光の身体に別状はなかった。

だけど鬱傾向があると、お医者さんに診断された。

「飛び降りるつもりなんてなかったんだ。でも、空があんまりきれいで、気づいたら身体が勝手に動いてて……」

病院に駆けつけたお母さんの胸で、光は泣きじゃくりながら、何度もそう言った。

涙ながらに何度も頷いて、お母さんは光の気持ちを受け止めていた。

「ごめんね、光。そばにいてあげれなくて、ごめんね。ずっとつらかったのにね」

どうして光の異変に気づきながら、もっと早くに対処できなかったのだろう。

重い病と複雑な友人関係。抱え込むには、その身体はあまりにも小さすぎた。

姉の私が、支えてやらなければいけなかったのに……。私は、それをしなかった。

お母さんはむせび泣く光を抱きしめたまま、顔を上げて私を見る。

「助けてくれた方は、どこの病室にいらっしゃるの?」

「五階って言ってた……」

桜人は頭を打ったものの、検査の結果、内部に異常は見られなかった。左側を下にして地面に落下したらしく、左手首にひびが入っていたのと、あとは枝が当たったことで出来た擦り傷があちらこちらにあるだけだ。今は五階の個室で眠っていると、近藤さんが言っていた。

「さっちゃん、大丈夫かな……」

光の顔が、暗く沈んでいく。

「大丈夫よ。命に別状はないって言ってたんだから」

「さっちゃんって、光の友達の?」

お母さんが、神妙な顔で話に入ってくる。

光に聞いた話によると、さっちゃんこと桜人は、子供の頃長い間ここに入院したことがあるらしい。そのよしみで、今でも定期的に本を寄付しにきているそうだ。入退院を繰り返し、週に一回定期健診に来ている光と知り合うのは、必然だった。

名前に“桜”がつくことから、“さっちゃん”と一部の看護師に呼ばれているらしい。

だから光も、必然的に彼をさっちゃんと呼ぶようになった。

入院中、桜人は光の心の支えになってくれた。

友のように、ときには兄のように。

自分と同じように入院を繰り返しながら、今は健康的に高校に通っている桜人は、光の憧れだった。

お母さんと光と連れ立って、桜人の様子を見に、五階に向かう。

桜人は青白い顔で、日当たりのいい病室に横になっていた。

頬に貼られたガーゼが痛々しい。

するとお母さんが、桜人の顔を見るなり、どういうわけか「この子……」と震え声を出した。

「知ってるわ……」

驚いて、私は隣に立つお母さんを見た。

桜人が同級生だということが知られるのは時間の問題だけど、まだ話していない。

だから、お母さんが桜人を知っているわけがない。

「一年位前だったかしら。家に来たの」

「一年前……?」

一年前というと、私と桜人は別々のクラスで、まだ話すらしたことがなかった頃だ。

「お金の入った封筒を出してきて、必死に謝られたの。お父さんが亡くなったのは、自分のせいだから、どうか使って欲しいって……。バイトで貯めたって言ってたわ。もちろん、あなたたちのお父さんが亡くなったのは彼のせいじゃないから、断ったけど……」

驚くべき事実に、しばらくの間、私は声すら出せないでいた。

桜人はなぜ、お父さんが亡くなったのは自分のせいだと思っているのだろう?

彼は、ずっとずっと、何を抱えて生きていたのだろう。

呆然と立ち尽くす私の脳裏に、お父さんが亡くなった日の光景がよみがえる。

茜色に染まるロータリー。

あのとき、光の手を引きながら、泣きじゃくりたい気持ちを抑え込み、背後に佇む病院を見上げた。

入院棟の二階から、男の子がじっとこちらを見ていた。

だけど動揺のあまり、そのとき私は、彼のことを考える余裕なんてなかったんだ。

彼とはたしか、樫の木の生い茂る入院棟の中庭で、一度だけ遊んだ。

たった、一度きり。

それも、お父さんが亡くなる前日に。

だから忘れていた。

多分、あれは――まだ子供だった頃の桜人だ。