***

 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな

“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”

ずっと、この和歌の意味が理解できなかった。

僕はずっと、生きたいと思っていなかったから。

誰かに会うために生きたいという気持ちなど、子供ながらに、きれいごととしか思えなかった。

見るからに仲が冷え切っていく両親、泣きわめく母親、突然の離婚。

ずっと思ってた。この世から、僕なんかいなくなった方がいいって。

この身体は、欠陥だらけだ。

早く土に返って、新しい生を育んだ方が、よほど世のため人のためだろう。

そんなとき、あの子に出会った。

あの子は太陽の光みたいに輝いていた。

最初は苦手で、拒絶しかけたけど。

だけど彼女は、不思議な力で、ぐいぐいとすさんだ僕の心を溶かしてくれた。

あのとき、一文字一文字が心に染み入るように、あの和歌の意味がスッと理解できたんだ。

遠い、夏の日の思い出だ。


生徒手帳がないことに気づいて理科室に引き返した俺は、中でのやりとりを、すべて聞いてしまった。

彼女の背中が、廊下の向こうに遠ざかって行く。

思わず柱の陰に身を隠した俺に気づかないまま、彼女の後ろ姿はやがて見えなくなった。

「でさ、そのあと増村に廊下で会ってさー」
「ぎゃはは、お前、それヤバくね?」

理科室内にとどまっている斉木達の話題は、もうすっかり別のことに移っている。

まあいいか。生徒手帳ぐらい、明日増村が返してくれるだろう。

俺は結局そのまま、踵を返して、昇降口に戻ることにした。

これくらい、どうってことはない。

何度も自分に言い聞かせても、心臓は、不穏な鼓動をやめる気配がない。


このままいると、いつか君は、知ってしまうかもしれない。

僕が、君に何をしたか。

臆病な僕は、そのことが、君に全てを知られることが。

――この世が終わってしまうことよりも、恐ろしい。