その日の放課後。誰もいない文芸部の部室で、その想いに寄り添うように、私は桜人の綴った詩を眺めていた。
悲しい夏ぐれも
切ない夕月夜も
寂しい霜夜も
君がひとりで泣かないように
彼の言葉のひとつひとつが、今でも愛しい。だけど愛しければ愛しいほど、胸が苦しくて、張り裂けそうになる。
恋をしていなかったら、こんなつらい想いはしなくてすんだのに。
弱い弱いと思っていたけど、あの頃の私の方が、よほど強かったと思う。
どうして避けられてる?
いくら考えても、その答えは出てこない。
聞きたくても、桜人は話す機会を与えてくれない。
そして臆病な私は、また怖気づいてしまっている。
恋なんて、しなければよかった……。
「あれ? 川島部長は、今日休みっすか?」
ドアの開く音とともに、そんな声がした。田辺くんの出現に、私は慌てて文集を閉じると、平生を繕う。
「うん、来てないみたい。珍しいよね」
「小瀬川先輩はずっと来てないし、寂しいっすね~」
言いながら、田辺くんは、自分のバッグから本を取り出した。どうやら、図書館で借りてきた本を読むつもりみたい。
「あ、そうだった!」
静まり返ったのも束の間、唐突に田辺くんが声をあげる。
「これ! すごいじゃないですか!」
目の前に新聞を差し出され、面食らう。
「え、なんで新聞?」
「知らないんですかっ!? ここ、見てくださいよ」
田辺くんに示された欄に、視線を馳せる。そして私は、目を見開いた。
「特別賞……?」
そこは、夏に開催された地域のエッセイコンテストの結果の欄だった。
大賞、準大賞、特別賞、それぞれ一名ずつ。名前と作品が、紙面を大幅に使って載っている。そして特別賞のところには、私の名前が、夏に書き上げたあのエッセイとともに掲載されていた。
「嘘……」
送った覚えもないのに、どうしてという疑問は、当然湧いた。だけどそれ以上に、自分の作品が認められたという歓びが、胸に押し寄せる。
自分の胸から湧き出た言葉が、誰かの目に届き、そして共感を得た。誰かの心を震わせた。その事実が、たまらなくうれしかった。
「僕なんか、何度も送ってるけど全然ダメですよ! 一発で特別賞って、才能ありますよ! ていうか乗り気じゃなかったのに、いつ送ったんですか?」
「……送ってない。私じゃない」
「え? じゃあ、誰かが勝手に送ったのかな。部長とか?」
あの人がそんなことするかなあ、と田辺くんは唸っている。
「じゃあ、増村先生かなあ……」
首を捻っている田辺くんの隣で、私は、あるひとつの可能性について考えていた。
――もしかして、桜人が?
新聞を持つ手が、どうしようもなく震えていた。
自分が書いた文章が、人に認めてもらえた。
自分なんて、弱虫で、なんの役にも立たない人間だと思ったけど、必要とされることもある。
その事実は、私の考えを変えた。
文章の力は無限だ。無数にある言葉を、唯一無二の形に連ねることによってできた文章は魂を持つ。
私に、夢なんてなかった。
この先も、母を支え、弟を支えて生きて行かなければいけないのだと、漠然と思っていた。
でも、気づいたんだ。それは言い訳に過ぎないんだと。
自分の生き方を見つけられないでいることを、私は家庭環境のせいにしていた。
光に、母にすがっていたのは私だ。
でも、今は違う。挑戦してみたいことがある。夢なんていう大それたものではないけれど、歩んでみたい道がある。
「真菜。進路調査のことで、昨日先生から電話があったんだけど……」
ある朝、台所で食器を洗っていると、仕事に行く用意をバタバタとしていたお母さんに話しかけられた。お母さんの声が、珍しく弾んでいる。
「希望、“進学”に変えたんだって? 何かあったの? 大学行って欲しかったから、お母さんとしてはうれしいんだけど……」
我が家の家計を考えて、今まで私は、頑なに就職を希望していた。お母さんは奨学金だってあるしお金のことは心配しなくていいと言ってくれてたけど、それ以前に、やりたいことがなにひとつ見つからなかったからだ。
でも、文芸部に入って、文学に触れて、小さいけれど賞をもらって――おこがましいけど、少しだけ、文字の世界に浸ってみたいと思った。
「うん、ちょっと……」
文芸部に入ったことは先生伝いに知られてるみたいだけど、賞をもらったことは知られていない。恥ずかしくて言葉を濁すと、お母さんは私の気持ちを察したように笑顔を見せた。
「うれしいわ。……あなたが、変わってくれて」
小さく鼻を啜る音が聞こえて、私は慌てた。お母さんの目が潤んでいる。
「お母さん? どうしたの、急に……」
「あなたには、無理をさせてたから……。家のことも光のことも任せっぱなしで、ずっと申し訳なく思ってたの。そのせいか、まったく我儘を言わない子になってしまって……。就職したいって言ってたのも、私に気を遣ってるんじゃないかって、心配だったの」
「お母さん……」
「でも、このところ、あなた少し楽しそうだから、本当にうれしくて……」
せっかくお化粧をしたばっかりなのに、アイメイクの崩れてしまったお母さんの顔を、ちらりと見る。私は、心底情けない気持ちになった。
お父さんが亡くなってから、一番大変な想いをしてきたのは、お母さんなんだ。
自分本位な私には、それが見えていなかった。
お母さんだって、光のそばにずっといたいだろう。もともと料理が好きな人だから、私にお弁当だって作りたいだろう。だけど日々仕事に追われているせいで、泣く泣く、それらすべてを手放してきたのだ。
「増村先生も言ってたわ、クラスでも楽しそうにしてるって。いい友達ができたのね」
「……うん、そう。本当に、友達に恵まれてる」
答えると、「よかった」とお母さんはまた微笑んだ。
増村先生が言ってたように、クラスでの日々は、順調だ。夏葉とは相変わらず仲がいいし、美織と杏ともうまくやってる。みんなと過ごす日々は楽しい。
でも、私の中でもっとも大きな存在を放っているのは、桜人だ。
桜人は、自分を偽らないこと、逃げないことを教えてくれた。
それから、文字を紡ぐことの尊さも……。
そのとき、ガラッとふすまが開いて、光が出てきた。
ランドセルを背負って、通学用の黄色い帽子をかぶっている。
「あれ? 光、もう学校行くの?」
まだ、朝ご飯も食べていないのに。
「いらない」
それだけ答えると、光は暗い面持ちのまま玄関に向かい、行ってきますも言わずに外に出て行った。
私とお母さんと、目を合わすことすらしなかった。
光がアパートの階段を下りる音が、カンカンカン……と遠ざかっていく。
「光、今日も元気ないね」
光はこのところ、ずっと暗い顔をしている。それに、ことあるごとに私やお母さんに反抗していて、光が家にいるときはいつも重苦しい空気が漂っていた。
「学校で、友達とうまくいってないらしいの。あの子あの身体だから、どうしてもクラスメイトと同じように行動できなくて、それを不満に思っている子がいるみたいで……」
光が出て行った玄関扉を哀しげに見つめながら、お母さんが言う。
「そうだったんだ……」
重度喘息の光は、体育に参加できない。放課後友達と走り回ることもできないし、遠足にも行けない。前のクラスでは、それでもうまくやってたみたいだけど、今回は違うらしい。
クラスによって纏う雰囲気が違うことは、私もよく知っている。
「それに、病院のお友達とも、うまくいってないみたい」
「病院のお友達って、さっちゃんのこと?」
さっちゃんは、おそらく、光と同じ重度喘息の子供だ。入院中は光の支えになってくれたし、退院後も、定期受診の際によく会ってたみたい。
お母さんは、重い表情で頷いた。
「学校でうまくいってなくてもさっちゃんがいるから、って気持ちが、あの子の中にはあったと思うの。だけど両方いっぺんに失ったから、苦しんでるんだと思うわ」
病は、心までをも蝕む。
悪性リンパ腫だったお父さんもそうだった。
愚痴ひとつ吐かない気丈な人だったのに、晩年、やりきれない表情で項垂れている姿を何度も見た。
そのたびに私はお父さんに元気を取り戻してもらおうと、明るく振る舞った。だけどお父さんは、力なく笑うだけだった。
病気の苦しみは、当人にしか分からない。
光は、病と、孤独と、寂しさと、苦しみを抱えている。
それは、あの小さな体が抱え込むには、あまりにも多すぎる。
どうやったら、弟を救えるだろう。
いつまで経ってもその答えを見いだせないでいることが、歯がゆかった。
エッセイで予期せぬ特別賞を貰ってから、一週間。
十一月に入ったばかりの、午後七時。
最寄り駅で下車せず、私はK大付属病院前で降り立った。
秋が深まるにつれ日没も早まり、すっかり闇に染まっている道路には、冷たい夜風が拭いていた。紺色のブレザーを着た上半身を縮め、寒さをしのぎながら歩道を行く。
ここのところ、光の容態はずっと安定していたから、ここに来るのは久しぶりだ。
闇の中、デニスカフェは、今日も煌々としたオレンジ色の明かりを灯していた。
通行人の素振りをして、そっとウインドウ越しに中を覗くと、トレイを片手に店内を歩いている桜人が見えてドキッとした。
せわしなく動いている桜人には、どことなく鬼気迫るものがあった。毎日同じ教室で何時間も過ごしているのに、こうして見ると、何の接点もない他人のようにすら見えてくる。それが、たまらなく悲しかった。
ずっと、桜人と話す機会を待っていた。
だけど学校では、とことん避けられてしまう。
だからここに来てみたはいいものの、急に怖気づいてしまう。
彼のことが好きだからこそ、前にも増して怖かった。
他人のような目で見られること、無視されること、冷たい態度を取られること――すべてがつらい。
恐怖から足が棒のようになってしまって、そのまま立ち尽くしていると、「ねえ」と突然声を掛けられた。見ると、店内から出てきた店員さんのひとりが、すぐそこにいる。
顎髭がダンディーな、二十代後半くらいの店員さんだ。
髭の店員さんは、にこりと笑みを浮かべると「小瀬川くんの友達でしょ?」と話しかけてくる。
「あ……はい」
「今、呼んでくるね」
「大丈夫です! バイト中だし」
「今手が空いてるから、気にしないで。ちょっと待っててね」
そのまま彼は、店内へと引き返していった。
入れ違うようにして、小瀬川くんが出てきた。
その顔は、みたこともないほど不機嫌そうだった。
途端に、心臓が激しく乱れ打った。
「なに?」
不愛想ではあるけれど、桜人はそう口にした。
文化祭の日、昇降口で別れて以来ひとことも口をきいていないから、それだけで感動が押し寄せる。
「用事があるなら、早くして。バイト中だから」
「あの、ごめんね……。聞きたいことがあって……」
私は、田辺くんから切り抜いてもらった新聞を、桜人に突き出す。エッセイコンテストの応募結果だ。桜人は黙って、カフェから漏れる明かりを頼りに、紙面に目を落としていた。
「で、なに?」
おめでとう、のひとこともなかった。
期待していたわけじゃないけど、非常識ともとれるその態度に、私と彼との間に取り返しがつかないほどの隔たりがあるのを感じて悲しくなる。
「それ、私、送った覚えがなくて。……出してくれたの?」
桜人、と名前呼びすることに抵抗を覚え、あえて呼ばなかった。
桜人は、黙ってかぶりを振っただけだった。
予想が外れて、私は肩を落とす。じゃあ、あのエッセイを送ったのは誰……?
今にも、店の中に戻りたそうな桜人。
「そう……。忙しいのに、ごめんね。あと、それから、私、就職じゃなくて進学することにしたの」
このことを報告したのは、私が進路を見いだせたのが、桜人のおかげでもあるからだ。
彼の書いた詩を見たり、彼と和歌の話をしたりしなかったら、私は文学の尊さを知らなかった。
「………」
だけど、桜人はもうなにも答えてくれなかった。
心底どうでもよかったのかもしれない。そんな答えに行き着いたとき、私は、また逃げ出したくなった。
なぜ嫌われてるのかわからない。
でもこれでは、同じクラスになったばかりのあの頃よりも遠い。あの頃はお互い関りがなかっただけで、嫌われてはいなかった。
苦しくて苦しくて、胸が張り裂けそうで。
これ以上、ここにはいられないと思った。
「……ごめん、バイト中に。帰るね」
泣きそうになりながらそう言って、背を向ける。
だけど数歩進んだところで、彼の声が聞こえた気がして、私は後ろを振り返る。だけどもうそこに桜人の姿はなかった。
きっと、風の唸りだったのだろう。
桜人は、変わってしまった。もしかしたらそもそも彼はずっと変わってなくて、不愛想で寡黙な小瀬川くんのままで、この数カ月私は夢を見ていたのかもしれない。
バス停までのわずかな道のりで、同じ制服を見つけた。
茶色のロングヘアーが、夜風にさらりと揺れる。それは、浦部さんだった。
「水田さん?」
「浦部さん……?」
浦部さんは、明らかに怪訝そうな顔をしていた。どうしてここに?と聞きかけて、ハッと押し黙る。
この頃、浦部さんは桜人とよく一緒にいる。付き合ってるんじゃないかという噂も流れている。きっと桜人がここでバイトをしていることを知っていて、来たのだろう。ひょっとすると、これまで何度も来たことがあるのかもしれない。
「桜人くんに会いに行くの」
案の定、浦部さんはそう言った。勝ち誇ったような顔だ。
桜人くん。その呼び方に、ぎくりとしてしまう自分がいた。
「……そう」
私はそれだけ答えると、足早に、浦部さんの隣を通り過ぎる。
バス停でバスを待っているとき、ふいに振り返れば、ウインドウ越しに、仲睦まじげに話している桜人と浦部さんの姿が見えた。
――心の何かが、音をたてて崩れていくのを感じた。
***
ウインドウ越しに、バス停を見る。
彼女を乗せたバスは、片道二車線の大通りの向こうへと、走り去っていった。
ホッとしたような寂しいような気持ちがないまぜになって、胸に押し寄せる。
そんな自分の気持ちに見て見ぬふりをして、仕事に没頭した。
「桜人くん」
トレイ片手に店内をせわしなく歩いていると、中ほどの席に座っている浦部さんに、シャツを軽く引っ張られる。
「なに?」
同じクラスの浦部さんは、数週間前、たまたまこのカフェで出くわしたのを機に、たびたび来るようになった。彼女が俺に好意を持ってくれているのは、なんとなく気づいている。
だけど俺はもちろんそれに答えるつもりはないし、波風立てないように、どうにかやり過ごしているだけだ。
俺が足を止めても、浦部さんは何を言うでもなく、じっと見てくるだけだった。
アイメイクが濃いせいか、あまり見つめられると、少々怖い。どうにかやり過ごすためにうっすらと微笑めば、浦部さんも笑い返してきた。
「桜人くん。ここではよく笑うんだね。学校ではあんなに不愛想なのに」
「仕事中だから、当然だよ」
そう言うと、浦部さんはまたじっと俺を見て「でもさっきは笑ってなかった。一応仕事中だったけど」と言う。
「さっき?」
「水田さんと話してたとき」
胸を打たれたような気になって、一瞬息を止める。
「私、同中だった子から聞いたこと事があるの。桜人くん、中学のときは、すごく愛想がよくてクラスのムードメーカーだったんだって?」
「………」
「でも、高校からは不愛想になった。それって水田さんがいるから? それに最近、小瀬川くん皆に優しいのに、水田さんにだけ露骨に冷たいよね? 裏を返せば、水田さんを特別視してるってことよね」
何も答えることができない。
俺はうつむき、「暗いから、もう早く帰れよ」とだけ言った。
「……ねえ、あんなどこにでもいそうな子の、どこがいいの?」
だけど、浦部さんには、俺の声など届いていないようだった。前の席に座っている男性客が振り返るほど、大きめの声で俺に食ってかかってくる。
スッと、胸に冷気が入り込むような心地がした。
浦部さんは、何も知らない。
俺が、これまでどんな想いで生きてきたか。
どれだけ、特別な、ただひとつの、彼女の笑顔を追い求めてきたか。
それは恋だとか、付き合いたいとか、そういった世界の話じゃない。
彼女だけ。
ただ、それだけのことなんだ。
「どこがいいとか、そういうんじゃないんだ」
気づけば、積もり積もった想いを吐き出すように、そう呟いていた。
すると浦部さんは、何かが癇に障ったのか、真っ赤になってガタンッと立ち上がる。そしそのまま、大股に店を出て行った。
店にいる客が、俺の方を見てヒソヒソと何やら言い合っている。
「小瀬川くん、モテモテだね~」
いつの間にか近くに寄ってきた店長が、耳元で、茶化すような言い方をした。
今更のように顔が熱くなったけど、もうすべてがあとのまつりだ。
悶々とする気持ちを振り払うように、仕事に熱中する。
――『あと、それから、私、就職じゃなくて進学することにしたの』
ふと、彼女の声が耳によみがえった。
途端に、心の緊張が解けたように、和やかな気持ちになる。
彼女のエッセイを応募したのは俺だ。
このことは一生知らせるつもりはないけれど。
君が前を向いてくれれば、それでいい。
僕は君のために、光となり陰になって、君の未来を明るく照らすから。
私の心は、ボロボロだ。
恋なんてしなければよかったと、何度も思った。
恋は、魂を吸い取ったみたいに、人をダメにしてしまう。
桜人に避けられる日々は空虚だ。
一日中泣いて、泣いて、消えてしまいたい。
浦部さんと話している桜人を見ると、息が詰まりそうになる。
嫉妬心で、心が汚れていく。
そして、自分のことをますます嫌いになる。
そんなとき、私のすさんだ心に変化をもたらしてくれたのは、桜人の詩だった。
僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
どんなにもがいても、出口が見えない
だから僕は、君のために影になる
光となり風となる
僕が涙を流すのは、君のためだけ
僕のすべては、君のためだけ
深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う
たくさんあるから、と川島部長からもらった去年の文集を、家で繰り返し眺めた。
そのうちに、私は気づいたんだ。
見返りを求めている恋は、恋じゃない。
私は、桜人が好きだ。彼に避けられようと、彼が誰といようと、それでも好きだ。
彼は私を変えてくれたこの世でただひとりの存在。
苦しい気持ちを受け入れて、この先も、心の中で想い続ければいい。
行き着いた答えは、驚くほど単純だった。
――私は、この先も、桜人を想い続ける。
再来年に控えた受験のために、夏葉と同じ塾に通い始めた。
土曜日だけど、午前中授業があったその日。
塾が始まるまでの開いた時間、学校近くのファーストフード店で、私は夏葉と一緒に勉強をしていた。
カウンター席の窓の向こうの景色はすっかり冬の装いになっている。
コートやジャケットを着込んでいる人、寒そうに手をこすり合わせている人。
寄り添い合うカップル、店頭で光るクリスマスツリー。
ふとシャーペンを持つ手を止め、窓の向こうを見つめた。
十二月に入ったばかりだというのに、今日は異常気象とやらで、道行く人の吐く息が白く凍るほど寒い。私も制服の上にコートを着て、赤いマフラーをグルグル巻きにしてきた。
すると、同じ学校の女子生徒たちが数人、各々トレイを持って背後から入ってきた。クラスは違うけど、見たことがある子たちだ。だけど向こうは、隅の窓辺にいる私たちには気づいていないみたい。
「小瀬川くん?」
ひとりの子の声に、思わず肩がびくっと跳ね上がる。
「たしかに今がチャンスかも。浦部さんもさ、つきまとわなくなったし」
「フラれたんじゃない? 水田さんときみたいにさ」
楽しそうにはしゃぐ彼女たちの声が、こちらに近づいてくる。だけど私たちの存在に気づくなり、息を殺すように、皆押し黙った。そして、そそくさと遠くの席に行く。
私が小瀬川くんの元カノで、こっぴどくフラれたという噂は、またたくまに学年中に広まっていた。真実を正す気力も機会もなく、こうして噂だけが独り歩きしている状態だ。でも、こんな状況にももう慣れてしまった。
逃げるようにいなくなってしまった彼女たちの様子が少し面白くて、そちらを目で追ってしまう。するとその様子を見ていた夏葉が、「真菜って、強くなったよね」と言った。
「そうかな?」
「強くなきゃできないよ。ずっと、ひとりの人を想い続けるなんてこと」
私と夏葉は親友だ。桜人にどういうわけか避けられるようになったこと、それでも彼を想い続けると決めたことは、彼女には話してある。
夏葉はいつも、静かにあたたかく、私の話を受け入れてくれた。
「うん。ありがとう」
自分でも思う。以前の私だったら、めそめそ思い悩んで、また自分を責めていた。
周りと自分を比べて、“普通”であることに固執して――。
桜人は、私の世界を変えてくれた。
「私は、ずっと真菜の味方だからね」
「私も、ずっと夏葉の味方だよ」
ふたりして、笑い合った。そのとき――。
ポケットに入れていたスマホが振動して、慌てて取り出す。お母さんからの着信だった。
嫌な予感がして、急いで画面をタップする。すぐに息せき切ったようなお母さんの声が聞こえた。
『真菜? 光が、また入院になったの。あの子、今日友達と遊びに行ったみたいで、途中で発作が起きて……』
嫌な予感は的中した。外でのびのびと遊べないことに、光はストレスを抱えていた。そのことで友達が減り、学校でも孤立していた。だから友達に少しでもなじもうと、無理をしてまったのだろう。
「お母さん、今病院なの?」
『職場の人が気を利かせてくれてね。仕事を抜けて、入院の手続きとか、支度はできたの。だけど真菜、今から病院に行って、面会時間ぎりぎりまで光に付き添ってくれない? 今日のあの子、すごく落ち込んでて心配なの』
お母さんの言いたいことは、よくわかった。光は、このところずっと様子がおかしい。
病気である自分を責めているようなふしがあった。笑うこともなくなり、大好きだったゲームもしなくなり、ぼうっと宙を見つめていることが目立つようになっていた。
今誰かがそばにいないと、光はダメになってしまうかもしれない。
『ごめんね、塾なのに』
「一日くらい、大丈夫だから。すぐに行くね」
光の病室の番号を聞いて、すぐに電話を切った。
「光くん、また入院……?」
夏葉が、心配そうに聞いてくる。
「そう。ごめんね夏葉、約束してたのに」
「ううん。私のことは大丈夫だから、すぐに行ってあげて」
いつものバスに乗り、K大付属病院に向かう。
寒さの中見上げた空は、まばゆいほど澄んだ青だった。
入院病棟のエントランスを抜けて、光の病室がある二階を目指す。エレベーターはまだ来そうになかったから、階段で上がることにした。二階までなら、階段でもすぐだ。
階段から二階の廊下に出ると、ナースステーションが目の前だった。横をすり抜け、光の居室を目指す。
今回、光は六人部屋だ。同室は、子供だけじゃないみたい。空きがなくて、大人と一緒の部屋になったのだろう。入り口のプレートで示された右側の真ん中のカーテンをシャッと開けると、そこには、きれいに布団がたたまれたベッドがあるだけだった。
「光……?」
一瞬、間違えたのかと思った。だけど棚に置かれたボストンバッグは、間違いなく光が入院のたびに使っているもので、置かれているタオルやコップにも見覚えがある。
トイレだったらいいけど……。
様子がおかしかっただけに、少し心配だ。
再び廊下に出て、光を求め、あたりを散策する。しばらく行くと、前に光が入院していたふたり部屋のとなりに、小さなドアを見つけた。ドアは少しだけ開いていて、風に煽られ、蝶番がギイギイと音をたてている。おそらく、内側のドアが開いているのだろう。
「………」
なんとなく、吸い寄せられるように、そこに向かって歩んでいた。前に光がとなりの部屋に入院していた時は、物置か何かだろうと、気にも留めなかったのに。ちょうど廊下の果てにあるこのドアは、ほとんど目立たない。
「真菜ちゃん!」
すると、すぐ近くから声がした。
振り返れば、顔なじみの看護師の近藤さんが、廊下の中腹で人好きのする笑顔を浮かべている。どうやら、夢中で光を探すあまり、彼女の前を通り過ぎてしまったみたい。
「近藤さん。光、見ませんでしたか?」
近藤さんに声を掛けてから、私は凍り付いたように足を止めた。
彼女の向かいに、思いもしなかった人物がいたからだ。
それは、桜人だった。
午前中の授業が終わって、直接ここに来たのだろう。紺色のブレザーにズボン。制服の上に、グレーのマフラーを巻いている。手にはスクールバッグの他に、パンパンになった紙袋が握られていた。
――どうして、桜人がここに?
桜人は束の間私と目を合わせたあと、すぐに気まずそうに伏せた。
微妙な雰囲気の私と桜人の様子に気づいたのか、人のいい近藤さんが、間を取りなすように明るい声を出す。
「小瀬川桜人くんよ。子供の頃、ここに入院してたの。今でも定期的に来て、こうやって図書室に本を寄付してくれるのよ」
「……図書室?」
驚きが重なり過ぎて、ようやく聞けたのは、そのひと言だった。近藤さんが、「そう、そこの図書室。小さいから、あまり知られてないけどね」と蝶番がキイキイいっている小さなドアを指差す。
だけどもはや、私の頭には、その声は届いていなかった。
『子供の頃、ここに入院してたの』
先ほどの近藤さんの言葉が、繰り返し、頭の中で鳴り響いている。
あまりにも予想外のことで、気持ちがまとまらない。
桜人が、ここに、入院していた――?
すると近藤さんが、ハッとしたように口元に手を当て、私と桜人を見比べる。
「ていうかあなたたち、同じ学校の制服じゃない? もしかして、知り合いだったりする?」
――バタン!
ゆらゆらしていた扉が、そこで、勢いよく閉まった。近藤さんも気づいたようで、首を傾げる。
「あら、図書室の窓が開いてるのかしら? 開けた覚えはないけど……」
そのとき、背中を悪寒が走った。
何かがおかしい。頭の中で警笛が鳴り、気づけば私は、閉まったばかりの図書室のドアを開けていた。
とたんに、冷たい風が、一気に廊下に吹き荒れる。
そこは、文芸部の部室よりもさらに小さな部屋だった。
左右の壁に書架があり、さまざまな本が並んでいる。
そして真正面にある窓には、光がいた。
光は、何を思ったか窓枠に足をかけていた。全開にされた窓は、光が身体をくぐらせるには充分な大きさで、今にも外に飛び出してしまいそうな勢いだ。
私は顔面蒼白になり、夢中で叫んだ。
「光、なにやってるの……!?」
自分の世界に浸っているのか、どんなに呼んでも、光はうしろを振り返ろうとしない。
その身体は、窓の向こうに吸い込まれるかのごとく、少しずつ傾いていく。私は慌てて図書室内に足を踏み入れたけど、もう遅かった。
光の足が、窓枠から、あっけなく離れる――。
「……っ!」
何もかもが信じられなかった。どうしたらいいかも分からなかった。
ただ、光が窓から宙に放たれたという事実だけを、映像として受け止める。
――だけど、光はひとりじゃなかった。
私の何倍もの速さで窓に辿りついた桜人が、身を乗り出し、窓の外に飛び出したのだ。
抜けるように青い空の真ん中で、桜人が、光を大事そうに抱きしめる。
そしてふたりは、そのままあっという間に姿を消した。
バキッのようなドサッのような大きな音が、どこからともなく鳴り響く。
「きゃああ!」と、どこかで悲鳴が聞こえた。
「人が落ちたぞ!」「子供だ! 子供が落ちた!」
膝から下に力が入らなくなって、私はその場に、がっくりと崩れ落ちた。
何もかもを、信じたくなかった。
何もかもが、嘘であって欲しかった。
「なんてこと……!」
すぐ近くで、近藤さんが、嗚咽を上げて震えている。その姿を見て、妙に意識が鮮明になった。
――腰を抜かしている場合じゃない。
私は大急ぎで階段を駆け降りると、エントランスを抜け、桜人と光が落下したと思しき中庭に向かった。
緑の芝生が生い茂る中庭には、以前光がスケッチをしていた樫の木が、大きく枝を広げていた。時期的に葉はほとんど落ちていて、寒々しい姿だ。
樫の木の真下には、すでに人だかりができていた。
人混みを縫うように、中心を目指す。
そこには、桜人が横たわっていた。枝が擦れたのか、顔には痛々しい傷跡があった。けれど、まるで怪我をしているとは思えないほど、穏やかな顔で目を閉じている。
桜人の脇には白衣を着たお医者さんがいて、ペンライトを片手に、瞼の裏を見たり、脈を確認したりしている。騒ぎを聞いて、すぐに駆けつけてくれたのだろう。
ただ事ではない様子を目の当たりにして、また、身体中の生気が奪われていくような感覚に襲われた。だけど、「命に別状はないようだ」と呟いたお医者さんの声を聞いて、少しだけ気持ちを持ち直す。
「姉ちゃん!」
私に気づいた光が駆けてきて、すがるように抱き着いてきた。
「光? 無事なの?」
「僕は、大丈夫……」
光は私の胸に顔をうずめ、泣きじゃくっている。
「どうしよう、さっちゃんが……」
「……さっちゃん?」
うん、と光は頷くと、涙でボロボロになった顔を、地面に横たわる桜人に向けた。
「あの人が、さっちゃん……」
そのとき、ひときわ強い風が辺りに吹き荒れた。樫の枯れ枝がザワザワと共鳴し、冷たい冬の風が頬を撫でていく。
私ははっと顔を上げて、うごめく樫の木を見上げた。
抜けるように青い空、緑の芝生、病院の白い壁。
この景色を知っていると思った。
遠い昔、見たことがある。
担架が用意され、桜人が運ばれていく。
桜人を見送ったお医者さんが、光の方に向きなおった。
「彼は無事だ、心配ない。そもそもそこまで高いところから落ちたわけではないし、そのうえ樫の木の枝が、君たちを守ってくれたんだよ。怪我もないし意識もはっきりしているけど、君も一応検査した方がいい。中に入りなさい」
お医者さんに誘われ、光も病院の中へと戻っていった。
よく見ると、桜人が倒れていた周りには、無数の枝が落ちていた。二階だったのと、真下に樫の木があったことが、幸いしたようだ。
澄んだ青空に向けて、光と桜人を助けてくれた樫の木が、優しく枝をそよがせている。
――『そうだ、“君がためゲーム”をしよう』
――『君がためゲーム? なんだそれ』
――『古今東西みたいなかんじで、相手のためにできること、順番に言い合いっこするの』
――『……ふーん』
風の音が、どこか遠いところから、無邪気な子供の声を運んでくる。
ハッとして、私は辺りを見渡した。
だけどそこには、人知れず生い茂る芝生が、静かに広がっているだけだった。
光の身体に別状はなかった。
だけど鬱傾向があると、お医者さんに診断された。
「飛び降りるつもりなんてなかったんだ。でも、空があんまりきれいで、気づいたら身体が勝手に動いてて……」
病院に駆けつけたお母さんの胸で、光は泣きじゃくりながら、何度もそう言った。
涙ながらに何度も頷いて、お母さんは光の気持ちを受け止めていた。
「ごめんね、光。そばにいてあげれなくて、ごめんね。ずっとつらかったのにね」
どうして光の異変に気づきながら、もっと早くに対処できなかったのだろう。
重い病と複雑な友人関係。抱え込むには、その身体はあまりにも小さすぎた。
姉の私が、支えてやらなければいけなかったのに……。私は、それをしなかった。
お母さんはむせび泣く光を抱きしめたまま、顔を上げて私を見る。
「助けてくれた方は、どこの病室にいらっしゃるの?」
「五階って言ってた……」
桜人は頭を打ったものの、検査の結果、内部に異常は見られなかった。左側を下にして地面に落下したらしく、左手首にひびが入っていたのと、あとは枝が当たったことで出来た擦り傷があちらこちらにあるだけだ。今は五階の個室で眠っていると、近藤さんが言っていた。
「さっちゃん、大丈夫かな……」
光の顔が、暗く沈んでいく。
「大丈夫よ。命に別状はないって言ってたんだから」
「さっちゃんって、光の友達の?」
お母さんが、神妙な顔で話に入ってくる。
光に聞いた話によると、さっちゃんこと桜人は、子供の頃長い間ここに入院したことがあるらしい。そのよしみで、今でも定期的に本を寄付しにきているそうだ。入退院を繰り返し、週に一回定期健診に来ている光と知り合うのは、必然だった。
名前に“桜”がつくことから、“さっちゃん”と一部の看護師に呼ばれているらしい。
だから光も、必然的に彼をさっちゃんと呼ぶようになった。
入院中、桜人は光の心の支えになってくれた。
友のように、ときには兄のように。
自分と同じように入院を繰り返しながら、今は健康的に高校に通っている桜人は、光の憧れだった。
お母さんと光と連れ立って、桜人の様子を見に、五階に向かう。
桜人は青白い顔で、日当たりのいい病室に横になっていた。
頬に貼られたガーゼが痛々しい。
するとお母さんが、桜人の顔を見るなり、どういうわけか「この子……」と震え声を出した。
「知ってるわ……」
驚いて、私は隣に立つお母さんを見た。
桜人が同級生だということが知られるのは時間の問題だけど、まだ話していない。
だから、お母さんが桜人を知っているわけがない。
「一年位前だったかしら。家に来たの」
「一年前……?」
一年前というと、私と桜人は別々のクラスで、まだ話すらしたことがなかった頃だ。
「お金の入った封筒を出してきて、必死に謝られたの。お父さんが亡くなったのは、自分のせいだから、どうか使って欲しいって……。バイトで貯めたって言ってたわ。もちろん、あなたたちのお父さんが亡くなったのは彼のせいじゃないから、断ったけど……」
驚くべき事実に、しばらくの間、私は声すら出せないでいた。
桜人はなぜ、お父さんが亡くなったのは自分のせいだと思っているのだろう?
彼は、ずっとずっと、何を抱えて生きていたのだろう。
呆然と立ち尽くす私の脳裏に、お父さんが亡くなった日の光景がよみがえる。
茜色に染まるロータリー。
あのとき、光の手を引きながら、泣きじゃくりたい気持ちを抑え込み、背後に佇む病院を見上げた。
入院棟の二階から、男の子がじっとこちらを見ていた。
だけど動揺のあまり、そのとき私は、彼のことを考える余裕なんてなかったんだ。
彼とはたしか、樫の木の生い茂る入院棟の中庭で、一度だけ遊んだ。
たった、一度きり。
それも、お父さんが亡くなる前日に。
だから忘れていた。
多分、あれは――まだ子供だった頃の桜人だ。