「そろそろ帰るか・・・」

「そうね。いい時間にもなってきたので帰ろっか」

「えー! やだ!ぼくまだここにいたいよ」

「ごめんな、太陽。お父さん明日仕事が早いから、早く家に帰らないといけないんだ」

「やだやだ! まだここにいる!」

「そうだな、帰りにアイスでも買ってあげよう」

 この頃の僕は、単純だった。たかがアイスに釣られてしまうほどに、純粋な心を持ち合わせていた。

「ほんと! やった! はやくかえろっ!」

 微笑ましい家庭そのものだった。それは今でも変わりはしない。

 コスモス畑の入り口のところで、僕はあることに気が付いた。

 僕が大切にしていた飛行機のおもちゃを丘の上に置いてきてしまったのだ。

 当然、僕は焦った。あの飛行機のおもちゃはあの頃の僕にとっては全てだったから。

 丘までの道順はなんとなく把握はしていたので、走っていけば間に合うと思い、両親が僕の前を歩いている隙に進行方向とは逆に駆け出した。

 僕の足でも走れば、ものの数秒で着くほどの距離。そのくらいなら、両親にも気付かれずに行けると思った。

 走るたびに僕の体を甘い、心地のいい匂いが包む。僕が作り出した風に後方のコスモスたちが小さく揺れる。

「あ、みえてきた!」

 前方にはさっきまで僕らがいた丘の上。丘の上には、真っ黒なコスモスが一面を鮮やかに彩っている。

 まるで、他の色のコスモスを一切受け入れないような異彩を放ちながら。

 丘へと続く遊歩道には、落ちてはいなかった。丘の上は天然の緑の芝が生えていて、落とし物があればすぐにでも見つけることができるはずなのに、なぜか見当たらない。

 柵の先に咲いている黒のコスモスの中を覗いてみても、僕の飛行機は落ちていない。

「どこにいっちゃったんだ・・・ひこうき」

 だんだん見つからないことで、焦り始める。不安と急がないといけない衝動に駆られて、涙が出そうになった。

「は、はやくしないと・・・」

「ねぇ、きみ」

 膝をついて探していた僕の目の前に、小さな影が僕の頭を太陽から遮断する。

 顔を上げると、そこにいたのは真っ白なワンピースに麦わら帽子を被った僕と同じくらいの歳の女の子だった。

「これ、きみの?」

 彼女が差し出してきたのは、僕の宝物の飛行機のおもちゃだった。

「あ、ぼくの! ありがとう! どこにあったの?」

「もうすこしあっちのほうにおちてたよ」

 飛行機のおもちゃがあったことに安堵する。

「あ、ぼくおとうさんとおかあさんのところにもどらないと! みつけてくれてありがとう!」

「ううん。いいの」

「それじゃ、またね!」

 その場を駆け出そうとするが、前に足が進まない。後ろを振り返ると、彼女が僕の服の裾を握り締めていたんだ。

「あの・・・わたしひとめぼれ?ってやつしちゃった。きみのことがすき! この花あげる!」

「あきざくらだ」

 彼女の手から一輪の黄色のコスモスが手渡される。きっと彼女なりの精一杯の告白だったのだろう。

「またね!」

 コスモスを彼女の手から受け取ると同時に、彼女は僕が来た道とは反対の道へとかけて行ってしまった。

 僕は、ただその後ろ姿を呆然と眺めていることしかできなかった。追うことも話しかけることもできずに、ただカカシのように佇むことしか...

 幼少期の僕の心を奪うのには、簡単なくらい僕にとって衝撃的な出来事だった。

 この日以来、僕は会えもしない、名前すら知らない女の子のことを想う日々が始まった。

 そう、まさに淡い『初恋』が幕を開けたんだ。