「……」

 真姫は崩壊していく桐ヶ谷を黙って見続けている。この寒空の下、誰もいなくなった山中に、荒くなった俺の息だけが静かに響く。突風が俺の体温を奪っていく。

「暮人……」

 横たわる俺の方を振り返った彼女は泣いていた。どんな感情で泣いているかは分からない。彼女の何かに絶望したような表情からは、一つの感情は読み取れなかった。その涙にはきっと様々な感情が込められているのだろう。

「真姫……大丈夫か?」

「暮人には言われたくないよ?」

 俺はぎりぎりの声でなんとか彼女の名前を呼ぶが、真姫に笑われてしまった。酷いもんだ。

 真姫の体から生えていた触手達は、うっすらと虚空に溶けて消えていった。彼女は軽くなった体で俺の元に駆け寄り、膝を落とす。そうして仰向けに横たわる俺の頭を持ち上げ、自身の太ももに優しく乗っけた。

「何……してんだよ?」

「絶対死なせないから!」

 真姫は俺の質問には答えず、そう力強く宣言する。宣言した後、彼女は身動きの取れない俺に顔を近づける。彼女の顔が俺の顔に影を落とす。真姫の唇がゆっくりと確かに俺の唇を塞いだ。

 真姫の唇の感覚に体が震えるのを感じる。長い長い優しい接吻。最初はもう死んでも良いかも知れないと思ったが、長いキスの最中、だんだん名残惜しく……生き延びたいという思いが強くなる。これが真姫の狙いなのかな? 俺はぼんやりとした頭でそう思う。

 桐ヶ谷達に撃たれた時点で、俺は生き延びることを内心諦めていた。現実問題、ここから最寄りの病院まで移動できるとも思えなかったし、こんな山奥では救急車も来れない。俺は確実に死ぬ。そう思えて仕方がなかった。

 しかしそれとは別に、現実とは違うところで、ここで死ぬのも何かの因果なのだろうと納得している自分がいた。あれだけ我儘を貫いて、数多の人々を犠牲にして好きな人と共に生きてきた。その報いなのだろうと……そう思っていた。ここで死ねば因果応報、自分が犯してきた罪に対する贖罪になるだろうと、そう思っていたのだ。

 だけど真姫には、俺の胸中なんて筒抜けだったわけだ。真姫はわざと俺を甘やかし、生きたいと思わせた。生きようとしない者を救うことは出来ない。そんな彼女の気持ちが、唇を通して伝わってくる。

「ねえ、そこで見てるんでしょ? 出てきたら?」

 真姫は俺に膝枕をした状態で、後ろの御神木に話しかける。すると御神木がゆらりと捩じれたかと思うと、御神木は再び星の使徒の姿に変わっていた。

「何か用かな? 進化を果たした変異種の娘」

 その声は聞き馴染みのある声だ。さっきまで俺達と会話をしていた星の使徒のオリジナルだ。それにしても進化した変異種か……真姫のあの姿は進化なのか。

「私のあれは進化なのね? 今は意図してもあの触手は出ないけど?」

「まだそこまで変貌してはいない。逆に意図的にあれを出せるようになったら、いよいよ人間卒業だ」

「そう。じゃあ私は今のままで良い。私は人間でいたい。人間のまま暮人のとなりで生きていたい。彼と共に歩んでいきたい」

 真姫は自分に言い聞かせるように、何度も繰り返した。一瞬真姫が、人間では無くなってしまうのではないかと恐れた俺は、ようやく安堵した。安堵したと同時にあまり時間が残されてないことを実感した。俺は普通の人間だ。特別な能力など何もないのに、自分の最後が近いことは分かるみたいだ……。

 神様とやらは残酷だな。無能なら無能らしく、最後まで実感せずにいたかった。

「だから、暮人を生き返らせて! 私を十年前に救ったみたいに! 貴方達なら出来るでしょう?」

 真姫は今までに聞いたことが無いほどに憔悴した声で、顔で、縋るように星の使徒に懇願する。あまりの必死さに星の使徒も固まってしまった。

 それにしても俺を生き返らせるか……確かに可能かも知れない。そもそも十年前に真姫が死にかけた時だって出来たのだから。

 産まれた時から変異種だった真姫は、当時星の寿命の過剰摂取によって死にかけていた。しかし星の使徒が何らかの処置をして生きながらえた。

 正しく星の寿命を吸収出来るようになった彼女の回復能力は凄まじく、星野厳正に銃で撃たれた時もしばらくの時間を必要としたが、勝手に蘇生してしまった。

「それは……錦暮人を変異種にしろということか?」

 固まっていた星の使徒がようやく口にしたのは、そんな言葉だった。

「出来るの?」

 真姫はなりふり構わないといった様子で詰め寄る。

「本当はやるべきではない。この星の事を考えたら、人類の事を考えたらやるべきではない。十年前の君の時は、元々変異種だから今死にかけているそこの少年に尋ねたのだ。彼女を救うか世界を救うかを……だけど今回は違う。錦暮人は変異種ではない。今ここで彼を変異種にするのは完全にこちらの意志によるものとなる」

 星の使徒は淡々と説明をした。本来変異種は生まれつきだ。それが真姫であり、今ここで死にかけている俺は違う。

 だから俺を変異種にするのは可能だが、やるべきではない。なるほど……至極まっとうな考えだ。これ以上変異種を増やしてしまえば、人類はさらにその数を減らすことになる。

「理屈はいいから! 早く暮人を助けて!」

 真姫は泣きながら必死に懇願する。どうなっても良いから早く俺を救済してくれと懇願する。

「我々の総意としては、錦暮人を変異種にするのは反対だ」

「そんな……」

 真姫の顔が絶望に染まる。瞳から光を失い、星の寿命を吸い続けているはずなのに、生気が抜けていくように見えた。

「真姫……もう良いよ。俺は、もう。十分生きたよ。これは我儘を突き通して生きたツケだ」

 なんとかそれだけを言葉にした。他者に犠牲を強いて生きて来たんだ。その順番が回って来ただけ。真姫には悪いけどもう……。

「暮人は私を置いていなくなるの? こんな化け物になった私を、一人残して先に楽になるの?」

 真姫は静かに涙を流しながらそう問いかける。俺に問いかける。俺の選択が間違っていると指摘してくる。

 そんな彼女の顔をぼやけた視界で眺める。彼女の濡れた瞳を見る。彼女の柔らかい唇を見る。彼女の子供のように泣きじゃくる表情全てを見る。

 こんな彼女を置いて俺は先に逝くのか? 出来るのか? その覚悟があるか? 十年前の教室に戻った時、真姫は泣きじゃくる当時の俺を見て自殺を考え直した。その決断の意味がようやく分かった。

 これは無理だ。抗えない。自分がいなくなることで愛する人がどうなってしまうのか、それを考えた時、簡単に選べない。自分の死を許容できない。死ねない。死んでいられない。俺は真姫を生かす選択をしておいて、自分はおさらばか?

「ちゃんと責任とってよ……」

 真姫が震える声でダメ押しをする。

 「責任をとってよ」か……本来は違う場面で使う台詞のはずなのだけれど、俺達の場合は今がお似合いか。そうだな、ここで俺だけ死んで逃げるのは無責任ってものかも知れない。やっぱり真姫には敵わないや……。

「分かったよ真姫……俺は諦めないから……だからそんなに泣くなよ。俺は真姫の涙を見たくて、君を選んだわけじゃないんだぜ?」


 気づいたら俺はそう答えていた。