「――おい、大丈夫かよ」

そのときだった。

すぐ近くから聞こえたそんな声に、朦朧とする意識が引き戻された。

どうにか顔を上げれば、思いもしなかった人がいて、一瞬息苦しさを忘れる。

そこには、私の顔を心配そうにのぞき込んでいる小瀬川くんがいた。

「…ぜ…」

小瀬川くん、って言いたかったけど、うまく言葉にならなかった。小瀬川くんは眉をしかめると、私の背中に向かって手を伸ばした。ためらうように一度手を止めたあと、遠慮がちにさすってくる。

「落ち着いて。ゆっくり息吸って」

「……っ」

私は、涙目でかぶりを振った。

急に、今までどうやって呼吸をしていたか、分からなくなってしまったのだ。

私の声にならない声を理解しているかのように、小瀬川くんは「大丈夫だから。息、ちゃんと吸えるから」と言い聞かせてくる。

「俺の、口の動きをよく見て。同じように動かして」

小瀬川くんが僅かに口を開け、ゆっくりと時間をかけて息を吸い込む。それから、また時間をかけて、ゆっくり息を吐き出した。

私は今にも死にそうなのに、小瀬川くんは慌てる様子はなく、淡々としていた。

そのせいか、彼の言は真実味を帯びているように感じた。

大丈夫、これは慌てることじゃない。

私は、ちゃんと息を吸える。

小瀬川くんは全然慌ててない。

だから、死ぬほどのことじゃない。

彼の口の動きを見て、どうにかその通りに真似をしようとした。

呼吸が荒れているから、リズムを掴むのに時間がかかったけど、小瀬川くんはいつまでも傍を離れることなく呼吸の動きを繰り返してくれた。

そのうち、今までの困惑が嘘のように、呼吸の仕方を思い出していく。

「……息、戻った」

幾度も呼吸を整え、もう大丈夫だと思った頃に、ようやく声が出た。

すると小瀬川くんは、ほんの少しだけホッとした顔を見せたあとで、何も言わずに私の背中から手を離す。

グレーのストライプシャツに黒のロングエプロン。よく見ると小瀬川くんは、カフェの制服姿のままだった。

「……小瀬川くん。もしかして、バイト中だった?」

「そうだけど、終わりかけだったから」

気にしなくていい、という意味なのだろう。

カフェの窓ガラス越しに、路上にうずくまる私を見つけて、助けに来てくれたんだ……。

「ごめんね。助けてくれてありがとう」

どうにか笑って見せれば、小瀬川くんは、先ほどまでの穏やかな口調からは考えられないほど、不機嫌そうな顔をした。

――え、何……?

「無理して、友達ごっこなんかしてるからそうなるんだ」

まるで、ハンマーで頭をガンと頭を殴られたみたいだった。

小瀬川くんのその一言は、私にとってはそれくらい衝撃的だった。

彼が言ってるのは、明らかに美織と杏との関係のことで。

クラスの誰も、そのことには触れて来ないのに。お母さんだって、誤魔化せたのに。

話したこともない小瀬川くんに、バレていた――。

闇を背後に浮かぶ、きれいに整った小瀬川くんの顔が、急に怖くなる。

凍り付く私に、小瀬川くんは見透かすような目をして、なおも容赦のない言葉を投げかけてきた。

「あいつらとつるむのが苦痛なら、ひとりでいろよ。見ててしんどいんだよ。自分を偽ってまで、一緒にいる必要ないだろ?」

――見てて、しんどい。

彼の言葉が、刃のように私の胸に刺さる。

私、端から見たらそんな風に見えていたんだ。

クラスの人は何も言ってこないけど、みんなやっぱり分かってたんだ。

私が“普通”から外れかけていることに。

唇を引き結び震える私を、小瀬川くんは、変わらずしかめ面のまま見つめていた。

その理知的な瞳には、臆病な私のことなど、すべてお見通しなのだろう。

「……小瀬川くんには、わからないよ」

いつの間にか、反抗心が胸の奥から湧いてきた。

「普通でいられなくなる気持ちなんて……」

「……普通って、なに?」

小瀬川くんは、私の卑屈な声にも、あくまでも淡々と返事をする。

「普通が、そんなに大事?」

私は、引き結んだ口元を震わせて、小瀬川くんを見た。

「大事だよ、私には大事。だって……」

言いかけて、言葉をつぐんだ。家庭環境が普通じゃないから、せめて学校では普通でいたい――美織と杏にも頑なに秘密にしているのに、今日初めて話したクラスメイトに、そんなことは言えない。

押し黙ったあとで、恐る恐る小瀬川くんを見上げる。

真剣な目をした彼の顔が、そこにはあった。

眉根を寄せているのは、おそらく、私の気持ちが伝わっていないからだろう。

ひとりでいることが平気な彼にとって、ハブられる疎外感なんて理解できないと思う。

だから、絶対になにか言い返してくると思った。

寡黙に見えて、彼は意外とズバズバと言う人のようだから。

だけど小瀬川くんは、しばらく無言を貫いたあとで、顔を上げて辺りを見回す。

視界のあちらこちらに映るネオンの灯り、通り過ぎるサラリーマンたちの笑い声、どこからか響く車のクラクションの音。

夜の深まった街は、すっかり私の知らない世界に変貌していた。ふと感じたことのない不安感を覚えたとき、小瀬川くんがおもむろに立ち上がる。

「――ちょっとだけ、そこで待ってて」

それから、カフェの中へと戻っていった。