その日の夜、僕はなかなか興奮が収まらないでいた。
心に、とてつもなくあたたかいものが芽吹いていて、それをどうしたらいいか分からなかった。
だから、何度もナースコールを押して、興奮を掻き消すように、夜勤の看護師さんにどうでもいい話をした。
看護師さんは困り顔を見せながらも、哀れな僕のわがままに付き合ってくれた。
翌朝。ナースステーションが、少しいつもよりザワザワしていた。
昨夜、病棟で訃報があったらしい。
こんな経験は前にもあったから、僕はすぐにそれを察知した。
人目につかない階段の踊り場で、看護師がふたりヒソヒソと噂をしているのを、偶然耳にする。
「水田さん、術後経過がよかったのにね……。急な呼吸困難って、気の毒だわ」
“水田”。その名前に、僕は凍り付いたようになった。
昨日会った女の子も、同じ苗字を名乗っていたからだ。
「もう少し早く対応してたら助かったかもしれないって。ほら、昨日浜岡さんが急に夜勤休んで、柏木さんひとりだったでしょ?」
「え、そうだったの?」
「そう。それで小瀬川くんからのナースコールがしつこくて、水田さんからのナースコール、聞き逃しちゃったんだって!」
その瞬間、僕の世界は真っ暗になった。
昨日見た女の子の笑顔が、霞んで、黒に染まっていく。
あの子の親を、僕が、殺した――。
放心状態のまま、病室に戻る。
何も聞こえなかった。
廊下からのざわめきも、窓の向こうの樫の木のさざめきも。
全てが泥の中に沈んだかのように、音をなくしていた。
その日の夕方、泣きじゃくる弟の手を引き、ロータリーを行くあの子を見た。
あの子は泣いていなかった。けれど、笑ってもいなかった。
小さな身体は、こちらが泣きたくなるほど気丈に背筋を伸ばしていた。
罪悪感が僕を蝕み、逃れようがないほどがんじがらめにする。
――『お兄さんの言葉、私好きだよ。また聞かせてね』
繰り返し、彼女を思った。
懺悔のように、彼女に言葉を綴った。
絵でも描けと、父親が買ってきたスケッチブックに。あの子が好きだと言った僕の言葉を、あの子のために、来る日も来る日も書き続けた。
自分のわがままが人の命を奪った事実は、僕を変えた。
見違えるほどいい子になった僕を、皆は疑問に思うでもなく、喜んで受け入れた。
長引いた入院のせいで、就学猶予が認められ、二年遅れで中学に入学した。
そこでも僕は、優等生を演じた。
恐かったんだ。自分のせいで、また誰かを傷つけるのが。
誰にも迷惑をかけず、誰かの役に立つ。
そうすることで、過去の罪を晴らそうと、僕は必死だった。
だけど思いがけずして、高校で彼女に会した。
成長した彼女は、笑顔を失っていた。
輝くようだったその存在感も、ひっそりとなりを潜めていた。
まわりの様子を伺うように、自分を押し殺し、苦しそうに生きている。
そんな様子を見てに、胸をえぐられるような心地になった。
入学して間もなくして、定期健診の際、たまたま病院で彼女を見かけた。
彼女の弟は、重度喘息で入退院を繰り返していた。母親は、毎日仕事に追われていた。
彼女は家事と弟の世話に必死で、学校では、自分を偽るのに必死だった。
――彼女から笑顔を奪ったのは俺だ。
そのとき俺は、優等生であることをやめた。
誰かのために生きる必要なんてない。
君のために、君だけのために、この先は生きよう――あの日の、言葉遊びのように。
君が前を向けるように、背中を押す。
君が困っていたら、見えないところから手を差し伸べる。
そして、いつしか君の前から、あとかたもなく消えるつもりだったんだ。
なのに――。
『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちに
なれるの』
弱くて泣いてばかりの君は、少しずつ、僕の心に入り込んできた。
『はると……。よかった、いた』
久しぶりに見た無邪気な笑顔。
もっと笑顔が見たい。
そしてその小さな掌を、ぎゅっと握り締めたい。
その華奢な身体をきつく抱きしめて、自分だけのものにしたい。
そう強く感じたとき、これは恋だと悟った。
――そして俺は、絶望に打ちのめされた。
心に、とてつもなくあたたかいものが芽吹いていて、それをどうしたらいいか分からなかった。
だから、何度もナースコールを押して、興奮を掻き消すように、夜勤の看護師さんにどうでもいい話をした。
看護師さんは困り顔を見せながらも、哀れな僕のわがままに付き合ってくれた。
翌朝。ナースステーションが、少しいつもよりザワザワしていた。
昨夜、病棟で訃報があったらしい。
こんな経験は前にもあったから、僕はすぐにそれを察知した。
人目につかない階段の踊り場で、看護師がふたりヒソヒソと噂をしているのを、偶然耳にする。
「水田さん、術後経過がよかったのにね……。急な呼吸困難って、気の毒だわ」
“水田”。その名前に、僕は凍り付いたようになった。
昨日会った女の子も、同じ苗字を名乗っていたからだ。
「もう少し早く対応してたら助かったかもしれないって。ほら、昨日浜岡さんが急に夜勤休んで、柏木さんひとりだったでしょ?」
「え、そうだったの?」
「そう。それで小瀬川くんからのナースコールがしつこくて、水田さんからのナースコール、聞き逃しちゃったんだって!」
その瞬間、僕の世界は真っ暗になった。
昨日見た女の子の笑顔が、霞んで、黒に染まっていく。
あの子の親を、僕が、殺した――。
放心状態のまま、病室に戻る。
何も聞こえなかった。
廊下からのざわめきも、窓の向こうの樫の木のさざめきも。
全てが泥の中に沈んだかのように、音をなくしていた。
その日の夕方、泣きじゃくる弟の手を引き、ロータリーを行くあの子を見た。
あの子は泣いていなかった。けれど、笑ってもいなかった。
小さな身体は、こちらが泣きたくなるほど気丈に背筋を伸ばしていた。
罪悪感が僕を蝕み、逃れようがないほどがんじがらめにする。
――『お兄さんの言葉、私好きだよ。また聞かせてね』
繰り返し、彼女を思った。
懺悔のように、彼女に言葉を綴った。
絵でも描けと、父親が買ってきたスケッチブックに。あの子が好きだと言った僕の言葉を、あの子のために、来る日も来る日も書き続けた。
自分のわがままが人の命を奪った事実は、僕を変えた。
見違えるほどいい子になった僕を、皆は疑問に思うでもなく、喜んで受け入れた。
長引いた入院のせいで、就学猶予が認められ、二年遅れで中学に入学した。
そこでも僕は、優等生を演じた。
恐かったんだ。自分のせいで、また誰かを傷つけるのが。
誰にも迷惑をかけず、誰かの役に立つ。
そうすることで、過去の罪を晴らそうと、僕は必死だった。
だけど思いがけずして、高校で彼女に会した。
成長した彼女は、笑顔を失っていた。
輝くようだったその存在感も、ひっそりとなりを潜めていた。
まわりの様子を伺うように、自分を押し殺し、苦しそうに生きている。
そんな様子を見てに、胸をえぐられるような心地になった。
入学して間もなくして、定期健診の際、たまたま病院で彼女を見かけた。
彼女の弟は、重度喘息で入退院を繰り返していた。母親は、毎日仕事に追われていた。
彼女は家事と弟の世話に必死で、学校では、自分を偽るのに必死だった。
――彼女から笑顔を奪ったのは俺だ。
そのとき俺は、優等生であることをやめた。
誰かのために生きる必要なんてない。
君のために、君だけのために、この先は生きよう――あの日の、言葉遊びのように。
君が前を向けるように、背中を押す。
君が困っていたら、見えないところから手を差し伸べる。
そして、いつしか君の前から、あとかたもなく消えるつもりだったんだ。
なのに――。
『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちに
なれるの』
弱くて泣いてばかりの君は、少しずつ、僕の心に入り込んできた。
『はると……。よかった、いた』
久しぶりに見た無邪気な笑顔。
もっと笑顔が見たい。
そしてその小さな掌を、ぎゅっと握り締めたい。
その華奢な身体をきつく抱きしめて、自分だけのものにしたい。
そう強く感じたとき、これは恋だと悟った。
――そして俺は、絶望に打ちのめされた。