色とりどりの絵の具や大量の紙、大小さまざな絵筆が並べられたこじんまりとした店内を、ぼんやりとした行灯の灯りが照らす。その中心で茜が描いたスケッチブックの桜の絵を見ながら、人間のように着物を着た三毛猫の妖が心底うんざりとした表情で声を上げた。

「だから、そんな絵の具はウチには置いてないよ!」

「何か似たような絵の具の話を聞いたとか、どんな情報でも良い!何か知ってることはねぇのか!?」

 三毛猫の妖に掴みかかる勢いで聞く斎に、茜は慌ててその異形の右手を掴んで止める。咄嗟に触れてしまった斎の右手は、鱗が少し固くて不思議な肌感だったけれどちゃんと温もりを感じた。

「ちょっと落ち着いて!」

そう声を掛ければ、斎はムスッとしながらも息を深く吐き出して心を落ち着けようとする。もう何度目か分からないこのやり取りに、二人は相当疲弊していた。

 水彩絵の具を見つける為に、この街に存在する全ての画材店をひたすらに探し続けて数日が経った。長年、絵を描き続ける斎でさえ見たことがないという水彩絵の具は、やはりどの店を探しても見つけられずにいた。毎日般若のお面を着けて、疲労で足が震えそうになる程に何件もの店を訪ねては、良い結果が得られずに肩を落として帰宅する日々を送っている。そんなに直ぐに見つかるとは思っていなかったけど、こんなに難航するとは…。数日間の疲れがピークに達したのか、先程のように斎は度々店員に掴みかかりそうになっている。

 そして今日も何の手掛かりも無く一日が終わり、気付けばもうすっかりと日が暮れて夜の帳が降りている。店内の窓から暗くなった外の景色を見て、茜は重たい溜め息を吐いた。茜たちが行ける範囲の画材店では、この店が最後の一軒だ。この画材店にも水彩絵の具が無いとしたら、きっとこの旦那様が治める国の外にまで探しに行かなければならないだろう。そうなってしまえば、翠の依頼にとても間に合いそうにない。

 だからこそ、この画材店に懸ける想いが斎も茜も強かった。斎が描きたい絵を描く為には、どうしても水彩絵の具が必要なのだ。ピリピリとした緊張感を纏いながら、険しい表情で必死に頼み込む斎の様子に、店員の三毛猫の妖は潰れた鼻でフフッと笑った。

「あの妖嫌いで有名な半妖の絵師とやらが、最近は弟子を取ったりと活動の幅を広げてると聞いてはいたが…まさか、そんな必死に頼まれ事をされる日が来るとはね。」

「…頼む!何か手掛かりでも良いから、教えて欲しい!」

 深々と頭を下げた斎に、茜も「お願いします!」と一緒に頭を下げる。

「まぁ、何か知ってたら教えてやりたいんだけどさ、本当に聞いたこともないからね。」

 三毛猫の妖は、片手の肉球をプニッと頬に当てて困ったように言う。本当に知らないような妖の様子に、斎と茜はガックリと項垂れるように肩を落とした。やっぱり、この幽世には水彩絵の具なんて画材は存在しないのだろうか。失われていく希望に、眼の前が真っ暗になりそうだった。

「あ!でも、ウチの爺さんなら、もしかしたら知ってるかもね。」

「本当か!?」

「本当ですか!?」

 パチリと大きな瞳で瞬きして、そういえばと言わんばかりに話す三毛猫の妖に斎と茜は勢い良く詰め寄った。何でも良いから、水彩絵の具への手掛かりが欲しい。三毛猫の妖はそんな二人に焦りつつも、「まぁ、落ち着けって!」と斎の額にプニッと肉球を押し当てて静止させる。

「ちょっと爺さーん!来てくれない!?」

 三毛猫の妖が大きな声で店の奥へと呼び掛ける。暫くすると、店の奥からドスンッドスンッと音を立てて、何かが徐々に此方へと近付いて来る気配を感じた。

「なんじゃ騒がしい!落ち着いて飯も食えんわ!」

 重い足音を立てながら現れたのは、まるで招き猫のような寸胴の猫だった。丸っこいフォルムの猫は、着物をだらしなく着て大きなお腹に腹巻きを巻いている。細い瞳は、長く伸びた眉毛に隠れて微かに見える程度だった。

「半妖の絵師が、絵の具を探しているらしいよ。顔料少なめで、水に溶けやすいやつ。描き味がこんなふうになるんだ。」

 茜が描いたスケッチブックの桜の絵を見せながら、三毛猫の妖は「爺さん」と呼んだ招き猫のような寸胴の妖に聞いた。爺さん猫は茜のスケッチブックを見ると、眉毛に隠れた細い目をシバシバと瞬かせて大きく見開く。

「何か知ってるのか!?」

 まるで何か心当たりがあるかのような爺さん猫の反応に、斎が間髪入れずに詰め寄った。それに対して、爺さん猫は口をモゴつかせて何処か煮えきらないような態度で言う。

「…似たような絵の具を持ってはいるが、」

「本当か!?いくらだ!?出来れば、今すぐにでも欲しい!」

「売り物じゃねぇんだよ。」

「は?」

 爺さん猫は、斎の勢いを削ぐようにきっぱりと言った。その言葉に、斎は眉間に深く皺を作る。

「俺は趣味で珍しい画材を集めてる。その絵の具は、その一つだ。」

「買い取らせて頂くことは…?」

「駄目だ!あれを手に入れるのにどれだけ苦労したことか!そもそも、幽世と現世を繋ぐ門が閉ざされてから、新たな画材の調達なんて出来なくなったんだ!」

 絵の具を売るつもりは無いと激しく抗議する爺さん猫の口から、いきなり幽世と現世を繋ぐ門の話が出て来て茜は思わず目を見開いた。その横で少し真剣な眼差しになった斎が、落ち着きを持った声で聞く。

「ちなみに、その絵の具を見せてもらうことは出来るか?」

「はぁ!?売りもんじゃねぇって言ったんだろ!」

「爺さ〜ん、見せるくらい良いじゃない。持って来てやんなよ!」

「むー…仕方ない!特別じゃぞ!」

 爺さん猫は斎の提案に文句を言っていたが、三毛猫の妖の一言で部屋の奥へと重たい足音を響かせて例の絵の具を取りに向かう。その背中に茜は「ありがとうございます!」と礼を言って、爺さん猫が戻って来るのを待った。

 暫くして、両手に木箱を持った爺さん猫が再び店内に戻って来た。大事そうに抱えられた木箱の中身を見せてもらうと、そこには現代の現世では見たことがない錫製のチューブに入れられた絵の具が綺麗に並べられていた。かなりの年代ものと見られる絵の具の箱には『みづゑ』と小さく書かれていて、それに茜はこの絵の具が水彩絵の具だと確信する。その昔、日本では水彩画のことをみづゑと呼んでいたらしい。

「門が封印されてから数十年後、龍一族の取り決めを知らず現世に滞在していた妖が幽世に帰るために龍一族に頼み込んで、秘密裏に門を開けさせたのだという。それで、もう二度と現世に戻れないかもしれないと思ったその妖は、当時の現世でしか手に入らない貴重な物を大量に持ち込んで幽世に帰って来たのだ。その一つが、水に溶ける絵の具なんじゃよ。」

 爺さん猫の話を聞きながら、茜はふと考える。確か水彩絵の具が西洋から日本に伝わったのは幕末から明治時代の頃だったはずだ。仮に門が封印された後、現世の日本で水彩絵の具が伝わったのだとしたら…つまり、幽世と現世の門が封印されたのは、今から少なくとも一五〇年以上は前のことになるのではないか。そんな憶測が、茜の中で浮かび始めた。

「とにかく!本来、手に入るはずが無かった貴重な絵の具じゃ!絶対にやらん!」

 爺さん猫の言い分はよく分かった。けれど、斎も茜もこの水彩絵の具はどうしても譲れない。

「そこを何とか頼む!」

「どうか、お願いします!」

 斎と茜は、二人揃って本日何度目かの頭を下げた。これを手に入れる事が出来れば、斎の思い描く和傘のデザインに近づくのだ。

 祈るように頭を下げる二人に三毛猫の妖は、ペロペロと呑気に毛づくろいをしながら面倒くさそうに爺さん猫に声掛けた。

「爺さん、アタシからも頼むよ。そろそろ店閉いたいのに、コイツら中々帰ってくれなくてさー。」

「あの絵の具が、どれだけ貴重なものかお前に分かるのか!」

「そうは言ったって、爺さんは集めるだけ集めてどうせその絵の具を使いはしないんだろ?貴重な絵の具って言っても使わなければ、価値も分かんないじゃないか!」

「それは、そうだがな…」

「それに、あの半妖の絵師が絵を描くんだよ?どんな絵を描くのか見たくないの?」

「むー…」

「爺さ〜ん!」

「…チッ!可愛い孫の頼みじゃあ仕方ねぇな!分かった!くれてやるよ!」

 三毛猫の妖の猫撫で声での説得が効いたのか、渋々ながらも爺さん猫は叫んだ。店に響いた言葉に、勢い良く顔を上げた斎と茜は思わず顔を見合わせる。

「本当か!?」

「但し、十五両だ。」

「は?」

 一瞬、何のことを言われているのか分からずに斎と茜は呆けた。

「もともと売り物じゃねぇからな。代金はきっちり頂くぜ!」

「はぁ!?高すぎないか!」

 フンッと踏ん反り返る爺さん猫に、斎は反論する。幽世では『十五両』がどのくらいの値段になるのか茜には分からないが、斎の険しい表情を見るにおそらくかなりの高値なんだろう。少しピリついた店内の空気に見兼ねた三毛猫の妖が、もううんざりだと言わんばかりに再び声を上げた。

「爺さん、もっと敗けてやんなよ!集めるだけ集めて、どうせ使わない絵の具なんだからさ!」

「むー…じゃあ、十三両!」

「爺さ〜ん!」

「ええい!十両!十両だ!これ以上は無理じゃ!この絵の具が欲しけりゃ、十両持って来い!」

 三毛猫の妖の一言により、やけくそ気味に爺さん猫は言い切った。腕を組んで不機嫌そうにしているが、それでも孫の言葉には弱いらしい。なんとか、十五両から十両までの値下げを許可してくれた。五両も安くなったというのに、斎の表情は少し硬さを残したままだ。

 フンッと鼻息荒く眉間の皺を深める爺さん猫に、斎は力強く頷き決意するように言った。

「分かった…!少し時間がかかるが、必ず持って来る!」
 
 








「十両か…」

 画材店からの帰り道、ぼんやりと星が瞬いている暗くなった空の下を歩きながら斎は呟いた。この幽世の街でも大通りに当たる道は、店の軒下に吊るさがる提灯の灯りに照らされてたくさんの妖たちが行き交っている。茜が幽世にやって来た日と同じように、相変わらず賑やかだ。

「十両って、そんなに大金なの?」

 鬼の面の目元に空いた穴から、もう慣れた幽世の街を眺めつつ茜は斎に聞く。それに斎は「んー、」と少し周りを見渡して、大通りを優雅に進む大きな牛車を指差して言った。

「幽世で十両っていうと、あの牛車が三台は買えるな。」 

 黒く艶のある毛並みの牛は金色の瞳を光らせて、音も無く茜の横を過ぎ去って行く。豪華な和柄の装飾に、細やかな木彫りの細工が施された存在感のある牛車は、とても美しく雅な雰囲気だ。擦れ違った際には、お香のような良い匂いが鼻を掠めた。

 不意に緩やかな風が吹き、後方の簾が捲れて一瞬
首の無い人影が見えた。茜はそれにギョッとして、背筋を震わせる。

「へ、へぇー。」

 見えてしまった妖の恐ろしさに、思わず声が上擦った。斎の例えは、いまいちピンと来なかったが、美しい牛車を見るに多分それなりに高い値段なのだろう。斎は異形のような右手で、クシャリと頭を抑える。

「何か金貯める良い方法ねぇか…こんなところで躓いてる暇はねぇんだよ!」

「もっと絵の依頼を受けるとか…?」

「翠の依頼もあるからな、あまり大規模な依頼は控えてぇな。」

「そうだよね…」

 幽世にやって来た日に窓から見た街の大通りは、あの時のように毎晩いくつかの屋台が並び賑わっている。屋台に並ぶ妖たちの表情はとても楽しそうで、時間が経つに連れて妖の数は徐々に増えていく。主に食べ物系の屋台が多くて、元の世界では見たことが無いような食べ物も見かけた。

 まるで毎日がお祭りのようだなと、その光景を眺めていると茜は一つの案を閃いた。

「あっ!斎も屋台を出せば良いんだよ!」

 突然の茜の提案に、斎はポカンと口を開けて眉を寄せた。

「屋台?お面でも売れってか?」

「似顔絵を売るんだよ!」

「似顔絵を売る?」

「そう!現世ではよく屋台とか出店で、似顔絵を描いてくれるんだ!」

 お祭りの時や何かのイベントの時に、出店で似顔絵を描く画家が居ることを茜は思い出した。

 斎の画力なら短時間で、妖の顔を描くことくらい造作もないだろう。むしろ幽世にその風習が無ければ、物珍しがって客が集まるんじゃないかと茜は考えた。毎晩、屋台に集まって来る妖たちの注目を集められたなら、きっとそこそこの収益を望めるのではないだろうか。

 茜の話を聞いて、斎は考え込むように口元を片手で抑えた。暫くすると、斎の真っ直ぐに澄み渡った瞳を向けられる。

「…なるほどな。それ、試してみるか!」

 その声に茜は、「うん!」と強く頷いた。