黒、紺、群青色、藍色。

よく見たら、まだ闇になりきれていない空には、上弦の月が、淡い光を放ちながら浮かんでいた。

「夕月夜?」

問うと、「この時期に浮かぶ上弦の月を、“夕月夜”って言うんだ」と桜人が答える。

「夕月夜 ほのめく影も卯の花の 咲けるわたりは さやけかりけり」

空を仰ぎながら、桜人の耳心地のいい声が、和歌を呟く。

モカ色の髪を、夏ぐれの風が撫でていく。

ああ、きれいだと思った。彼の口からこぼれる言葉同様、彼の存在そのものが、とてもきれいだ。

「どういう意味の和歌なの?」

文学と和歌が好きな桜人は、驚くほど知識を持っている。だけどそれを、あまり教えてくれることはない。だから今、彼が素の自分を見せてくれた気がして、うれしくなった。

「“白い弦月の浮かぶ夕月夜に、白い卯の花が咲いている。闇の中でも、それはひときわ輝いて、私の目に映った”……そんな感じかな」

「きれいな言葉だね」

恍惚としながら投げかけたその言葉は、和歌に対してだけではなかった。

すると桜人は、ふと言の葉の世界から現実に引き戻されたかのように、こちらに顔を向けた。

「……うん。すごく、きれいだ」

甘くて、優しい声だった。

彼の瞳に宿る見たことのない熱に気づいて、胸がひとつ、鼓動を鳴らした。

そわそわとして落ち着かなると同時に、たまならく胸を昂らせるこの感情に、私は気づいている。だけど境界線の曖昧なこの空のように、その気持ちはまだ不安定だった。 

足を踏み入れたら、何かを失うような。

そんな本能的な焦燥に駆られていて、足を踏み出せずにいる。

だけどいずれ、抗うことはできなくなるだろう。

そんな、気がした。

――ドンッ、ドンッ、ドンッ

そのとき、立て続けに三発花火が打ち上がった。

途端に土手には歓声があがり、私も吸い込まれるように夜空を見つめた。

金、白、赤。

――ドンッ、ドドンッ

緑、金。

すぐ近くで見る花火は、大きくて圧巻だった。

「そうだ」

光との約束を思い出した私は、慌ててスマホを手に取り、夜空に向かってレンズを向けた。

うまく、撮れただろうか……?

次第に、あたりに煙の香りが満ちていく。

爆音とともに上がる色とりどりの花火は、心のもやもやも、悲しみも、不安も、すべてを打ち消して、心を釘付けにする。

ひと通り撮り終えたあとで、再び花火に見入っていると、ふと視線を感じた。

横を見上げれば、いつからそうしていたのか、桜人がじっとこちらを見ている。

花火の光に、明るくなったり暗くなったりしている桜人の顔。

桜人は不思議だ。

大人っぽいのに、ときどき、幼い子供のように見えることがある。

瞳の奥に、光が良く見せるような、不安定な色を浮かべることがある。

「……花火、すごいね」

見つめ合っていることに、だんだん恥ずかしくなってそう言うと、桜人は我に返ったように、再び花火を見上げた。照れているのか、顔を伏せ、前髪に手を当てている。

「うん、来てよかった」

照れ隠しのようにポツンと零された桜人のその言葉が、私はなんだか、すごくうれしかった。


結局私たちは、終わるまで、そこで花火を見ていた。そして帰路につく人の波に流されるように、いつものバス停を目指す。

はぐれないように、また桜人はシャツの裾を掴ませてくれたけど、人混を縫うように駆けてきた中学生くらいの男の子たちの集団に断ち切られてしまう。途端に体が人の波にのまれて、桜人がどこにいったのか分からなくなってしまった。

不安を覚えていると、後ろから伸びてきた手に、右手を取られた。

それは、桜人の手だった。

桜人は私と手を繋いだまま、ぐいぐいと人混みを抜けていく。

車道脇の歩道に辿り着き、人が少なくなっても、桜人はそのまま私の手を離さなかった。

桜人の手は、私よりだいぶ大きかった。背が高いから、男の人の中でも大きい方なのだろう。見かけよりも骨ばっていて、ごつごつしていて、自分の小さな掌がひどく頼りないものに思えた。

急に、彼が男なんだということを思い知らされる。

感じたことのない緊張と気恥ずかしさが込み上げた。

「……小さいな」

すると、私の手を引く桜人が、小声でそう呟いた。

「気を抜くと、握りつぶしそう」

だけど、言葉とは裏腹に、桜人の握り方はとても優しい。

壊れ物を扱うように、そっと。その大きな掌が、私のすべてを包み込む。

知らなかった。

他人の体温が、こんなにもあたたかいなんて。

花火大会が終わったあとの世界は、静けさに包まれていた。興奮の名残を滲ませている道行く人の会話に、今年の夏の終わりを知らせるような下駄の音。

煙の匂いだけを残した夜の景色に、ふと、寂しさを覚えた。

来年、また花火が打ち上がる頃には、私はどうなっているのだろう?

見えない未来への不安が、闇の狭間から手を伸ばし、私を囲む。

だけど桜人の手の温もりを感じていると、今だけは、いずれ向き合うそれから目を逸らしていられた。

バス停に辿り着くと、桜人は、何も言わずに手を離した。

離れがたいとでもいうように、ゆっくりと指先を滑らせて。

彼の手の感触が完全に離れ、掌が宙に放たれたとき、私は心もとなさに震えた。

この掌は、ついさっきまでは、誰にも触れていないことが当たり前だったはずなのに。

――ぬくもりを知ったあとでは、ひとりはひどくもの悲しい。