《助ケテ、助ケテ》
《早ク、ゴ主人様ノ所二帰シテ》
耳の奥に鳴り響く声に急かされて右手を伸ばす。
跨った枝から落ちないようにと左手は根元を握りしめている。枝先になるにつれて細くなるそれは、どこまで体重をかけられるか見極めないと真っ逆さまの大惨事だ。
年頃の娘──ましてや嬪の立場なのに脛も露わに木に登って枝に跨るなんて、義母が見たらどんな顔をするだろう。
目を背けはしない。寧ろあの目はしっかりとこの醜態を捉えながら、袖で隠した口元を笑みで歪ませているはずだ。
──まああ。なんて勇敢なのでしょう。ほうら見ておやり。貴方の義姉様は、はしたない真似が上手なのですねえ。
──お母様ったら物好きねえ。わたくし、大道芸人には興味がなくってよ?
義妹と共にくすくす笑いながらも立ち去ろうとはしない。ねっとりと息詰まる視線に晒されるのは慣れっこだ。
私だって好きで木登りしている訳では無い。
右手を伸ばした先、細い枝の先ではためいているのは義妹が失くした手巾で──
「月鈴様! あと少しですわ!」
地上から気付け薬のようにかけられた声のおかげで、巻き戻った時が急速に流れ出す。
そうだ、下にいるのは義母でも義妹でもなく、私付きのただひとりの侍女。そして私のお役目は貴妃が失くされた手巾を──
そこでつむじ風が吹き荒れた。頼りない枝先は今にも手巾を手放しそうだ。ここで逃したら次は何処から声が聞こえるかわからない。
右耳に残された耳飾りが勇気づけるようにりんと鳴って頭が冴える。
覚悟を決めて、身を乗り出した。
「お探しの手巾はこちらでございましょうか」
差し出した手巾を妃の侍女が受け取り、ためつすがめつ眺める。施された刺繍にようやく納得したらしく、己が仕える主へと恭しく献上した。
泥を知らない白い指がそれを摘む。
「……お上手、ね」
そのひと言だけ残して妃は背を向けて立ち去った。傅いていた侍女達がそれに続く。
「……なんですかもう! 月鈴様がどんなに大変な思いをして──」
憤慨した侍女の翠花が不満を滔々と垂れるのを手で制す。素直で聡明な彼女だが、お喋りが過ぎるのが玉に瑕だ。
「部屋に戻りましょう。少し、疲れたわ」
遙か昔、月に棲む兎が秘伝の薬壺を倒してしまった。
とくとくと流れ出たそれはやがて月の大地をすっかり満たし、溢れた妙薬は箒星に乗って地上にまで伝い降りた。
慌てた兎も転がり落ちて、薬の上を跳ね回る。そうして踏み固められた薬が大地になった。
幼い頃に聞かされた建国のお伽話が真実だとするならば、私達は、月の加護を踏みしめて暮らしている。
先代の皇帝陛下が崩御されて国が乱れた。
しかしあるひとりの青年が後ろ盾を得て即位する。
諍いの世を捨て、手を取り合い国を発展させていこうと希望に満ちた演説を響かせた彼だったが──この若き帝の治世は前途多難なようだ。
ある夜を境に、月は空から姿を消した。
朔も、弓張も、望もなく、空には月の欠片にも満たぬ光しか持たぬ星々が溜息とともに撒き散らされているばかり。
月の妙薬から成る国土が荒れるのは、当然と言えば当然か。光を失った夜空の下で人心は乱れ出す。
いかにして月を取り戻すべきか──新帝とその優秀な側近達は、今も頭を悩ませている。
「気持ちを落ち着かせる薬湯です」
「ありがとう」
広い広い後宮の外れの狭い一角に私の住まいがある。
嬪とは言え、さしたる後ろ盾も持ち得ぬまま入宮した私には似合いの設えだそうだ。
最低限の手入れだけ済ませた艶のない黒い髪に何の変哲もない黒い瞳。木登りなんぞしているせいで肌には生傷が絶えないし、肌身離さず身につけているのは母から受け継いだ乳白色の耳飾りの片割れだけだ。
侍女とそう変わらない装いしか出来ぬのだもの、この扱いも然りだろう。
「薬湯を済まされても少し休んでから沐浴しましょうか。あんなに高い木に登られたんですもの! あたしなんてまだ胸がざわざわ致します」
胸に手を当てて大きく深呼吸している翠花の気遣いは有難いけれど、首を横に振る。
「駄目よ。決められた時間は守らないと。律を乱しては貴方まで罰を受けるわ」
「そうですかあ……毎夜、皇帝陛下は後宮にいらっしゃるけれど、どうせこちらにはお渡りなどありませんのに。こういうの杓子定規って言うんですよね。あっいけない、また喋り過ぎてしまいました!」
そそくさと一礼して、翠花は沐浴の支度を整えるために部屋を出ていった。
碗を両手に持ってぐいと呷る。苦味が口じゅうに広がらないように舌をすぼめて飲み干した。
そう。帝は毎夜、後宮通いを欠かさない。執務にもそちらにもお励みとは熱心なことで、と口さがない輩の陰口を聞いた事がある。
それについてはどうとも思わない。世継ぎを儲けるのはお役目でもあるし、そのために私たちは後宮に集められたのだから。
しかし未だどなたにもご懐妊の兆しはないそうだから、とんと実にならぬことばかりお好きな色狂いの月狂い──とも言われていることには流石に眉をひそめざるを得ない。
世の中すべてが思い通りになどなるはずがない。それは皇帝陛下でも市井の民でも同じことだ。
しかしどんな因果があろうが、空にあるものはそこになければならぬのだ。
当然とも呼べる理を失った都は歪んでいる。占わずして凶兆と断言する占師。飛び交う飛語は聞くに絶えないものばかり。
いくら御子を宿せば一族の地位も確たるものになるとはいえ、そんなところに愛娘を遣りたい親はそういない。
今の後宮は二極化している。
この混乱に乗じて帝に取り入り、成り上がらんとする野心に燃える妃。
様々な事情により入宮するしかなかった肩身の狭い妃。
もちろん、私は後者だ。
前帝の臣下とはいえ中枢にまでは潜り込めず、皇位継承の後見争いを指を咥えて見ているしかなかった半端な官吏が、その気の弱さを慰めてくれた妾に産ませた娘。
それが私、桂 月鈴なのだから。
父の正妻は気の強い人で、実家も代々続く商館だ。機を見る才はあるようで、彼女の娘──私には義理の妹にあたる──を入宮させると息巻いていたが、月蝕が起きたことで即座に方針を変えた。
わざわざ不吉な皇城に愛娘を送らずとも、より手近で確実な縁談を掴ませて富を得る。
そして捨て駒である私を入宮させて臣下としての対面を保たせる。後宮で私の身に何があったとしてもお構い無しだ。
そして万が一──これは本当に万が一なのだが、私が帝の寵愛を得たとしたら万々歳だ。これ見よがしに寵姫の親族だと、鼻息荒く父を出世街道に押し込むだろう。
どちらに転んでも義母は損をしないのだ。この肝っ玉と図々しさを父が持っていたら、と優しいばかりの細い背中をなじったこともあったが、今はそんなことはどうでもいい。
私は、ここで生きていかねばならないのだ。
そのためなら顔も知らない帝より、日々顔を合わせる身分高き妃達のご機嫌伺いをせねばならない。
そのための武器が──この耳だ。
かたんと扉が動いた。翠花かと思い目を向けると、見知らぬ侍女達を引き連れた妃が立っている。扇で口元を隠しているが、大きな瞳から発せられるまなざしがぎらぎらとこちらを焼くようだ。
「貴方の噂を聞いたの。わたくしのお願いも聞いてくださる?」
急いで椅子から降りて頭を下げる。
私に、断る理由などないのだから。
翠花に状況を伝える間もなく連れ出された先は庭院だった。
「わたくし、この髪が自慢なの」
香麗様と名乗ったこの方は悩ましげに首を傾げる。結い上げられた黒髪がしなやかに揺れた。
「お気に入りの櫛があってね。月を愛でる陛下のお気に召すようにと、兎の意匠を凝らしてあるのよ。嵌め込まれた玉が陽の光に照らされて宝珠のよう」
夢見がちに語る彼女の後について歩くと、整えられた木立が段々と自然の有り様に任せた──言うなれば野放図な一角にさしかかる。そこで香麗様は足を止めた。待ち構えていたかのように烏がひと声鳴く。
「最近、烏が増えてきたわ。縄張り争いでもしてるらしく気が立ってるもの。光るものに目が無くって節操がないのよねえ……」
一羽だった鳴き声が次第に重なり、厚みを増した濁り声を響かせる。仲間への鼓舞か、はたまた敵への威嚇か。
開いた扇の向こうで、まだ見ぬ玉より爛々と光るまなこがこちらを見た。
「その兎、必ずやその御髪に舞い戻らせてみせましょう」
両膝を着き目を伏せる。ここからはこの耳だけが頼りなのだ。
幼い頃より、人の声に混じって聞こえてきたものがある。
意味をなさない雑音混じりのそれが何なのかわかったのは、つい最近──月蝕騒ぎの中で後宮に放り込まれてからだ。
この耳は、人ではないモノの声を捉える。
それも、持ち主から離されたモノが主を探す声だけだ。
後宮に入ったばかりの頃、洗礼とばかりに持ち物を隠された時に、植え込みから自分の筆の声が聞こえた。
翠花の髪結い紐が軒先に吊るされていた時にも悲鳴が聞こえた。
並外れた聴力を得たことに対しての嫌悪感は薄い。
物語で見聞きした花や蝶と語らう公主に憧れを抱いていたけれど、現実はもっと地味で──そして有益だった。
人が集まる場所ではモノも集まり、そして悪意の有無に関わらず、ひょんなことから持ち主の手を離れることも多い。
騒ぎになる前に見つけ出して事なきを得る。もしくは恩を売る。はたまた──
そこで考えを止める。欲をかいては身を滅ぼす元だ。
「あたしが居ない間にまたそんな妙な話を……」
湯船の外に膝をついた翠花がやれやれと首を振って湯を掬う。
肩に掛けられた湯がとろりと肌をすべり、先程の木登りでついた傷にしみたが目をつぶってやり過ごす。こんなことには慣れている。
時間さえ厳密に決められていなければ沐浴は好きだ。気分がすっきりする。
「だってお断りできないでしょう。あの御方……そう、香麗様。なかなかのご身分とご気性であらせられるわ。義母の商館と繋がりがあるとも聞いているし……そういう方と繋がりがあれば、何かの足がかりになるかもしれない」
「そりゃあ押しも押されぬ香貴妃でいらっしゃいますもの。なかなかの才媛と聞いております。ですが良くない噂もございますよ」
「……それはまあ、そうね。信頼を得るに値する御方かどうかは、私自身が判断しないといけないわ」
ふう、と大きく息をついて手の甲で顔に跳ねた飛沫を拭う。翠花が慌てて手拭いを差し出した。それを受け取りながら振り返る。
「この後、こっそり庭院に行くつもり。一緒に来る?」
「もちろんお供しますとも! なんのために沐浴したかわからなくなるほど泥だらけにならないように気をつけましょう!」
ぐっと拳を握る翠花に元気づけられて湯船から立ち上がった。
暮れなずむ庭院は木々の影があやかしのように蠢いてあまり気分が良くない。心なしかモノの声の聞こえも悪いような気さえしてきてしまう。
「月鈴様……や、やっぱり帰りません? 明日探しましょうよ」
「だめよ。時をかければ良い結果が出るとは限らない。それに──何か感じるの」
「声、ですか?」
お供のくせに私の背中にぴったりくっついて裾を離さない翠花の声が震えている。
それとは逆に、私は自分が今までになく高揚しているのを感じている。
その証拠に、まだ櫛の声が聞こえていないのに、自分の足は何処へ向かうか知っているように、勝手に体を導いている。
「声……とは違う気がするけど、わからない」
「あのですね月鈴様、先程沐浴の片付けの際に耳にしたのですが、もしかしたらこの失せ物自体が謀り事かもしれなくてですね……あたし聞いたんです。香貴妃の侍女らしき子が、月鈴様のことを胡散臭い道士崩れと言って、まやかしの術で陛下に取り入るために物を盗んでは探し出している自作自演の悪党ではと……ああ言っちゃった!」
後ろで翠花がひとりで赤くなったり青くなったりしているらしいけれど、話の半分も頭に入ってこない。
聞こえる。
櫛の声ではない。
「月鈴様、この牌坊の向こうはきっと立ち入り禁止ですよ、こんな石造りのがっしりしたもの、そうそう見たことありません」
翠花を振り切るように足を早める。確かに目の前には牌坊がどっしりと行く手を阻むように建っている。何か古い字が掘られているようだけれど、暗くなってきた今ではもう読めない。
駆け足でそこを通り抜ける。あまり手入れがされていないのか、繁ったままの草木が足にまとわりつく。
こんなの足止めのうちに入らない。私は縁の下にもぐりこんで人形を見つけたり、木に登って手巾を取り戻してきたのだ。
翠花の声が小さくなっていくのは距離が離れているからなのか、私が彼女の声を認識できなくなっているのか。
突き出した木の枝が頬を掠める。
日が落ちた空はどんどん闇と自分の境界が曖昧になる。
耳の奥で血が巡る音と自分の息遣い、そして耳飾りが急かすようにりんりんと鳴る。
先程よりも一段と小さな牌坊を身を屈めてくぐる。
小さく白い花を舞わせる銀木犀に囲まれたその先に──石に囲まれた泉があった。
駆けてきた足がぴたりと止まる。
もう案内の用はないだろうと言わんばかりだ。
ここからは自分の意思で進めということなのか。
とくとくと聞こえるのは泉の湧き出る音だ。
水源が近くにあるらしい。
深呼吸をひとつして石造りの縁に手を乗せ覗き込む。苔むした表面がやわらかく手のひらをくすぐった。水底から突き上げるように波紋が同心円状に生まれては消えを繰り返している。
夜空を映した黒い水面にきらりと何かが明滅する。
「猫の目?」
何故こんな所に、と疑問に思う間もなくみゃあおと誘うような鳴き声が湧き出て水面を揺らす。泉いっぱいに顔が広がったかと思うと、みるみるうちに暗かった水面が水底から照らされているように銀の光に覆われだした。
一面の銀の波紋に揺れるのは、異質な金色にぎらつく縦の三日月。やはりあれは猫だ。
泉の中に居ること以外はただの猫であるそれは、欠伸でもするように大きく口を開ける。波紋が引き絞られるように吸い込まれて消えていく。
みゃあお。
金色の瞳が爛々と鳴いて──誘い込まれるように私も泉に引き込まれた。
※
苦しい。痛い。
鼻の奥がつんとする。見開いた目が閉じられない。
真っ逆さまに沈んでいく私の目の前で、ごぼごぼと泡立つ空気が次々と浮上しては弾けていく。
なんで。どうしてこんなことに。
苦しい。衣がまとわりついて動けない。
誰かが池に落とした髪飾りを探すために潜ったことはあったのに。
みゃあお。
水面から見下ろす猫が笑っている。
そのしたり顔が憎々しくて顔が歪む。
真下から照らされているその顔は、猫と呼ぶには陰影のせいか余りにも禍々しい。
照らす?
そうだ、あの光は何なのだ。
夜を照らすものといったらただひとつ。
だけれど、ここには有り得ないもの。
水底からごぼごぼと湧き上がるのは空気ではない。手に、髪に絡んでは、ねっとりと重たい質感を残して上昇していく。
あれは──月だ。
泉に沈んだ月が、妙薬を噴き上げ続けている。
猫。月。泉。秘薬。
ぐるぐる回って渦を描いて沈んでいく。
これがお伽話なら猫ではなく兎だな、と突拍子もないことが浮かんではぼんやりと思考に溶けていく。
瞼の筋肉が弛緩し始める。
これは本当にまずいと思いながらも目を閉じかけた時──物凄い力で体と意識が引き上げられた。
「莫迦者! ここで何をしている!」
一気に入ってきた空気と音に息が止まる。それも一瞬のことで、即座に体は反射的に咳き込んで酸素と世界が戻ってくる。
濡れた土の匂い。泉の縁に打ちつけたのか足が痛い。鼻の奥が焼けそうだ。
草むらに転がされて息も荒く呻いていると、誰かが背中をさすってくれた。
「違うのです! 月鈴様は香貴妃に頼まれごとをされて仕方なく此処へ」
「如何なる理由があろうが泉に落ちる頼まれごとなどあるか! ここの封印は厳重だったはず、何の用があって──」
「ねこ、が」
翠花に寄りかかりながら体を起こす。
怒鳴り声の応酬がぴたりと止んだ。
「……今、何と申した」
低い声が上擦っている。ここで務める宦官の声はひと通り聞いたことはあるのに、この声は聞いたことがない。
目が上手く開けられないまま、頭に巡る言葉をそのまま口に出す。
「猫が、泉に。月が沈んでいて、妙薬が湧き出てくるのです。どろどろした薬を猫が欲しがって私も……吸い込まれました」
自分の説明を傍から聞いていたら気でも違ったかと思うだろう。低い声の主は明らかに狼狽しているようだ。呼吸が乱れている。
「月鈴様、お可哀想に。混乱してらっしゃるのですね。そこの御方。貴方がどなたか存じませんが、お部屋にお連れするのを手伝ってはくださいませぬか? 助けるなり怒鳴りつける覇気がございますなら、月鈴様のお体など軽々運べましょう」
翠花の声が怒気に燃えている。後宮ではすぐ感情を声に乗せるのは命取りだといつも言っているのに。
「──……ああ、連れて行こう」
強い力で腕を引っ張り上げられ、体全体がぐらりと傾ぐ。頭が重くて垂れ下がりそうだったが、頸が折れる前に俯く形で落ち着かされた。
横抱きにされているのか左側だけが温かい。
歩きだす振動が胸の内をざわつかせて身をよじると、動くなと言わんばかりに抱え込まれる。
「……遂に現れてくれたか。“護り兎”」
真綿のような声がふわりと心地よい。それでも目を開けることはできなくて──顔を見ることは、叶わなかった。
何かが聞こえる。
モノの声ではない。
「……しょう、ああ、まさか…………なんて!」
ぱたぱた、バタバタバタ。
これは翠花の足踏みだ。
焦る時に走り回る癖のある彼女の、精一杯の静かな動揺だ。
たくさん心配をかけてしまって申し訳ないのだけれど、うまく体が動かない。
よほど疲れているのか自室の寝具がいつもより快適に感じる。ふかふかの綿が詰まったあたたかな布団にさらりと肌触りのいい敷布。
枕の高さも絶妙な塩梅で、これは眠くなくとも寝てしま──
「まさか皇帝陛下だったなんて!」
途切れ途切れだった意識がきゅううと引き絞られて凝縮した。反動で目の前がぱっと弾ける。
夜明け前の薄明かりでもわかる高い天井、広い室内。見たことの無い煌びやかな装飾の数々。目に映る何もかもに混乱して呼吸が浅くなる。
そんな私に気づいたのか、翠花が寝台に乗り上げて覗き込んできた。
「月鈴様!」
「翠花!」
いつもならはしたないと窘めるけれど、唯一の見知った顔にどっと安心感が押し寄せるまま身を起こした。
着たことのないなめらかな肌触りの夜着に、まだ湿り気の残る髪が絡みつく。
感極まってお互いにしがみつくように固く抱き合っていると、扉の閉じる音がした。
「これはまた……随分と仲の良い主従であることだ」
突然聞こえてきた微笑混じりの男の声にはっと身を固くする。翠花が素早く私を離すと寝台から離れて膝をついた。
「皇帝陛下におかれましては月鈴様をお連れ頂きましたこと、心から感謝を──」
「良い」
翠花の口上を手で遮った男が近づいてくる。
長い黒髪は結い上げてはおらず、ゆったりとした夜着の上に臙脂の羽織を纏っていた。
まなじりの穏やかさは才気煥発というより温厚篤実といった印象を受ける。
それでも寝室に翠花以外の他人が──それも男が居ることに居心地の悪さを感じていたけれど、それよりも先に問いただすべきなのは。
「…………皇帝、陛下?」
自分の口から出た言葉を聞いて、頭がようやく事実を認識できた。
男が頷く。さらさらとした黒髪が燭台の灯りを受けて夜明けの色に染まっている。
「宇辰……名前くらいは聞き覚えがあるか?」
「ええと……それはもう、はい」
嘘だ。入宮したとはいえお目通りなど叶うものかと鷹を括っていたから、皇帝陛下に関する情報は色狂い月狂いくらいしか仕入れていない。
私の片言の返事を嘘と見抜いたのか緊張ゆえの狼狽と見たか、どちらにせよ皇帝陛下は瞳の奥でふっと笑った。
「まあ良い。そなた、名前は」
「桂月鈴と申します」
「そうか。名までが“兎”なのだな」
ほう、と感心したように息をついた皇帝陛下は寝台脇の椅子に腰掛けると手を伸ばしてきた。親指の腹で目の下あたりを撫でられる。突然のことに面食らって動けない。それでも“兎”とは何のことかわからず恐る恐る問えば、皇帝陛下は翠花に目配せした。彼女が恭しく差し出した鏡を見てみると──
「……え?」
真っ赤な目をした私が映っていた。
病のように白目が充血している訳では無い。
瞳そのものが赤い。これでは本当に兎の目だ。
「え? なに、どうして、これ、わたし」
目が乾くほど見開いて鏡に顔を寄せてみたり、遠ざけて瞬きを繰り返しても何ひとつ変わるはずもなく、どこまでも兎の目をした私が鏡の中で途方に暮れている。
「泉に満ちた妙薬の効果だろう。今までは黒い瞳だったのだな」
大混乱で泣きそうな私とは正反対に、何もかもお見通しといった皇帝陛下はしたり顔で頷いている。椅子に掛けた陛下にもたれるように体を抱きかかえられている、この状況が何なのかも理解できていない。
泉の妙薬で目が赤くなる? 兎ってどういうこと? 私は跳ねもしないし、小さくも白くもない。強いて言うなら耳が良いけれど、兎は失せ物の声を聞いたりしないはずだ。
「へ、陛下。何かご存知なら教えてくださいませ……私に、何が、起きているのでしょう」
縋れるのは皇帝陛下だけ。あまりの心細さに袖を握って見上げれば、陛下は小さく息を飲んだ。
「……ああ、ゆっくり話をしよう。だが今は時が──」
そこで扉の向こうが騒がしくなる。いつの間にか燭台の蝋燭が小さくなっており、窓から射し込む光が強くなっていた。
「朝のお支度でございます」
扉が開く。恭しく手水鉢を掲げた年嵩の女官を筆頭に数人が控えている気配がした。
「──まあ。伽をお命じでしたのね。珍しいこと」
「えっ」
とんでもない勘違いをされて思わず声が上がる。私の声があまりに調子外れだったものだから、女官は眉をしかめてこちらを見た。
「あまり見ぬ顔ですね。こともあろうに寝台を独占してひとり寝こけているとはなんという体たらく。もしや陛下に手数をかけたのではございましょうな。良いですか、後宮に住まうものは猫の子一匹たりとて陛下のもの。駄々を捏ねて気を引こうなど、妓楼の駆け引きめいたものは──」
勘違いを訂正する暇も与えられずに気炎荒くまくし立てられて顔が引きつっていると、皇帝陛下が女官の視線から私を遮るように腕を回す。胸に抱かれるように抱え込まれて、陛下の装束の模様すら満足に見えない。
「そう叱るでないよ。月鈴が怯えてしまう」
そのひと言に、女官が憮然とした。再度口を開きかけたところに皇帝陛下は遮るように言葉を続ける。
「ようやく見つけた兎を、柄にもなく貪ってしまったところでね。この子は嵐の後で怯えているようなものさ」
「えっ」
「駄々を捏ねるというなら見てみたいものだが、そこまでの駆け引きはまだ早い。なに、手ずから仕込むというのも一興だがね。その頃にはお前もこの兎がいかに愛らしいか理解できるだろうさ」
「!?」
勘違いの上に更に誤解を植えつけるようなことを滔々と述べられた皇帝陛下はそこで少し体を離すと、私の頬を包んで顔を挙げさせた。
私にしか聞こえない小声で「合わせなさい」と囁かれ、ここを乗り切る芝居なのだと納得する。顎の痙攣のような頷きで了承を伝えれば、陛下はその夜空のような瞳をすうと細めた。星の瞬きが近づいてきて──唇が、熱くなった。
きゃあと翠花が短く悲鳴をあげる。
唇を擦り付けるようにゆっくりと熱が移動して端をちろりと舐められる。喉の奥で生まれた悲鳴は上唇を吸われて窘められた。
唇と共に言葉も吸い取られてしまった私を満足そうに見下ろし眺めてから、ようやく陛下は顔を離した。
「尊き月華が失われている今、泉より出でたこの娘──桂月鈴こそ、建国伝説に謳われる護り兎に違いない。この愛らしい紅色のまなこがその証よ」
そのひと言で女官の背後に控えていた侍従達に緊張が走ったのが感じ取れる。
「伝説通り、護り兎の資質を備えている。丁重に扱うように」
穏やかながらも重々しく張りのある声で告げられた言葉に、誰が異を唱えられるだろうか。
腕の中で固まりながら、平伏す人々の頭頂部を他人事のように眺めていた。
「──建国伝説は知っているな?」
「は、はい」
「その中での兎の役割は?」
「薬壺を倒して地上に落ちた慌てんぼう……でしょうか」
「はは、まあそういうことになっているな」
あの後、朝の支度のために一度部屋を辞したが、すぐにまた陛下からのお呼び出しがあり馳せ参じた。
庭院をふたりでゆっくりと散歩する。木陰に入ったところで陛下が立ち止まった。
「あれをただの伝説──作り話だと思うか」
「違うのですか?」
「無論だ。本来、兎は粗忽者ではなく英雄とされる。あれは薬を零したのではない。護ったのだ」
お伽話に聞く内容との違いに首を傾げつつ続きを待つ。すると陛下はその表情が予想通りと言わんばかりに話し始めた。
「うんと昔の話だ。金華の地に、月に憧れ恋慕い、月こそ我が命と思い込んだ猫がいた。それは毎夜毎夜、月が出るたびに屋根に登っては月の光を浴び、やがて変化の術を身につけた。手始めに美しい人間に化け、その美貌で数多の人間を騙し苦しめた。それでも飽き足らぬ猫は知恵をつけ、月の源たる妙薬を独り占めせんと、遂には月にまで登ってしまった」
「猫が月に登ったのですか」
「ああそうだ。この猫、妙薬を独り占めせんと月の都を荒らし回ってとうとう薬壺を盗み出す。しかしまだ欲が出たのか、月そのものが欲しくなった。猫は蟇蛙に姿を変えて月を飲み込み始めた」
「な、なんと大胆な」
そこまで執着できるものがあるなんて、ある意味天晴れだ。陛下の淡々とした語り口に惹き込まれて思わず口を挟んでしまったが、無礼とは思われなかったらしく、こちらを見て微笑んでくださった。
「だろう。だが兎は手をこまねいているだけではなかった。あるひとつの壺に月の光を封じ、箒星に乗って壺ごと地上に降りたのだ。その時滴った雫からあの泉が生まれ、国土の礎となった。兎は月の都を離れてもなお月を護る。その魂は輪廻を巡り、力を託せると見込んだ者を護り兎として選ぶのだ。我々月を祀る為政者にとって、護り兎と出会うことは僥倖と言えるな」
ふ、と柔らかく細められた瞳につい顔を逸らす。そんな見つめられ方をされては勘違いしてしまいそうだ。
こほん、と咳払いをして話を戻す。
「……なんて勇敢な兎でしょうか。それで、月はどうなったのでしょうか」
「見ての通りさ」
そこで陛下は頭上を指す。月蝕などなくとも、昼間の空に月は見えない。
「麗しき光の源を失った月は、餡の無い月餅のようなもの。味気ない皮では食う気も起きなくなったのか、蟇蛙は悪戯に食んでは出しを繰り返すだけとなった。これが満ち欠けの由来とされる」
「そんな謂れがあったなんて……どうして、伝説では兎を粗忽者扱いにするのでしょう。こんなに勇敢なのですもの。もっと兎を称えてあげても良いと思います」
懸命に励んだ結果、粗忽者扱いでは報われない。他人事とは思えずに拳を握って訴えれば、陛下は童を見るようなまなざしを私に向けた。
「はは、やはり身内には優しいか」
「み、身内? あのですね、だいたい私が兎と呼ばれる意味が判りかねます。目は赤くなってしまいましたが髪は白くありませんし、何より耳は長くありませんよ」
「ほう。確かに髪は黒いな」
そこで陛下は私の髪を梳く。耳の辺りを撫でられて肩が強ばった。
耳飾りをつけた耳たぶが一気に熱くなる。
「へ、陛下」
「宇辰、と……名を呼ぶことを許そう。我が護り兎よ」
突然の戯れに目を瞬くことしかできずにいると、陛下は促すように耳の辺りを撫でてくる。
「ゆ、宇辰……様」
「ああ。これでそなたは特別だ。枕を交わさずともこれが証。他の妃に臆することはない」
その言葉に朝の一幕を思い出して赤面する。私の体面を保つための気遣いとはいえ、これでは耳まで赤くなりそうだ。
それを知ってか知らずか、陛下……宇辰様の指先は戯れを止めない。
「さて耳は……長いのかわからんな。触れて良いか」
髪の中に手を差し入れられたまま耳の輪郭をなぞられ、ぞくぞくと肌が粟立つ。
両耳を指の腹で優しく撫でさすられれば膝がかくかくと震えてきた。
「……ん? 怯えているのか。なあに、酷いことなどせぬ。勇敢な英雄に縁あるもの同士、労りたいだけだ」
「同士……? もしや、陛下も兎なのですか」
耳への感覚から逸らすために懸命に頭を回転させて問うてみれば、宇辰様は手を止め目を丸くした。
「はは、残念だが外れだ。我ら皇帝は月を祀る神官に過ぎぬ。そうだな、先程の疑問に応えよう。月の源は膨大な力を持つ。地上に住まう権力者がそれをお伽話としてでも市井に広めると思うか?」
「それは……しないですね」
権力争いの元だ。おいそれと宝の地図をばら撒くようなことはしないだろう。
だから兎はひょうきんな粗忽者として伝説に残ることになったというわけか。
「この話を知る者は限られている。帝位を継ぐ者、それに近しい者。それゆえ女官は兎と聞いてもあのような態度を取っていたのだ。許して欲しい」
「そんな、彼女にしてみれば当然ではないですか。そもそも私とて、自分が護り兎と言われても何やら夢物語のようで……」
「証が必要か? 先程見せたろうに」
赤くなった瞳のことを言われてもそれだけでは納得できない。それが表情に出ていたのか、宇辰様は耳から手を離すと再び歩きだす。
「妙薬は試験紙のようなもの。兎は類稀な聴力で月に害成す者を感じ取り、そして月を護る。そなたが昨夜落ちた泉は、伝説の真実を知る者以外にはたどり着けぬ場所だ。あの侍女が彼処に居られたのは、そなたの導きあってこそ」
「それは……そうなのかもしれませんが」
「それに──その耳にはモノの声が聞こえるのだろう?」
言い当てられて目を見開く。
妃のご機嫌取りとして始めた作戦が知られていたなんて恥ずかしい。
「ご、ご存知でしたか」
「ああ。いくら通わぬとはいえ後宮は我が庭。何やら上へ下へと駆けずり回って使い走りをしている忙しない嬪がいると、報告に上がっていたよ」
「それは……大変お聞き苦しいものを……」
皇帝陛下は月にしか興味がないので多少のことは感知されないと思っていたが、甘かった。自分の管轄下を手中に収めておくのは当然のことではないか。
項垂れていると、宇辰様が「失礼」と言いつつ袖を捲ってきた。
「ひゃっ」
「昨夜部屋に運んだ時にも見えたが、やはり傷だらけではないか。治療はしておらんのか。家からの援助は? 後宮付きの薬師も居るだろうに」
「あああのその、よくあることですのでおかまいなく。薬師様の手を煩わせることではございませぬ。舐めておけば治りますゆえ」
「ほう」
そこで宇辰様はにやりと口角を上げた。意地悪を企んだ悪童のようにも見える。
ぐい、と腕を掴まれ袖がずり落ちる。擦り傷だらけの肌がむき出しにされて血の気が引いた。
「いやっ」
ぶん、と腕を振っても体をよじってもびくともしない。
数多の艶やかな妃と比べる事も烏滸がましい、醜い肌をさらしていることが耐えきれない。こんな辱めを受けるなんて、護り兎と呼ばれ分不相応な扱いを受けていても、所詮生まれは卑しいことを思い知らされているのだろうか。
「月鈴、暴れるな。酷いことはせぬと言ったはずだが」
低い声で咎められて喉がひくりと痙攣する。縮こまってしまった肩を抱かれると「本物の兎よな」と小さく笑われた。
その形の良い唇が近づいて──腕の擦り傷に、触れた。
「……!?」
薄い肌を唇で食む。傷口の赤みを移すように吸う。そうして顔が離れた時には──
「傷が、ない?」
何度見ても変わらない。宇辰様が触れたそこだけが、健康的でなめらかな肌に戻っている。
「皇帝は月を祀る神官。兎を労い癒すことも役割のひとつよ」
「そ、そんな、陛下になんと恐れ多いっ、ひゃあ!」
「陛下ではない。宇辰、だ」
腕を掴まれたまま、別の傷に舌が這う。枝が掠めた腕の内側も、橋のたもとに打ちつけた肘も、唇が触れたあとにはただの生白い肌があるだけだった。
「も……もう、充分です、ので」
「まだ片腕しか治っておらぬぞ。これでは沐浴の時にしみて辛かろうに」
「もう慣れております。それより……あの泉についてお伺いしたいのです」
じっと目を見て伝えれば、不服そうな顔をしつつも宇辰様は腕を離してくれた。再び歩きだすとあの牌坊に至る。昨夜と変わらない風景のはずだが、太陽のもとで見るそれからは異様な恐ろしさは和らいでいた。
「これは結界。迷い込んだ者はここで弾かれる」
手を引かれてくぐる。昨日、翠花の息遣いを感じていた背中には何も無く、眼前に案内人がいることが心を落ち着かせた。
しばらく進むと草むらが一瞬きらめいた。
許しを得て駆け寄ってみれば、大きな玉が嵌め込まれた櫛である。
「香麗様の!」
跳ねる兎の意匠も見て取れる。話に聞いた通りの櫛だった。翠花の話では失せ物こそが私を困らせるための嘘だったようだが、少なくともここに櫛があるのなら丸ごと嘘でもないようだ。とりあえず手巾に包んで懐にしまって歩き出す。
ふたつめの牌坊に至る。やはりこちらにも文字が彫られていたのだと気づいた。昨夜は暗くて字のことにすら気づけなかった。
私が目を凝らしていると、宇辰様はその文字を宙でなぞるようにした。
「ここにはいにしえの詞が封じられている。それを口にするのは憚られるので言えぬが……月を尊べ、月の加護の下で我が国の繁栄あり、とでも解釈すると良い」
そう説明を受けて進んだ先には──あの泉がある。
それを目の当たりにした途端、あの猫の鳴き声が頭に響いてきた。
みゃあお。
吸い込まれそうな声に咄嗟に耳を塞いで宇辰様の背中に身を隠す。すると力強い腕に抱きかかえられ、隣へと立たされた。
「今は私がここにいる。あの猫の思うままにはされぬ。安心しなさい」
「は、はい」
鳴き声がするたび、金色の目が映った水面が波打つ。時折跳ねる飛沫がこちらを招いているようで、しっかりと腕に掴まっていなければ今にも泉の底に呼び込まれてしまいそうだ。
「ここは月の加護そのものを象徴する聖域。この場に後宮を建てたのは、下手に神殿を造って猫に察知されるのを避けた先人の知恵だそうだ。太陽は男、月は女。後宮に住まう数多の女人にも祀らせる意図があったのだろうな」
「だから……宇辰様は毎夜後宮にお通いに?」
「ああ。事が起きるとしたら夜だ。帝が通うのだから何もおかしなことはあるまい?」
宇辰様はふと言葉を切って顎を擦る。
「もしや、我が毎夜通う噂を聞いて、何故自分の元に参らなんだと悩んでいたか?」
「い、いいえ!そんな滅相もない!! もとより数ならぬこの身、陛下のお目に留まるとはちいとも思っておりませんゆえ!」
ぶんぶんとちぎれんばかりに首を左右に振って、ついでに腕も振って否定すればするほど、宇辰様は何やらにまにまと意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「安心せよ。月狂い色狂いと称されているようだが色狂いの方は外れだ」
「月狂いは認めるのですね……」
乾いた笑みで流せば宇辰様も軽く頷く。この方、ご自分の評価に対して頓着が無さすぎるのではないだろうか。
ふと見上げればゆるく笑っていた表情が引き締まる。
「今までの話で察しているだろうが、我の即位から日を置かずして猫がこの泉を突き止め、再び地上に降り立った。それが月蝕の原因だ。以来、ああして妙薬を誰にも渡さぬと固執している」
「それでは、月は」
はっと空を見上げる。
「もちろん、月そのものが落ちてきたわけではない。ただ、元より光の源を失った抜け殻だ。皮肉なことに、あの猫自体が妙薬を取り込み過ぎて月と一体化している。それが地上に降りたことで、空から月が失われて見える訳だ」
改めて気を引き締め泉を覗き見る。
にわかには信じ難いことばかりだが、こうして目の当たりにしてしまえば信じざるを得ない。
「まだ腑に落ちぬか」
「いいえ、そんなことは」
「そうだな……そなたの耳は持ち主から分かたれたモノの声を聞くことだろう。ならばこう考えてみると良い」
──空から奪われた月の声を聞いた月鈴よ。月を掬い、空に戻すのが護り兎の役目だ。
「そなたが後宮で失せ物探しに励んでいたのは、ある意味で予行演習だったのかもしれぬな」
そう結ばれて空いた口が塞がらない。
私の耳は、とんでもないものを聞いてしまったようだった。