幼い頃より、人の声に混じって聞こえてきたものがある。
意味をなさない雑音混じりのそれが何なのかわかったのは、つい最近──月蝕騒ぎの中で後宮に放り込まれてからだ。
この耳は、人ではないモノの声を捉える。
それも、持ち主から離されたモノが主を探す声だけだ。

後宮に入ったばかりの頃、洗礼とばかりに持ち物を隠された時に、植え込みから自分の筆の声が聞こえた。
翠花の髪結い紐が軒先に吊るされていた時にも悲鳴が聞こえた。
並外れた聴力を得たことに対しての嫌悪感は薄い。
物語で見聞きした花や蝶と語らう公主に憧れを抱いていたけれど、現実はもっと地味で──そして有益だった。
人が集まる場所ではモノも集まり、そして悪意の有無に関わらず、ひょんなことから持ち主の手を離れることも多い。
騒ぎになる前に見つけ出して事なきを得る。もしくは恩を売る。はたまた──
そこで考えを止める。欲をかいては身を滅ぼす元だ。


「あたしが居ない間にまたそんな妙な話を……」

湯船の外に膝をついた翠花がやれやれと首を振って湯を掬う。
肩に掛けられた湯がとろりと肌をすべり、先程の木登りでついた傷にしみたが目をつぶってやり過ごす。こんなことには慣れている。
時間さえ厳密に決められていなければ沐浴は好きだ。気分がすっきりする。

「だってお断りできないでしょう。あの御方……そう、香麗様。なかなかのご身分とご気性であらせられるわ。義母の商館と繋がりがあるとも聞いているし……そういう方と繋がりがあれば、何かの足がかりになるかもしれない」
「そりゃあ押しも押されぬ香貴妃でいらっしゃいますもの。なかなかの才媛と聞いております。ですが良くない噂もございますよ」
「……それはまあ、そうね。信頼を得るに値する御方かどうかは、私自身が判断しないといけないわ」

ふう、と大きく息をついて手の甲で顔に跳ねた飛沫を拭う。翠花が慌てて手拭いを差し出した。それを受け取りながら振り返る。

「この後、こっそり庭院に行くつもり。一緒に来る?」
「もちろんお供しますとも! なんのために沐浴したかわからなくなるほど泥だらけにならないように気をつけましょう!」

ぐっと拳を握る翠花に元気づけられて湯船から立ち上がった。



暮れなずむ庭院は木々の影があやかしのように蠢いてあまり気分が良くない。心なしかモノの声の聞こえも悪いような気さえしてきてしまう。

「月鈴様……や、やっぱり帰りません? 明日探しましょうよ」
「だめよ。時をかければ良い結果が出るとは限らない。それに──何か感じるの」
「声、ですか?」

お供のくせに私の背中にぴったりくっついて裾を離さない翠花の声が震えている。
それとは逆に、私は自分が今までになく高揚しているのを感じている。
その証拠に、まだ櫛の声が聞こえていないのに、自分の足は何処へ向かうか知っているように、勝手に体を導いている。

「声……とは違う気がするけど、わからない」
「あのですね月鈴様、先程沐浴の片付けの際に耳にしたのですが、もしかしたらこの失せ物自体が謀り事かもしれなくてですね……あたし聞いたんです。香貴妃の侍女らしき子が、月鈴様のことを胡散臭い道士崩れと言って、まやかしの術で陛下に取り入るために物を盗んでは探し出している自作自演の悪党ではと……ああ言っちゃった!」

後ろで翠花がひとりで赤くなったり青くなったりしているらしいけれど、話の半分も頭に入ってこない。

聞こえる。
櫛の声ではない。

「月鈴様、この牌坊の向こうはきっと立ち入り禁止ですよ、こんな石造りのがっしりしたもの、そうそう見たことありません」

翠花を振り切るように足を早める。確かに目の前には牌坊がどっしりと行く手を阻むように建っている。何か古い字が掘られているようだけれど、暗くなってきた今ではもう読めない。
駆け足でそこを通り抜ける。あまり手入れがされていないのか、繁ったままの草木が足にまとわりつく。
こんなの足止めのうちに入らない。私は縁の下にもぐりこんで人形を見つけたり、木に登って手巾を取り戻してきたのだ。
翠花の声が小さくなっていくのは距離が離れているからなのか、私が彼女の声を認識できなくなっているのか。
突き出した木の枝が頬を掠める。
日が落ちた空はどんどん闇と自分の境界が曖昧になる。
耳の奥で血が巡る音と自分の息遣い、そして耳飾りが急かすようにりんりんと鳴る。
先程よりも一段と小さな牌坊を身を屈めてくぐる。
小さく白い花を舞わせる銀木犀に囲まれたその先に──石に囲まれた泉があった。
駆けてきた足がぴたりと止まる。
もう案内の用はないだろうと言わんばかりだ。
ここからは自分の意思で進めということなのか。
とくとくと聞こえるのは泉の湧き出る音だ。
水源が近くにあるらしい。
深呼吸をひとつして石造りの縁に手を乗せ覗き込む。苔むした表面がやわらかく手のひらをくすぐった。水底から突き上げるように波紋が同心円状に生まれては消えを繰り返している。
夜空を映した黒い水面にきらりと何かが明滅する。

「猫の目?」

何故こんな所に、と疑問に思う間もなくみゃあおと誘うような鳴き声が湧き出て水面を揺らす。泉いっぱいに顔が広がったかと思うと、みるみるうちに暗かった水面が水底から照らされているように銀の光に覆われだした。
一面の銀の波紋に揺れるのは、異質な金色にぎらつく縦の三日月。やはりあれは猫だ。
泉の中に居ること以外はただの猫であるそれは、欠伸でもするように大きく口を開ける。波紋が引き絞られるように吸い込まれて消えていく。

みゃあお。

金色の瞳が爛々と鳴いて──誘い込まれるように私も泉に引き込まれた。