「月をお戻しできる伝説の仙女が現れたそうだ!」
「これで国も安泰だろうて」
「陛下の寵愛も厚く、目に入れても痛くないほど愛おしまれているようだ」
「御子を授かる日も遠くはなかろうて」
「いったいどれほど貴きお方なのか……」


「月鈴様あ、耳を塞いでも噂話は消えませんよお」
「だからって、平然と聞き流せる度胸は私にはありません!」

人の噂は早いと聞くけれど、瞬く間に宮殿を二周三周する頃には護り兎から伝説の仙女にまで話が飛躍していた。兎とはいえ跳び跳ね過ぎだし盛り過ぎだ。
仙女と聞いて人々が想像するのは、この世のものならぬ絶世の美女だ。ため息ひとつで国を傾け、指先ひとつで宇宙を回す。
皇帝陛下の信頼と寵愛を一身に受ける仙女が、舞と楽で月を呼び戻す儀式を行うという噂を聞いて、もう私の頭は許容範囲を超えてしまった。
自慢では無いが、楽も舞も素養はない。
ただでさえ護り兎と祭り上げられて目が回っているのに、こんな催しのことまで聞いたら噂だけでぺらぺらになるほど潰れてしまう。
だから日課の散歩ですら耳を強く塞いでいる訳だけど──

「あっ、月鈴様。香貴妃です」

翠花に小声で耳打ちされて慌てて膝をつく。先日初めてお会いした時のように、何人もの侍女を引き連れた香麗様がこちらへ歩いてきた。いくつもの衣擦れがざわめいてしんと止まる。

「ごきげんよう」
「香麗様にはご機嫌麗しく」

まだ彼女が立ち去る気配はない。そこで、先日庭院で見つけた櫛を思い出した。

「大変お待たせ致しまして申し訳ございません。かの櫛を見つけましたのでお渡しさせて頂きたいのですが」
「……櫛?」
「ええ。玉の嵌め込まれた兎の意匠の……」

よもやお忘れなのか、あんなに自慢げに話していたのにと訝しみつつ懐から取り出す。手巾を開いて掲げれば──ぱん、と乾いた音がして耳が熱くなった。

「泥棒! 護り兎の証であるわたくしの櫛を盗んで兎を騙った不届き者め! あやしげな術で陛下まで惑わすとは言語道断!」

平手打ちされた衝撃で倒れ込んだ私を、武装した女兵がたちまちぐるりと取り囲む。

「この者たちはわたくしの言うことしか聞きませんの。さ、この罪人を連れてお行き」
「なっ……」
「なに言ってるんですか! その櫛は貴方が見つけろって月鈴様に頼んだものでしょう!どんな怖い思いであたしたちが暗い庭院を探したか!」

言葉を失った私に代わって反射的に食ってかかった翠花に香麗様の視線が移る。次の瞬間、翠花の小さな体が張り飛ばされて柱に打ち付けられた。
呻き声もあげられず倒れ伏した翠花に私兵が棒を振りかざす。

「やめてッ!」

鈍い打突音と共に翠花の体が無言で跳ねる。
頭の中が真っ白になって、夢中で立ち上がって転びざまに翠花に覆いかぶさった。
肩に、背中に、火がつくような痛みが走る。

「あら、泥棒でも仲間は大事なのね」
「翠花、は……関係ないでしょ」
「なんて生意気な口を利くのかしら。月から降りた伝説の仙女? こんなちっぽけな小娘が? 笑わせないで。わたくしこそが陛下の寵愛にふさわしい月の仙女。だってわたくしこそが──伝説の体現者なのですもの」

乱れた髪の間で見据える香麗様はあの日と同じように、扇で口元を隠している。
玉よりも爛々とぎらつく大きな瞳。
その奥に縦の三日月が見えた気がして目を見張る。
そうだ。櫛を見つけた場所には牌坊があった。牌坊は結界。近づく者は阻まれる。
伝説の真実を知る者の導きなくば近寄れない。

月を祀る帝。
月を護る兎。

そして──月を奪う、金華の猫。

みゃあお。

金色の瞳孔が縦に歪む。
あの櫛を見つけた時「失くされたモノの声」はしなかった。
すべて仕組まれていたのだと気づいた時には、遅かった。