霜月川は、バス停を超え、さらに車道脇の歩道を進んだ先にある。

花火大会に向かうカップルや集団に紛れて歩き出す。どこから撮るのがベストだろう、と思いを巡らせていたとき、「おい」と背中に声がかかった。

振り返ると、思いがけず桜人が立っていた。

白Tシャツに黒シャツを羽織り、ジーンズを履いている。

私服を見るのは初めてなので、一瞬、誰だか分からなかった。

「あれ? はると……?」

「こんなところでなにしてるの?」

「弟の病院に付き添ってたの。桜人はバイト帰り?」

「うん、今日は昼シフトだったから。ていうか、なんでバス乗らないの?」

桜人に会うのは、お盆前以来だから、約十日ぶりだ。

バス停はデニスカフェの前にあるから、わざわざ私を見つけて、ここまで追いかけてきたようだ。

「花火を見に行こうと思って」

「は? ひとりで?」

「弟と約束したの。今年の花火の写真を撮ってくるって。あの子、人混みに行っちゃいけないってお医者さんに言われてるから、代わりに写真を撮るの」

桜人は、眉根を寄せて私を見ている。

ふと、桜人の背後にある街頭時計が目に入った。いつの間にか、もう六時近くになっている。花火が打ち上がるのはたしか七時頃だから、いまのうちにいい場所を取っておかないときれいな写真が撮れない。

「ごめん。時間ないから、もう行くね」

踵を返そうとすると、桜人が言った。

「俺も行く」

「……え?」

驚いて彼を凝視する。桜人は迷うことなく、私の隣まで歩んできた。

「花火大会なんて、変なやついっぱいいるんだぞ。なにかあったらどうするんだよ」

怒ったようにそう言いながら、すでに先に立って歩きはじめている。

心配してくれてるんだ……。

優しさにじんと胸が熱くなる。

「……でも、大丈夫? 用事とかないの?」

「ない。とにかく、俺から離れないで」

「……うん、ありがとう」

桜人はそのまま、私より一歩先に出て、歩み始めた。いつもより少し大きく感じる黒シャツの背中を、早足で追いかける。私服のせいで普段とは雰囲気が違うせいか、背中を見ているだけで胸がドキドキと高鳴っていた。


私と桜人が霜月側の土手に辿り着いた頃には、空の藍色はより濃くなっていた。

川の両脇の土手には、屋台がズラリと軒を並べていた。それぞれのお店を照らす光が、暮れかけの世界でそこだけ煌々と明かりを放っている。

ひしめき合う人々、子供の泣き声、楽しそうな笑い声。

「うわ、すごい人」

土手に下りる階段の手前で、桜人が心底驚いたように言った。

霜月川の花火大会の混雑は、地元では有名だ。

違和感を覚えて「来たことないの?」と、桜人を見上げる。

「窓から見たことはあるけど、こんな近くまで行ったことはない」

「そうなんだ。私も、来るのは六年ぶりなんだけどね」

お父さんが長期入院する前までは、毎年家族で来ていた。

金魚柄の浴衣を着せてもらって、お母さんに髪をアップにしてもらって。普段はできない夜のおでかけに、心が躍ったのを覚えている。

「でも、前はこんなに人が――」

いなかった気がする、と言おうとしたとき、ドンッと誰かの背中が肩にぶつかって、よろめいてしまう。

「大丈夫?」

「ありがとう」

桜人に肩を支えてもらい、どうにか持ち直した。その後も、人が前後左右からぐいぐいと私たちの間に割り込もうとしてくる。

すると桜人が、自分のシャツの裾を持って、私に言った。

「ここ、持ってていいから。はぐれないように」

「……でも伸びちゃうよ」

「別に、大丈夫」

あっさり言われて戸惑ったけど、有無を言わさぬ桜人の気迫に、素直に従うことにした。

一歩先を行く桜人のシャツの裾をそっと掴みながら、階段を下り、土手を行く。桜人の歩みに呼応するように揺れるシャツに、
どうしても意識が集中してしまう。

湿った草の匂いに混ざって、ベビーカステラや、イカ焼きの香ばしい匂いがした。

空はいつのまにか漆黒に染まり、星がまばらに輝いている。

夏の夜風を首筋に感じたとき、寂寥がふと込み上げた。

お父さんが亡くなった日、病院前のロータリーで、私の肌を撫でた風に似ていたから。

だけどこの手の先に、シャツの裾があって桜人がいるのだと思うと、寂しさが夜風にさらわれ、嘘みたいに消えていった。

「この辺りにしよう」

人混みが少ないところにスペースを見つけ、桜人に声をかける。昨日の雨のせいか、土手の芝生は少し湿っていた。見ると、あたりの人々はレジャーシートや折りたたみいすを用意していて、万全の構えだ。

しかたなくバッグの中を漁って、ハンカチと、コンビニのビニール袋を取り出し、敷物代わりにした。スマホを操作し、いつ花火が打ち上がってもいいよう準備する。

「暑いな。子供の頃、花火を見に行ったらどんなだろうと思ってたけど、こんなに暑いと思わなかった」

空を見上げながら、桜人が言う。

彼の言うように、ただでさえ気温が高いのに、人々の熱気や屋台から流れる煙が相まって、座っているだけで汗が噴き出すほど蒸し蒸ししている。

「桜人は、どんな子供だったの?」

ふと、聞いてみた。

知ってるのは、子供の頃本ばかり読んでたということと、花火大会に行ったことがないということだけ。

「すげえ、嫌な子供だった。周りを困らせてばかり」

自嘲するように笑いながら、桜人が答える。

「そうなの? 想像もつかない」

「……今は、すごく後悔してる」

そう言った桜人の声が独特の重みを孕んでいて、私は一瞬、呼吸するのを忘れそうになる。川面に向けられた桜人の横顔が、消え入りそうなほど儚げで、本当に消えてしまうんじゃないかと心配になった。

そんな彼に、光の面影が、ふと重なる。

病気のつらさゆえに、私に冷たく当たり、それを謝ってきた光。

桜人が周りを困らせてしまったのも、もしかしたらなにか理由があったのかもしれない。

「大丈夫だよ。みんな分かってるよ、桜人の気持ち」

私も、光を憎んでなどいない。桜人の周りの人だって、きっと同じだろう。

そういう思いを込めて言うと、桜人は驚いたような目で私を見た。

それからふっと、再び空を見上げて彼が言う。

「見て。夕月夜だ」