彼が去って行った後の保健室は、1人でいた時は何も感じなかった私に孤独感を与えた。

 今まで私が生きてきた中で、出会ったことがないタイプの人だったからなのか、彼のことが気になって仕方がない。

 保健室は私のために、真っ黒なカーテンで光を遮断しているので、私が肌で感じられている光は人工的な天井に取り付けられた蛍光灯の光のみ。

 太陽ほどの眩しさはない。あの煌めく私たちの体に元気をもたらしてくれる光が懐かしい。

 そして、たまらないくらい恋しい。

「希空〜、戻ってきたよ」

「あ、あーちゃん。もう、遅いよ〜」

「ごめんって。用事が結構長引いちゃってさ」

「いいよ。あーちゃんも忙しいだろうからね」

「わかってるじゃん、希空」

「へへへ、そうでしょ」

「1番は希空の子守りが大変だけどね」

「こら〜! 大変じゃない! それに、子守りって・・・私はもう高校生だよ!」

「ほら、勉強始めるよ」

「って完全にスルーじゃん」

 知ってるよ。本当のことだもんね。あーちゃんの仕事で1番大変なのは、私のお世話だってことくらい。

 各教科の先生たちが、他の生徒に授業をするように、私にはあーちゃんが全て教えてくれる。

 それが、どんなに大変か。基本的に高校は、各教科先生が違うためそれぞれ担当が分かれている。

 数学担当の先生が古典を教えることなど、まずあり得ない。

 平気な顔をして私に教えてくれるあーちゃんは、きっと裏でものすごい勉強をしているに違いない。

 昔習ったことを思い返しながら、夜な夜な高校生の勉強を復習しているなんて、心がギュッと締め付けられる。
 
 自分の仕事だってあるはずなのに...

 あーちゃんでもわからないところがあれば、担当教科の先生に聞きに行くことになっているが、1年間聞きに行ったことはない。

 私が単に先生に聞きに行くのが、嫌とかではない。単純に聞きに行くことがないのだ。

 なぜなら、目の前に座っている彼女が全て解決してくれるから。

 時々、疑問に思ってしまう。彼女のどこに、勉強する時間があるのだろうと。

「・・・あ。希空。ちょっと、聞いてる?私が教えてあげてるってのに、ぼーっとしてるなんて失礼だわ」

「あ、ごめん」

「いいけど、さっきからどうしたの?珍しくぼーっとしちゃってさ。もしかして、センチメンタルになっちゃった?」

「センチメンタル?」

「そう。私には、もう勉強をする意味がないとか、マイナスなことを考えてたのかな〜って」

(あぁ。あーちゃんからだと、私はそんなふうに見えていたのか。全くそんなことは考えてもいないのに)

「違うよ。なんであーちゃんは、全教科完璧に教えられるのかな〜って思って」

 手に持っていたシャープペンシルを不器用にくるくると回す。

 うまくペンが回るはずもなく、ノートの上に無惨に落ちていくシャープペンシル。

「なんだ、そんなことか。それは、私が"天才"だからでしょ!」

 ドヤ顔で言ってくるものだから、少し腹立たしい。

「ねぇ〜、本当のこと教えてよ! あーちゃんってば、私のために夜な夜な勉強してるんでしょ?」

 いつもおちゃらけているはずの彼女から、笑みが徐々に消え去っていく。

 表情からでもわかる。どうやら、図星だったらしい。

「希空さ、それ本気で言ってる?私が自分の時間を削ってまで勉強するわけないじゃん。私の性格をよく知っている希空なら、わかるでしょ?」

「うぅ、確かに・・・でも、じゃあどうしてあーちゃんは、私に全教科完璧に教えられるわけ?」

「だからさっきも言ったじゃん。私は天才なんだって!」

 再びいつもの彼女が戻ってきた。

「えー、信じられない。どんなトリックを使ってるんだ!」

「本当疑い深いな〜。あのね、私実はT大学を卒業してるんだよ」

 驚きで声も出ない。T大学といえば、日本トップクラスの大学名だ。

 まさか、そんな名門大学を卒業しているなんて思いもしなかった。

「あ、あーちゃんって天才なんだね・・・疑ってごめん」

「全くだよ。ま、信じてもらえないのは何も今回だけじゃないからいいけどね」

「でも、どうしてそんなすごい大学出てるのに、高校の看護教諭になろうと思ったの?」

 素朴な疑問だった。T大学ともなれば、就職先はいくらでもあったはず。

 手に余るくらいの数多くの有名企業とやらが。

「えー、なんでかな。なんとなくって言ったら怒る?」

 悪い顔して私の心を覗くように微笑む彼女。

「怒らないけど、勿体無いなとは思うかな。あーちゃんの人生だから、あまり口うるさくは言わないけどね」

「意外と希空って大人なんだね。そうだな〜、強いていうなら、助けてあげたかった」

「誰を?」

「未来ある若者たちを。苦しくて1人で悩んで、抱え込んでいる時に手を差し伸べて助けてあげられる存在になりたかった。誰しもが、友人や両親に悩みを打ち明けられるわけではないから。そんな子たちの支えになりたかった。希空なら、薄々わかるでしょ?」

 わかるどころではない。それ以上だ。私が完全に嘘偽りなく本音を話せる相手は、今のところあーちゃんしかいない。
 
 病気になる前は、未來にも話せない悩みなど存在しなかった。しかし、病気になってから私は、肝心な本心を彼女には告げていたい。

 これ以上、彼女に迷惑をかけたくはないという理由を建前に逃げているだけなのかもしれない。

 両親や親友の未來には、話せない心の奥に潜んでいる悩みがある。でも、そんな悩みすらもあーちゃんには打ち明けてしまっている。

 私の奥に眠る弱い部分や醜い部分でさえ。なんなら、前にあーちゃんの前で『死にたくない』と号泣して困らせたことだってある。

「そうだったんだ。なんか、意外と考えてるんだね。ちょっとだけ見直したよ」

「でしょ?ま、勉強はもう飽きたから教師じゃなくて養護教諭にしたんだけどね」

「あーあ。その一言で今の感動台無し」

「そ、そんな〜」

 初夏に蝉の鳴き声が、私たちに夏の始まりを告げていく。

 自分の目で夏を感じることは難しいが、肌を撫でる暑さだけはもう夏の空気だと感じることが私にもできた。