桜人にお母さんはいなくて、お父さんとふたり暮らしらしい。

だけどお父さんは県外に出張中で、病院に来るのに時間がかかるとのことだった。

実は桜人とはクラスメイトなのだと言うと、お母さんと光は驚いた顔をした。

そして、桜人のお父さんが来るまでの間付き添いたいと伝えると、なにかを察したように、頷いてくれた。

ベッドに横たわる桜人の隣に、そっと腰かける。

夕方が近づくにつれ、徐々に赤っぽくなっていく日が、端正なその横顔を照らしていた。

今になって、ようやく思い出した。

私は子供の頃に、桜人と一度だけ会っている。

お父さんが亡くなる前日のことで、混乱とともに、その思い出は記憶の彼方に葬り去られていた。

風にそよぐ樫の木、芝生、病院の白い壁。

そこで子供の頃の桜人は、本を読んでいた。

光の幼稚園の行事でバタバタしていたお母さんの代わりにお父さんのお見舞いに来たものの、今から検査だからと病室を追い出され、中庭をさ迷っていたところに出くわした。

当時、この入院棟には子供が少なく、年上には見えたものの、子供の桜人を見つけてうれしくなったのを覚えている。

思えば、あの頃から桜人は文学少年だった。

たしか、和歌の話をした。

それから、とりとめのない言葉遊びをした。

桜人の紡ぐ言葉が心地よかったのを、おぼろげに覚えている。

そのとき、どんな言葉を交わし合ったのかは、忘れてしまったけれど――。


ノックの音がした。桜人のお父さんかと思って慌てて立ち上がろうとしたけど、入ってきたのは、近藤さんだった。茶色のダウンジャケットに黒のズボン。普段の格好をしているから、仕事はもう終わったのだろう。

「真菜ちゃん?」

驚いている近藤さんに、ぺこりと頭を下げる。

「こんなところで、どうしたの?」

「彼、実は、クラスメイトなんです。だから、心配で……」

「あら、そうだったのね。なんだかお互いよそよしかったから、もしかして知り合い?とは思ってたけど」

小さく笑いながら、近藤さんが私の隣に腰かける。そんな彼女に、ためらいがちに聞いてみた。

「桜人は……ずっと光の支えになってくれてたんですか?」

「そうよ。光君が入院してるときは、しょっちゅう病室に来てね、話し相手になってた。彼も子供の頃ずっと病室で過ごしてたから、光君の気持ちが分かったんじゃないかしら。学校にも、二年遅れで入ってるしね」
「……そうだったんですね」

桜人が二歳年上なのは、子供の頃、入院していたからだった。

桜人は人間関係に悩む私の背中をいつも押してくれた。

時には厳しい言葉をかけ、つらいときは何も言わず、そっと寄り添ってくれた。

文学を学びたいという、私の道しるべも作ってくれた。

まるで、凝り固まったわたしの蟠りをすべて溶かすように、開放し、世界を広げてくれた。

それだけじゃない。桜人はずっと光のことも助けていたんだ。

ためらわず、窓から身を乗り出すほど。懸命な思いで、私たちを守ってくれていた。

それに、お母さんも。

それは、もしかしたら――。

「あの……」

お母さんの話を聞いてから、ずっと気になっていたことがある。長くこの病棟に務めている近藤さんなら、真相を知っているかもしれない。

「桜人は、どうして、お父さんが亡くなったのは自分のせいだと思ってるんでしょう……?」

問うと、近藤さんの表情が、あからさまに強張った。

「彼が、そんなことを……?」

愕然として、眠る桜人を見つめる近藤さん。

私は、黙ったまま頷いた。

「そう。長い間、とてもつらい思いをさせていたのね……」

今にも泣きそうな声で、近藤さんは言った。それから、戸惑うような視線を私に向ける。何かを言いあぐねているような顔だった。

「教えてください。本当のことが知りたいんです」

「遺族のあなたに聞かせるのは、とても勇気がいることなんだけど……」

「お願いします」

「……分かったわ。包み隠さず話します」

意を決したように、近藤さんが小さく息を吐く。

そして、あの日のことを、神妙な面持ちで語り出した。

「あの日、こちらの不手際で、あなたのお父さんと小瀬川くんが入院していたフロアには、ひとりしか夜勤がいなかったの。本当はね、緊急事態のために、夜勤はふたり体制なんだけど……」

胸が、ドクドクと不穏な鼓動を刻んでいる。

「その日は小瀬川くんからのナースコールが多くて、夜勤の看護師が、があなたのお父さんからのナースコールに気づかなかった」

そこで近藤さんは、絞り出すように声を出した。

「もしも夜勤がナースコールに気づいてたら、あなたのお父さんは助かってたかもしれないの……」

近藤さんが言葉を止めた途端、部屋は、怖いほどの静寂に包まれた。

「きっと彼は、どこからかその話を聞いて、ずっと自分を責めて生きてきたのね……。でも、気づいていても、もちろん助からなかった可能性だってあるのよ。それに、彼は悪くない。すべての責任は、病院側にあるの」

ショックだった。

でもそれは、お父さんが助かっていたかもしれないという事実に対してではなかった。

桜人が抱えていたものが、あまりにも大きくて。

胸が押しつぶされたみたいに、苦しくなる。 

桜人は、ずっと苦しんでいた。

自分が、私のお父さんの命を奪ったかもしれないって。

そんな彼の苦しみにも気づかず、彼の優しさにのうのうと甘えて、私は日々を過ごしていたんだ……。

「ごめん、桜人……」

眠っている彼の掌を、力強く握りしめる。

私の小さな掌をすっぽり包み込めるくらい大きな彼の掌は、今はただされるがままだった。

「何も知らなくて、ごめん……」

私の様子を見て、何かを言いかけていた近藤さんが、すぐに口を閉ざす。

「ごめんね。残酷なことを話してしまって……」

いいえ、と私はかぶりを振った。

「教えてくれて、ありがとうございます。何も知らない方がよほどつらかったです」

私の返事を聞くなり、そう、と近藤さんはうっすら微笑んだ。

「今は眠っているだけだから、いずれ目を覚ますだろうってドクターは言ってたわ。もう少しだけ、彼の傍にいてあげてくれるかしら?」

「はい」

彼の手を握ったまま深く頷くと、優しい笑みを残して、近藤さんは病室をあとにした。