ふわふわと、羽のようなものが鼻に触れ、くすぐったくて目が覚めた。よく見ると、綿菓子のような、白くてふわふわとした地面だった。
若干光り輝くこの地は、不思議と温かく穏やかな気持ちになれる。
ここはどこだろう。眠っていたのだろうか。眠る前、私は一体何をしていた?
「やっと目覚めたか」
ぼんやりとしていた視界に、突然眼鏡をかけられたように、意識がクリアになる。私は起き上がり、低い声が聞こえた方向へと顔を向けた。
「誰?」
目の前に佇んでいたのは、上から下まで白尽くめの人だった。顔を半分ほど覆うフードつきの白いマントに、長い鳥の嘴つきのガスマスクのような仮面をつけている。
手足も全てマントの中に隠されており、他に見えるのは尖った黒い靴の先端だけだった。
容姿が全くわからない、明らかに怪しい人物を前にし、私は柔らかい地面の上に足をつけて立つ。
「私は天の使いだ」
天の使い……?
天の使いということは、そのままの意味で考えると天使になるが、私のイメージをしていた天使とはかけ離れていた。なぜなら、背中にあるはずの羽も、頭に浮かぶ輪もない。赤ちゃんのような幼い姿でもなく、寧ろ声から察するに成人男性だ。おじさんと呼んでも間違いではないはず。
「天使おじさんってこと?」
私がそう言うと、天使おじさんは固まっていた。表情はマスクのせいで見えないが、言葉も動きにも出ず、時が止まってしまったかのように感じる。
「え、違う? なんかごめんなさい。マントとマスクでよくわからなくて」
「いや、間違ってはいない。好きなように呼んでもらって大丈夫だ」
謎の天使おじさんは、優しくそう答えた。その声を聞き、不思議と心が落ち着く。怪しい人ではないのだと、直感的に思った。
「良かった。ところで、ここはどこ?」
辺りを見回すと、一面真っ白な世界で、どこまでも続いている。天上は春のような、爽やかで温かい青空が広がっていた。まるで雲の上のようだが、懐かしい感覚がして、怖くはなかった。
「ここは天国に最も近い、地上との狭間だ」
「天国?」
よくわからなくて、思わず首を傾げる。それを見た天使おじさんは、雲のような地面に手のひらサイズの穴を開けた。
覗き込むように、私は屈む。
穴の中は暗かった。だが、次第に何かが映り込んでくる。
とある町の住宅街。狭い交差点と思わしき場所に、赤い光がいくつか集まっていた。
もっとよく見たい、と思うと、自動的に焦点が拡大される。
そこには、ボンネットが大きく凹んだ車と、一人の女の子が電柱に体を預けるようにして倒れていた。顔は髪の毛で覆われてよく見えないが、赤黒い液体が、彼女の頭から地面にかけて流れ、水溜まりのようになっている。
「お前は亡くなったんだよ」
「え?」
天使おじさんにそう言われ、もう一度彼女を見る。暗がりでよく見えなかったが、目を凝らすと、確かに私と同じ制服、同じ髪型だった。
「嘘でしょ? え、私死んだの?」
理解することができず、困惑して笑いが込み上げてきた。ははっと空気を漏らすような声が鼻から抜けていくような感覚。
死んだ、ということは今の私は何だろう。幽霊なのだろうか。幽霊だとしたら、もう高羅や麻仲には会えないのだろうか。
そんなの嫌だ。もっとやりたいことはたくさんあったのに。
「後悔しているのか」
天使おじさんは、慰めるわけでもなく、膝を落とした私に声をかけた。
当たり前だ。死ぬつもりなんて毛頭なかった。ただ母と喧嘩をして飛び出しただけの話。その後どうするかは何も考えていなかったが、そこで人生を終わらせる気なんてなかったのに。
「後悔どころか……いきなり死んだなんて言われても認められないよ。やり残したことたくさんあるのに……」
そうだ、元はと言えば母と喧嘩をしたからこうなってしまったのだ。でも今更何と足掻こうと、どうにもならないのだろうと一気に絶望感に苛まれ、脱力する。
地面に空いた穴が煙に覆われるように、元の柔らかい雲へと戻った。私はその一点をひたすら見つめる。
「やり直したいか」
「え?」
見上げると、嘴のようなマスクは私の視線に向いて落ちていた。
「やり直せるの?」
私は立ち上がり、マスクを見つめた。奥にある瞳と視線が交わるように。
すると天使おじさんは、こくりと頷いた。
「そうだ。いつに戻るか、決めることはできないが、やり直した世界で、そのまま死なずに生きることもできる」
信じられなかった。そんなことが許されるだなんて。あまりに都合が良すぎて、少し疑いたくもなる。だが、ありがたいチャンスだ。受ける以外、選択肢はないだろう。
「やり直したい! まだやりたいことはたくさんあるし、それで生きられるのなら、今度こそ死なないようにする!」
天使おじさんのマントが風に乗って揺れる。そのままフードも取れないだろうかと考えたが、さすがにそう簡単にはいかず、彼はマントの隙間から手を出して、指先でフードを押さえていた。血管が浮き出た、男性らしい手だった。
「ならば一度だけ、やり直しの機会をやろう。ただし、“一番大切なものがない世界で”だ」
一番大切なものがない世界?
ということは、もしや高羅がいない世界ということだろうか。それとも幼馴染で親友の麻仲か。いや、“もの”ということはお金かもしれないし、高い化粧品かもしれない。はたまた、物質的なものではなく、楽しかった幼い頃の思い出や、将来の夢だろうか。
「一番大切なものって何? 高羅がいない世界は、さすがに耐えられないよ」
高羅以外にも、もちろん大切なものはたくさんある。麻仲だって、小中学生の頃の友達だってみんな大切だ。それでも、今一番自分が大切に思っている自覚があるのは、高羅だと思った。
天使おじさんは咳払いを一つついて、答えた。
「それはわからない。ただ一つ言えることは、本当に大切なものは自分ではわからない、ということだ」
天使おじさんが言う言葉の方が、あまりピンとこず首を傾げる。自分ではわからない大切なものとは一体何なのだろうか。
「家族とか? でもお母さんがいなくても別にいいよ。寧ろ、いない方が気楽かもね」
一般的に見ると、家族は大切なものだと思う。だが、私の家は例外だ。望んでもいないのに、この家庭に生まれたことは、不運以外の何物でもない。
「そうかもしれないし、違うかもしれない。さあ、どうする? リスクがある中でやり直すか、諦めて死者の道へと進むか。選ぶのはお前だ」
天使おじさんの背後から風が吹き、髪の毛とスカートの裾が後ろへと流れていく。
一瞬悩んだが、すぐに私の答えは決まった。
「やり直してみる。もし高羅がいない世界なら、耐えられないかもしれないけど、何もせずこのまま死ぬよりは、可能性を全て潰してから諦めた方が良いと思うし。それに、正直死ぬことはいつでもできるからね」
この状態になって、初めてわかったことがある。それは、天国と地上の狭間はふわふわとした雲のようなところであること。天使はおじさんであること。そして、生き続けることは、案外死ぬより難しいということだ。
天使おじさんは、私の意志を聞き、マスクの中でふっと笑ったように感じた。
「その通りだな。では、一番大切なものがない世界で生きることをやり直すというのが、お前の選んだ道ということで間違いないな?」
「はい! 一番大切なものがない世界でのやり直しを選びます!」
私が返答すると、天使おじさんは両手を広げながら宙に浮き、私を見下ろした。白いマントが大きく開いて羽のように風に靡いている。
「では、行っておいで」
彼の姿に釘づけになっていると、雲のような地面が、とてつもなく眩しい光を放った。思わず目を細めていると、私の下に大きな穴があき、中から溢れ出る光に包まれるようにして穴に落ちていく。
天使おじさんが、みるみるうちに小さくなる。卵のような大きさから、米粒、白い点へと姿を変え、やがて何も見えなくなった。
天国に最も近い地上との狭間ということは、今は地上に向けて落ちているのだろうか。一番大切なものがない世界で、私は生きていけるのだろうか。
自信満々に決意したものの、言葉にできぬ不安は拭えなかった。もうあとは祈るのみだ。
高羅がいますように。そして、もうやり直しをすることがないよう、生きていられますように。
光がより一層強くなる。激しく強い光だが、肌が感じ取る温度は、温かなものだった。
眩しさに耐えられなくて、私はそっと目を閉じる。眠りに落ちるように、意識が途切れた。