苦しい。痛い。
鼻の奥がつんとする。見開いた目が閉じられない。
真っ逆さまに沈んでいく私の目の前で、ごぼごぼと泡立つ空気が次々と浮上しては弾けていく。
なんで。どうしてこんなことに。
苦しい。衣がまとわりついて動けない。
誰かが池に落とした髪飾りを探すために潜ったことはあったのに。

みゃあお。

水面から見下ろす猫が笑っている。
そのしたり顔が憎々しくて顔が歪む。
真下から照らされているその顔は、猫と呼ぶには陰影のせいか余りにも禍々しい。

照らす?

そうだ、あの光は何なのだ。
夜を照らすものといったらただひとつ。
だけれど、ここには有り得ないもの。
水底からごぼごぼと湧き上がるのは空気ではない。手に、髪に絡んでは、ねっとりと重たい質感を残して上昇していく。

あれは──月だ。
泉に沈んだ月が、妙薬を噴き上げ続けている。

猫。月。泉。秘薬。
ぐるぐる回って渦を描いて沈んでいく。
これがお伽話なら猫ではなく兎だな、と突拍子もないことが浮かんではぼんやりと思考に溶けていく。
瞼の筋肉が弛緩し始める。
これは本当にまずいと思いながらも目を閉じかけた時──物凄い力で体と意識が引き上げられた。

「莫迦者! ここで何をしている!」

一気に入ってきた空気と音に息が止まる。それも一瞬のことで、即座に体は反射的に咳き込んで酸素と世界が戻ってくる。
濡れた土の匂い。泉の縁に打ちつけたのか足が痛い。鼻の奥が焼けそうだ。
草むらに転がされて息も荒く呻いていると、誰かが背中をさすってくれた。

「違うのです! 月鈴様は香貴妃に頼まれごとをされて仕方なく此処へ」
「如何なる理由があろうが泉に落ちる頼まれごとなどあるか! ここの封印は厳重だったはず、何の用があって──」
「ねこ、が」

翠花に寄りかかりながら体を起こす。
怒鳴り声の応酬がぴたりと止んだ。

「……今、何と申した」

低い声が上擦っている。ここで務める宦官の声はひと通り聞いたことはあるのに、この声は聞いたことがない。
目が上手く開けられないまま、頭に巡る言葉をそのまま口に出す。

「猫が、泉に。月が沈んでいて、妙薬が湧き出てくるのです。どろどろした薬を猫が欲しがって私も……吸い込まれました」

自分の説明を傍から聞いていたら気でも違ったかと思うだろう。低い声の主は明らかに狼狽しているようだ。呼吸が乱れている。

「月鈴様、お可哀想に。混乱してらっしゃるのですね。そこの御方。貴方がどなたか存じませんが、お部屋にお連れするのを手伝ってはくださいませぬか? 助けるなり怒鳴りつける覇気がございますなら、月鈴様のお体など軽々運べましょう」

翠花の声が怒気に燃えている。後宮ではすぐ感情を声に乗せるのは命取りだといつも言っているのに。

「──……ああ、連れて行こう」

強い力で腕を引っ張り上げられ、体全体がぐらりと傾ぐ。頭が重くて垂れ下がりそうだったが、頸が折れる前に俯く形で落ち着かされた。
横抱きにされているのか左側だけが温かい。
歩きだす振動が胸の内をざわつかせて身をよじると、動くなと言わんばかりに抱え込まれる。

「……遂に現れてくれたか。“護り兎”」

真綿のような声がふわりと心地よい。それでも目を開けることはできなくて──顔を見ることは、叶わなかった。