十六年間暮らしていた家までの道を、忘れるわけがなかった。素早い足取りで、私は色褪せた壁と、つかない玄関ライト、そして蜘蛛の巣が張られた『春田』を探し歩く。
日が少しずつ落ちてきた。街灯が白い光を放ち、太陽の代わりに世界を明るく照らす。
そんな眩しい光を浴びた、一軒の家が見えてきた。
「あった……」
それは私が暮らしていた時と、何ら変わりのない家……ではなかった。
壁の色は、塗り替えたばかりなのか、汚れ一つ見えないほどの綺麗さで、玄関ライトは淡くオレンジ色の光を灯していた。
そんな綺麗な家を見て、私は胸が痛くなる。単純な理由だ。だって、そこに書いてあるのは『春田』ではなかったから。
掃き出し窓からはカーテンを挟んで温かい光が漏れており、キャーという子供らしい声と、それを聞いて笑う男女の声が響いていた。
ああ、入れない。私がこんな理想的な家族の間に入れるわけがない。入ってしまえばきっと、虚しさで灰になってしまうだろう。
ここでただ見つめているだけで十分。そう思った時だった。
シャッと淡いピンク色のカーテンが開いた。オレンジ色の眩しい光が、闇の中にいる私に直撃する。逆光で表情は何も見えなかったが、長い髪の人影が私を見ているのがわかる。
私は驚いて完全に固まっていた。すると、その女性らしき人は、鍵を開けたのだ。
「……どちら様? どうかされましたか?」
先程聞いた笑い声は幻かのように、ピリリと冷たい空気が私たちの間を流れる。
小さな影と、更に大きい大人の影も、窓枠の端から覗いていた。
冷や汗が滲み出てくる。私は咄嗟に答えた。
「あの……前ここに住んでいて、どうなってるのか気になって……」
すると、女性は、すぐ下に置いてあったサンダルを履き、門のそばまで出てくる。表情がようやく露わになり始めた。
スタイルは良く、肌艶があり、若めの綺麗なお母さん、という印象だった。怒っているのかと思ったが、意外にも表情は柔らかい。だが、真剣な表情だった。
恐らく、怒り口調でないのは、制服を着ていたおかげだろう。全く年齢も素性もわからない不審者であれば、無言で警察を呼ばれてもおかしくないはずた。
「高校生よね。本当に、前この家に住んでたの? 名前は?」
「あ、はい。春田絵美です」
そう答えると、瞳に宿っていた緊張感が、ふっと緩むのが目に見えてわかった。
するとすぐに、後ろから「ねぇママ、その人誰ー?」と小さな影が揺れた。女性はそれに対し、ひらひらと笑顔で手を振り「大丈夫よ」と声をかけている。
「絵美ちゃんね。何だか本当に、奇跡みたい」
女性は少し嬉しそうだった。何か知っているのだろうかと、私は食い気味に次の言葉を待つ。
だが、彼女は「ちょっと待ってて」と言い残して、バタバタと家の中に消えていった。それを追いかけるように、二つの影も去っていく。
何をしているのか、皆目見当もつかなかった。改めて、家の全体の姿を見る。庭は綺麗に整えられており、様々な花も植えられていた。見覚えのない花壇もいくつかあり、その中には小さな家や人形の置物、太陽光発電で光るガーデニングライトが刺さっている。まるで花の世界に一つだけ建てられた、素朴な家のように思えた。
私が住んでいた頃とは全く違うことを改めて感じさせられる。この家も、今ここに住んでいる家族と暮らした方が幸せなのではないだろうかと思った。
「お待たせ」
女性が今度は玄関から出てきた。手には、何やら大きな紙袋がある。女性は徐に私の手を取り、それを握らせた。
「はい。きっとあなたのだと思う。今日、裏庭に新しい花壇を作ろうと思って、土を掘り起こしてみたの。そしたらこれが出てきてね。中身を見たけど、正直持っていてもどうしようもないし、捨てようと思ってゴミ袋に入れてたのよ。そんな時に、まさか会えるなんてね。本当に奇跡だわ」
女性は満足そうに微笑んだ。紙袋の中を覗くと、ビニール袋に包まれた大きな瓶が見えた。袋越しでもわかるほど、それは汚らしくて堪らない。払っても取れないような茶色い汚れが、透明な容器にびっしりとついており、正直触りたいとは到底思えなかった。
「もう暗いから、気をつけて帰ってね」
終始、目の前の状況に理解が追いつかなかったが、その言葉はやり取りを終了させる意味に他ならず、私も同様に「ありがとうございます」とお礼を伝え、家を離れる意志を示した。
正直、まだ家のことについては気になる。だが、ここにいる権利など、今の私にはない。別の家族が暮らしているのだから。もはや私の家ではないのだ。我が物顔で滞在するのはお門違いだ。
私はすぐに背を向け、足を進める。振り返りはしなかった。振り返ったら、二度と足を踏み入れられないあの場所を、またじっと見つめてしまいそうだったから。
帰る場所などない私は、いつもの公園へと向かった。辺りは完全に日が落ちて、街灯が寂しい遊具たちを照らしている。
相変わらず人の気配はなく、私は安心してブランコへと腰掛けた。
鞄は地面に、そしてもらった紙袋は、そっと膝の上に乗せた。
紙袋の口を大きく広げ、中にあるビニール袋を開封する。すると案の定、土まみれの瓶が姿を表した。
「うわぁ……」
あまりに汚く、中は見えない。だが、最も肝心なものは、外側からは目視することができない、この汚れた膜で覆われた世界に閉じ込められているのだろう。
私は意を決して、瓶の蓋を回した。
土が入り込んでいるのか、とても固かった。しばらく様々な持ち方をして力を加え、格闘する。すると蓋は、ついに参りましたというように、勢いよく回った。
私はそれをそっと開け、紙袋内の端に置いておく。
中にはチャックつきポリ袋があり、分厚い紙が入っていた。瓶に守られていた分、劣化を感じさせない綺麗さを保っている。
私は中身をよく見るために、瓶が入った紙袋を地面に置き、ポリ袋のチャックを開けた。
よく見るとそれは無地の白い封筒だった。そして端の方に、小さく書いてある文字を見つける。
『二十歳になった春田絵美様』
心臓がどくんと跳ねた。動悸が続いて、耳まで伝わり、周囲の音は自分の鼓動で遮られている。
震える手を必死に抑えながら、私は封筒を開いた。丁寧に折りたたまれた何枚もの紙と、封筒に入るくらい小さなサイズの袋があった。
私はその手紙と思わしきものを広げ、目を通す。
風がふわりと紙を揺らした。
『二十歳になった絵美ちゃんへ。
これを書いたこと、そしてこのタイムカプセルの存在自体、絵美ちゃんは覚えていないと思います。
だってこれを書いているのは、絵美ちゃんの二歳のお誕生日なのだから。
明日、これを絵美ちゃんと一緒に、庭に埋めようと思っています。
ママは絵美ちゃんが二十歳になるまで、このタイムカプセルの存在を隠せているかしらね。
うっかり言ってしまいそうな自分が想像できるけど、案外忘れてたりするのかしら?
まあ、どうなっているかはわからないけれど、今これを読んでいる絵美ちゃんにとって、嬉しいサプライズになってくれていたら、ママも幸せです』
前置きとして書かれた文章は、母の言葉とは到底思えなかった。
二歳の頃なんて、ほとんど、いや全く覚えていないし、『ママ』や『絵美ちゃん』も、小学校に上がった頃には既になくなっていたため、違和感この上ない。
それに二十歳より四年も早く、かつ他人から受け取ってしまったことに対し、若干申し訳なさまでも感じてしまう。
まるで、他人が書いた、他人当ての手紙を盗み見してしまったような気がしてならないからだ。
そうは言っても、実際母から私に向けての手紙であることは、間違いないわけで、私は違和感を抱えながらも、続きの文章を目で撫でた。
『いきなりこんなものを読んで、驚いているかもしれないね。
これを書いたきっかけは、あなたが大人になった時のことを想像したからです。
今、絵美ちゃんは何をしているのかしら。
どんな学校に行って、どんな夢を抱いて、どんな人になっているのでしょうか。
お付き合いしてる人はいたりするのかな?
今のママは、絵美ちゃんの将来が楽しみでなりません。
こんなにも、小さくて可愛らしい絵美ちゃんが、大人になるのは遠い未来の話だと思っているけれど、きっと一瞬でその日を迎えるのでしょうね。
あなたが何を選んで、どんな大人になったとしても、絵美ちゃんはママにとって一番大切な宝物です。
例え、絵美ちゃんが世界の敵に回されたとしても、ママは一生あなたの味方です。
何があっても、ママはずっと絵美ちゃんのことが大好きで、世界で一番、あなたのことを想っています。
何があっても、絶対に絵美ちゃんのことを守るから。
だから安心して、これからの人生を歩んでいってほしいです。
それを伝えたくて、ママは大人になった絵美ちゃんに向けて、タイムカプセルを残すことにしました。
きっと、生きている中で、これまでもこれからも、高い壁にぶつかって、悩み苦しむ日が何度もくると思います。
何なら、その原因がママである時も、いずれ来るかもしれないね。
パパにも言われたけど、ママは凄く不器用なの。
絵美ちゃんのことが可愛くて仕方がないからこそ、絵美ちゃんが傷ついたり悲しい思いをしないように、そして後戻りできないような間違いを起こさないようにと、色々口出しすることもあるかもしれない。
でも、それは絵美ちゃんのことが大切で、あなたを守りたいと思っているからなの。
そう思っているから、何しても許してねってことじゃないよ。ただ覚えておいてほしいだけなの。
ママはこれまで、友達や大切な人たちにそのことを上手く伝えられなくて、すれ違ってしまうことが何度もあった。
だから、時にあなたのことを傷つけていたとしたら、本当にごめんなさい。
でも、これだけは忘れないで。
ママは絵美ちゃんのことを、心の底から愛してる。それは一生、いえ死んでも変わらない。
だから、辛い時はいつでも頼って良いのよ。
ママはいつだって、あなたの味方だからね。
これから先、あなたが社会に出て、お母さんになって、おばあちゃんになって、声が出なくなって、体が動かなくなったとしても、ずっとずっと大好きだからね。
絵美ちゃん、ママをママにしてくれてありがとう。
生まれてきてくれてありがとう。
絵美ちゃんのおかげで、ママは世界で一番の幸せ者です。
絵美ちゃんが生きていてくれるだけで、それだけでママはどんなに辛いことがあっても頑張ることができます。
二十歳の絵美ちゃん、こんなに大きく成長してくれてありがとう。
例え、絵美ちゃんが一人暮らしや結婚をして、距離が離れてしまったとしても、ママはこれからもあなたの一番の味方でいられるよう、心はずっとそばにいるからね。
これからも、絵美ちゃんが選んでいく一つ一つの道の先に、たくさんの幸せが待っていますように。
改めて、絵美ちゃん、二十歳のお誕生日おめでとう。
二〇✕✕年 四月二十八日 春田蘭より』
ボタ、と何かが母の名前の上に落ちた。字が滲んでくる様子を見て、慌ててそれを拭こうとすると、またボタボタと落ちてくる。
その正体は涙だった。止めようと思うのに、瞬きをする度にそれは溢れ出て、母の字を消そうとする。
まるで私が、生きるために母を消したのと同じように。
「ごめ……。ごめんお母さん……。ごめんなさい……」
息が上手くできなかった。吐きたいのに吸ってしまうような、吸いたいのに吐いてしまうような矛盾した呼吸で、息を整えることに必死だった。
手の力が抜け、封筒が落ちる。同時に、手紙と共に入っていた袋から中身が地面に飛び出し、広がった。
それは、大量の写真だった。そこに映るのは、ほとんどが小さな赤ちゃん。
産まれたての写真。
ハイハイをしている写真。
猫じゃらしを持ちながら、よちよちと道を散歩している写真。
公園で、ボールを追いかけている写真。
離乳食を食べている写真。
口の周りと手のひらに、大量のお粥をつけている写真。
いたずらをしたように、床をティッシュとおもちゃだらけにして笑っている写真。
そして、若い男女に抱っこをしてもらい、満面の笑みを浮かべる可愛らしい子の写真がそこにはあった。
凝視しなくてもわかった。そこに映るのは、若い頃の母と父、そして私だった。
涙は止めどなく溢れる。私はなんてことをしてしまったのだろう。
今の私とは対照的に、写真の中の私は、本当に幸せそうな表情をしている。
生前受けた傷が、この手紙と写真だけで癒えたわけではない。たが、ようやく知ることができたのだ。
私は愛されていたのだと。
今まで愛されたことなどないと本気で思っていた。アルバムを見返しても、幼い頃の写真がほとんどなかったのは、生まれた時から私を愛していないからだと思っていた。
私のやることなすことは全て気に入らないし、放任することは多いし、同じくらい縛ることもあって、その理由は私のことが嫌いだからだと思っていた。母は、私がいなければ仕事に明け暮れることなく、もっと自由な人生を送っていけるのに、と思っているのだろうな、と考えることもあった。
でも、それは違った。私を大切に思っていた証は、手紙や写真としてここに数え切れないほど残されていた。
そんな風にしか表現できない母は、私が麻仲に指摘されたように、不器用の塊だったのだ。
手紙に書いていた通り、私が傷ついたり悲しい思いをしないように、そして後戻りできないような間違いを起こさないようにと、本当は心配していたのだろう。
進路だってそうだ。良い学校に入れば良い大学に入れて、良い就職先につくことができれば、良い人生を歩めるだろうと考えることは至極当然のことだ。私自身、自分の気持ちを上手く伝えられなかった上に、母も私を思っての提案であることを言葉にするのが下手で、圧をかけられた、と私が思い込んでしまった部分もあったのだろう。
テストで悪い点を取った時、怒ったことも同じ理由なのかもしれない。私の成績を上げるには、どうしたら良いのかわからず、落ちたら働いてもらうというような脅しや、圧をかけるという表現になってしまったのかもしれない。
本当に不器用だ。母も、そして同じ血が流れた私も。
きっと母は、自分が不器用で、上手く言葉を伝えられない人間だとわかっていたからこそ、私が大きくなる前に、こんな形で残したのだろう。
「お母さん……お母さん……」
バラバラに落ちた写真を、一枚一枚大切に拾い上げ、手紙とともにぎゅっと胸の中に抱き締めた。
私だってそうだ。『わかってくれない』も『大嫌い』も、本当はきっと、そういう意味で言ったんじゃない。
『私のことをもっと見てほしい』
『私の気持ちに気づいてもらえないのは寂しい』
『大好きなお母さんに喜んでほしい』
『大好きなお母さんに認めてもらいたい』
『大好きなお母さんから褒められたい』
『大好きなお母さんに抱き締めてもらいたい』
『大好きなお母さんから、どんな私でも大好きって言ってもらいたい』
本当はそう思っていたんだ。大嫌いだと思っていた理由は、大好きだからだ。
大好きだから苦しい。大好きだから悲しい。
大切なものが大きければ大きいほど、満たされない感情も大きくなって、それが自分の捉え方や言葉の伝え方によって、間違った意味となってしまうのだと、ようやくわかった。
そして、本当に大切なものは自分ではわからないものだと言った、天使おじさんの言葉の意味も。
その通りだった。私は何もわかっていなかった。例えお母さんがいなくなったところで、清々すると思っていたのに。
今はそんな気持ちは一切ない。寧ろ真逆だ。
お母さんに会いたい。まだ何も伝えられてない。謝罪も、感謝も、本当の気持ちも、大好きも。
私は胸にある手紙と写真を、丁寧に封筒に入れ、ポリ袋のチャックをしめた。決して傷つけないよう、学校の鞄に仕舞おうと、ブランコを降りて立ち上がる。
その時だった。
「あれー? どうしたのー?」
わらわらと、男性三人が公園の中に入ってきた。話しかけた相手は、もちろん私。
「可愛いねぇ。君、一人? 夜は危ない人も多いからねぇ。お兄さんたちが車で送っていってあげるよ」
近づいてきた男性たちは、該当に照らされ、耳と鼻、そして唇の下についたピアスがキラリと光る。
髪は明るく染め上げられており、伸ばしてきた腕にはよくわからない模様が入っていた。
「いえ、大丈夫です」
これはまずい、とどこかで察する。
目を合わせないようにし、私は鞄と紙袋を抱えて公園を出ようとした。
「おっと、どこに行くんだい? いいから、俺たちに任せろって」
男性たちを交わして出ていこうとしたが、公園の出入口は一つしかない。当然のように出口の前に三人は立ちはだかり、呆気なく脱出手段を奪われてしまった。
どうしよう。怖い。何をするつもりだろう。まさか本当に送ってくれるはずがない。
「家はすぐそこなので。迷惑をかけることになりますし……」
ジリッと靴が砂を擦りながら、私は後退りをした。それとほぼ同時に、彼らは一歩前に出る。
「近くても危ないものは危ないしさぁ。君知らないの? この辺、暗くなると不審者が出るって有名だよ? 迷惑なんて全然気にすんなって」
「そうそう。そんなさぁ、怖がらないでよ。優しくするからさぁ」
へへっと笑いながら、三人はゆっくりと私の方へ足が近づいてくる。公園の出口の先を見ると、いつの間にか黒いワゴン車が停まっていた。よく見えないが、運転席からも視線を感じる。
「いや、もう本当、大丈夫なので」
周りには誰もいない。私と、彼らの四人だけ。人が通る気配すらない。
手足がガクガクと震え出した。力が入らず、前にも後ろにも進めない。
すると一人がチッと舌打ちをして、明らかに表情が変わった。
「ごちゃごちゃうるせぇなぁ! 送ってやるって言ってんだろ! ほら、さっさと乗れよ!」
一気に距離を詰められ、腕を掴まれた。荷物が地面に落ちる。怖くて堪らなくて、私は大声を出すことも、抵抗することもできなかった。
「い、いや、やめ……」
蚊の鳴くような声を出すので精一杯だった。他の二人も私の腕を掴み、車が停まっている方へと引っ張る。
あまりの力強さに、痛みと恐怖で泣いてしまった。
どこに連れていかれ、何をされるのだろう。このまま死んでしまうのだろうか。
怖い、怖い、怖い。お母さん、助けて……!
「こら! お前たち、何をしてる!」
怖くてぎゅっと目を閉じた瞬間、突然、男の人の低い声が聞こえた。それが耳に入るのとほぼ同時に、掴まれていた私の腕は、振り払うかのように離される。
「やべ、行くぞ!」
三人は慌てて車に乗り込み、十秒も経たずして車は消え去っていった。
私はその場で全身の力が抜け、膝から地面に崩れ落ちる。
助けてくれた男性の姿はなく、また公園には静寂が戻った。
怖かった。もう終わりだと思った。本気で死ぬかと思った。
自分の感情の整理が追いつかず、とにかく何度も深呼吸をする。手も足も、未だに力が入らず震えが止まらない。弱々しく両手を重ね、落ち着くために心臓に押し当てた。
お母さんが門限を厳しく課してきたのは、これが理由だったのかもしれない。
そうか、お母さんは、私を守ろうとしていたのか。縛りつけていたわけではなかったのだ。
どうしてこんなにも単純なことに気がつかなかったのだろう。
お母さんは、生前もずっと、変わらず愛してくれていたのに、気がつかなかったのは私だ。不器用さはあれど、私だって、もっとお母さんのことを見て、気づく目を持つべきだった。
「お母さん、会いたい……会いたいよ……」
取り返しのつかないことをしてしまったと、今更ながらに後悔して呟いた。
なんて都合の良い奴なんだと、自分でも思う。一番大切なものを捨ててでも、やり直して生きることを望んだのは自分なのに。
それでも今、母に会いたいと思う。あれほど会いたくない、帰りたくないと思っていたはずなのに。
大切なものは失って初めて気づくのかもしれない。失ってからでは手遅れなのに。
「どうしたら会えるの……」
無駄な足掻きだとわかっていた。それでも、会いたい気持ちに蓋をすることはできず、目を閉じて、心の底から夜空に瞬く星に願う。
そんなことをして、叶えてもらえるほど、世の中甘くないことはわかっていた。
「やり直しを後悔しているのか」
突然、あの低い声が頭から降り注がれる。先程私を連れ去ろうとした男性と同じく、男らしい低い声なのに、やはり温かく安心感があった。
「天使……おじさん?」
顔を上げると、記憶に新しいあのマスクと、白ずくめの服を着た背の高い人が立っていた。
表情の見えない仮面を通して、私のことを見つめているのがわかる。
不思議と体全体が、いや周囲の気温が春のような陽気に包まれた気がした。
「一番大切なものがなくても良いから、やり直しをしたかったんじゃないのか?」
天使おじさんの言葉は、ぐさりと胸に刺さった。そうだ。それでも良いからやり直したかったんだ。
自分で選んだくせに、何を後悔してるんだと責められているようだった。悔いたところで、無駄な時間を過ごすだけなのに。
「そうだよ。そう思ってた。正直、別に大切なものがなくても、生きていくこと自体はできるって今も思う。暮らしていける場所も食べ物もあるし、お母さん以外にも大切なものは残ってる。でも、ただ生きるだけじゃ、私は駄目なんだって気がついたの。やっぱり、本当に大切なものがある世界で生きることが、私にとっての“生きる”なんだって。それに今更気づいたって、もう遅いことはわかってるけどね。でもさ……私のせいでお母さんがいなくなっちゃったんだと思うと、罪悪感で辛くて……苦しくて……なんでそんな道選んじゃったんだろうって、どうにもならないことなのに思ってしまうの……」
毅然と話していたつもりだったのに、自分の罪の意識と、母への思いが込み上げてきて、いつの間にかまた嗚咽を含みながら泣いていた。
今日はずっと泣いている気がする。体中の水分が、なくなってしまうのではないかと思った。
「会いたいのか」
天使おじさんは、また一方的に質問する。そんなもの、答えは一つじゃないか。
「会いたい……会いたいよ。お母さんに会いたい!」
泣きじゃくった幼い子供のように、私は訴えた。
天使おじさんなら、何とかしてくれるのではないかと、どこか期待していたのだ。
だって、死んだ私にやり直しの機会を与えてくれ、生き返らせた本人なのだから。
「……お前の一番大切な人に、会える方法が一つだけある」
彼は静かにそう答えた。私は驚いて立ち上がる。先程まで子鹿のように震えていた足に、不思議と力を入れることができた。
「本当! 何、その方法って?」
私は天使おじさん言葉を待った。
彼は何も言わずに空を見上げる。何かが見えるのかと思い、同じく目線を宙へ投げるも、点々と輝く星と、空を泳ぐ雲、そして欠けた月しか見ることができなかった。
「お前が死んだあの日までに、もう一度死ぬことだ。そうすれば、この世界は元通りになり、お前が死んだ、あの日へと戻る。やり直しの世界はなかったことになり、全てがリセットされるのだ」
時が止まったかのように、風がぴたりと止んだ。
言葉が喉に突っかえて、出てこない。金魚のように、小さく口をパクパクして、何かを言おうとしているのに。
そうしている間に何を言いたいのかも、わからなくなってくる。究極の二択を目の前に用意され、ロシアンルーレット型の最期の晩餐が開かれたようだった。
「それにより、大切なものは蘇るが、お前は死ぬことになる。もし、以前死んだあの日の時間を超えると、お前は一生、一番大切なものに会うことはできない。だが、お前はそのまま、この世界で生きることができる」
簡単には決断できない条件だった。私が死ぬことで、母は生き返る。いや、元の世界に戻ると言う方が正しいだろうか。だが、高羅や麻仲、他にも様々な人たちとも、もう会えなくなってしまうのだ。
そもそも、やり直しをリセットしたとして、母とも会えるのかと疑問に思う。死んだら会えないのではないのか。それとも、天国から見守る形での“会える”という意味なのだろうか。
「自分の責任で失った大切なものを守るために死ぬか、大切なものを失ってでも生きるか。どちらを選ぶのだ?」
私の責任……。
頭に重く伸しかかる。ズンと体が重くなった。温かいのに重みを含んだその言葉を、今の私は受け止めることができない。
私はまだ生きていたい。高羅や麻仲とも、これからもずっと一緒にいたい。
でも、母にも会いたい。私がやり直しをしたことで、母がいなくなってしまった世界にいるのも辛い。
だからといって、もう一度あの時と同じように死ぬなんて。死ぬとわかっていて、そんな怖いこと、できるわけがない。
ぐるぐると思考が回る。天使おじさんと私の間に、長い沈黙が流れた。
「……急に言われても、今すぐには決められないよ。もう少し考えさせてほしい」
絞り出した言葉はそれだった。ある意味、逃げたのと同じかもしれない。それでも、簡単に一方を選んでしまえば、それこそ本気で自分の選択を恨む結果になるかもしれない。だから私は時間が欲しいと頼み込んだ。
すると天使おじさんは、こくりとマスクを縦に動かす。
「わかった。時間は十分にある。お前が死ぬのは、今から約一ヶ月後。十月二十八日の午後九時四十分だ。それまでに、どうするのか自分で考えて、選ぶと良い」
すると突然、辺り一面白い光に包まれ、思わず目を閉じた。街灯が全て発火したのかと思うほどに、眩しい。
微かな温かさが残る中、目を開けると、そこには人影すら残っていなかった。
人の気配一つない公園で、虫の音だけが自由な夜の世界を謳歌するように鳴いている。
一ヶ月で、どうするか選べだなんて、天使おじさんは簡単に言うけれと、私一人でこのまま結論を出せるだろうか。
その時、スマホの画面が光り、何かの連絡が入った合図がした。
『今日、教室来てくれたのにごめんね。何かあった?』
そのメッセージの上には『小木高羅』と名前が示されていた。私はすぐにそれを手に取る。
高羅に全てを打ち明けるべきなのだろうか。話したら、何かが変わるのだろうか。いや、その前に高羅に聞きたいこともあった。
『大丈夫! ちょっと話がしたくて。今度、部活が休みの日、一緒に帰れる?』
何も、今すぐに決める必要はない。高羅に相談するかどうかは、会った時の雰囲気で決めよう。
取り敢えず、今は約束だけを取りつけ、私は画面を閉じた。
長いようで短い一ヶ月。迷っていても、時間は止まってはくれない。
私は落ちた荷物を拾い上げる。抗えない現実を受け入れるように、今の私の家へ向けて、地面を蹴った。
あれから約一週間が経った。天使おじさんに会った日の夜は、施設に戻ると、また呆れ顔でため息をつかれながら門を開けてもらったが、あの日以来、私は毎日門限通り帰っている。
今までは、よほど遅くに帰っていたのだろう。門限までに帰ると、非常に驚かれた。
どうせその日だけの気まぐれで、明日からは夜通し遊ぶのだろうと噂されたり、兄弟たちに煽られることもあった。
だが、何を言われても私は門限までに帰り続けた。それは、門限の本当の意味を知れたからだと思う。
突然態度が急変した私に対し、よそよそしい雰囲気を出す職員や、わざと突っかかってくる弟たちも大勢いたが、私は冷静に言葉で伝えるよう心がけた。
「門限は守らなければならないルールじゃなくて、私を守ってくれるためのものってわかったから」
「帰ってきてほしくないのはわかってるし、家族と思われてないのも知ってるけど、そんな風に言われると傷つく」
「今の私の家はここしかないから」
毎日嫌われ役として生きているが、こうして自分の気持ちをそのまま言葉にしていると、弟たちは少しずつ私の反応を楽しむことが減ってきている気がした。
学校へ行けば相変わらず透明人間で、勉強面は追いつけない部分も多いが、怠ることはなくなった。それなりに毎日真面目な態度で授業を受け、補習も受けている。
アルバイトは生前と変わらないところに勤務していると、スマホの履歴とカレンダーに残されていたため、施設に毎日の勤務時間と帰宅時間を予め報告した上で、シフト通り働いた。
そして夜は一人、ぼうっと天井を眺めて考える。
生きるか死ぬか。
単純に言えば、その選択だった。一度死んだ身なのに、今こうして生きていることは特別で、有難いことなのだろう。
母一人を選ぶために、全てを捨てるのは怖い。だが、そんなことを考えているこの場所は、多少慣れてきていたとしても未だに違和感が残る場所で、帰る度に母と暮らしたあの家を思い出してしまうのだ。
そして綺麗に洗ったタイムカプセルをもう一度開けて、手紙を読み返す。会いたくてたまらなくなり、苦しくなる。
そんな時に限って、麻仲や高羅から連絡が入る。まるで偏りが生まれないよう、大切なものたちが天秤にかけられているようだった。
どれほど真剣に考えても選べない。悩み苦しむ日々が続き、この世界に来て七回目の朝日が昇る。
今日は高羅と約束をしていた、部活が休みの日だ。
その日一日、朝からずっと、やり直しについてぐるぐると考える。その場の雰囲気に任せようと思いつつも、もし話すとなれば、何をどう話せというのか、まだ決めかねていた。
授業など耳に入らず、重苦しい気持ちを抱えながらも、時間は刻一刻と過ぎ去り、終礼を終えて教室を出た。いつもなら嬉々として約束している校門前で待っているため、今日はきっと明らかに表情が違うことを高羅なら見抜くだろう。
「春田さん、お待たせ。……大丈夫? 体調悪い?」
ほらね、と思い嬉しくなるものの、無性に切なくなった。付き合った理由もはっきりしないような相手の顔色の変化に、どうして彼は気づくことができるのだろう。
「体調は大丈夫。でもちょっと色々あって……」
そう言って私は口角を上げた。無理やり笑った顔は、高羅の目にはどう映るのだろうか。
「話があるって言ってたよね。どこか別の場所に行く?」
「うん。落ち着いた場所だと嬉しいかも」
そうして私たちは学校を出た。同じく帰宅部の子たちや、部活が休みの人たちがわらわらと駅やバス停に向かって歩いている。
すれ違いざまにくる、刺さるような視線にはもう慣れた。
痛いほどの視線から逃げるように人気の少ない道へと入る。まっすぐに行ったところに、何度か訪れたことのあるチェーン店のカフェがあった。
それなりに有名な店のくせに、場所の問題からか、知り合いに出くわすことは少ない。
カランと音を立てて店に入ると、店内は隠れ家のように、奥にかけて細長くて狭い。一階に広がるカウンター席には誰も座っていなかった。
「いらっしゃいませ。二名様でお間違いないでしょうか」
「はい。あの、できればテーブル席でお願いします」
「かしこまりました。それでは二階の方にご案内いたしますね」
カウンター席では、お店の人たちに話を聞かれそうな気がして、テーブル席を志願する。
店員さんは快く了承してくれ、すぐ目の前の階段を上って案内してくれた。
二階も見渡す限り数人ほどしか客は見当たらない。席ごとに仕切りがあり、話をするにはもってこいの場所だった。
まずは二人でメニューを見て、注文をする。私は甘いイチゴのスムージーを、高羅は抹茶ラテを注文した。
店員が去り、二人の時間になる。落ち着いたジャズらしき曲が、耳の周りで踊っていた。
お互い、何を話せば良いのかわからず、沈黙が続く。私も切り出し方が見つからず、手持ち無沙汰になり、置かれた水に口をつけた。
「今日さ、三時間目体育だったんだけど……」
高羅が先に沈黙を破り、声をかけてきたため、私は驚いて目を見開いた。
「え、うん。それで?」
「……いや、ごめん、やっぱり何でもないかな」
私が聞き返すと、なぜだか視線を逸らし、突然始めた話題を終わらせた。何だかおかしくなって、私は少し吹き出してしまう。
「えぇ? どういうこと? 何でもないわけないでしょ」
少し緊張感がほぐれたように、私が突っ込むと、高羅は口元に手を当て、少し顔を赤らめた。
「いや、大したことじゃないんだけど。……体育をしてる時、空を見たら、たまたま虹と飛行機雲があってさ。春田さんも教室から見たかなぁ、なんて……」
虹と飛行機雲……? それを私も見ていたかって?
「可愛すぎるでしょ高羅!」
つられるように私も口元から頬にかけて両手で押さえるも、思わず本音が漏れてしまった。
高羅の顔が更に赤面する様子を見て、私も頬が熱くなってくるのがわかる。
この歳になって、虹と飛行機雲に感動し、彼女も見ているか考えるだなんて。なんて可愛い人なのだろう。
完全にやられた。胸がぎゅっと掴まれるように、好きが更に増していくのがわかる。
「ほらー、どうでも良いことだったじゃんー。何か話題を出そうと思ったら、パッと出てきたのはそれだけだったんだよ……」
ぐっと悔しげに私を見つめるその姿は、まるで悄げた犬そのものだ。耳と尻尾が地面につく勢いで下がっているように見える。
丁度その時、注文をしていた飲み物が届いた。店員さんが優しくコースターの上にグラスを置いてくれる。
店員さんが来てくれたことにより、一度はこの胸の高まりが落ち着くかと思ったものの、あまりの急上昇に抑えられる気がしない。私はそんな自分を抑制するため、イチゴのスムージーにストローを刺し、勢いよく吸い込んだ。食道から胃にかけて、冷たい感覚が流れ落ちていくのがわかる。
いつだって思ってしまう。こんな人、他にいないと。
今もこの沈黙を何とかするために話題を考えてくれた。かつその話は、聞いた相手を虜にしてしまうような、何とも可愛らしい内容だ。
本当に好きで好きで、堪らないからこそ、やはり込み上げてくる思いは“手離したくない”だ。でも、高羅を選んで本当に良いのだろうか。母のことはもう、自分の思い出として取っておく方が幸せなのだろうか──。
「え、どうしたの?」
高羅が心配そうな表情をして、私の瞳を見つめてきた。
「えぇ? 何が?」
そう言った瞬間、生暖かい雫が輪郭をなぞるようにして落ちていく。そこでようやく、自分が泣いていることに気がついた。
ああ、またか。
私の中ではそう冷静に捉えているのに、留まることを知らない涙たちに対し、どうしたらいいのかわからない。だが、これほど何度も涙として、内側から溢れてしまうほどに、私は限界なのだということはわかった。
「ごめん。急にごめんね。どうしたら良いのかわからなくて……高羅に言うかどうかも迷ってたんだけど、もう一人で抱え込むのは限界みたい……」
手の甲で何度も涙を拭う。拭う度に、それがまた、片付けられたばかりの道を流れた。
高羅もただ事ではないと悟ったのか、あわあわと私の方に手を差し伸べてみたり、両手を擦り合わせるなど、明らかに動揺している。
「そんなに辛いことがあったなんて、気づけなくてごめん。もう抱え込まなくて大丈夫だから。何でも話して」
私のことを考えて、必死に言葉を絞り出してくれたのだろう。そんなことを言われてしまえば、どうしたって甘えたくなってしまう。
幼い頃に大人に甘えることができなかった反動が、今になって抑制できないほど大きくなってしまいそうで、そんな自分が怖かった。
「何でも?」
「うん。何でも大丈夫だよ」
できるだけ、堂々と構えようとしているのか、高羅は背筋をピンと伸ばし、膝に手を添えている。
何と反応するかわからない。馬鹿にされるかもしれない。それでも、もう言わずに日々を過ごしていく流れは、きっと帰ってきてはくれないのだと悟った。
「私、お母さんを殺したの」
白昼堂々、私は自分の罪を打ち明けた。目の前から音が消え、私と彼の二人だけの世界になる。
「殺した?」
高羅は絞り出したかのような声で、ただ一言そう尋ねる。表情は険しくなりたいところを必死に抑えるように、眉がピクピクと動いている。私の道徳観を疑いたがっているのだろうなと思った。
「そうだよ」
膝に乗せられた指先が冷たくなって小さな振動を起こす。
本当のことを話すのは怖い。頭がおかしい人だと引かれるかもしれない。気味が悪いからと、別れを言い渡される可能性だってある。
それでも、高羅には言おうと思った。だって、私だけでは決められない。大切な人がこの事実を知って、どんな反応をするか。それによってきっと、私は道を定められる気がするのだ。
「私ね、本当は一度死んでるんだ。だけど、どうしても高羅や友達に会いたかったの。やりたいことが、たくさんあったの。そうしたら、天使おじさ……天使に、死んだ日から約一ヶ月前にやり直させてもらえたんだ」
我ながら、なんてファンタスティックな話だろうと思った。
きっと高羅も、いきなり何を言い出すのだと考えているだろう。そう思い、キョトンとする高羅の表情を想像したが、意外にも高羅は真剣な表情を保ったまま、何も言わなかった。
「でも、それは大切なものがない世界でのやり直しだったの。大切なものが何かは教えてもらえなくて。それでもやり直すことを選んだら、お母さんがいなくなってたの。私が本当に生きていた世界では、高校生になった今でもお母さんがいて、二人でずっと一軒家に住んでいたの。そんな唯一の家族だったのに……」
語尾がどんどん薄くなる。実際、起きたことを言葉にしてみると、より現状に向き合わされている気がして、気持ちが昂ってしまう。
「それなのに……私がやり直しを選んだから、お母さんがいなくなっちゃったの。死ぬ前は喧嘩ばかりで、私の気持ちを全然わかってくれないお母さんが大嫌いで、もしお母さんがいなくなったとしても、別に大丈夫だと思ってた。でも、実際いなくなったら大丈夫なんてことはなくて……。お母さんが私にしてくれていたことの本当の意味がわかったり、私にも良くないところがあったんだって、気がついたの。お母さんは、ずっと私のことを思ってくれていたんだって……それなのに私がやり直しを選んだせいで、お母さんはいなくなっちゃった。私が殺したも同然なの」
思いの丈を一気に外へと吐き出す。私と高羅の二人だけの世界で、忘れていた息継ぎを繰り返した。
高羅は黙り込んだままで、私をじっと見つめていた。私の方が気まずくなって視線をずらし、上に乗ったクリームがじわじわと溶けていくスムージーを見つめる。
小刻みに震える指先を使いながら、目の際に溜まった涙を拭き取った。
「そうだったんだね」
高羅が一言、呟いた。否定も肯定もないその言葉に、私は驚いて尋ねてしまう。
「信じるの?」
すると高羅はうーんと悩みながら、抹茶のラテに口をつけた。半透明のストローの中で、ゆっくりと抹茶が吸い上げられていく。
「まあ、そうだね。最初はびっくりしたけど。でも最後まで聞いて、話の筋は納得したし。本当か嘘かは、自分が直接経験したわけじゃないから正直わからない。だけど、春田さんが泣きながらそう言うのなら、そうなんじゃないかなって。例え、嘘だったとしても僕は騙されてあげるよ」
最後は優しく微笑んだ高羅。
私の方が信じられなかった。こんなにも、リアリティのない話を、例え嘘だったとしても騙されてあげると言えるほど、信じてくれるだなんて。
そして何より信じられないのは、高羅の人間性だ。こんなにも人として素晴らしい男性が、私の彼氏だなんて。どうしてそんなにも、人に……いや私に優しくできるのだろう。
なぜ付き合ったのかもわからない相手なのに。
「誰にも言えなくて辛かったよね。でも、春田さんが殺したわけじゃない。だから思い詰めなくて大丈夫」
高羅は私の苦しみを取り除くための、最善の言葉を選んでくれたような気がした。真剣な表情が、じっと私の瞳を貫く。
私が殺したわけじゃない……か。
私はイチゴのスムージーを、ストローで混ぜた。クリームとマーブル状に混ざり合い、やがて白い塊はなくなって、更に薄いピンク色の飲み物になる。
「高羅は優しすぎるよ……。信じてくれて本当にありがとう」
ストローを回す手を止めて、そう答えた。
混ざり終えたスムージーを、一気に飲み干す。グラスの内側についた残りカスのようなものが、張りついて胃に吸収することができなかった。
高羅も嬉しそうに私を見つめた後、同じように抹茶ラテを二回ほど掻き混ぜて吸った。乗っていた抹茶の粉と混ぜ合わせても、当然色は変わらなかった。
「高羅。私、高羅のことめちゃくちゃ好きだよ」
唐突な告白に、高羅は飲んでいた抹茶ラテを吹き出しかける。
私に背を向けて、気管に入り込んだ異物を出そうと、何度も咳き込んでいた。ごめん、と手を伸ばすも、大丈夫だとジェスチャーで返答されたため、私の手は空中を泳いで自分の膝の上に据えられる。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
そばにあったペーパーを一枚取り、高羅は口周りを拭いた。
唐突な話題の変更に、高羅も驚いたのだろう。私の中では繋がっているけれど。
高羅の言葉に安心したからか、いつの間にか涙は止まり、乾いた道が頬に生まれた気がした。
「でも、高羅は私のことどう思ってる? この前、聞いちゃったんだ。どうして私と付き合ったのかを、高羅が友達に聞かれていた時、高羅は『なんでだろうね』って言ってたよね。確かに、一度も好きとか聞いたことないし、どうして高羅ほどの人気者でモテモテで、人間性が神様のような人が、私と付き合ってくれたんだろうと思って……」
高羅と目を合わせて話していたが、次第に私の視線は、グラスの結露が集まってできた、水溜まりへと落ちていく。
彼の綺麗な瞳を見つめ続けることができなかったのだ。もし不純な動機で付き合ったとしたら、今ここにいる優しくて思いやりのある高羅は一体何者なのかわからない。
私にかけてくれた嬉しい言葉の数々や、付き合う前から積み上げてきた思い出、そして時間も、何のために費やしてくれたのか。そんなことを考えると、答えによっては人間不信になりそうな心地だった。
高羅は私の問いに対し、「あー」と声を漏らした切り、黙り込んでいる。私も顔を上げられず、そのまま俯いていた。
「本当のこと言ったら、春田さん傷つくんじゃないかな……」
本当のこと?
利き手と反対の手で書いた文字のように、ひょろひょろとした弱い口調で彼は言った。それは優しさからか、恐怖からからか。それとも保険としての言葉だからだろうか。
高羅の視線の先には私があることは伝わってくるが、私から彼の表情を読み取ることはどうしてもできず、目の前にある残り少ない抹茶ラテを見るので精一杯だった。
彼の言う「本当のこと」を知ることは怖い。傷つくとわかっていて知るのはもっと怖い。
それでも、何も知らずにこのまま高羅と過ごすのはもっと嫌だ。
「大丈夫。高羅が受け止めてくれたから、今度は私の番だよ。本当のこと、話して」
高羅の目を再び見つめてそう言った。スカートをぎゅっと握って覚悟を決める。
高羅が何を言おうと、全て受け止めよう。彼が私にしてくれたように。
時間にして一分ほどだろうか。沈黙が続く。とてもゆっくりで、長く感じた。
「僕は……恋愛的な意味での、好きって感情がわからないんだ」
そう言葉にした高羅は、本当に申し訳なさそうに眉を下げている。
「好きが、わからない?」
「そう。男子も女子も、みんな自分にとっては大切な人で、言ってしまえば好きな人たちなんだ。中には特別に仲の良い異性もいて、告白されて付き合ったことも何回かある。でも、それは友人としての好きなんじゃないかとか、嫌いじゃなかったら好きなのかとか、会いたくないわけじゃないけれど、会いたいと思わなければ、それは恋愛的に好きとは言わないんじゃないかとか。そういうことを考えていると、恋愛的な意味での好きって、何だかわからなくて。それが言動に出るんだろうね。毎回数ヶ月足らずで振られてばかりだよ」
高羅は自身の過去を笑うように、口角が上がっていた。
意外すぎる過去の話を聞き、私は驚きを隠すことができない。付き合った経験がないとは思わなかったが、高羅ほどの人が毎回振られているなんて信じられなかった。
「付き合う前、春田さんのことは、全力で好いてくれる人だなとか、単純に可愛いと思ってた。そんな春田さんなら、僕も好きになれるかもしれない、好きを知れるかもしれないって思ったから、付き合ったんだ」
覚悟はしていたが、ぐさりとくるものがあった。
不純な動機とは言わないが、私を好きだから付き合ってくれたわけじゃなかったのだと実際言葉にして聞くと、高羅のことが好きな分、苦しくなる。
一方的な思いの球を投げても、そこに人がいるだけでは成り立たない。グローブやバットを持たない人に投げても、ゲームにならず、虚しくなるだけだ。
伝えても伝えても、自分に返ってこない切なさは大きかった。
だが、そんな私を見てか、高羅はまだ続きがあるというように話し出した。
「だけど、いつも元気で笑っている印象だった春田さんが、泣いてるところをさっき初めて見て、ああ、この人を支えたいなって思ったんだ。僕にできることなら、何でもしたいって。笑顔でいてほしいなって。それを恋愛的な意味での“好き”と言うのなら……僕は春田さんのことが好きなんだと思う」
春の花が一気に開花するかのように、ぶわっと体中の熱が弾けた。顔が熱くて堪らない。
高羅は真剣に私の目を見て言ったすぐ後に、わかりやすく顔を下に向け、旋毛を見せてきた。隠しているつもりなのかもしれないが、真っ赤に染まっていく耳が、その理由を物語っている。
高羅が、私のことを好き?
落ち込んでいた心が、天国を超えた先まで飛んで行ったような心地だ。
初めて高羅から『好き』という言葉をもらった。好きな人に好かれるというのは、これほど嬉しいものなのか。
「何それずるいよ……」
ああ、まだ生きていたい。高羅と一緒にいたい。このまま終わりたくない。
「じゃあさ、これから絵美って呼んでよ。苗字呼びだと、まだ壁感じるし」
頬が緩んでいるのがわかる。高羅が顔を伏せているの良いことに、渾身のニヤケ顔を決めてみせた。
高羅はちらりと顔を上げる。影になっていても、顔が赤いことはすぐにわかった。そして、ニヤケ顔も急には元に戻すことはできず、結局しっかりと見られてしまう。
「絵美……はやっぱり個人的にちょっとハードル高いから、とりあえずしばらくは絵美さんって呼んでも良い?」
絵美さん、と初めて下の名前で呼んでくれた高羅に対し、また体が熱くなる。
私は何も言えなくなって、ただ首を縦に何度も振ることしかできなかった。
「……何ニヤニヤしてるの?」
「してないしてない! 嬉しくてニコニコしてたの!」
「それ一緒じゃない?」
二人であははと大きく笑った。酔っ払いのような、真っ赤な顔色だった。
ああ、本当に幸せだ。狂おしいほどに愛しい世界だ。
「高羅。私、全力で生きるね」
高羅は少し取り戻してきた肌色を見せて、優しく頷いた。
高羅とやりたかったこと、全部やろう。行きたかったところには、すぐに行こう。
いつ何が起きるかわからないのだから。
いつの間にか、二人だけの音のない世界は、元の落ち着いた音楽が流れる、少し狭めのカフェに戻っていた。
オレンジ色の細い光が差し込んでくる。大きな目玉焼きのような太陽が、地球の裏側に食べられていった。
真実を打ち明け合ったあの日から、私たちはこれまでよりも更に一緒にいる時間が増えた。
今までも、一緒に出かけることは何度もあったが、休日に少し遠出をすることが増えたり、互いの好きなことについて語り合ったり、それに関連する店に行くことも出てきた。
サッカー観戦に行ってみたり、サッカーミュージアムを見に行ったり。
様々なスポーツが楽しめる施設に行って、一緒にサッカーをすることもあった。
そこでサッカー以外にも、スポーツ自体にセンスがあり、難なくこなせる高羅が眩しくてかっこ良かった。私は本格的な運動経験はないものの、そこそこにできる方らしく、何とか高羅についていく。それでも失敗したり、上手くいかないことはたくさんあって、でもそれすら高羅と一緒なら楽しかった。
そんな完璧そうな高羅だが、ある日デートの帰り道に、ベンチに座って話していると、トテトテと歩きながら鳩が接近して来たところを見て、高羅はすぐに立ち上がり、ベンチから五メートルほど距離をとるくらいには警戒している姿があった。
高羅は実は、鳩が大の苦手らしい。
小さい頃から鳥全般があまり得意ではなかったが、小学校六年生の頃に見た夢がきっかけで、完全に鳩が駄目になってしまったそう。
どんな夢かと尋ねると、何の変哲もないただの鳩が頭の上に留まり、巣を作って卵を産んだそう。気をつけながらも学校に行くために歩き出すと、うっかり卵を落としてしまったらしく、それに鳩が激怒して、体中を食いちぎられる、という内容だったらしい。
それはトラウマになるのも無理はない。
高羅はこれまで他人にそれをできるだけ隠してきたらしく、恥ずかしそうにしていたが、完璧そうな人でも、必ず苦手なものがあると知り、どこか安心した。人間らしさを、ようやく感じることができたからかもしれない。
「苦手なものは苦手で良いじゃん。だってそれが高羅でしょ?」
そう伝えた日から、少しずつ高羅自ら、苦手なことや、好きではないものなど、マイナス面と思われることも話してくれるようになった。
完璧を生きてきた高羅は、どこかで他者の評価通りに生きなければならないと、無意識のうちに思い込んできたらしい。
それが少しずつ、負の面を隠す自分となり、異性に恋愛感情を持たれたとしても「自分のどこがそんなに良いのだろう」とか「きっと、良い部分しか知らないんだろうな」とか「負の面を見ても好いてくれるのだろうか」と思ってしまっていたのだそう。
とは言え、苦手なものなんて可愛いもので、鳩や風船、注射などだが。
風船は過去に一度、ふとした時に割れてしまったことがきっかけで、いつ割れるかと怖くなってしまったらしく、できるだけ避けているそう。
注射に関しては、昔は酷く泣いて暴れて拒否したそうで、両親が押さえつけながら予防注射をしに打ってもらうこともあったのだとか。今でこそ、拒否はしないものの、打つことがあればかなり緊張して力が入ってしまうらしい。
私は終始可愛いとしか思えなくて、寧ろ好きが増していったが、本人からすると、女々しいような気がして、コンプレックスに感じてきたらしい。
それが過剰に反応して、好きなことすらも、あまり積極的には言えなくなってしまったのだそう。
そのため、なかなか自分の好きなところや、行きたいところに誘うこともできず、何でも私の意見に賛成して合わせてきたそう。
だが、高羅の苦手なものを私が受け止めてからは「この人なら大丈夫かも」と思えたそうで、少しずつ行きたいところも主張して誘ってくれることも増えた。
得意なこともたくさん見せてくれるようになった。
ルービックキューブが好きで何種類も持っていること。
ゲームが好きなこと。
英語が楽しくて、たまにオンライン上でネイティブな人と話したり、ゲームをしていること。
陶芸が好きで、簡易的なキットを持っていること。
まさに多趣味であり多才と言えるだろう。
私はなかなか、これといったものはなかったが、憧れだったデートスポットにひたすら誘った。
遊園地、水族館、動物園、映画館、カラオケ、図書室での勉強デート。
どれも高羅と過ごす時間は楽しくて、本当に幸せだった。
高羅も私も、自分の趣味や一方的にやりたいことに対し、他人を付き合わせるのは、あまり良くないと考えていたのに、いつの間にか、そう思うことはなくなっていた。
いや、違う。高羅と私の二人の時だけ、今までとは異なる思考を持てるようになったのだ。
自分に付き合わせる罪悪感よりも、もっと相手を知りたくなり、同時に自分のことも共有したくなったのだ。
何よりそう感じたのは、寂しい夜かもしれない。
ある日、一人でいるのが寂しくて、高羅に連絡した。すると、「電話する?」と言ってくれたのだ。
普段話す時はなんてことないのに、初めて通話を時は、あまりにも緊張して、自らかけることができなかった。高羅にかけてもらい、応答ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし?」と聞こえてきた高羅の声は、耳に触れられるような距離感で、いつもより少しだけ低めに響き、胸がドキドキしてくすぐったかったのを覚えている。
その日から、互いが無理をしない範囲で寝落ち通話をすることが増えた。
職員たちに見つからないように、布団の中に潜って、小声で話すこの時間が、心底好きだった。
高羅が疲れて先に眠ってしまった後に聞こえてくる寝息が、春の風のようで愛おしかった。
どちらかが寝たら、通話を切って終了、という約束にしているが、高羅が先に寝た場合、私はその後少しだけ繋げたまま、高羅を側に感じることが好きだった。もちろんこれは、私だけの秘密にしている。
以前までの私は、通話をしたい気持ちはあるものの、それをすることで高羅の時間を奪ってしまうことになる、と思い控えていた。だが、勇気を出して「寂しい」と連絡したことで、高羅の方から声をかけてくれたのだ。その真意を聞くと、高羅自身も話したい気持ちがあったのだそう。
互いのことを考えて抑えることも愛かもしれないが、自分のことをオープンにすることも愛なのだと気がついた。
そんな日々が続いたことにより、私たちの仲は少しずつ深まってきたような気がする。
やり直しをして良かったと、ようやく思えるようにもなった。
やり直して生きている一日一日を終えていく度、欠けた月はどんどん満ちていく。
もう少しで手が届くくらい、印象的だったあの日の大きさへと近づいていた。
気にしないようにしていても、どうしても見上げてしまう夜空に、蓋をしたくて堪らない。
「絵美さん、どうしたの? ぼうっとしてるけど」
高羅の教室で空を眺めていた私に、彼が覗き込むように話しかけてくれたことで、現実に引き戻されたような心地だった。
「なんか、綺麗だなって思ったら見つめちゃった。明日は満月かな? 帰る時、一緒に見れたらいいね」
私がそう言うと、高羅も安心したように微笑んだ。
「そうだね。明日も楽しみにしてる」
明日を境に、私の運命が変わる。
どうか無事、明日を終えることができますように。
そう月に願いながら、私たちは別れ、帰路へついた。
アルバイトもなく、帰宅したのは門限の十分前。
最近は異質な目で見られることも少なくなっていた。
他の男の子たちの大きな煽りも減りはしたものの、やはりレンだけはそれが面白くないらしく、何かと突っかかってくることが多い。
レンには、丁寧に言葉で伝えようとも、反感を買うばかりだった。
今日もまた、同じように来るのだろうかと身構える。
扉を開け、施設内に入った。
すると玄関のところで、膝を抱え、顔を埋める男の子が一人、座っていた。
その子は私が扉を閉める音を聞き、びくっと体を揺らした後、私を睨むようにして、潤んだ瞳だけが埋もれた顔から見えてくる。予想通り、レンだった。
私の存在に気づいた瞬間、レンは勢いよく立ち上がり、側にあったスリッパを思い切り投げてくる。私を睨むその目の周りは、赤く腫れ上がっており、悲しみの形跡が怒りとなって表れたことがよくわかった。
黙って自室に逃げることもできた。だが、私は、敢えてその場から動かなかった。
だって、明日で運命が変わる。だから、どんなことにも正面から向き合って、私自ら変わらなければならない。そんな気がした。
「危ないんだけど。痛いしやめて」
腕で顔を守っていたため、怪我はなかったが、置かれていたスリッパが全てなくなるまで、レンは歯を食いしばりながら私に投げ続けた。
ついに投げるものがなくなると、息を切らすように肩を上下させる。
「何かあったの」
私がその場で話しかけるも、レンは目を逸らし「うるせぇ」と呟いた。
「質問の答えになってないと思うんだけど」
冷静にそう伝えると、また怒りのスイッチが入ったかのように、レンは大声を上げた。
「黙れよ! そんなに何があったか知りたいか!? 興味もねぇくせに! というか、ここまでやってるのに意味がわかんねぇのかよ! 頭悪ぃなぁ、帰ってくるなって言ってんだよ! 最近の絵美、まじで目障りなんだよ、まじで消えろよ!」
どこまでも相手を傷つけたくて必死に暴言を吐くくせに、一番苦しそうなのはレン本人だった。
何があったのかはわからないが、とにかく誰かに当たることで発散したいのだろう。
それを迷惑だと思っていたが、冷静な目で見ると、レンはその方法以外、自分の感情のコントロールの仕方や、思いの発散方法を知らないのかもしれない。
今まで私という敵がいることで、煽ることができる集団の中に入っており、仲間意識が生まれ、安心感があったのだろう。それが失われつつある今、居場所や立ち位置がなくなりそうで不安で仕方がなく、とにかく安心したくて、私を敵に回したい、という思いが、言葉の節々から伝わってきた。
それを上手く言葉にできない不器用さは、私と同じだと思ってしまった。
「私が消えることによって、レンは本当に満たされるの?」
私は転がった灰色のスリッパを、一つ拾った。レンはまた強い睨みをきかせ、「は?」と威嚇する。
「何があったか知らないけど、むしゃくしゃする原因を解決しない限り、私が消えたところでレンの怒りや悲しみはなくならないでしょ?」
気づいてほしかった。以前の、麻仲が私に教えてくれたように。レンの本当の気持ちがどこにあるのかに。
「は? 説教かよ。絵美のくせに」
「説教じゃない。レンが本当に苦しんでいる原因を解決させない限り、どれだけ人に当たったところで、レンが苦しいだけって言ってるの。私は心配して言ってるんだよ」
「余計なお世話だよ! 絵美に心配されるとかムカつく!」
何を言っても、レンはヒートアップするばかりだった。伝わらないもどかしさに、胸が痛くなる。
私の心配も、気遣いも、アドバイスも、レンの立場から見ると、全て耳が痛くて拒絶したくなる文句でしかないのだろう。
人は、特定の人物の言葉を受け入れたくないと思った瞬間、何を言ってもマイナスにしか伝わらないのだ。
まるで母に対する生前の自分を見ているような気分だった。
それなのに、どう声をかければ良いのかわからない。レンの気持ちが理解できるのに、一度貼られたレッテルを撤回させる方法は私には思い浮かばなかった。
「そうだよね、ごめん。でも、同じ場所で暮らす仲間だから。レンは一人じゃないよ」
スリッパをぎゅっと握った。伝われと願いながら。
それでもレンは、私の思いを跳ね除けるように、はっと右の口角を上げ、鼻で笑った。
「同情も大概にしろよ! 学校だって、施設の奴らだって、皆そうだ! 親に捨てられたからって可哀想な目で俺を見て、馬鹿にしやがって。暴力がなんだ、暴言がなんだ! 親に捨てられたのは俺が悪いって言うのかよ! そうでもしねぇと認識すらしてくれねぇくせに……!」
レンは歯を食いしばりながら、頭を両手で思い切り掻きむしる。髪の毛が全部抜けてしまいそうなほど逆立つも、その痛みに気づいていないかのような表情だった。
それ以上に違う部分が痛くて、苦しくて堪らないのだろう。
でも、それこそが彼の本当の気持ちだ。ようやく出てきた本音を、私は喉から両手で掴み取る思いで言葉の縄を紡いだ。
「そう、それだよ! それで良いんだよ! レンの本当の気持ちはそこにあるんだよ!」
私の言葉を聞いたレンは、予想外の反応に、力を込めていた手を緩め、私を見つめる。
「そのままで良いんだよ。レンは他人からの目を意識したり、自分の境遇に劣等感を抱き続けてるから苦しいわけであって、それは誰かがいなくなることによって解決する問題じゃない。原因が何か、自分でも気づけないから、現状が変わらなくて、より苦しいの。私がこうして伝えても、きっと癪に障るだろうから、ここまでにするけど、とにかく、レンが本当の気持ちを打ち明けたら、わかってくれる人や一緒に解決方法を考えてくれる味方はたくさんいるってことを、覚えておいてほしい。今は馬鹿にされてるって感じるのかもしれないけど、きっとそんなことはなかったんだって思う日が来るよ。だから、そんなに不安にならないで」
彼の心を、言葉の縄で掴めただろうか。閉ざしている心に、針一本ほどの小さなものでも良いから、穴をあけることはできただろうか。
私の言葉をどう受け取ったのかはわからないが、レンは少しだけ冷静になったようで、手は重力に従って落ちていた。爪の先が、少しだけ赤黒くなっている。
「私のことを嫌いでも良いよ。でも、レンは一人じゃないから。レンが信頼できる人に、本音を打ち明けられる人でいてね……」
私がこんなことを言える立場なのかと思いながらも、伝えなければレンだってずっとこのままだ。
何も私に悩みを打ち明けなくても良い。私のことを信用しなくても、嫌いなままでも良い。
彼の周りに、信頼できる人がいることに、彼自身が気づいて、たった一人、本音を打ち明けられたらそれで良い。
レンは一つ舌打ちをし、「キモ」と呟いてどこかへ行ってしまった。
私の言葉をどう捉えたのかは、レンのみが知っている。何を言っても無駄だと、諦めただけの可能性だってある。
今はこの言葉の意味がわからなくても良い。いつか「あの時、絵美が言ったことはこういうことだったんだ」と気づいてくれたら本望だ。
本当は一人の家族として言いたかった。だけど、きっと私にもレンにも、“家族”というものが自分の中にあって、お互いを“家族”と呼ぶのは容易ではない。
それでも、私たちは一度、同じ場所で暮らした仲間であって、ただの知り合いとは違う。だから、私は向き合いたかった。彼のために。そして自分のためにも。
私は放置されたスリッパを一つずつ拾い、元のスリッパ立てに戻した。
奥からスパイシーな匂いが漂ってくる。今夜はカレーだろうか。
靴を脱いで、荷物を置きに自分の部屋へと向かう。階段の踊り場にあった小さな窓から、一際輝く一番星が見えた。
いつか、私の言葉の種が、レンの中で芽を出しますように。
返答するように星が瞬いた気がした。
夕食時、レンは職員が声をかけに行っても食べに来ず、職員も仕方がないとすぐに諦めていた。
後から理由を聞くと、学校で何やら問題を起こし、かなり強めに叱られたらしい。施設に帰ってきてからも不安定で、物に当たったり、施設を飛び出したりと散々で、かなり手を焼いていたそう。
その原因をもう少し深掘りした方が良かったのかもしれないと思ったが、恐らく逆上するであろう未来しか見えず、今の私にはあれで良かったのだと思い直した。
向き合ったことによる疲れからか、歯磨きやシャワーを済ませ、ベッドに横になると、すぐに眠ってしまった。
明日の放課後は予定が入っていたため、早めに起きようと目覚ましをセットしてから寝るつもりが、それすらも忘れてしまうほど。
幸い、目が覚めると、窓の外は紫色と水色、そして淡い黄色の絵の具が水に溶かされたような、幻想的な明るさになっており、予定よりも早めに起きることができたと悟った。
私は部屋を出て、顔を洗いに行く。昨夜、大盛りのカレーを食べたせいで、浮腫んでいる気がしてならない。マッサージをして早く浮腫みを落とさなければ。
そんな事を考えながら洗面所へ向かって廊下を歩いていると、一つ扉がそっと開いた。
一か月前の出来事を思い出す。中から出てきたのは、前髪にヤシの木のような寝癖をつけ……てはいなかったが、あの日と同じく寝起きで目を腫らした女の子だった。
確か、アミちゃんと呼ばれていた気がする。
この一ヶ月でわかったが、彼女は小学校低学年の割には大人びていて、寡黙で、読書を好むような真面目な女の子。
人と群れることがあまり好きではないようで、ほとんど自室に閉じこもっている印象だった。
「お、おはよう」
目が合ったため、私が挨拶をすると、唇を数ミリ開いたものの、すぐにきゅっと閉ざし、目を逸らされてしまった。
食事も離れた席でとる事が多いため、ほとんど話した記憶がなく、緊張感があるのだろう。
そのままアミちゃんは、扉を閉めて、洗面所の方へとスタスタ歩いていった。反対方向なら良かったものの、残念なことに目的地が一緒なため、気まずい雰囲気が流れながらも、私は彼女の後ろをついて行く。
それなりに広めの洗面所で、彼女は顔を洗い始めた。間に入るわけにもいかず、私は歯ブラシを取り出して歯磨きを始める。
水が流れる音と、ブラシが歯を擦る音だけが響いていた。
アミちゃんがタオルで顔を拭き始めたのと同時に、私は口を濯ぎ、無言で場所を交代する。そしてアミちゃんは歯磨きを、私は洗顔を始めた。
違和感のない連携に、まるで何年もこうしてきたかのような息の合い方だった。
五分も経たずに私は顔を拭き、アミちゃんも歯磨きを終える。この子は以前もかなり早くに起きていたが、早起きをして一体何をしているのだろう。
そんなことを考えながらも、髪を梳いて浮腫み取りのマッサージをするために、自室へ引き返そうとした時だった。
「絵美は、ここ嫌い?」
声のした方へ振り返ると、アミちゃんが低い身長から視線だけをすっと持ち上げて、私の目を見つめていた。
「え? ここ?」
初めてアミちゃんの方から話しかけてくれたことに驚いてしまい、質問をよく聞き取ることができなかった。
アミちゃんはゆっくりと頷き、また口を開く。
「施設のこと。この前まで全然幸せそうじゃなかったし、喧嘩ばかりしてたから聞いた」
表情一つ変えることなく、まっすぐな目でアミちゃんはこちらを向いていた。
純粋な質問のはずなのに、どこか深い部分に探りを入れられている気がして、少し恐怖心を抱いてしまう。
「嫌いじゃ……ないよ」
「そうなの? じゃあ好き?」
「好き……かどうかは、わからないかな」
アミちゃんは、ふーんと呟き、洗面所の鏡に映る自分を見つめた。
彼女がどうしてこんな質問をするのか、意図が全く掴めない。
普段、施設の人とも関わることを拒否している彼女だ。アミちゃんは施設が嫌いだからこんなことを聞くのだろうか。仲間を探しているのか。
「アミはね、ここ好きなんだ」
唐突に、彼女は言った。予想外の言葉に、私は何も言えなくなる。
彼女は嬉しくも悲しくもない無の表情で、ただ自分が考えたことを口にしたような雰囲気だった。
「ここは殴られることもないし、ご飯をお腹いっぱい食べられるし、真っ暗で寒い中、外で朝が来るのを待つこともなく、ふかふかのベッドで安心して寝られる。大人も子供も、問題を起こさなければみんな優しいし、安心できるから好き」
短い会話なのに、彼女の言葉から見えてくる生い立ちはとても悲しかった。本当なら、そんな世界、知らずに生きるべきなのに。
「だけど、絵美やレンが喧嘩したり、大声を出している時は思い出しちゃう。だから基本、部屋に閉じこもっていたり、皆と接触するタイミングをずらしたりしてたの。多分、みんなアミのこと、大人しい子って思ってるだろうけど、本当はただの臆病者なんだ」
鏡を通して、アミちゃんと目が合った。窓から差し込んできた陽の光が、鏡に反射して眩しく、思わず目を細める。
「絵美も同じだと思ってた。思ったことを言葉にできなくて、態度や手に出すことしかできないって。だから勝手に同情してた。でも、最近の絵美はそうじゃなくなったよね」
アミちゃんは再び私の方へと顔を向ける。朝日が昇り、アミちゃんの背中から神々しい光が溢れていた。
私はごくりと唾を飲む。
「昨日、見ちゃったの。レンと絵美が話してるところ。怖かったけど、最後まで聞いてしまうくらい、絵美の言葉が胸に刺さった。それから思ったの。思いをちゃんと言葉で伝えられる絵美は、凄くかっこ良いって。同情じゃなくて、アミは今、絵美に憧れてるって」
耳から入る幼い透き通った声は、心の中に春をもたらしたかのように、一気に胸が熱くなる。
施設に来た翌日、アミちゃんを見かけた時は、嫌われていると思ったのに、そうではなかったのだ。
アミちゃんの表情は、逆光で見えなくなりながらも、微笑んでいるように思えた。
麻仲に指摘されたあの日から、ようやく私は自分の過ちに気がついた。
簡単には変わることはできなくて、上手く言葉にできないこともたくさんあった。
それでも意識をして、変わりたいと思ったから、思いを正しく言葉にできるよう頑張った。
小さな一歩一歩の積み重ねで、変わることができているのかわからなくて、不安な時もあった。
昨日のレンとのことだって、伝えて良かったと思っていたけれど、心のどこかで、言わなくても良かったんじゃないかと考えている自分もいた。
思いを口にすることだけが本当に正しいのか、なんて無意識のうちに不安を抱えていた私の存在を認識したのだって、今アミちゃんの言葉を聞いて、肩を撫で下ろすような感覚を覚えてからだ。
本当に言葉で伝えて良かった。昨日はレンに響けと思って言ったことが、こうして本人以外にも影響を与えるものなのだと知って、嬉しくて堪らない。
「ありがとう、アミちゃん。そんな風に思ってくれて嬉しいよ」
私はそっと、アミちゃんの頭に手を伸ばした。子供相手は慣れていないため、どんな反応が正解かはわからないが、シャボン玉に触れるように、優しく頭を撫でる。
アミちゃんは一瞬、びくっと肩に力が入り、目を閉じるも、すぐに開いて、私を見上げた。
「……アミも、絵美みたいになりたい。どうしたら良い?」
「なれるよ。初めは怖いかもしれないけど、自分の本当の気持ちに気づくの。そしてそれを認めて、一言ずつで良いから、口に出してみて。焦らず、ゆっくりでいいんだよ。勇気を出して、思いを伝えられるようになったアミちゃんは、きっと誰かの心を救う言葉を紡げるようになると思う。だって今、私もアミちゃんの言葉を聞いて、嬉しくなったから」
私が微笑むと、アミちゃんは照れくさそうに視線をずらし、笑顔を抑制させるかのような形で、不器用に口角を上げていた。
「わかった。でもその手、やめて」
「あ、ごめんごめん」
アミちゃんは私の手首を掴み、自分の頭から下ろした。私も謝りながら離れる。
私の反応が面白かったのか、ふふっと笑い、アミちゃんは部屋に向かって、廊下を走っていった。
ペタペタと床に張りつく裸足の音が、まだ夜が明けたばかりの施設内に響く。
私は変わったんだ。やり直しを選んで、私は一歩成長することができた。
やり直しをして、本当に良かった。
私も自室へ向かい、歩き出す。今日は放課後に麻仲とお茶をして、高羅の部活が終わり次第ディナーデートだ。
胸がドキドキとして、脈が早くなる。
今日は盛りだくさんで、運命が変わる特別な日だ。
どうか、最高の一日になりますように。
朝日がよく見える自室の扉を開け、私は支度を始めた。
「ごめん、お待たせ! 待った?」
学校も無事に終わり、麻仲は制服のスカートをバサバサと揺らしながら、全速力で走って来てくれた。そんなに時間が押しているわけでもないのに、こうして急いで来てくれる麻仲の優しさが嬉しかった。
「全然! むしろ、今日も来てくれてありがとうね」
やり直し前の今日、ファストフード店に行ったところを、今回は近くのカフェに入ることにした。
夜ご飯は高羅と食べることは事前に伝えていたため、麻仲は快く了承してくれる。
この一ヶ月、崩しに崩した貯金は、今日で底をつきそうだったため、私は安価なカフェラテを、麻仲はチョコバナナパフェを注文した。
しばらくシフトを入れておらず、バイト先には申し訳ないなと考えていると、麻仲が「ねぇ」と声をかけてきた。
「彼氏との話! 結局好きだったとは聞いてたけど、詳しく聞いてなかったからさ! 今日もデート行くんでしょ? どういう経緯でそうなったのか、教えてよ!」
麻仲が目を輝かせて聞いてくる。そういえば、メッセージのやり取りでも、簡単にしか説明していなかった。
あの日のことを思い出すと、顔が熱くなる。そんなよそよそしい雰囲気を、麻仲は敏感に察知したのか、ニヤニヤと笑っていた。
「えっと……そもそも高羅は私のことが好きで付き合ったわけじゃなかったみたいで……」
「はあ!? 何それ! 信じられない!」
話の序章を口にしただけで、麻仲は先程の幸せそうな笑顔はどこへ飛んでいったのやら、眉を釣り上げて叫ぶ。相変わらず声が大きくて、私はすぐに人差し指を唇の前に立てた。
「もう、麻仲! 落ち着いて、最後まで聞いてから叫んで!」
怒り口調になりながらも、麻仲らしさに思わず笑ってしまった。
周囲の視線に気づき、「ごめん」と本気で焦った様子で、口元に両手を当てて塞ぐところも、本当に好きだ。
馬鹿みたいに何度も繰り返すやり取りも、麻仲とだから楽しい。
麻仲と一緒にいるから笑うことができるんだ。
それから私は、高羅と話したことを最初から最後まで麻仲に伝えた。ただ、やり直しのことは、どうしても麻仲には言えなくて、その部分の出来事は省く。
その他にあった胸がきゅんとする恋バナに関して、余すことなく共有する楽しみは、女子特有の部分もあるのかもしれない。
麻仲は首を何度も縦に振りながら、時に釣り上げていた眉を下ろして目を輝かせたり、顔を紅潮させ、一緒に「きゃー!」と、控えめな黄色い声を上げて盛り上がっていた。
「いやぁ、本当に最後まで聞いて良かった〜」
幸せそうな麻仲の表情を見て、私まで嬉しくなる。
「でしょ? だから人の話は最後まで聞いてって言ってるのー」
あはは、と陽だまりのようにほっこりとした空気が、二人を包んでいる気がした。
「お待たせしました。カフェラテとチョコバナナパフェになります」
店員さんがタイミング良く注文したものを運んできてくれたことにより、麻仲はより一層嬉しそうに目を輝かせていた。
幼い子供のように、純粋で真っ白な、友達思いの麻仲の瞳は、いつ見ても水晶のように透き通っている。
「いただきます」と、麻仲が細長いスプーンで上に乗ったソフトクリームを掬い取り、口を開ける。スプーンを抜き取ってすぐに、麻仲の頭上に花が咲き誇ったかのような、幸せな笑みを浮かべて頬に手を添えていた。
見ているこちらまで、幸せな気分になってくる。
私もふわふわのカフェラテを持ち上げ、ゆっくりと飲んだ。
甘くて鼻から抜けていく仄かなコーヒーの香りが堪らない。
すると麻仲が私の顔を見て笑った。一瞬何かと思ったが、麻仲は自身の鞄から手鏡を取り出して見せてくる。
そこには、サンタの髭がついた私が映り込んでおり、思わずまた笑ってしまった。
だが、よく見ると麻仲の唇の周りにも、チョコレートがついており、ちょっとした黒髭のようになっている。
「面白いから記念に写真でも撮ろう」と、指摘することもなく私はスマホを取り出し、黒髭とサンタのツーショットを撮ると、麻仲はようやく自分の顔の状態にも気づき、手を叩いて笑いながら、お手拭きでゴシゴシと口を拭いていた。
「あ、そうだ、これ」
私は持っていた紙袋を取り出し、向かい側に座る麻仲の前に置いた。
「ん? 何これ」
麻仲が不思議そうに紙袋の周りを見た後、隙間から中身を覗き込む。
「この前、昔の家について教えてくれたよね。私、あの後家に行ってさ。別の人が住んではいたんだけど、たまたま見つけたタイムカプセルを返してもらったんだ」
開けても良いことを伝え、麻仲は紙袋を自分の膝の上に乗せて開けた。瓶は既に捨てており、中身だけを大切にクリアファイルに入れ、保管していたのだ。
麻仲はそれを取り出し、読み始める。
優雅なピアノの音が私たちの間を流れていった。
麻仲の視線が左右に揺れる。左右を繰り返していくうちに視線が少しずつ下がってきて、瞼が閉じるように思えた頃、麻仲はボロボロと涙をこぼしていた。
「もう、何よこれ。やっぱり理想の家族じゃん〜」
しゃくり泣きをする姿を見て、私もじわりと涙が滲み出てきた気がした。
手紙を丁寧に畳み、麻仲は手で何度も涙を払う。
「本当、理想の家族だったみたい……。麻仲、ありがとうね。麻仲が教えてくれなかったら、私あの家に行かなかったかもしれないから……」
麻仲は首をブンブン横に振る。
返してもらった紙袋を、そっと鞄の横に置いた。
麻仲が「聞いたことがある内容を話しただけだよー」と涙ぐみながら、精神を落ち着かせるためにパフェを口にかき込む。
ぴんと立っていた角はどこへいったのかと思われるほど、パフェに乗ったソフトクリームは溶けていた。
「でも、私の中で区切りをつけることができたから。もう大丈夫」
私が言うと、麻仲は半信半疑な表情で私を見つめた。
「本当に言ってる?」
あれだけ色々聞いていたのなら、そう思うのも無理はない。私はカフェラテを一口飲んでから頷いた。
「うん。だから麻仲に、お礼の品でも渡そうと思って」
私はまた別の小さな紙袋を取り出して、麻仲に渡した。
麻仲は驚いた様子で「お礼なんて、うちらの間にそんな文化あったっけ?」と嬉しそうな思いを誤魔化すかのように冗談っぽく言ってみせてくる。
「お礼と、もうちょっとで誕生日だからそれも含めて」
私がそう言うと、開けても良いかと尋ねられたため、了承した。そしてすぐに紙袋の中身を覗き、手を伸ばす。
中から出てきたのは、透明な袋に入った小さな箱だった。その箱には、小さな白い花がたくさん描かれている。
「え! カモミールティー? 絵美がこんなの選ぶの珍しい! なんか、高校生になったって感じがするね」
麻仲は少し意外そうな表情をして、袋ごと天井に持ち上げてみたり、裏に書いてある説明書きを読もうとしていた。
確かに、これまで送っていたプレゼントは実用的で可愛らしい文房具がほとんどだったため、そう思うのも無理はないだろう。
「まあね、ちょっと女子高生らしくオシャレなものも必要かなって。それに、麻仲の誕生花がカモミールだから。本当はちょっとした花束みたいにしてあげたかったんだけど、時期が違ったからなくてね」
へぇ、と納得した様子で頷きながら、麻仲は大事そうに、それを紙袋に入れ直した。
私はカフェラテを一気に飲み干す。結露が滴り落ちた。
「ありがとう、絵美。でも別にお礼とかいらないから、誕生日当日かそれ以降でも良かったのに」
麻仲も、ほぼ液体状のソフトクリームをすくい上げ、口に持っていく。チョコレートと混ざり合った白だった。
「確かにね。でも予定合わせるのも大変だから、早めに渡したくてさ」
私が笑ってそう言うと、麻仲も微笑んで、最後まで残されていた、スライスバナナをスプーンに乗せた。
綺麗になくなったパフェグラスを見て、麻仲は言う。
「なーんか、嬉しくて明日も絵美に会いたくなってきたんだけどー! ねぇ、どこか行こうよ」
珍しくそんなことを言うものだから、私の方が驚いて目を丸くしてしまう。そんな可愛いことを言うような人だっただろうか。「どうせまたそのうち会えるでしょ、またね」がいつものパターンで、会った日のうちに次の約束が決まるような間柄ではないのに。
「珍しいね。でも私、今月もうお金ないや」
「良いよ。何かあれば奢るし、まずお金をかけなくても、遊ぶところくらいいくらでもあるでしょ。公園とかさ」
麻仲は口元についた汚れを拭きながら話す。奢るだなんて、まさか麻仲の口から出てくるとは思わなかった。
申し訳なさが出てきて、少し考える。
沈黙の代わりに、ピアノのメロディが流れていた。
「……うん。そうだね。いいよ、遊ぼう」
そう言うと、麻仲は驚いた表情で勢いよく立ち上がった。
「本当に!? 言ったね? 絶対明日も遊ぶんだからね?」
興奮気味な麻仲を抑えるように、座るよう手をひらひらと動かして伝える。だが、今度の麻仲は焦った様子もなく、落ち着いて座り直した。
「わかってるよ。じゃあその代わりと言ったらなんだけど……明日そのカモミールティーの感想教えてくれる?」
私は渡した紙袋を指さして聞いてみる。不思議そうな顔をする麻仲だったが、二つ返事で了承してくれた。
きっと今夜にでも、のんでくれるだろう。
そんな約束事を交わしてからは、またいつもと同じように、くだらない話を延々と続けた。
施設での話や、学校の話、彼氏の話など、麻仲と話していると話は尽きない。
この時間が永遠に続けば良いのに、なんて考えてしまう。
「そろそろデート行くんだよね」
麻仲がちらりとお店の掛け時計を見てそう言った。私も時間を忘れて話していたため、時の流れの早さに驚かされる。
「うん。あー、まだ麻仲と話したいなぁ」
「まあ、明日も会えるし! 今日は楽しんできな?」
麻仲は嬉しそうに笑った。私も同じ顔を見せて微笑む。
「そうだね。楽しんでくる」
私たちは荷物を持ち、立ち上がった。お会計を済ませ、店を出る。
外は完全に真っ暗で、街灯の明かりに紛れながら、星が点々と光っていた。駅から出てきた人々が、住宅街の方へと向かって流れを作り歩いている。
「また、明日ね」
麻仲が手のひらを見せて、私の方へと伸ばしてくる。私もその意図に応えるように、勢いよくハイタッチをする。
パチンと音が弾けた。
「うん。またね」
改札を通った麻仲の背中がどんどん離れていく。私はその背中を目に焼きつけるような思いで見つめた。
「明日、カモミールティーの感想を聞けると良いな」
人混みに塗れて、完全に見えなくなった麻仲の姿を、目を閉じて思い浮かべる。
耳の周りに見えない膜が張られたように、人々の話し声が段々と消えていく。
幼い頃の彼女の声が聞こえてきた。同時に、ぼんやりと浮かんでくる、たくさんの表情。
焦った顔。怒った顔。泣いている顔。喧嘩した時の憎たらしい顔。お互い謝ろうとした気まずい顔。そして別れ際に手を振る、麻仲の優しい笑顔。
「よし」
覚えている。また明日も、きっと会える。
私は改札近くの待ち合わせ場所で、部活終わりの高羅を待った。
今日はバイトということで、施設にも夜遅くなることに対しては許可を取り済みだ。
許可をわざわざ取るようになるなんて、私もかなり成長したものだ。
スマホがブブッと音を立てて振動する。見ると、『もうすぐ着くよ』と彼からメッセージが入っていた。
何とも言えない高揚感が増す。
『お疲れ様! 待ってるね』
可愛いスタンプを添えて、私はそう送った。