アルバイトもなく、帰宅したのは門限の十分前。
 最近は異質な目で見られることも少なくなっていた。
 他の男の子たちの大きな煽りも減りはしたものの、やはりレンだけはそれが面白くないらしく、何かと突っかかってくることが多い。
 レンには、丁寧に言葉で伝えようとも、反感を買うばかりだった。
 今日もまた、同じように来るのだろうかと身構える。
 扉を開け、施設内に入った。
 すると玄関のところで、膝を抱え、顔を埋める男の子が一人、座っていた。
 その子は私が扉を閉める音を聞き、びくっと体を揺らした後、私を睨むようにして、潤んだ瞳だけが埋もれた顔から見えてくる。予想通り、レンだった。
 私の存在に気づいた瞬間、レンは勢いよく立ち上がり、側にあったスリッパを思い切り投げてくる。私を睨むその目の周りは、赤く腫れ上がっており、悲しみの形跡が怒りとなって表れたことがよくわかった。
 黙って自室に逃げることもできた。だが、私は、敢えてその場から動かなかった。
 だって、明日で運命が変わる。だから、どんなことにも正面から向き合って、私自ら変わらなければならない。そんな気がした。
「危ないんだけど。痛いしやめて」
 腕で顔を守っていたため、怪我はなかったが、置かれていたスリッパが全てなくなるまで、レンは歯を食いしばりながら私に投げ続けた。
 ついに投げるものがなくなると、息を切らすように肩を上下させる。
「何かあったの」
 私がその場で話しかけるも、レンは目を逸らし「うるせぇ」と呟いた。
「質問の答えになってないと思うんだけど」
 冷静にそう伝えると、また怒りのスイッチが入ったかのように、レンは大声を上げた。
「黙れよ! そんなに何があったか知りたいか!? 興味もねぇくせに! というか、ここまでやってるのに意味がわかんねぇのかよ! 頭悪ぃなぁ、帰ってくるなって言ってんだよ! 最近の絵美、まじで目障りなんだよ、まじで消えろよ!」
 どこまでも相手を傷つけたくて必死に暴言を吐くくせに、一番苦しそうなのはレン本人だった。
 何があったのかはわからないが、とにかく誰かに当たることで発散したいのだろう。
 それを迷惑だと思っていたが、冷静な目で見ると、レンはその方法以外、自分の感情のコントロールの仕方や、思いの発散方法を知らないのかもしれない。
 今まで私という敵がいることで、煽ることができる集団の中に入っており、仲間意識が生まれ、安心感があったのだろう。それが失われつつある今、居場所や立ち位置がなくなりそうで不安で仕方がなく、とにかく安心したくて、私を敵に回したい、という思いが、言葉の節々から伝わってきた。
 それを上手く言葉にできない不器用さは、私と同じだと思ってしまった。
「私が消えることによって、レンは本当に満たされるの?」
 私は転がった灰色のスリッパを、一つ拾った。レンはまた強い睨みをきかせ、「は?」と威嚇する。
「何があったか知らないけど、むしゃくしゃする原因を解決しない限り、私が消えたところでレンの怒りや悲しみはなくならないでしょ?」
 気づいてほしかった。以前の、麻仲が私に教えてくれたように。レンの本当の気持ちがどこにあるのかに。
「は? 説教かよ。絵美のくせに」
「説教じゃない。レンが本当に苦しんでいる原因を解決させない限り、どれだけ人に当たったところで、レンが苦しいだけって言ってるの。私は心配して言ってるんだよ」
「余計なお世話だよ! 絵美に心配されるとかムカつく!」
 何を言っても、レンはヒートアップするばかりだった。伝わらないもどかしさに、胸が痛くなる。
 私の心配も、気遣いも、アドバイスも、レンの立場から見ると、全て耳が痛くて拒絶したくなる文句でしかないのだろう。
 人は、特定の人物の言葉を受け入れたくないと思った瞬間、何を言ってもマイナスにしか伝わらないのだ。
 まるで母に対する生前の自分を見ているような気分だった。
 それなのに、どう声をかければ良いのかわからない。レンの気持ちが理解できるのに、一度貼られたレッテルを撤回させる方法は私には思い浮かばなかった。
「そうだよね、ごめん。でも、同じ場所で暮らす仲間だから。レンは一人じゃないよ」
 スリッパをぎゅっと握った。伝われと願いながら。
 それでもレンは、私の思いを跳ね除けるように、はっと右の口角を上げ、鼻で笑った。
「同情も大概にしろよ! 学校だって、施設の奴らだって、皆そうだ! 親に捨てられたからって可哀想な目で俺を見て、馬鹿にしやがって。暴力がなんだ、暴言がなんだ! 親に捨てられたのは俺が悪いって言うのかよ! そうでもしねぇと認識すらしてくれねぇくせに……!」
 レンは歯を食いしばりながら、頭を両手で思い切り掻きむしる。髪の毛が全部抜けてしまいそうなほど逆立つも、その痛みに気づいていないかのような表情だった。
 それ以上に違う部分が痛くて、苦しくて堪らないのだろう。
 でも、それこそが彼の本当の気持ちだ。ようやく出てきた本音を、私は喉から両手で掴み取る思いで言葉の縄を紡いだ。
「そう、それだよ! それで良いんだよ! レンの本当の気持ちはそこにあるんだよ!」
 私の言葉を聞いたレンは、予想外の反応に、力を込めていた手を緩め、私を見つめる。
「そのままで良いんだよ。レンは他人からの目を意識したり、自分の境遇に劣等感を抱き続けてるから苦しいわけであって、それは誰かがいなくなることによって解決する問題じゃない。原因が何か、自分でも気づけないから、現状が変わらなくて、より苦しいの。私がこうして伝えても、きっと癪に障るだろうから、ここまでにするけど、とにかく、レンが本当の気持ちを打ち明けたら、わかってくれる人や一緒に解決方法を考えてくれる味方はたくさんいるってことを、覚えておいてほしい。今は馬鹿にされてるって感じるのかもしれないけど、きっとそんなことはなかったんだって思う日が来るよ。だから、そんなに不安にならないで」
 彼の心を、言葉の縄で掴めただろうか。閉ざしている心に、針一本ほどの小さなものでも良いから、穴をあけることはできただろうか。
 私の言葉をどう受け取ったのかはわからないが、レンは少しだけ冷静になったようで、手は重力に従って落ちていた。爪の先が、少しだけ赤黒くなっている。
「私のことを嫌いでも良いよ。でも、レンは一人じゃないから。レンが信頼できる人に、本音を打ち明けられる人でいてね……」
 私がこんなことを言える立場なのかと思いながらも、伝えなければレンだってずっとこのままだ。
 何も私に悩みを打ち明けなくても良い。私のことを信用しなくても、嫌いなままでも良い。
 彼の周りに、信頼できる人がいることに、彼自身が気づいて、たった一人、本音を打ち明けられたらそれで良い。
 レンは一つ舌打ちをし、「キモ」と呟いてどこかへ行ってしまった。
 私の言葉をどう捉えたのかは、レンのみが知っている。何を言っても無駄だと、諦めただけの可能性だってある。
 今はこの言葉の意味がわからなくても良い。いつか「あの時、絵美が言ったことはこういうことだったんだ」と気づいてくれたら本望だ。
 本当は一人の家族として言いたかった。だけど、きっと私にもレンにも、“家族”というものが自分の中にあって、お互いを“家族”と呼ぶのは容易ではない。
 それでも、私たちは一度、同じ場所で暮らした仲間であって、ただの知り合いとは違う。だから、私は向き合いたかった。彼のために。そして自分のためにも。
 私は放置されたスリッパを一つずつ拾い、元のスリッパ立てに戻した。
 奥からスパイシーな匂いが漂ってくる。今夜はカレーだろうか。
 靴を脱いで、荷物を置きに自分の部屋へと向かう。階段の踊り場にあった小さな窓から、一際輝く一番星が見えた。
 いつか、私の言葉の種が、レンの中で芽を出しますように。
 返答するように星が瞬いた気がした。