「やばい、せっかくの記念日なのに。遅刻はダメだ!」

 私の横を風を巻き起こすように走りすれ違う男性。服装を見た感じ、きっとこれから彼女とのランチでもあるのだろうか。

 それにしては、服装が決まりすぎている気もする。見た目は20代後半くらいで、爽やかな容姿に黒い短髪。

 私の横を過ぎる瞬間、何かが彼のポケットから落ちるのを横目で捉えた。

 雪に埋もれた四角い箱。高級そうな掌サイズの箱に入れられた何か。

「お兄さん!」

 考えるよりも先に私は、人が溢れかえる空間で声を発していた。ほぼ反射的に。

 お兄さんが落としたものは、きっとこれから先の人生でも大事なものになるはずのものなのだから。

 私の声にピタリと足を止めるお兄さん。何人かの人が、突如私が声を発したことでギョッとした顔になっている。

 それに、四方八方から数々の視線が突き刺さっているのか、誰かに見られている感覚。

「なんですか! 今、急いでて!」

 引き止められたことに、苛立ちを感じている様子の男性。誤解されたくはないので、雪の中から拾い上げたものを彼へ向けて見せる。

「これ、落ちましたよ」

「えっ!」

 慌てて体の隅々まで、手のひらでたたきながら探している彼。

 目当てのものがなかったのか、私の方へと歩み寄ってくる。

「ごめんなさい。乱暴な言い方をしてしまって・・・これは僕の大切なものなんです。実はこれからお付き合いしている彼女にプロポーズをするところなんです。これ無しではうまくいかないですよね」

(やっぱりそうだったのか。これは婚約指輪)

「頑張ってください!」

「へ?」

 戸惑い顔のお兄さん。

「年下の私が言うのもなんですが、彼女さんのこと大切にしてあげてください。これから、お兄さんの人生のパートナーとなる相手にたくさんの幸せを届けてあげてください」

「・・・・・」

 黙ったまま私の話に耳を傾けているお兄さん。遅刻してそれどころではないはずなのに。

「辛いことの方が人生は多いと思いますけど、きっと彼女さんが・・・いえ。奥さんが助けてくれると思います。だから、どうか幸せになってくださいね」

 言い終えたところで軽く後悔をする。見ず知らずの年下の子にこんなことを言われなくても、大人たちはわかっている。

 余計なお世話だったかもしれない。途端に申し訳ない気持ちが込み上げる。

「ありがとう」

 お兄さんから聞こえた言葉は、感謝の時に使う言葉だった。

「え・・・」

「おかげ様で、少しだけ緊張がほぐれた気がするよ。それに、君は辛いことが多かったんだね。君の言葉には力がある気がする。重みって言うのかな?僕の心も簡単に動かされちゃったよ。きっと、君以外の人から聞いても僕の心は、動くことはなかったと思う。君の言葉だから、多分響いたんだと思う。だから、ありがとう!」

「い、いえ・・・私はそんな」

「やばい、本当にもういかないと。指輪もありがとね!そうだ、最後に聞かせてほしい」

「何をですか?」

 ずっと走っていたのだろうか。お兄さんのこめかみから汗が垂れては、積もる雪に落ちて穴が開く。

「君の下の名前を教えてほしい」

「の、希空です」

「希空ちゃんか。ちなみにどんな漢字?」

 どういうつもりなのだろうか。私の名前を聞いてくるなんて、さっぱりお兄さんの思考が読めない。

「希望の希に空で、希空です」

「いい名前だね。希望の空か。本当に綺麗だ・・・希空ちゃん、気が早いかもだけど」

「はい」

「もし、僕が結婚して子供が産まれたら希空ちゃんと同じ名前をつけてもいいかな?もちろん、漢字はちょっと変えるから」

 驚きすぎて、声が出せない。私の名前が新たな命に...

「え、ど、どうしてですか」

 嬉しい反面、純粋に疑問を持ってしまう。どうして一般人のそこら辺にでもいるような、女子高校生の名前なのか。

 唯一違う点は難病を患っていることくらい。プラスではなく、むしろマイナスな差異。

「これも何かの運命だと、思うからかな。希空ちゃんが、拾って話しかけてくれなきゃ、僕は今日プロポーズできなかった。だから、神様が引き合わせてくれたんだと思う。この出会いに・・・ダメかな?」

「そ、そんな! 私の名前でよければ、ぜひ使ってほしいです!」

「そっか、ありがとう。またいつか、会える日が来ることを楽しみに生きるよ」

「はい。私もまた会える日を楽しみにしています」

 そう告げると、お兄さんは降り積もる雪の中、足を掬われながらも懸命に一直線に彼女さんがいる目的地へと走って行ってしまった。

 きっと、プロポーズは成功するだろう。走り去っていく時のお兄さんの顔には、自信が満ち溢れていた。

「嘘ついちゃったや」

 人混みに消え去る声で呟く。私がお兄さんにまた会える日は絶対に来ないのに。

 ただ今だけは、純粋にこの胸を込み上げてくる気持ちを喜びたかった。私の名前が、誰かに受け継がれる嬉しさを。