《助ケテ、助ケテ》
《早ク、ゴ主人様ノ所二帰シテ》

耳の奥に鳴り響く声に急かされて右手を伸ばす。
跨った枝から落ちないようにと左手は根元を握りしめている。枝先になるにつれて細くなるそれは、どこまで体重をかけられるか見極めないと真っ逆さまの大惨事だ。
年頃の娘──ましてや嬪の立場なのに脛も露わに木に登って枝に跨るなんて、義母が見たらどんな顔をするだろう。
目を背けはしない。寧ろあの目はしっかりとこの醜態を捉えながら、袖で隠した口元を笑みで歪ませているはずだ。

──まああ。なんて勇敢なのでしょう。ほうら見ておやり。貴方の義姉様は、はしたない真似が上手なのですねえ。
──お母様ったら物好きねえ。わたくし、大道芸人には興味がなくってよ?

義妹と共にくすくす笑いながらも立ち去ろうとはしない。ねっとりと息詰まる視線に晒されるのは慣れっこだ。
私だって好きで木登りしている訳では無い。
右手を伸ばした先、細い枝の先ではためいているのは義妹が失くした手巾で──

月鈴(ユーリン)様! あと少しですわ!」

地上から気付け薬のようにかけられた声のおかげで、巻き戻った時が急速に流れ出す。
そうだ、下にいるのは義母でも義妹でもなく、私付きのただひとりの侍女。そして私のお役目は貴妃が失くされた手巾を──
そこでつむじ風が吹き荒れた。頼りない枝先は今にも手巾を手放しそうだ。ここで逃したら次は何処から声が聞こえるかわからない。
右耳に残された耳飾りが勇気づけるようにりんと鳴って頭が冴える。
覚悟を決めて、身を乗り出した。


「お探しの手巾はこちらでございましょうか」

差し出した手巾を妃の侍女が受け取り、ためつすがめつ眺める。施された刺繍にようやく納得したらしく、己が仕える主へと恭しく献上した。
泥を知らない白い指がそれを摘む。

「……お上手、ね」

そのひと言だけ残して妃は背を向けて立ち去った。傅いていた侍女達がそれに続く。

「……なんですかもう! 月鈴様がどんなに大変な思いをして──」

憤慨した侍女の翠花(ツイファ)が不満を滔々と垂れるのを手で制す。素直で聡明な彼女だが、お喋りが過ぎるのが玉に瑕だ。

「部屋に戻りましょう。少し、疲れたわ」