「もう本当に無理! 耐えられないの!」
 ガンッと勢いよくジョッキを置くのとほぼ同時に、目の前に座る友達が叫んだ。半分ほどに減ったハイボールの中で、カランと軽快な音を鳴らしながら、氷が回る。
「そうだよね、本当に何のために働くんだろうって思っちゃうよね」
 彼女の気持ちを受け止めるように、私は声をかけた。幸いにも、周囲の環境は賑やかで、彼女がどれだけ泣き叫ぼうとも、一テーブルの会話として、騒音にかき消される。
 彼女は自分の気持ちをわかってもらえたことが嬉しかったのか、目にいっぱい涙を浮かべていた。
「もうさ、だっておかしいじゃん。それにさ、〇歳児だよ? あの子はできるから可愛がって、この子はどうせできないからって嘲笑うの、何も話せないからって何もわかってないわけじゃないから! こんなのいじめと同様じゃん! 本当にこんな環境で続けるの無理……」
 同じ大学で仲良くなり、保育士になって約半年の彼女は、職場と自分の価値観が合わず、嘆いていた。
 気持ちは大いにわかる。なぜなら私も同業者だから。
「それは本当におかしいと思う。やっぱりさ、働くからには自分が成長できたり、何か得られるところでないと。そんなところに居続けても、歪んだ保育観に染められて、満香(みちか)が狂ってしまうだけだよ。もっといい園、たくさんあると思う」
 彼女は私の目をじっと見た後、自分の頬を両手でパチンと叩いて言った。
「やっぱりそうだよね。ありがとう、雪恵(ゆきえ)。なんか、目が覚めた。うちの園でこれから何が学べるかなって考えたけど、やっぱり何もないや!」
 そして、再び彼女はジョッキを手に持ち、グイッと口元に近づける。私も真似して、サワーを一口飲んだ。まだ酔いは回らない。
 今度はそっとジョッキを置いて、彼女は艶やかな黒髪を耳にかけた。
「でもさ、私が辞めたらあの子たちがどうなるのかなとかさ……考えたら辞めるに辞められないというか……。うーん、あああ……」
 真っ赤な顔を覆い隠すように、彼女は頭を抱えた。
 以前から彼女はずっとこの繰り返しだった。これを呆れた感情で見つめる友人Aであることが、私の立場上、普通なのかもしれない。
 だが、私は違った。『さっさと辞めてしまえ』とは思わなかった。
「悩むよね。そんなに簡単に決意できないよね。真剣だからこそだよきっと」
 これほどまでに、子どもたちのことを考えて自分を犠牲にする彼女を、尊敬するほどだった。
 ただ、友人だからこそ、彼女が前々からよくやる自己犠牲の癖を心配はしていた。
「たくさん悩んでいいと思うよ。中途半端に悩んで早々に決断するより、ずっと深く悩みに悩んで、その上で決めた方が絶対に後悔しないと思う。だけど、自分を犠牲にしすぎるのは、満香の良くない癖だよ。満香が壊れたら、元も子もないからね」
 彼女はそれを聞き、頭を抱えていた手を下ろすと、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
 私は微笑みながら、傍にあったティッシュを彼女に渡す。これもお決まりのパターンだ。
「もう、やっぱり雪恵しかいないよ〜。本当にいつもありがとうね」
「いえいえ。役に立てたのなら良かった!」
 何度でも、話を聞こうと思う。それで彼女が、私の大切な人が、少しでも楽になるのならそれでいい。
 仕事は辛いものだ。いつだって新たな壁にぶつかり、苦しんで、もがいて、愚痴として吐き出したり、時には耐えられなくなって辞めることも然り。
 それが社会で働く上では当たり前なのだ。
 そんな人に、私にできることは、助言と、相手の気持ちを受け止めることと、あと一つだけ。
「本当に今日はありがとう! 雪恵に話聞いてもらって、ちょっとスッキリした! 雪恵も、大変だろうけど仕事頑張ろうね!」
「うん! 私も頑張るね。無理しないようにね!」
 会計を済まし、外へ出た。扉を開けた瞬間から、もわっとした空気が全身を包み込む。まだ暑さの残る秋の夜で、私たちは別れた。
 これで良かったのだ。最後の彼女の笑顔を見て、そう思う。
 また言えなかった。いや、言わないことが正解だ。
 それが、彼女にできる最後の一つ。
『私は仕事が好き』
 そんな私の本心を、胸の内にしまっておいて、打ち明けないこと。
 ざくざくと、重たい足を持ち上げながら歩き、電車に乗った。
 夜の街中に、頬が赤く染まった自分の顔が映る。
 気が抜けたのか、気分が悪くなってきて、その場にしゃがみ込んだ。
 早く明日になれ。そう願いながら。