君がひとりで泣いた夜を、僕は全部抱きしめる。

明日からお盆休みに突入する日、クラスの作業は、予定通り落ち着いた。お盆明けからは集まりがないから、次にクラスのみんなと会うのは九月になる。

「おつかれ!」

その日、私と夏葉は、学校帰りにコンビニでアイスを買って、近くの公園のベンチでカンパイをした。私はいちごのかき氷アイスで、夏葉はソーダアイス。

住宅地の真ん中にある、ジャングルジムとシーソーとブランコだけのこの公園には、うだるような暑さのせいか、今は人っ子ひとりいない。だけど私たちがいるベンチは、伸びたクヌギの木が枝葉を広げているおかげで、ちょうど陰になっていて涼しかった。

アイスにかぶりつけば、冷気が頭を涼やかにしてくれる。作業もいったん終了したし、クヌギの枝葉越しに見える青空のように、気分も晴れやかだ。

「頑張ったあとのアイスは、最高においしいね」

笑顔を浮かべれば、夏葉は「うん、ほんとさいこう」とうれしそうに答えてくれた。

「真菜、変わったよね」

急にじっとりと見つめられ、そんなことを言われた。

「そうかな」

「うん、変わった。そんなふうに笑えるなんて、知らなかった。クラスのみんなとも打ち解けてるし」

「うん……。そうかも」

自分でも、それは実感している。桜人のおかげだ。

逃げるな。言うべきことは言え。

桜人にガツンと言われなかったら、美織と杏とは仲直りできてなかったし、わたしはいまだ、重苦しい学校生活を送っていたに違いない。

彼の存在が、怖いほど私を変えていく。

シャリ、シャリ。

私と夏葉がアイスを食べる音だけが、蝉の声に混ざり、閑散とした公園に鳴り響いた。暑さのせいで、まだ食べ終わりそうにないのに、アイスはどんどん溶けていく。

「そういえば真菜、部活、いつまで続けるの?」

高二の秋頃から、本格的に受験勉強に入るため、部活をやめる人が続出する。いつまで部活を続けるか? というのは、このところ、クラスの中でもちらほら話題に上がっていた。

「このまま、卒業まで続けるよ。文系だし、そもそもまったく大変じゃないし」

わずか四名の、ユーレイ部員でも許されるような部活だ。

「そっか。私も文系だけど、夏休み前にやめた」

「え、そうなの?」

夏葉は、美術部所属だったはず。うん、とうなずくと「受験勉強に本腰入れることにしたんだ」と夏葉は笑った。

「へえ……。難しいところ、目指してるの?」

文系なら、高三まで続ける人も珍しくはない。それをあえて二年の夏前にやめてしまうということは、受験勉強が大変な大学を狙っているのだろう。

「医学部に入りたいの。子供の頃から、ずっと医者になりたいって思ってたから」

そう言って、夏葉は空を見上げる。

凛と背を伸ばした水鳥のようなその姿を、私はすごく、きれいだと思った。

「そうだったんだ。頑張ってね、応援してる。夏葉ならできるよ」

心からそう思った。すると夏葉は照れたように笑って、「真菜は?」と問い返してくる。

「真菜は、卒業後、どうするの?」

「私? 私は就職する」

これは、ずっと決めていたことだった。

母子家庭の我が家では、進学するより、就職する方がよほど助かるからだ。

川島部長や田辺くん、そして夏葉みたいに夢もないし、それが妥当だろう。

だけどなぜか、そう答えたとき、胸の奥がモヤモヤとした。

夏葉の凛とした美しさに触発されたかのように、文芸部の文集のためにエッセイを書いた夜を思い出していた。桜人の詩の熱情を思い出していたら、何かが身体に入り込んできたみたいに、秘めた思いを、心の声を、文字にして原稿用紙に刻んでいた。心が躍るような、全身の血が脈打つような、他では味わえない快感。

あのとき、気づいたんだ。わたしは、文章を綴ることが好きなんだって。

私の胸の内には、数多くの想いが眠っている。言葉で言い表すのは苦手だから、それを文字として紡いで、翼を与えて、放ってあげたい。

ちゃんと読みなよって川島部長に勧められて読んだ、日本文学全集。他にも田辺くんが勧めてくれた、フランス文学やドイツ文学の名著。 

そして桜人が好きな“君がため”の和歌。彼の紡いだ詩。

文学は、今しか抱けない思いを、紙に留めてくれる。

誰に読まれるわけでもなく、いずれは塵となって消えたとしても、そこに生きた意味がある気がした。

「そっか。卒業してからも、絶対に会おうね。……って、まだ先の話だけど」

呆然としていると、夏葉の声が降ってきた。

我に返った私は、慌てて、「うん」と夏葉に笑顔を返す。

「それにしても、暑いね……」

うまく笑えただろうか。心配になり、誤魔化すようにアイスの最後のひと口を口に放り込んだ。すっかり溶けていたそれは、瞬く間に液体になって消えてしまった。
お盆が明けて、一週間が過ぎた。

夏休みもいよいよ終わるというその日、私は光に付き添って、いつもの病院に来ていた。

今日は、光の定期健診だ。

診察室で検査をし、お医者さんの話を聞く。光の容態は落ち着いてるけど油断はならないと、お医者さんは言っていた。そのためには、日頃から発作が起こらないよう、万全を期すことが大事だと。

診察が終わってから、会計のある一階に向かうために廊下を歩んでいると、四十代くらいの看護師さんと出くわした。ショートカットで少しふくよかな、優しそうな女の人。光が入院するたびに、お世話になっている近藤さんだ。

近藤さんは、光を見つけるなり、うれしそうに微笑んだ。

「光君、元気そうね!」

「近藤さん! こんにちは」

近藤さんが大好きな光は、途端に笑顔になる。私も、ぺこりと会釈した。

看護学校を出てからずっとこの病院に務めているらしい近藤さんには、六年前、父が入院していたときにもお世話になった。だから、私も光も、親戚のおばさんのような親しみを感じている。

数冊のカルテを手にした近藤さんは、優しい笑顔でひらひらと手を振りながら、廊下の角を曲がって見えなくなった。

一階ロビーの精算所前で、会計の呼び出しを待つ。

来た頃は人で溢れていた待合室も、今は閑散としている。

時計を見れば、午後五時半だった。本当はお母さんが早退して同行する予定だったから、仕事の終わり時間に合わせて午後診療の最後の枠に入れてもらっていたのだ。だけど仕事でトラブルがあったらしくて、結局私が今、光と一緒にいる。

待合のソファに座って、光はしきりにきょろきょろと辺りを見回していた。

「どうしたの?」

「いや……」

バツが悪そうに、光が下を向く。

「さっちゃんがいるかと思って……。ときどき、ここで会うんだ」

途端に私は、微笑ましい気持ちになる。

「そういえば前に書いてた絵、さっちゃんに見せたの?」

「うん、すごく喜んでた」

光の顔が、にわかに輝く。

「自分の部屋の、一番よく見えるところに飾るって言ってた」

「へえ。よかったね」

するとふと、光が押し黙る。さっきとは打って変わって、暗い面持ちだ。

「……ねえちゃん」

「なあに?」

「いつもわがまま言って、ごめんね」

驚いたわたしは、隣に座る光の顔を、まじまじと眺める。

「さっちゃんが言ってたんだ。感謝の気持ちを忘れないでって。さっちゃんも、そうだったんだって。病気のことが不安で、家族や、看護師さんや、友達に迷惑ばかりかけてしまったんだって。でも今はすごく後悔してるって……」

光は丸い瞳で申し訳なさそうに私を見つめたあと、すぐに顔を伏せた。

「お姉ちゃん、学校のこととか家のことで忙しいのに、いつも僕のことを気にかけてくれてありがとう……」

「光……」

思いがけない光の言葉に、気づけば瞳に涙がじわじわと浮かんでいた。

小さな頭に、そっと掌を乗せる。

「大丈夫だよ。本当は光がいい子だってこと、知ってるから」

そう言うと、光は「うん」と蚊の鳴くような声で答えて、グスンと洟を啜り上げた。

たまらない気持ちになる。小さな体で、つらい病気に耐え続けてきた光。

どんなに不安だろう。どんなに心細いだろう。

それでも光は優しい心を忘れていない。大事な友達が、彼にそれを思い出せてくれた。

「今度、さっちゃんにお礼言わなきゃね」

そう言うと、光は洟を啜り上げながら、よりいっそう照れたように笑った。

「ああ、いたいた! 診察、終わっちゃった?」

すると、入り口の自動ドアから入ってきたお母さんが、私たちを見つけ、近づいてきた。グレーのパンツスーツにトートバッグ、いつものスタイルだ。よほど急いで来たのか、いつもきっちりと背中でまとめられている長い髪が、少し乱れている。
光が、花開いたように顔を輝かせた。

「お母さん、来てくれたの? 仕事は?」

「息子の診察に付き添わなきゃって言ったら、途中で同僚が残業代わってくれてね。急いで来たの。でも、もうお会計でしょ?」

「うん」

今日聞いた先生からの話を、お母さんに伝える。聞き終えたお母さんは、「ありがとう、真菜。あなたがいてくれて、本当に良かった」とさっき私が光にしたみたいに頭を撫でた。

そんな子供を褒めるようなこと、十六にもなるとちょっと恥ずかしいけど、くすぐったさに似た喜びが込み上げる。

会計を済ませると、私たちは、家族三人で並んで駐車場のロータリーに出た。

午後六時近く。空は青みがかっていて、たなびく雲の切れ間には、小さな星がちらほら見える。夏の終わりを惜しむような、熱い湿った風が頬を撫でた。カランコロン、という耳慣れない音につられ、歩道に視線を走らせれば、色とりどりの浴衣を来た女の子がちらほら歩いている。

「そっか。今日、霜月川の花火大会なのね」

お母さんが、思い出したように言う。

「もうそんな時期なんだ」

すっかり忘れていた私は、今更のように夏の終わりを実感した。

霜月川とは、ここから五百メートルくらい歩いた先にある川で、毎年八月の終わりに花火大会が開催されている。打ち上げ数は、約千五百発。五千発を超える名だたる花火大会に比べると小規模だけど、この辺りではもっとも有名な花火大会だ。

霜月川には、両岸に芝生の広がる土手がある。普段は子どもたちが野球の練習に励み、朝晩ランニングをする人に人気のそこには、花火大会の日、ひしめき合うように露店が立ち並ぶ。

私も光も、物心つく前から、毎年のようにお父さんと一緒に見に行っていた。

――お父さんが、亡くなる前までは。

楽しそうに霜月川に向かって歩む人を見ているうちに、悲しい気持ちになってくる。

お母さんに気づかれまいと、無理矢理笑顔を作ろうとしたとき。

「……行きたいな。今年の花火、見たい」

ぽつりと光が言った。

私とお母さんは、ほぼ同時に顔を見合わせた。

お母さんは、明らかな困惑顔をしていた。

重度喘息の光は、人混みが多いところを避けるようにお医者さんから言われている。人混みには、ウイルスがたくさん潜んでいるからだ。光がひとたび風邪を引けば、重症化するリスクが高い。先日の入院も、風邪をこじらせて、発作が止まらなくなったのが原因だった。

霜月川の花火大会は、年によっては怪我人が出るほど、人でごった返す。

光は、行かない方がいい。

「光、でも……」

言いかけた言葉を、思わず呑み込んだ。いつもなら、私とお母さんの困惑顔を読み取って、『どうして僕だけ遊べないの?』と光が意地になるところだからだ。

他の子供みたいにのびのびと学校に行き生活できないもどかしさを、光はふとしたきっかけで爆発させ、私やお母さんに当たってくる。

だけど――。

「お姉ちゃん。花火の写真、撮ってきてくれない?」

光は、私に向けてそう言った。

「光……」

まだ小学生の光は、顔に気持ちがすぐに出る。残念そうな顔からは、本当は直接見たいという思いがありありと伝わってきた。

それでも光は、必死に耐えている。

健気な姿に、たまらなく胸が震えた。

光はきっと、花火の写真を見ることで、今はいないお父さんの面影を感じたいんだ。

「……分かった。最高の写真、スマホで撮ってくる」

「真菜、いいの?」

お母さんの問いかけに、笑顔で頷く。

「かわいい弟のためだし。まかせといて」

残念そうな光の顔が、にわかに明るくなる。

あまり遅くならないことをお母さんに約束して、ふたりとバス停で別れた。
霜月川は、バス停を超え、さらに車道脇の歩道を進んだ先にある。

花火大会に向かうカップルや集団に紛れて歩き出す。どこから撮るのがベストだろう、と思いを巡らせていたとき、「おい」と背中に声がかかった。

振り返ると、思いがけず桜人が立っていた。

白Tシャツに黒シャツを羽織り、ジーンズを履いている。

私服を見るのは初めてなので、一瞬、誰だか分からなかった。

「あれ? はると……?」

「こんなところでなにしてるの?」

「弟の病院に付き添ってたの。桜人はバイト帰り?」

「うん、今日は昼シフトだったから。ていうか、なんでバス乗らないの?」

桜人に会うのは、お盆前以来だから、約十日ぶりだ。

バス停はデニスカフェの前にあるから、わざわざ私を見つけて、ここまで追いかけてきたようだ。

「花火を見に行こうと思って」

「は? ひとりで?」

「弟と約束したの。今年の花火の写真を撮ってくるって。あの子、人混みに行っちゃいけないってお医者さんに言われてるから、代わりに写真を撮るの」

桜人は、眉根を寄せて私を見ている。

ふと、桜人の背後にある街頭時計が目に入った。いつの間にか、もう六時近くになっている。花火が打ち上がるのはたしか七時頃だから、いまのうちにいい場所を取っておかないときれいな写真が撮れない。

「ごめん。時間ないから、もう行くね」

踵を返そうとすると、桜人が言った。

「俺も行く」

「……え?」

驚いて彼を凝視する。桜人は迷うことなく、私の隣まで歩んできた。

「花火大会なんて、変なやついっぱいいるんだぞ。なにかあったらどうするんだよ」

怒ったようにそう言いながら、すでに先に立って歩きはじめている。

心配してくれてるんだ……。

優しさにじんと胸が熱くなる。

「……でも、大丈夫? 用事とかないの?」

「ない。とにかく、俺から離れないで」

「……うん、ありがとう」

桜人はそのまま、私より一歩先に出て、歩み始めた。いつもより少し大きく感じる黒シャツの背中を、早足で追いかける。私服のせいで普段とは雰囲気が違うせいか、背中を見ているだけで胸がドキドキと高鳴っていた。


私と桜人が霜月側の土手に辿り着いた頃には、空の藍色はより濃くなっていた。

川の両脇の土手には、屋台がズラリと軒を並べていた。それぞれのお店を照らす光が、暮れかけの世界でそこだけ煌々と明かりを放っている。

ひしめき合う人々、子供の泣き声、楽しそうな笑い声。

「うわ、すごい人」

土手に下りる階段の手前で、桜人が心底驚いたように言った。

霜月川の花火大会の混雑は、地元では有名だ。

違和感を覚えて「来たことないの?」と、桜人を見上げる。

「窓から見たことはあるけど、こんな近くまで行ったことはない」

「そうなんだ。私も、来るのは六年ぶりなんだけどね」

お父さんが長期入院する前までは、毎年家族で来ていた。

金魚柄の浴衣を着せてもらって、お母さんに髪をアップにしてもらって。普段はできない夜のおでかけに、心が躍ったのを覚えている。

「でも、前はこんなに人が――」

いなかった気がする、と言おうとしたとき、ドンッと誰かの背中が肩にぶつかって、よろめいてしまう。

「大丈夫?」

「ありがとう」

桜人に肩を支えてもらい、どうにか持ち直した。その後も、人が前後左右からぐいぐいと私たちの間に割り込もうとしてくる。

すると桜人が、自分のシャツの裾を持って、私に言った。

「ここ、持ってていいから。はぐれないように」

「……でも伸びちゃうよ」

「別に、大丈夫」

あっさり言われて戸惑ったけど、有無を言わさぬ桜人の気迫に、素直に従うことにした。

一歩先を行く桜人のシャツの裾をそっと掴みながら、階段を下り、土手を行く。桜人の歩みに呼応するように揺れるシャツに、
どうしても意識が集中してしまう。

湿った草の匂いに混ざって、ベビーカステラや、イカ焼きの香ばしい匂いがした。

空はいつのまにか漆黒に染まり、星がまばらに輝いている。

夏の夜風を首筋に感じたとき、寂寥がふと込み上げた。

お父さんが亡くなった日、病院前のロータリーで、私の肌を撫でた風に似ていたから。

だけどこの手の先に、シャツの裾があって桜人がいるのだと思うと、寂しさが夜風にさらわれ、嘘みたいに消えていった。

「この辺りにしよう」

人混みが少ないところにスペースを見つけ、桜人に声をかける。昨日の雨のせいか、土手の芝生は少し湿っていた。見ると、あたりの人々はレジャーシートや折りたたみいすを用意していて、万全の構えだ。

しかたなくバッグの中を漁って、ハンカチと、コンビニのビニール袋を取り出し、敷物代わりにした。スマホを操作し、いつ花火が打ち上がってもいいよう準備する。

「暑いな。子供の頃、花火を見に行ったらどんなだろうと思ってたけど、こんなに暑いと思わなかった」

空を見上げながら、桜人が言う。

彼の言うように、ただでさえ気温が高いのに、人々の熱気や屋台から流れる煙が相まって、座っているだけで汗が噴き出すほど蒸し蒸ししている。

「桜人は、どんな子供だったの?」

ふと、聞いてみた。

知ってるのは、子供の頃本ばかり読んでたということと、花火大会に行ったことがないということだけ。

「すげえ、嫌な子供だった。周りを困らせてばかり」

自嘲するように笑いながら、桜人が答える。

「そうなの? 想像もつかない」

「……今は、すごく後悔してる」

そう言った桜人の声が独特の重みを孕んでいて、私は一瞬、呼吸するのを忘れそうになる。川面に向けられた桜人の横顔が、消え入りそうなほど儚げで、本当に消えてしまうんじゃないかと心配になった。

そんな彼に、光の面影が、ふと重なる。

病気のつらさゆえに、私に冷たく当たり、それを謝ってきた光。

桜人が周りを困らせてしまったのも、もしかしたらなにか理由があったのかもしれない。

「大丈夫だよ。みんな分かってるよ、桜人の気持ち」

私も、光を憎んでなどいない。桜人の周りの人だって、きっと同じだろう。

そういう思いを込めて言うと、桜人は驚いたような目で私を見た。

それからふっと、再び空を見上げて彼が言う。

「見て。夕月夜だ」
黒、紺、群青色、藍色。

よく見たら、まだ闇になりきれていない空には、上弦の月が、淡い光を放ちながら浮かんでいた。

「夕月夜?」

問うと、「この時期に浮かぶ上弦の月を、“夕月夜”って言うんだ」と桜人が答える。

「夕月夜 ほのめく影も卯の花の 咲けるわたりは さやけかりけり」

空を仰ぎながら、桜人の耳心地のいい声が、和歌を呟く。

モカ色の髪を、夏ぐれの風が撫でていく。

ああ、きれいだと思った。彼の口からこぼれる言葉同様、彼の存在そのものが、とてもきれいだ。

「どういう意味の和歌なの?」

文学と和歌が好きな桜人は、驚くほど知識を持っている。だけどそれを、あまり教えてくれることはない。だから今、彼が素の自分を見せてくれた気がして、うれしくなった。

「“白い弦月の浮かぶ夕月夜に、白い卯の花が咲いている。闇の中でも、それはひときわ輝いて、私の目に映った”……そんな感じかな」

「きれいな言葉だね」

恍惚としながら投げかけたその言葉は、和歌に対してだけではなかった。

すると桜人は、ふと言の葉の世界から現実に引き戻されたかのように、こちらに顔を向けた。

「……うん。すごく、きれいだ」

甘くて、優しい声だった。

彼の瞳に宿る見たことのない熱に気づいて、胸がひとつ、鼓動を鳴らした。

そわそわとして落ち着かなると同時に、たまならく胸を昂らせるこの感情に、私は気づいている。だけど境界線の曖昧なこの空のように、その気持ちはまだ不安定だった。 

足を踏み入れたら、何かを失うような。

そんな本能的な焦燥に駆られていて、足を踏み出せずにいる。

だけどいずれ、抗うことはできなくなるだろう。

そんな、気がした。

――ドンッ、ドンッ、ドンッ

そのとき、立て続けに三発花火が打ち上がった。

途端に土手には歓声があがり、私も吸い込まれるように夜空を見つめた。

金、白、赤。

――ドンッ、ドドンッ

緑、金。

すぐ近くで見る花火は、大きくて圧巻だった。

「そうだ」

光との約束を思い出した私は、慌ててスマホを手に取り、夜空に向かってレンズを向けた。

うまく、撮れただろうか……?

次第に、あたりに煙の香りが満ちていく。

爆音とともに上がる色とりどりの花火は、心のもやもやも、悲しみも、不安も、すべてを打ち消して、心を釘付けにする。

ひと通り撮り終えたあとで、再び花火に見入っていると、ふと視線を感じた。

横を見上げれば、いつからそうしていたのか、桜人がじっとこちらを見ている。

花火の光に、明るくなったり暗くなったりしている桜人の顔。

桜人は不思議だ。

大人っぽいのに、ときどき、幼い子供のように見えることがある。

瞳の奥に、光が良く見せるような、不安定な色を浮かべることがある。

「……花火、すごいね」

見つめ合っていることに、だんだん恥ずかしくなってそう言うと、桜人は我に返ったように、再び花火を見上げた。照れているのか、顔を伏せ、前髪に手を当てている。

「うん、来てよかった」

照れ隠しのようにポツンと零された桜人のその言葉が、私はなんだか、すごくうれしかった。


結局私たちは、終わるまで、そこで花火を見ていた。そして帰路につく人の波に流されるように、いつものバス停を目指す。

はぐれないように、また桜人はシャツの裾を掴ませてくれたけど、人混を縫うように駆けてきた中学生くらいの男の子たちの集団に断ち切られてしまう。途端に体が人の波にのまれて、桜人がどこにいったのか分からなくなってしまった。

不安を覚えていると、後ろから伸びてきた手に、右手を取られた。

それは、桜人の手だった。

桜人は私と手を繋いだまま、ぐいぐいと人混みを抜けていく。

車道脇の歩道に辿り着き、人が少なくなっても、桜人はそのまま私の手を離さなかった。

桜人の手は、私よりだいぶ大きかった。背が高いから、男の人の中でも大きい方なのだろう。見かけよりも骨ばっていて、ごつごつしていて、自分の小さな掌がひどく頼りないものに思えた。

急に、彼が男なんだということを思い知らされる。

感じたことのない緊張と気恥ずかしさが込み上げた。

「……小さいな」

すると、私の手を引く桜人が、小声でそう呟いた。

「気を抜くと、握りつぶしそう」

だけど、言葉とは裏腹に、桜人の握り方はとても優しい。

壊れ物を扱うように、そっと。その大きな掌が、私のすべてを包み込む。

知らなかった。

他人の体温が、こんなにもあたたかいなんて。

花火大会が終わったあとの世界は、静けさに包まれていた。興奮の名残を滲ませている道行く人の会話に、今年の夏の終わりを知らせるような下駄の音。

煙の匂いだけを残した夜の景色に、ふと、寂しさを覚えた。

来年、また花火が打ち上がる頃には、私はどうなっているのだろう?

見えない未来への不安が、闇の狭間から手を伸ばし、私を囲む。

だけど桜人の手の温もりを感じていると、今だけは、いずれ向き合うそれから目を逸らしていられた。

バス停に辿り着くと、桜人は、何も言わずに手を離した。

離れがたいとでもいうように、ゆっくりと指先を滑らせて。

彼の手の感触が完全に離れ、掌が宙に放たれたとき、私は心もとなさに震えた。

この掌は、ついさっきまでは、誰にも触れていないことが当たり前だったはずなのに。

――ぬくもりを知ったあとでは、ひとりはひどくもの悲しい。
「付き合ってるの?」

いよいよ文化祭まであと一週間という九月の終わり。

新学期が始まっても続いていた猛暑が、少しずつ和らぎ、ようやく秋の気配を感じるようになった昼休み。いつもの中庭のベンチで、お弁当に箸をつけながら、夏葉が唐突にそんなことを聞いてきた。

「へ?」

意味が分からず、卵焼きを口に入れたまま、間抜け顔で聞き返してしまう。

「真菜と小瀬川くん。噂になってるよ」

したり顔の夏葉の顔を見て、一瞬、むせ込みそうになった。どうにか卵焼きを飲み下し、お茶をひと口飲んでから、ようやく口を開く。

「つ、付き合ってないよ……!」

「霜月川の花火大会で一緒にいるところを、見た子がいるんだって」

どうやら、私の知らないところで、目撃情報が広まっていたらしい。

「委員も部活も一緒だし、付き合ってるの確定って思われてるみたいよ」

「……だから、付き合ってないから!」

噂って、本当にひとり歩きしてしまうんだ、恐ろしい。

夏葉は、「そうなの? なんだ」と残念そうな顔をした。

「花火大会では、たまたま会って、一緒に行くことになったの。私がひとりだったから、心配してくれて……」

「ひとりで花火大会行こうとしてたの? どうして?」

不審そうな顔を浮かべる夏葉。

私は、お弁当を片手にこちらを見ている夏葉を見つめた。

それを話すと、弟のこと、そして母子家庭であることも知られてしまう。だけど。

『――自分の家庭環境を卑屈にしてんのは、お前自身だろ?』

桜人のその言葉は、今はより色濃く胸の奥に残っていた。

もう、怖くはない。美織と杏だって受け入れてくれたし、夏葉なら絶対大丈夫。

私は、家のこと、光の病気のこと、そしてあの日光のためにひとりで花火大会に足を運ぼうとしたことを、夏葉に話した。夏葉はときどき相槌を打ちながら、黙って聞いてくれた。

「……やっと言ってくれた」

語り終えたとき、夏葉がどこかホッとしたように言った。

「真菜が自分の家庭に、後ろめたさを感じてることにはずっと気づいてた。だから、そんな大事なことを、勇気を出して私に話してくれてうれしい」

「夏葉……」

夏葉の優しさに、目元が潤む。どうして私は、夏葉にもっと早く自分をさらけ出さなかったのだろう。でも臆病な私は、夏葉のことが大事だからこそ、中学のときの友達みたいに、失いたくなかったんだ。 

夏葉には、もう何も隠したくない。

私は、中学の時のつらい思い出も話した。だからずっと、夏葉に自分を隠していたこと。

夏葉は全部、私の気持ちを受け入れてくれた。

「夏葉と友達で、本当によかった……」

感極まってそう言うと、夏葉は少しバツが悪そうに頭を掻く。

「あー、そのことなんだけど……」

首を傾げると、夏葉は意を決したように、私と向かい合う。

「私も真菜に秘密作りたくないから、全部言うね。私が真菜に声かけたきっかけはね、小瀬川くんに言われたからなの」

「え、そうだったの……?」

「でも、誤解しないで。真菜とずっと話したかって言うのは本心。小瀬川くんは、踏み切れないでいた私の背中を押してくれたの」

「……そうだったんだ。ううん、誤解なんてしてない」

「よかった。『水田さんに声かけて欲しい』って急に言われてね。小瀬川くんと同中だった女子って私だけだから、言いやすかったんじゃないかな」

なんで桜人がそんなこと……。頭の中がぐるぐるしている。美織と杏と離れるきっかけを作ったのは彼だから、責任を感じてたのかもしれない。数カ月越しに知る桜人の優しさに、じんとする。

呆然と桜人に想いを馳せていると、夏葉がそっと微笑んだ。

「小瀬川くん、真菜のことが好きなんだと思う」

そんなことを藪から棒に言われ、固まってしまった。

「前に言ったの覚えてる? 高校に入ってから、小瀬川くん雰囲気変わったって。明るくてクラスのリーダー的存在だったのに、突然寡黙になって誰ともつるまなくなったって」

「……うん、覚えてる」

そのことは、ずっと気になっていた。

なにがきっかけで、桜人が変わってしまったのか。

知りたいけど、知るのもおこがましい気がしている。

「もうひとつ、変わったことがあるの。同じクラスになってすぐの頃から、小瀬川くん、よく真菜のこと見てた。今までは、女子に興味なさそうだったのに、大きな変化だよ。フラれたって子の話、たくさん聞いたし」

驚いて、思わず呆けてしまった。

クラス替え当初から、桜人が私を見てたなんて、考えられない。

「それは、気のせいだと思う。部活とか委員とか一緒にやるようになってからは違うけど……二年になってすぐの頃は、目が合うことすらなかったよ」

「真菜に気づかれないところで、見てる感じかな。ほら、私、小瀬川くんより後ろの席だからよく見えたの。真菜は、ずっと小瀬川くんより前の席だったでしょ? 真菜のこと見てて、真菜が振り返ったら、小瀬川くん窓の方向いちゃうの」

たしかに、彼は見るたびに窓の外を眺めているイメージだった。

どうしよう。勝手に、胸が高鳴って、居ても立っても居られない気持ちになってしまう。

そんな私の様子を見て、ふっと夏葉が笑顔を浮かべた。

「真菜は好きなの? 小瀬川くんのこと」

そろりと目を上げ、夏葉を見る。

すっかり赤く染まってしまった顔では、もう隠しようがない。

「……多分、好きなんだと思う」

「多分?」

「分からないけど、私がつらいときに、桜人はいつも気づいてくれて……」

桜人はいつも、見えないところから、私を支えてくれた。

「臆病な私を、叱ってくれて……」

逃げるなよ、といった厳しい彼の口調。今にして思えば、あれほど優しくて思いやりのある言葉を、私は知らない。

まるで、陽だまりのような人だ。

天気のいい日には煌めくような輝きを、日射しの穏やかな日には柔らかな光を。そして曇りの日も雨の日も、雲のずっと上から、途切れることなく私を包み込んでくれる。

「でも私は何かをしてもらってばかりで、彼の役に立ててないことが……ときどき悲しくなる」

時折ふっと見せる悲しげな表情や、言葉を濁す感じ。

桜人は、私との間に築いた境界線を解いてはくれない。

彼に近づけば近づくほど、私はそれをはっきりと感じてしまう。

「誰かのために何かをしたいって気持ちは、“好き”ってことだよ」

夏葉が、私を諭すように言った。

「応援してるから。ふたりのこと」

「ありがとう……」

夏葉の優しさに泣きそうになりながら、私は深く頷いた。
十月初旬。文化祭本番当日。

「何コレ、めちゃくちゃ怖かったんだけど!」
「あの女ユーレイしつこい! 泣くかと思った」
「急にコンニャクが大量にぶつかってきたの、マジでびびったんだけど!」

私たちのクラスのお化け屋敷は、大盛況だった。

空き教室と、理科室を繋いだロングコースで、うちの高校の文化祭史上もっとも凝ったお化け屋敷と言われた。

コースの前半は、日本の墓場がイメージされている。ドロンドロンというお決まりの音響のもと、ダンボールで精巧に作られたお墓が並び、壁から突然出てくる手やコンニャクに驚かされながら、美織が扮する女ユーレイをはじめとしたお化けたちに次々襲われる。

次は、理科室。不協和音を奏でるピアノの旋律が流れる中、ブルーライトに照らされた骸骨やホルマリン漬けの瓶の中を、時折爆音に驚かされながら恐々進む。そして最後に、人体模型に扮したクラスの男子が急に動き出し、悲鳴をかっさらう。

私も一度、夏葉と一緒に入ったけど、どこで何がでてくるか分かっていながら、すごく怖かった。ユーレイの美織と化け猫の杏も執拗に襲ってくるし、本気で逃げ出したくなったほどだ。

「みんなお疲れ! 増村先生から差し入れだぞ~!」

文化祭が終わって、ようやく片付けが一段落した頃、コンビニのビニール袋を抱えたクラスの男子たちが、テンション高く教室に入ってきた。

ビニール袋の中には、ペットボトルに入ったジュースやお菓子が大量に入っている。

「打ち上げだ~!」

お調子者の斉木くんの号令で、皆好きなところに座って、今日のことを話しながらお菓子を食べジュースを飲む。こんな時間に、教室で堂々とこんなにお菓子を食べるなんて、特別な感じがしてわくわくした。

「カンパーイ!」

女子たち数人で、ジュースの入った紙コップを合わせた。

「今日の主役は、やっぱ美織だよね。あの気合の入った演技! 子どもが来ても、容赦ないんだもん」

「当たり前じゃない。子どもだからって、世の中の怖いことから目を背けさせてどうするのよ」

杏の言葉に、美織が鼻高々に答えている。

「杏の猫娘も可愛かったよ」

夏葉が言うと、杏は照れたように笑う。

「やっぱり? 夏葉の音響も最高だった。あのドロドロいうやつ、どこから持ってきたのよ」

「ネット検索して、フリーの曲の中からダウンロードしたの。いろんな効果音があったよ。真菜もありがとう。真菜いなかったら、ここまで纏まんなかったと思う」

ふいに話題に上げられ、「そうかな?」と頭を掻いた。

「うん。裏方的な仕事が、一番大変だもんね。特に増村先生の許可取る系のやつは。あの先生、どこにいるか分かんないんだもん」

「そんなことないよ。だいたい喫煙所にいるし」

「マジで? だからあんなタバコ臭いんだ」

美織の嫌悪感溢れる顔に、どっと笑いが起こる。

教室を見渡せば、どこもかしこも満足そうな笑顔が溢れてて、がんばってよかったと心から思った。

これが、“青春の一ページ”というものなのかもしれない。まるで他人事のような、増村先生のその口癖が苦手だったけど、今は先生の言っていたことがなんとなく分かる気がした。

達成感に満ちた、夕暮れの教室の雰囲気。

再来年にはバラバラの道を行く私たちの心がひとつになった、今しか味わえない、尊い時間。

この瞬間を、心に刻んでいたいと強く思う。

皆で楽しく話し込んで、ふと時計を見ると、五時を過ぎていた。

十月に入ってから、日が暮れるのも少しずつ早くなってきていて、窓の外はもう薄暗くなっている。

「そうだ、部室行かなきゃ」

思い出した私は、立ち上がる。クラスのことが落ち着いたら文集を取りに来るよう、川島部長に言われていたのだった。

毎年文化祭に合わせて製作される文集は、図書室と、教員全員に配布される。余ったものの中から部員が各々一冊ずつ持ち帰り、残りは部室で保管するらしい。私と桜人は文化祭実行委員で忙しいだろうからと気を遣ってくれて、製本と印刷は川島部長と田辺くんがやってくれた。だから、私はまだ完成したものを見ていない。

「真菜、どこか行くの?」

「文芸部の部室。取りに行くものがあるの」

「そう。気を付けて行ってきてね」

夏葉に別れを告げてから、教室を出た。

「川島部長、まだいるかな……」

旧校舎の中にある部室棟を、文芸部の部室目指してひとりで歩く。新校舎の方から、楽しげな笑い声やはしゃぐ声が、遠く聞こえた。対照的にこちらは閑散としていて、薄暗い廊下に、上靴の音がやたら響いている。

部室は開いてたけど、無人だった。

長テーブルの上に、今年の冊子が数冊山積みになっている。

「出来てる……」

新緑の色に似た、若草色の冊子をひとつ手に取った。今年の年号の下には、『県立T高校文芸部』と印字されている。

出来立ての文集からは、新しい紙の匂いがした。初々しい香りと手触りに、気持ちが昂る。この中に自分の作品も入っているのだと思うと、よりいっそう心が弾んだ。

パラリと、指先を切ってしまいそうなほど真新しい髪のページを捲った。

まずは、川島部長のミステリー小説だ。

「なっが……」

全体の七割以上を占めているそれは、立ち読みでは終わりそうにない文量だった。予想以上の長さに怖気づき、帰ってからじっくり読もうと、パラパラと先にページを進めた。

続いて、田辺くんの作品たち。なんだか小難しそうな随筆と詩と短編だった。

「ふふ。田辺くんっぽい」

次のページを開いて、ドキリとする。そこに載っていたのは、私が夏休みに書いたあのエッセイだった。

自分の中に眠っていた唯一無二の思い出が、こうして文印字されているのを見ると、不思議な気がした。誰かがこれを読むのかと思うと、恥ずかしいけどうれしい。

指先で、自分で紡いだ文字を辿る。

思いは、言葉は、こうして外に放つことができるのだと、改めて胸が震えた。

これを読んだ誰かが、また新しい思いを抱く。それはまた別の思いとなって、他の誰かの目に届くかもしれない。文字が生み出す、永遠の連鎖だ。それはとても壮大で、尊いことのような気がした。

「あれ……?」

私のエッセイが終わった次のページは、背表紙になっていた。

桜人のは?と違和感を覚えながらページを捲ると、わずか半ページに、短い詩があった。

昨年と同じく、名前もタイトルもない。

だけど、それが桜人の作品だということは、すぐに分かった。

 君のために、歌を歌う
 君のために、空を飛ぶ
 君のために、夢を見る
 世界を変えてくれた君に、僕のすべてを言葉にして贈ろう
 悲しい夏ぐれも
 切ない夕月夜も
 寂しい霜夜も
 君がひとりで泣かないように

すぐ帰るつもりだったから、電気をつけていない夕暮れの部室は、ひどく暗かった。

彼の紡いだ文字を、その想いをなぞるように、指先でそっと撫でる。

彼の言葉はいつも短いけれど、どうしてこうも、私の心を揺さぶるのだろう。

心の昂りを感じていると、父が亡くなった日に振り仰いだ病院の景色が、ふいに脳裏を過った。

ロータリーから見上げた病院の窓。

光の病室から見た、樫の木の生い茂る中庭――。

「………」

胸が、どうしようもなくざわついた。

――ガチャッ

ドアの開く音がして、私は慌てて背後を振り返る。

部室の入口には、桜人が立っていた。桜人は理科室の片付け担当だったから、空き教室の片付け担当だった私は、この数時間会っていない。

緩んだ緑色のネクタイに、白のワイシャツ、肘まで捲り上げられた袖。十月に入ってから衣替えがあったため、冬の制服姿の桜人は、重いものでも運んでいたのか額に汗を滲ませていた。

「はると……」

私と目を合わすと、桜人はほんの少しだけ微笑んだ。

目の奥に優しさが滲んでいて、見ているだけで胸の奥が和む。

「文集取りに来た」

あの花火大会の日、ともに過ごしてから、桜人はときどきふたりのときにこうやって笑ってくれるようになった。教室でも、文芸部でも見せない、私だけにする特別な顔だ。

桜人の視線が、私の手もとで開かれた文集に移った。

最終ページの彼の詩を読んでいたことに、気づかれたようだ。

「詩、読んだよ。今回のも好き」

「……ふうん、そう」

そっぽを向いて、素っ気ない返事をする桜人。だけどもう私には、彼が照れているのが、すぐに分かった。

部室内に足を踏み入れた桜人は、長机の上に重ねられた文集を手に取り、そのままパラパラと捲る。そして「川島先輩の、ながっ……」と苦笑した。

本の香りに包まれた部室は、日暮れとともに、青に染まっていく。暗いけど、まだ闇になりきれていない昼と夜の間のひととき。特別な一日が終わろうとしている安堵感と寂しさが、胸に押し寄せた。

「桜人は、いつから詩を書いてたの?」

立ったまま文集に目を落としている桜人に聞いてみる。

「小学校の頃から」

「そんな前から?」

うん、と桜人は頷いた。

「詩を書くことは、俺の日常の一部みたいなもんなんだ」

「じゃあ、中学のときも文芸部だったの?」

「いや、中学のときは文芸部がなかったから、帰宅部。だけど詩は、家でひとりで書き続けてた」 

当たり前のように、さらりと桜人は言ってのけた。

詩を書くことが日常の一部だなんて、すごすぎる。

「じゃあ、文集に載ってる詩は、桜人の想いのほんの一部なんだね」

桜人の家には、いったいどれだけ彼が紡いだ詩が眠っているのだろう。

ほんの二編見ただけの詩に、これほどまで惹かれたんだから、もしもそれらすべてを目にしたなら、私はどうなってしまうのだろう。

桜人の紡いだ言霊の波に、溺れてしまうかもしれない。

だけど、それでいいと思った。そうなりたいと思った。

そしてふと、すんなり、心が認めたんだ。

――この気持ちが、好きって感情だということを。

喜びも、悲しみも、恥じらいも、切なさも。

彼のすべてを知りたい。

そして、寄り添いたい。

ぼんやりと、再び、桜人の書いた詩に指を馳せる。

真っ白な紙の上に浮かぶ黒い文字のひとつひとつが、泣きたいくらい愛しいものに思えた。

「桜人の書く詩は、初めて見るのに、そうじゃない気がするの。なんだか懐かしい」

言葉は、文字は、命だ。

桜人の命を、私はどうしようもないほどに抱きしめたい。

桜人は、天才かもしれない」

「なんだよ、それ。大げさだな」

ふっと、桜人が笑った。笑うと少し幼い印象になるのは、最近知ったことだ。

「桜人は、卒業したら、文学部に進むの?」

それは、当然のことのような気がした。幼い頃から文学が好きで、詩を紡ぐことが好きな彼は、これからも文学に寄り添うのだろう。

だけど桜人は、「まだ決めていない」とそっけなく答える。

「真菜は?」

「私? 私は就職する。うち、お金ないし」

微笑んで答えると、桜人はうつむいた。

暗いせいで、その顔はよく見えなかったけど、少しだけ変な間があった。

それから桜人はスクールバッグに文集を入れると、バッグを持っていない方の手を、当たり前のように私の方へと差し出す。

「――もう戻ろう。暗くなるから」

「うん」

私はごくごく自然に、その手を取った。

桜人の大きな掌に包まれると、途端に、身体中が生気を取り戻す。

花火大会のときからずっと、そうだった。

今まで宙ぶらりんの掌で生きてきたのが、嘘みたい。

掌と掌が繋がって、互いの体温を感じている方が、自然な気がした。

桜人もそう思っていてくれたなら、うれしい。

学校内にも関わらず、私たちは、ずっと手を繋いで廊下を歩いた。

これからバイトに向かうらしく、桜人とは昇降口で別れる。

「バイト、頑張ってね」

「おう。ごめん、あと作業終わったら、一応増村先生に報告しといて」

「わかった。まかせて」

微笑むと、桜人はまた少し幼さの見え隠れする笑顔を見せたあと、そっと私の手を離した。

背の高い彼の後ろ姿が、下駄箱の方へと遠ざかるのを、私はしばらくその場に立って見送った。
作業をしていた教室に戻ると、クラスメイトたちはほとんど帰っていた。隅の棚に置いていたバッグを漁り、スマホを見ると、【ごめん、塾あるから先に帰るね】と夏葉からLINEが入っている。美織と杏も、帰ったみたい。

空き教室の方は、すっかり片付いている。理科室はどうだろうと、隣に向かった。確認出来たら、桜人に言われたように、増村先生に報告しないといけない。

入り口から理科室の中を見ると、すっかり片付いていた。実験台のひとつに男子が二・三人集まって、話し込んでいただけだ。

もう大丈夫、と判断して喫煙室に向かおうとしたそのとき。

「あ、水田!」

男子の輪の中にいた斉木くんが、私を見て声をあげた。一緒にいる男子も、いつも斉木くんとはしゃいでいる賑やかなタイプの人ばかりだったけど、今はやけに深刻そうな顔をしている。

「どうしたの?」

手招きされて、彼らの方に近づく。すると斉木くんが、「お前、知ってた?」と小声で聞いてきた。

「小瀬川が、俺らより年上ってこと」

「……え?」

軽く動揺していると、「付き合ってるのに、知らなかったの?」と男子のひとりが茶化すように言う。

「別に、付き合ってないから」

声が小さくなってしまったのは、今でははっきり、桜人のことが好きだと実感しているからだろう。否定はしても、心の中では、私はそれを望んでいる。

「これ、見ろよ」

斉木くんが、紺色の生徒手帳を差し出してくる。

「さっきそこに落ちててさ。誰のか確認しようと思って中開いたら、小瀬川のだったんだけど、生年月日見て」

そこには、たしかに桜人の写真があった。記載されていた生年月日から彼の年齢を計算すると、斉木くんのいうように、私たちより二歳も年上と言うことになる。

「ほんとだ……」

見てはいけなかったもののような気がして、罪悪感が込み上げる。

「高校浪人したのかな?」
「少年院入ってたとか?」
「小瀬川が? まさか!」
「留学じゃね?」

好き勝手に話している、男子たち。私の深刻な面持ちに気づいた斉木くんが、「あ、ごめん、誤解するなよ!」と慌てたように言った。

「年上って知って、変な目で見るようになったわけじゃねーから。あいつ何やってもかっこよくて妬けたけど、『あ、年上ならしゃーねーな』って逆に安心したかんじ?」

裏表のなさそうな斉木くんのその言葉は、きっと本心だろう。

うん、と私は頷いた。

「……私、今から増村先生のところに行くから、よかったら、生徒手帳渡しとくよ?」

「お、さんきゅ。じゃあ頼むわ」

斉木くんから受け取った生徒手帳を、掌でそっと包んで廊下に出た。

たしかに驚きはしたけど、だからといって、何かが変わるわけではない。

だけど、私の知らない桜人の二年間には、絶対になにかがあるわけで。

知りたいけど、知ってはいけないような、落ち着かない気持ちになっていた。
***

 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな

“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”

ずっと、この和歌の意味が理解できなかった。

僕はずっと、生きたいと思っていなかったから。

誰かに会うために生きたいという気持ちなど、子供ながらに、きれいごととしか思えなかった。

見るからに仲が冷え切っていく両親、泣きわめく母親、突然の離婚。

ずっと思ってた。この世から、僕なんかいなくなった方がいいって。

この身体は、欠陥だらけだ。

早く土に返って、新しい生を育んだ方が、よほど世のため人のためだろう。

そんなとき、あの子に出会った。

あの子は太陽の光みたいに輝いていた。

最初は苦手で、拒絶しかけたけど。

だけど彼女は、不思議な力で、ぐいぐいとすさんだ僕の心を溶かしてくれた。

あのとき、一文字一文字が心に染み入るように、あの和歌の意味がスッと理解できたんだ。

遠い、夏の日の思い出だ。


生徒手帳がないことに気づいて理科室に引き返した俺は、中でのやりとりを、すべて聞いてしまった。

彼女の背中が、廊下の向こうに遠ざかって行く。

思わず柱の陰に身を隠した俺に気づかないまま、彼女の後ろ姿はやがて見えなくなった。

「でさ、そのあと増村に廊下で会ってさー」
「ぎゃはは、お前、それヤバくね?」

理科室内にとどまっている斉木達の話題は、もうすっかり別のことに移っている。

まあいいか。生徒手帳ぐらい、明日増村が返してくれるだろう。

俺は結局そのまま、踵を返して、昇降口に戻ることにした。

これくらい、どうってことはない。

何度も自分に言い聞かせても、心臓は、不穏な鼓動をやめる気配がない。


このままいると、いつか君は、知ってしまうかもしれない。

僕が、君に何をしたか。

臆病な僕は、そのことが、君に全てを知られることが。

――この世が終わってしまうことよりも、恐ろしい。