「ねぇ!お寺なんか見るよりも、ショッピングしようよ!彼氏の班とも合流したいし!」

 短い制服のスカートを揺らしながら、坂野(さかの)さんが女子特有の高い声で言った。サラサラにケアされた髪にくっきりとした二重の坂野さんは、クラスの中でも垢抜けていて女子のリーダー的な存在だった。

「それ賛成!せっかくの京都だから可愛いお土産買いたいし、神社とか寺ばっかり見るの飽きちゃったよね!」

 そう坂野さんに続いたのは、今日もバッチリとメイクをきめた小田(おだ)さんだ。小田さんは坂野さんの腕を取ると、持っていたスマホの画面を見せて「ここ行きたくない?」とあらかじめ決めていた予定に無い行動をしようとする。

 自由気ままな二人の様子に賛同するように、他の女子数人も片手に持っていた冊子を邪魔だと言わんばかりにリュックに戻して、キャッキャッと二人を囲みはしゃぎ始めた。

 そんな楽しげな輪に加わることもできず、少し離れたところからその光景を一人ポツンと眺めている立原茜(たてはらあかね)は、悲しいくらいにこの集団で浮いていた。高校二年生の最大イベントでもある修学旅行は、茜にとって地獄そのものだった。

 三泊四日の修学旅行。その中でも、最終日の班行動がメインイベントとされていて、班であらかじめ観光するルートを決めて京都での楽しい思い出を作ることになっている。

 しかし、茜は昔から人見知りで、人と打ち解けるのに時間がかかる質だった。高校に入学してから友達を作ろうと必死に努力はしたものの、緊張して上手く話せなかったり、なかなかクラスメイト達の会話の中に入っていけなかったり。趣味の話は驚く程に合わなかったし、もう既に仲の良いグループに割り込む度胸も無く、気付けば高校二年生になっても友達と呼べる存在はクラスに一人もいなかった。

 そんな中、望んでもいないのにやって来てしまった修学旅行。もう半年も一緒の教室で過ごしたのにも関わらず、ちっとも打ち解けることが出来ていないクラスメイト達と京都を巡る班決めは最初の難関になった。

 案の定、茜はどこのグループにも属すことが出来ずに一人あぶれてしまい、それを見かねた担任教師が何を思ったか、このクラスでも活発的なスクールカースト上位の女子グループの班に茜を入れたのだ。教師のやることは恐ろしい。

 リーダーの坂野さんを含めた他のメンバーからの、「なんでお前が」という冷たい視線が本当に痛かった。だから茜は、なるべく班員たちの邪魔にならないように息を殺して空気のような存在になり、修学旅行という地獄の時間が終わるのをひたすらに待っている。

「じゃあ、これから別行動とらない?」

 坂野さんが弾けるような明るい声で提案をした。

「…え?」

「いいね!私達はショッピングに行くから、立原さんも自由に行動した方が良いんじゃない?」

 坂野さんの発言に続いて、小田さんがにこやかに告げる。にこやかなのは口角と声色だけで、その目はちっとも笑っていない。やっぱり坂野さんも小田さんも、スクールカースト上位集団のこの班にノリの合わない茜が居ることが不服だったようだ。良く思われていないことは最初から分かっていたので、茜は向けられたその笑顔の圧に頷くことしか出来なかった。

「うん…。」

「おっけー!それじゃあ、三時に京都駅に集合しよう!」

「じゃ!解散!」

 坂野さんの溌剌とした合図ともに、今まで通りにキャッキャッとはしゃぎながら班員たちは歩き去っていった。その嵐が過ぎ去っていくような様子を、茜はポカンと口を開けて見送る。

 少し寂しいような気もするけれど、正直なところ、もう気を使ったり気を使われたりするのはとても疲れていたので、別行動は茜にとっても有り難かった。茜自身のせいで班員のみんなが楽しめなくなったりするよりも、自分一人でいた方が気が楽だ。それにいつも学校では一人なので、一人行動には慣れている。

 肩の力が抜けて、手に持っていた【修学旅行のしおり】と大きく印刷された冊子になんとなく目を向ける。ずっと気を張っていたため無意識に手に力を入れてしまっていたのか、修学旅行のしおりは茜の心情と同じようにクシャリと皺が寄り、力無く歪んでしまっていた。

 その皺を手で伸ばすように、そっと表紙に触れる。そこには何本もの鳥居が連なる伏見稲荷大社に、眺め良さそうな清水の舞台。竹林が靡く嵐山に、水面にも反射した金閣寺。五重塔を背にして華やかな着物を着て歩く舞妓の姿など、京都の有名な観光名所を背景に制服姿の男女が楽しそうに微笑むイラストが描いてある。それは、茜が描いたものだった。

 絵を描くことが好きな茜は、美術部に所属していた。人と関わることが上手く出来ずに小さい頃からたくさんの絵を描いたり、一人の時間に没頭しがちだった茜は、そのままの流れで自然と美術部に入部したのだ。絵を描くことは楽しくて、どこか居心地の悪い教室を忘れて自由になれる部活の時間は、憂鬱な学校生活の中で一番好きだった。

 美術部はもともと部員が少なく、そのほとんどが幽霊部員だった為に、唯一の美術部員だった茜は担任教師に修学旅行のしおりの表紙絵の制作を頼まれたのだ。それは茜にしてみたら物凄いプレッシャーだったが、絵を頼まれたことが嬉しくて精一杯にペンを走らせた。

 修学旅行のしおりを配布する日、緊張しながらクラスメイトのリアクションを待っていれば、「すげぇー」とちらほら聞こえてきた声に内心めちゃくちゃに喜んだ。初めて自分が認められたような感覚に、茜は嬉しくて仕方なかった。自分に少し自信が持てたような気がして、苦手意識のあった修学旅行にも前向きな気持ちで臨んだのだが、やはり現実はそう甘くないようだ。

 茜は「ふーっ」と殺していた息を吐き出して、これからどうするかとその表紙絵を開きながら考える。今から集合予定の三時までは結構時間があるので、時間を潰すのが大変そうだ。そんなことを思いつつ、とぼとぼと京都の街並みを歩いていれば、アスファルトだった地面がいつの間にか情緒のある石畳へと変わっていた。修学旅行のしおりに視線を向けていた為に、あまり周りを見ていなかったが、ふと気付けば、すぐそこに大きな門がそびえ立っていてもの凄い存在感を放っている。

 こんなところにお寺なんてあったのかと、茜はついその門の前で立ち止まった。門の向こうは、大きなお堂のような建物がいくつか連なっている。人も疎らで、中には犬の散歩をする人なんかもいて随分と拝観しやすそうな雰囲気だ。

 京都は歴史が色濃く残る街だ。道の曲がり角がいきなりタイムスリップしたような景色に変わったり、街を歩けば所々に歴史のある建造物が現れる。この寺もそんな歴史あるものの一つかもしれないと、茜は門の向こうへと足を踏み出した。どっちにしろ、集合時間の三時までたくさん時間はあるのだから、少しでも時間を潰せたら良い。

 そんな軽い気持ちで、門から真っ直ぐに続く石畳を茜はゆっくりと歩く。綺麗に瓦が並ぶ屋根が連なり、木の木目さえも芸術の一つような大きな歴史のある建造物は見ていて壮観だった。周囲の木々の放つ自然の香りを深く吸込めば、すーっとした爽やかな空気が体内に溶け込みとても心地が良い。

 先程の苦い思い出も少し和らぎ、晴やかな気分で歩いていると【法堂、雲龍図の拝観受付は此方→】と書かれた案内板が目に入った。『雲龍図』その言葉に、茜は歴史の教科書の端で何度か見かけた写真を思い浮かべる。法堂の天井に描かれた迫力のある龍の絵を教科書では見たことがあるが、実物は今まで見たことがなかった。何十年、何百年と前に名のある絵師が何年もかけて描いた龍。それは絵を描く者としてとても興味深いし、後学のためにもぜひ拝見したいものだ。

 茜はその案内板の矢印に釣られるように進み、一つの建物に辿り着いた。恐る恐るその中に入ってみれば、受付口からひょこっと一人のおばさんが顔を出している。

「あら学生さん、雲龍図の拝観ですか?」

 そう丁寧に聞かれて、少し緊張しながらも「はい!」と答えれば拝観料の説明とパンフレットを渡してくれた。財布から拝観料を支払い、パンフレットを手にする。手にしたパンフレットには、これから拝見できるであろう勇ましい雲龍図が印刷されていた。その龍の姿に、早く実物を観たい気持ちが大きくなっていく。

「今日は人が少ないみたいでね、この時間に拝観される方は貴女一人なんですよ。」

「…そうなんですか?」

「良い時に来ましたね、雲龍図を独り占めできますよ!」

 そう言ったおばさんの柔らかな表情に、これは本当に良い時に来たかもしれないと茜はこの修学旅行で一番心が踊った。

 受付のおばさんに案内され、ローファーで石畳を鳴らしながら歩いていく。秋とも冬とも言えない澄んだ風が、高揚する茜の頬をするりと撫でた。暫くすると屋根の四隅の軒先が綺麗にカーブし釣り上がり、何本もの大きな柱で建った威厳のある法堂に辿り着いた。

 そこへと続く渡り廊下は風通しが良く、紅葉間近のほんのりと赤く色を変え始めた葉も身近に感じることができる。歴史のある寺ならではの厳かな雰囲気が何処からともなく漂い、スッと背筋が伸びるのを感じた。

「こちらが法堂になります。靴を脱いで、お進みください。」

案内人のおばさんが、優しそうな笑みを浮かべ此方を振り返った。

「はい…!」

 茜は言われたとおりに脱いだローファーを法堂の入口付近に設置された下駄箱に入れて、少し緊張しながら薄暗い室内に足を踏み入れる。いよいよこの先にある雲龍図を拝見できるのかと、茜はグッと気を引き締めた。

 開けた法堂内は、法席を囲むように石畳が敷かれていた。開かれたいくつかの窓から光が差し込んでいて、少し薄暗いけれどよく見渡せる範囲だ。初めて足を踏み入れたのにも関わらず、その空間は何処か茜に安心感をもたらした。

「上をご覧ください。」

 案内人のおばさんの声にゆっくりと顔を上げれば、天井に一頭の龍がいた。

「…っ!?」

 茜は思わず息を呑む。そこに居たのは、由緒正しい寺にあるはずの雲龍図ではなかったからだ。

 長い長い胴体を悠々と捻らせて、張り付いた鱗が法堂の開けられた窓から入り込む光に煌めいた。長い爪が生えた鷹のような手が掻くような動きをし、鯰のような髭を踊らせる。大木のような角を宿した頭が揺れて、ふさふさとした眉毛の下の大きな目がぎょろりと動く。牙が覗く大きな口から吐き出された息は風となり、ゴォォと空間を振動させて茜の前髪やスカートの裾を揺らした。

 その光景に茜は心臓がバクバクと鳴り、ひやりと背中に冷たい汗が流れるのを感じた。これは絵なんかじゃない、本物の龍だ。あまりにも現実離れしている光景に、全く頭がついて行かない。一体、何が起きているのだろうか。茜は震える手で縋るように、持っていた修学旅行のしおりを抱え込んだ。

 そんな茜を知る由もない天井の龍は、大きな鼻からブォォと生温かい風を吹き出す。その衝撃により、茜の視界が不安定に揺れた。恐怖により固まってしまった身体をなんとか動かそうと、ギギギと首を横に動かせば、何事もないように穏やかな声で案内人のおばさんが雲龍図についての説明を始めている。

「この雲龍図は、今から約四〇〇年前に描かれたとされています。」

 もしかして、この人にはこの恐ろしい龍が見えていないのだろうか。涼しい顔をして龍を見上げ説明に励む案内人のおばさんに、茜はより恐怖した。

 不意に、水晶を埋め込んだような大きな目と茜の小さな目が合う。その途端に龍はふさふさに茂った眉をグワッと寄せて、大きな目で茜を睨みつけるように見据えた。その視線の鋭さに呼吸が止まり、射殺されるような感覚にビクッと肩が上がる。細くなった闇のように深い瞳孔は開かれ、ヴヴ…と獣が威嚇するような呼吸に全身が震えた。

「ほぉー小娘、我が視えるか。」

 龍はその一瞬を逃さないとばかりに、茜に向けて言葉を発した。極度の緊張と恐怖に目を逸らすことができないまま、茜は大きく目を見張った。

「嘘っ…!?」

 雲龍図が動き、喋っているという目の前の光景が、とてもじゃないけど信じられない。

「我を視える人間が現れるとは、ついに時は来た。」

 茜を視界に捉え、そう告げた龍は牙を出すように裂けた口角を上げ、腹の底に響くような低い声を振動させる。時は来たとは、一体どうゆうことなのだろうか。訳の分からないまま、未知の恐怖にガタガタと身体が震える。大太鼓を叩き鳴らすような大きな鼓動が、茜の体内に響き渡った。

「四〇〇年、長いようで短かった。お前の想いは我に宿り、この小娘に託された。」

 龍が言葉を放つたびに空気が大きく振動して、震えた法堂内の柱がキシキシと音を立てた。

「すまんな、小娘。お前に拒否は与えぬ。」

 雲龍図の雲が煙のように法堂の天井を覆い、龍の放った言葉の震えは止まらない。まるで、法堂内は沸騰した熱い湯のように騒がしい。龍が何を言っているのか意味が分からず、茜はただただ目の前で起こっている異様な光景に怯えるしかなかった。

「我は、幽山(ゆうざん)の力を宿す妖し者。此れより、その役目果たす時が来たり。」

 龍はそう告げると、天井から剥がれるように動き出す。ビュッと肌に当たる凄まじい風に、身体が吹っ飛ばされそうになる。鋭い牙が生える大きな口を開けた龍が、勢いよく茜に向かって突っ込んで来た。

 このままでは食われると茜は本能的に思い、近づく牙にギュッと目を瞑り身を固くした。衝撃を待つ身体は震えて、血の気が引く。生温かい風が全身を包み深く大きな闇に呑み込まれる寸前、その巨体から低い声が鳴った。

「…小娘、頼んだぞ。」