっと心葉のことを知りたいし、一緒に笑いたいし、見守りたいし、お互いを成長させていきたい……僕は明日を見えるようになって、心葉は明日を創りたいと思えるようになって……だから、終点じゃなくて、ここがお互いの始まりなんじゃないか。見つけた始まり、簡単になかったことにはできない。心葉、言ってなかったけど、辛いながらも一生懸命に生きる君は、僕の世界を変えてくれた。僕も憧れだったよ……。憧れの人がいなくなったらどうするんだよ」
汐斗くんが私を泣かそうとしてくれる。でも、泣いたら負けだ。こらえたくないのに、こんなにもこらえなきゃいけないのは初めてだ。
じゃあ、私は最後に君に泣いてもらうために、力を振り絞ろうかな。私が勝とうかな。負けたくないもん。君は嫌かもしれないけど、泣くという最後のプレゼントを渡そうかな。でも、もう声は厳しい。だけど、腕は少し動く。その腕を使って私は、近くに転がっていた唯衣花からもらったピンク色のペンを取る。これも、大事にできなくてごめんね、唯衣花。そして、海佳ちゃんもさよならを言えなくてごめんね。私を支えてくれたのに。
いや、このボールペンは大事にできないわけじゃない。私が本当に伝えたいことを書く時に使うんだから……。
――皆、こんな私で本当にごめんね。
私は、そのピンク色のボールペンで、あのときは書けなかった汐斗――の続きを書く。今なら書ける。伝えたい。伝えるのならもう今しかない。私の最後がこれで終われたら、きっとこの世界で一番幸せなんだろう。だって、最後まで君のことを思えるんだから。
私は、ある文字を汐斗――の続きに書いた。崩れた文字で――最後に伝えたかった、たった2文字の言葉を。そのピンク色の文字が太陽の光で表すことのできないぐらいに輝いた。
『すき』
その瞬間、汐斗くんの泣く大きな声がした。
「心葉、まだ終わっちゃだめだろ、まだ約束の時間、終わってないんだから!」
そう叫ばれた。本当に大きな声だった。その文字に汐斗くんの綺麗な雫が落ちた。私からも気づけば雫が垂れていた。この世界がその雫のせいで美しく見えた。いつかその雫だけで小さな水たまりができるんじゃないだろうか。
それから、私は瞳を閉じた。これが、最後の力だったみたいだ。でも、幸せだった。
――こういう最後でよかったよ。最後は、引き分けだったね。
汐斗くん――私の世界を最後まで変えてくれて本当にありがとう。最後に恋して終わったんだな。終わることが出来たんだな。