君がひとりで泣いた夜を、僕は全部抱きしめる。

ふいに閃いた、とりとめのない遊びがあった。

ルールは簡単。

相手のためにできることを、互いに、順番に言い合いっこすればいい。

 君のために、歌を歌う。
 君のために、空を飛ぶ。
 君のために、夢を見る。
 
ただ、それの繰り返し。

本当にできることでも、そうでなくてもいい。

今にして思い返せば、何が面白かったのかさっぱり分からない。

だけどまだ子供だった私は、そのとき、その他愛のない遊びに夢中だった。

学校帰りによく友達とした、白線の上を踏んで歩かないといけないゲームや、「あ」とか「い」とか、特定の文字を言ったらアウトになる謎のゲームに似てる。

思いついただけの、その場しのぎの暇つぶし。

ふんわりとした記憶だけが残って、思い出すこともほとんどない。

少なくとも、私はそうだった。

その他愛のない遊びがもたらした、ひたむきな想いと深い悲しみに気づくことなく。

私はただ、自分のことだけに精いっぱいで、それからの日々を過ごしていたんだ。
高校二年の、ゴールデンウィーク明け。

四月はまだなんとなくだったクラスの人間関係も、その頃には、とりあえず定着しつつあった。

よくある県立高校の、何のへんてつもない普通クラスの昼休憩。

その日も私は、二年になってから一緒にいる美織と杏とで、ひとつの机を囲んでいた。

水色のナプキンを広げてお弁当の蓋を開ければ、杏が大きな声を出す。

「真菜のお弁当、おいしそう!」
「ありがとう」

ネギを入れた卵焼き、昨日の肉じゃが、アスパラのベーコン巻き、あとは隙間にミニトマトを詰め込んだお弁当。もうひとつの段には、じゃこを混ぜたおにぎりが入っている。

「真菜のお母さんって、料理好きだよね。うちのお母さんなんか、冷凍食品ばっかり」

杏が、自分のお弁当に入っていた磯部揚げを箸に挟みながら言う。

「うちのお母さんも、あまり料理しないよ。これ、自分で作ってるの」
「うそっ!?」

ふたりの声が重なった。

「マジで⁉ 女子の鏡! 私なんか、ご飯の炊き方も知らないよ」
「ええっ、杏。それはさすがにヤバくない?」

間髪入れずに飛んでくる、杏と美織の声。

「なんで、なんで? いつから作ってるの?」
「高校から。中学は給食だったから……」
「すごいねー。偉いね、真菜」

うちは、母子家庭だ。朝早くから夜遅くまで働いてるお母さんの代わりに、家事は私がほとんどこなしてる。

だけどこれ以上話を広げられたくなくて、私は曖昧に笑った。

中学校のとき、母子家庭だと知られたことがきっかけで、友達に見えない線を引かれたことがあったから。そのときは、母子家
庭なんて珍しくないだろうと、深く考えていなかった。 

だけど、興味本位の噂はあっという間に広まった。

『水田さんって、お父さんいないんだって』
『えー、かわいそう。貧乏なんだろうね。家もアパートだし』

翌日、ヒソヒソと囁かれるそんな声を耳にしたとき、息が詰まりそうになったのを覚えている。

その出来事は、私の胸に大きな傷を残した。

だから怖いのだ。

普通ではない家庭環境を、知られるのが。

あるがままの自分を晒すのが。

私がいつものように、それきり黙ってしまったせいか、美織と杏との間の空気が重くなる。

すると、気まずい雰囲気を蹴散らすように、杏が話題を変えた。

「見て、ほら。小瀬川くん、まだ寝てる。ご飯食べないのかな」

杏の声につられるように、私も杏が視線で示す方向に目をやった。

私たちのいる場所の、斜め後ろ。窓側の席で、男子生徒がひとり、机に突っ伏している。他の生徒は皆お弁当やパンやら食べているから、寝ている彼は明らかに浮いていた。

窓から入り込んだ柔らかな風が、彼のモカ色の髪をサラリと撫でる。

そうか、彼は小瀬川というのか。

新学年になって一ヶ月が過ぎたのに、いまだクラスの名前を憶えていなかったことに、私は少しだけ焦った。

「小瀬川くん……」

つい小声で呟くと、隣で杏がクスリと笑う。

「真菜、小瀬川くんの名前、まだ覚えてなかったんでしょ?」
「えっ」

図星すぎて、ドキリとした。小瀬川くんはすぐそこで寝てるのに、聞かれたら失礼過ぎる。

「小瀬川桜人くんだよ。桜に人って書いて、はるとって読むみたい」 
「桜に人……」

きれいな名前。

まるで、満開の桜の木から生まれてきたみたいな名前だ。

そう思ったとき、ガタン、と大きな音がする。

寝ていたはずの小瀬川くんが、立ち上がったのだ。

小瀬川くんは、今の今まで寝ていたのが嘘のように、しっかりと私たちに顔を向けた。

アーモンド形の瞳に、筋の通った鼻、男子にしては色白の肌。身体つきはスラリとしていて、クラスでも一番背が高い。

――あ、目が合った。

というより、睨まれた。

小瀬川くんはすぐに私から目を逸らすと、席から離れて教室を出て行ってしまう。彼のいなくなった机の向こうでは、真昼の光に包まれた新緑の植え込みが、サワサワとまるで噂話でもするようにさざめいていた。

「うわ。真菜、今睨まれなかった?」

杏の声に、私はどうにか頷く。

「睨まれた……気がする」

「真菜が、まだ名前覚えてないみたいなこと言ったからじゃない? 普通さ、この時期ならさすがに覚えてるじゃん」

美織が、少し軽蔑するような口調で言った。

「小瀬川くん、ちょっと怖いよね。顔はかっこいんだけどさ」
「それに、とっつきにくいしね。男子の誰ともつるんでないみたい」
「でも、顔はいいんだよね」
「そうそう、もったいないよね」

心底残念そうに、言葉を交わす美織と杏。それからすぐにふたりは小瀬川くんのことは忘れ、昨日LINEで話したらしい会話の続きを始めた。途端にふたりの空気ができあがってしまって、私は疎外されてしまう。

黒髪ロングの美織は、和風顔の美人だ。涼しげな切れ長の目をしていて、スタイルがいい。バスケ部に入っていて、学年でも目立つ存在だ。性格もはっきりしていて、思ったことをきちんと口に出して言うタイプの子。

杏は、茶色のふんわりボブで、目のパッチリした小柄な女の子。明るくてよく笑うから、友達がたくさんいて、いつもLINEの返事に忙しそう。おしゃべりが大好きで、誰とでも打ち解けるから、美織と同じくクラスでも目立っている。

去年も同じクラスだったふたりは、そもそも仲が良かった。そこに、たまたま杏の前の席だった私が加わることになって、なんとなく一緒にいるようになった。

だけど私は、しょっちゅうふたりの会話に入れないでいる。

三人でいても、話すのは美織と杏ばかりで、ひとりで黙って聞いていることが多い。移動教室のときも、ふたりの後ろを歩いてついていくような、そんな感じ。

すでに出来上がってしまっているふたりの空気には、すごく入りにくい。

原因は、分かってる。私があまり自分のことを話さないからだ。

だけど気が緩むと、自分の家庭環境がバレてしまいそうで怖い。

私はもう、中学のときと同じ過ちを繰り返したくはない。

一方で、ふたりから離れる勇気もない。

クラスの女子のグループ分けはもう決まっていて、ふたりのもとを離れてしまえば、ひとりになってしまう。

ひとりは怖い。

学校でひとりでいることは、普通じゃないからだ。

せめて学校では、私は普通でありたいと願っている。
放課後。

部活に入っていない私は、いつものようにすぐに学校を出ると、バスに乗った。

私の家から学校までは、バスを二本乗り継がないといけなくて、トータルで一時間以上かかる。

しかも今日は、家の最寄りのバス停で降りず、そのままバスに乗って行かなければいけないところがあった。

バスを降りた先は片道二車線の大通りになっていて、スーパーや青果店が並ぶ向かい側に、大型の駐車場を備えた病棟が何棟か建っている。

K大付属病院。

私にとっては、思い入れの深い病院だ。

六年前にお父さんが亡くなり、そして、今は弟が入院しているから。

小児病棟の二階にある大部屋の一室。『水田光』という名前を入り口のプレートで確認してから、なるべく音をたてないように、足を踏み入れた。各々のベッドがある場所にはきっちりとカーテンが引かれ、そこここからコソコソと声がしている。ときどき聞こえる、声を潜めたような楽しげな笑い声。

弟の光がいるのは、窓側の奥のベッドだ。

カーテンの端から、そうっと顔を覗かせる。

光は、布団もかけず、大の字でベッドに横になっていた。

眠っているわけではなく、かといって何かをするでもなく、ただ宙を見つめている。

窓から降り注ぐ夕方の光が、まだあどけなさの残る小学五年生の光の空虚な顔を照らしていた。栗色の髪も、大きくも小さくもない目も、見るたびに自分によく似ていると思う。

「光」

声をかけると、光はちらりとこちらに視線を向けた。

「洗濯物、替えに来た。調子はどう?」
「ふつう」
「ゲームはしないの? 持ってきてるんでしょ、スイッチ」
「しない」
「何か欲しいものある? 次来たとき、持って来るから」
「べつにない」

何を言っても手ごたえのない光の返事を聞きながら、私はベッドサイドに備え付けられた棚から、看護師さんが入れてくれた洗濯物の袋を取り出した。

普段はわりと愛想のいい子だけど、今はにこりともしない。

この大部屋にいるのは、皆光と同じくらいかもう少し幼い子供ばかり。皆、お母さんが四六時中付き添ってくれるのに、うちはなかなか来られない。だから、きっと拗ねているのだろう。前もこんなことがあったから、光の気持ちは手に取るように分かった。

だけど、女手ひとつで私と光を養っているお母さんは、あまり病院に来られない。

それに、年が離れているとはいえ、姉に過ぎない私にお母さんの代わりは果たせない。

「二週間もすれば退院できるって、先生言ってたから。少しだけ、がんばろうね」

光が、非難の目を私に向ける。

「二週間って、けっこう長いし。二週間もしたら、クラスのみんな仲良くなってるよ。クラス替えしたばっかりだから、俺だけ浮くに決まってるじゃん」

ふてくされた顔をすると、光は寝返りを打ってベッドにうつぶせた。

「光なら、きっとうまくやれるよ。私と違って、友達付き合い上手だし」

「……すげえ他人事」

光はそれきり、何も言わなくなった。

――重症喘息。

それが、光の疾患名だ。喘息持ちの人はたくさんいるけど、医学が進んで、今では薬や日常生活の諸注意でコントロールできる
人が増えている。だけどごくまれに、いまだ自分に合ったコントロール方法を見つけられず、入退院を繰り返している人がいる。

光の喘息の症状が悪化したのは、二年前からだった。

夜中に胸を押さえて苦しがっていたり、通学途中に息切れが激しくなって立っていられなくなったり。常に持っている吸引機ですらおさえられなくなって、光はそのたびに入院していた。

一年に、二~三回。繰り返す入院は、まだ子供の光の精神にダメージを与えるには充分だった。

次に発作がくるのはいつだろう。

こんどこそ、息ができなくなって死んでしまったらどうしよう。

光はいつも、そんな不安と闘っている。

そのせいか、入院したときは、たいてい我儘になる。

きっと、不安を打ち消すような、甘えられる存在が欲しいのだろう。

だけど、うちの家族では、それを満足にしてあげることができない。
 
結局光はそれ以上話してくれなくなり、私は「また来るからね」とため息交じりに声をかけて病室を去ることにした。
ナースステーションで挨拶を済ませ、エレベーターで階下に降りる。エントランスに出れば、病院に入る前は明るかった空が、暮れかかっていた。

ロータリーに沿うように歩いて、病院の敷地外を目指す。

五月だというのにほんのり冷たい風が、私の肩までの髪をサラリと撫でた。

ここを通るたびに、あの日のことを思い出してしまう。

――お父さんが、亡くなった日。

同じ景色の中を、まだ幼かった光の手を引いて、とぼとぼ歩いたっけ。

あのときの空っぽな気持ちと、胸の奥にズドンと沈んだ悲しみを、今でも昨日のことのように思い出せる。

つらい思い出を振り払うように下を向き、病院の敷地外へと出る。

お父さんが早くに亡くなって、弟は病気がち。お母さんは働きづめで、私は家事と弟の世話で手いっぱい。
こんな重い家庭、普通じゃない。

私は、普通でありたかった。

お母さんにお弁当を作ってもらって、家では弟と喧嘩をして、それをお父さんが穏やかにいさめて。

毎日部活を頑張って、自分の家のことも、包み隠さず友達に話せるような環境にいたかった。

苦い気持ちが胸に溢れるのを感じたとき、目前の店舗看板にパッと明かりが灯る。

デニスカフェ。

アメリカ発の全国チェーンのカフェで、病院の傍に、ちょうど一年前にオープンした。オレンジ色の看板と、ダークブラウンを基調とした落ち着いた外観が、特徴的なお店だ。

行ったことはないけど、入り口に貼られたおいしそうなタルトのポスターや、店内から漂うコーヒーの香りに、以前から惹かれてはいる。

もう、看板に明かりを灯すような時間なんだ。早く帰らなきゃ。

そう思いながらガラス張りの店内に目をやった私は「あれ?」と声をあげていた。

見覚えのある顔が、窓際に面したテーブルをせっせと拭いていたからだ。

柔らかそうなモカ色の髪に、アーモンド形の瞳、スラリと高い背丈。

今日彼の名前を覚えたばかりだから、記憶に新しい。

「小瀬川くん……?」

顔は、そっくりだった。だけど自信が持てなかったのは、薄いグレイストライプのシャツに、ロング丈の黒エプロンを身に付けた彼が、学校にいるときよりずっと大人びて見えたから。

席を立ち上がった客に向け、「ありがとうございました」と笑顔を向ける様子にも違和感があった。とっつきにくい小瀬川くんのイメージには、重ならないからだ。

しばらくじっと彼を見てると、不意打ちで、彼がこちらに顔を向けた。

瞬間、彼は目を見開き、凄むような顔をした。

その顔は、今日の昼休憩に見た顔にそっくりで、確信してしまう。

――やっぱり小瀬川くんだ。

小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らすと、店内に戻っていく。そして、それ以降は一切こちらを見ずに、接客に戻っていった。

ずっと立ち止まっているのもおかしい気がして、私も足早にその場を離れる。

小瀬川くん、バイトしてるんだ。たしかうちの高校、バイト禁止のはず。

校則を破ってバイトしている人なんて、きっと他にもいるけど、思いがけずクラスメイトの秘密を知ってしまってドキドキしていた。

明日、どういう顔をしたらいいんだろう?

向こうも絶対に私の存在に気づいてるから、『バイトしてるでしょ?』ってストレートに聞いた方がいいのかな? でも、話したこともないのに、変じゃないかな。そもそも、話したことのない相手に話しかけるなんて、相当な勇気がいる。

そんなことをぐるぐると考えるうちに、だんだんどうでもいいことのような気がしてきた。

小瀬川くんとは、この先も、きっと深く関わることはない。

そもそも、私は口下手で、小瀬川くんは不愛想。

同じクラスとはいえ、深く関わるわけがない。

だから、何も見なかったことにしよう。気づかないふりをしよう。

そう決意すると、私は茜色の空の下に佇むバス停の前で足を止めた。

翌日。

思った通り、小瀬川くんは、私のことなどどうでもよさそうだった。

机に突っ伏して寝ていたり、だるそうにあくびをしていたり。そもそも、バイト中に私を見かけたことすら、覚えていないのかもしれない。

「小瀬川。これ、解いてみろ」

三限目の数学の時間。小瀬川くんが、当てられた。

昨日小瀬川くんをたまたま見かけたせいか、彼の動向をつい意識してしまう。

小瀬川くんはノートの上に突っ伏していたから、多分寝ていたんだと思う。というより、寝ていたから、当てられたんだと思う。五十代くらいで頭の毛の薄いその数学の先生は、寝ていたり聞いていなかったりする生徒をわざと当てるのが好きなのだ。

「うわ、かわいそう……」

誰かのヒソヒソ声がした。

机から顔を上げた小瀬川くんは、寝ぼけた顔で、モカ色の頭をガシガシ掻きながら黒板を見つめていた。だけどすぐに立ち上がると、だるそうに黒板に向かう。気だるげなのに、背が高いせいか、妙な存在感のある彼の歩き姿を、教室中の皆が固唾を呑んで見守っていた。

小瀬川くんはチョークを手に取ると、応用問題の方程式を難なく解いた。

チョークが黒板に数式を刻む音が、静まり返った教室内にリズミカルに響く。

想像もしていなかったほど、きれいな字だった。

流麗で、どちらかというと女子が書きそうな字体。

「……正解。戻っていい」

小瀬川くんが間違えるのを、期待していたのだろう。先生が、明らかに不満そうな声を出す。

「すげえ」「かっこいい」「天才じゃん」

そんな声がヒソヒソと飛び交う中を、小瀬川くんはまた気だるげに歩き、自分の席に着くなり突っ伏した。
すごい人だと思った。バイトしてても、ちゃんと勉強してるんだ。

家のことと勉強で手いっぱいの私とは、大違い。

少しだけ、飄々とした態度の小瀬川くんに、ジェラシーを感じた。

その日の放課後のことだった。

「水田。お前、部活に入らないか?」

職員室に私を呼び出したクラス担任の増村先生から、そんなことを言われた。

「部活、ですか?」

突飛すぎて、頭が追いつかない。部活なんて、入ろうとすら思ったことがないからだ。

増村先生は、専攻が古典の、三十代半ばの男の先生だ。だけどガタイがよくていつもジャージの上下を愛用しているから、よく体育教師に間違えられる。先生というよりまるで年上の友達のような親しみやすい先生で、生徒からは人気があるけど、ちょっと強引なノリが私は苦手だった。

「でも……」

忙しくしているお母さんの代わりに、私は家事をしないといけない。それに、特に今は、光の病院に行かないといけないから忙しい。

「分かってるよ。家、大変なんだろ?」

不意をつかれたけど、すぐに当然だと思った。担任である彼は、うちが母子家庭だということなんてもちろん知ってるだろう。

それに去年の面談で、光が入退院を繰り返していることを、お母さんが当時の担任に言っていたし。

「……そうなんです」

「だけどな、水田。部活は青春の一ページだ。絶対にやった方がいい」

使い古されたようなセリフ。大人目線でものを言われると、うんざりしてしまって、「はあ」としか言えなくなる。

「だから、文芸部に入れ」
「……文芸部、ですか?」
「俺が顧問だから、融通が効く。家のことがあるだろうから、無理して来なくてもいい。現に、ユーレイ部員もいるしな。だけど一週間に一回は、顔を見せろ。それだけでいいから」

結局断り切れず、私はその足で、文芸部の見学に行かされることになってしまう。

「文芸部か……」

部活になんて、正直興味がない。中学に入ったばかりの頃は、テニス部に入ってみたけど、結局思うように参加できずラケットを買う前にやめてしまった。

それに、文芸なんてますます興味がない。読書は好きな方だけど、ものすごく読むというほどでもない。

乗り気になれないまま、部室の集まる、旧校舎の三階に向かう。

文芸部は、廊下の一番奥にあった。物置と見まがうような、古めかしい丸型のドアノブのついたドア。ドア板の上半分に埋め込まれた擦りガラスのさらに上部に、『文芸部』と書かれたプレートが掲げられている。

ドアの向こうはシーンとしていて、人の気配なんてまったくなかった。ひと呼吸して、コンコンとドアをノックする。間もなくして「はい」と微かな声が返ってきた。

「あの。増村先生に言われて、見学に来ました」

ドア越しに緊張気味に声をかけると、「入ってください」とまた微かな声がした。

「失礼します……」

そこは、驚くぐらい狭い部屋だった。広さはおよそ六畳程度だけど、壁の二面がぎっしり本棚で埋まっているから、より狭く感じる。

真ん中には、長テーブルが置かれていて、上座のパイプ椅子に女子生徒が座って本に目を落としていた。三つ編みに眼鏡の、いかにも文学少女、といったイメージの人。顔を上げ、文学少女が私を見た。

「部長の川島です。三年です。二年の水田さんですよね? 増村先生から話は聞いています、好きに見学してください」

「あ、はい……」

サクサクと話を進めると、川島部長は再び本に没頭しはじめた。本棚の手前には、男子生徒がひとり、胡坐を組んで座っている。彼も本に没頭していて、こちらのことには我関せず、といった具合だ。彼らがときどきページを捲る音だけが響く、静かな空間だった。

ていうか、好きに見学してと言われても、狭すぎて、ぼうっと立つ以外何も出来ない。

「あ、あの……」

「何か?」

おずおずと声を出すと、川島部長が再び顔を上げて眼鏡を光らせた。

「他の部員の方は……?」

「私と、そこにいる一年の田辺くんと、今日は来てないけどあとひとり。以上です」

田辺くんらしき男子生徒が、私に向けてぺこりと頭を下げてきたので、私も慌てて頭を下げた。くるくる頭の黒髪の、童顔の男の子だ。その手元には、背表紙に『ドグラ・マグラ』と書かれた、なんだか難しそうな本。

「全部で三人ってことですか……?」

「そうです」

川島部長は、何を聞いても、声のトーンも表情も一切変わらない。それきり、会話は途切れてしまった。仕方なく、私は本棚に近づき、本や資料を物色することにする。

日本文学全集や、ロシア文学全集など、図書館でしか見かけないような分厚い本がたくさん並んでいた。旧い本独特の、どこか懐かしい香りが、鼻をかすめる。

静かな部屋に、半開きの窓からそよぐ風が、放課後の音色を運んでくる。グラウンドでノックに励む、野球部の声。吹奏楽部が奏でている音楽は、有名な映画のテーマ曲だ。どこからともなく遠く聞こえる、ワッと盛り上がる笑い声。

気づけば私は、本を目で追いながら、ストンと床に体育座りをしていた。

不思議と、居心地が良かったからだ。

行ったことのない部室に、初めて会うふたりの生徒。そのはずなのに、ずっと前からこの場所を知っていたかのような心地になっていた。

「よかったら」

ふいに、声がした。見れば、胡坐を掻いて小難しそうな本を読みふけっていた田辺くんが、冊子のようなもの私に向けて差し出している。

「去年の文集です。僕のは今年入部したばかりなので載っていませんが、入部を決める際の参考になるかと」

「あ、ありがとう」

私が文集を受け取ったのを見届けると、田辺くんは、また本の世界に戻っていった。

紫色の薄い冊子には、去年の年号、そして『県立T高校文芸部』と書かれてある。日付が秋になっているから、おそらく文化祭に合わせて作成されたものだろう。この文集の作成が、文芸部の一番目立った活動なのかもしれない。

パラリと頁をめくる。

一センチにも満たない厚さのその冊子には、部員たちが、思い思いに文字を綴っていた。

短編小説、エッセイ、随筆、詩。ひとつとして同じものはない。

好きなように、書きたいように。そこには多種多様の個性が輝いていた。

後ろの方のページで、昨年二年だった、川島部長の名前を見つける。難しそうなミステリーの短編が、他の部員たちの倍はあるのではないかという文字数で、ぎっしり書き連ねられていた。

今日会ったばかりで、先輩のことはまだよく知らないけど、我が道を貫くかんじが彼女らしいなと感じた。

最後は、詩だった。

他の作品とは違い、その詩だけタイトルも名前もないのを、不思議に思う。

川島部長が幅を占めすぎたせいか、その部員の枠だけすごく狭い。

だけど、詩独特の空白のせいか、それは驚くほど自然と私の目に入ってきた。

 僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
 どんなにもがいても、出口が見えない
 だから僕は、君のために影になる
 光となり風となる
 僕が涙を流すのは、君のためだけ
 僕のすべては、君のためだけ
 深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う

そこには、苦しいほどの、“君”に対する想いが綴ってあった。

詩の勉強なんてしたことがないから、この詩がうまいかどうかなんてわからない。

わからないけど、そんなことはどうでもいいと思った。

わずか七行の、他のどの作品よりも短いその詩は、不思議なほど私の心に響いた。

そして、たまらなく泣きたくなった。

不器用なほど真っすぐな、“君”に対する真っすぐな想いが、じわじわと胸を揺さぶったんだ。

――悲しくて、あたたかい。

心の奥底から、今まで感じたことのない熱い感情が込み上げた。

「どうしますか、入部しますか?」

ふいにかけられた声に、詩の世界に支配されていた私は、我に返った。

川島部長が、眼鏡をクイッとやりながら、こちらを見ている。

「あ、ええと……」

こんな、早急に決めないといけないのだろうか?

戸惑いながら、名もない詩に視線を落とす。

心臓がドクドクと鼓動を刻んでいる。

名もなき詩の一文一文が、いまだ頭の中を、ゆっくりと揺蕩っていた。

そして、まるで口から言葉が流れ出てきたかのように、私は自然と返事をしていた。

「……はい。入ります」
嫌な予感というものは、大抵当たっている。

それはもしかすると、「こうなったらどうしよう」という負の感情が、負の出来事をおびき寄せてしまうからかもしれない。

だけど、いったん転落してしまえば、何ごともなかなかいいふうには転がらない。

十六年と少し生きてきた中で、私は、そのことをすでに学んでいた。

美織と杏との関係が目に見えて変わってきたのは、ユーレイ部員前提で文芸部に入部した、翌日頃からだった。


「杏、体育館、早く行こ!」

廊下から美織が叫べば、体操服への着替えを終えた杏が、美織のもとへ駆けて行く。

「そういえばさ、次のクラスマッチ、何にする? 美織ってバスケ部だからバスケは出ちゃダメなんでしょ?」
「そうなの。だから、バレーにしようって思ってる。杏は?」
「わたしもバレー! 一緒にがんばろ!」

ふたりの楽しそうな声が、廊下の向こうへと遠ざかっていった。

ザワザワとした教室で私はひとり、黙々と体操服に着替えていた。

胸の奥が、ズドンと重い。

体育館にひとりで行こうが、誰かと行こうが、大した問題じゃないことは分かっている。

だけど私は、ひとりだけこの世界からはみ出してしまったような孤独を感じていた。

別に、喧嘩をしたわけじゃない。

ただ、ふたりの作る空気に入り込めないだけ。

そのことに、前からふたりとも勘づいていて、徐々に行動に移した。一緒にいて楽しい人に傍にいて欲しいと思うのは、当たり前のことだから。今となっては、休憩時間も、移動のときも、ほとんど私に声がかかることはない。

それでも、お弁当の時間だけは、まだ三人で机を囲んでいた。

私はふたりとほとんど話をすることなんてないし、明らかにはみ出してるけど、これは言ってみれば形式のようなもので、美織と杏は義務的に私と机を囲む。

「それでさ、そのときの写メがあるんだけど」
「なになに? 見せて見せて。あははっ、めちゃくちゃ面白い!」
「でしょでしょ!」

お弁当を食べながら、いつものように、ふたりははしゃいでいる。ふたりが作る独特の波長に乗れない私は、ひとり黙々とお弁当を口に運ぶ。

入りたい。けど、入れない。

中学校のとき、家庭事情を知られて一線を引かれたときの苦い思い出が、また私に歯止めをかける。

ふたりの笑い声が、周りの楽しそうな声が、さらに私を追い込む。

同じ机にいるのに、まるで見えない仕切りが私たちを隔てているみたい。

楽しそうなふたりの隣で、黙ってお弁当を口に運ぶ時間は、地獄のようだった。

きっと、私はもう、ここでお弁当を食べない方がいい。

だけど、自分から出て行く勇気もない。

ひとりになるのが怖いのだ。

お弁当は、友達と食べるのが当たり前だから。

特に女の子は、皆と一緒にいるのが当たり前だから、ひとりでいると目立ってしまう。

私は、しがみついてでも、普通の存在でいたいんだ……。
いじめられているわけではない。ひどいことを言われたわけでもない。ただ、ふたりの仲に入れないだけ。

それだけだ。こんなこと、大したことない。

世の中、もっと深刻な悩みを抱えている人は山ほどいる。

繰り返し、自分にそう言い聞かせた。

大丈夫、大丈夫だと、暗示のように言い聞かせた。

だけど日に日に食欲がなくなって、何をしていても心から笑えることがなくなった。

テレビを見ていても、ただの中身のない映像に見えるだけ。

学校に行く時間になると、胸の奥に鉛が沈んだみたいに重くなって、ときには吐き気すらした。

分かってる。自分が変わればいいんだ。

明るく演じて、美織と杏に好かれるような人間になればいい。

それは思うんだけど、どうしてもできなくて。

無能な自分を、繰り返し責め立てた。

悪いのは、全部自分なんだ……。

「どこか具合でも悪いの?」

ある朝、洗面所で吐き気を堪えていると、お母さんにそう声をかけられた。

「……え?」

ドキッとした。こんなことで、お母さんを困らせてはいけない。

女手ひとつで家族を支えているお母さんは、気苦労が絶えないのだから。

私は、お母さんに悲しい顔を見せてはいけない。

「……別に、なんでもないよ」

「そう? 顔が白いけど。熱でもあるのかしら」

お母さんは私のおでこに手を当てて、「別になさそうね」と首を捻っている。

「生理前だからかな? 大丈夫だから、心配しないで」

できるだけ自然に笑って見せると、お母さんは納得したのか「ならいいけど」と表情を緩めた。

「じゃあ、今日もお仕事遅くなるから、光のお見舞いお願いね。あさって退院だから、荷物をまとめといて欲しいの」

「分かった。ちゃんとやっとくから、心配しないで」

「ありがとう、助かるわ」

お母さんのホッとした笑顔を見て、うまく誤魔化せたことに安堵した。

「あら、もうこんな時間! じゃあ、行ってくるから。戸締りお願いね」

「はーい」

陽気に答え、笑顔でひらひらと手を振ると、カバンを肩にかけたお母さんは大慌てで玄関に向かった。グレーのパンツスーツの
背中が、ドアの向こうに消えていく。ハウスメーカーで働いているお母さんは、出勤時はいつもスーツを着ていた。

バタンと玄関扉の閉まる重厚な音が聞こえたあとで、私は張り付けていた笑みをスッと消した。

胸が重い。体がだるい。

でも、これは病気なんかじゃない。私に意気地がないだけ。

――だから、学校に行かなくちゃ。
いつもと同じ毎日が過ぎていく。

美織と杏の楽しそうな声が耳から離れなくて、私を追い込む。

ふたりだけで楽しそうにしている様子を見ているだけで、食事が喉を通らない。

ひとりぼっちの着替え、理科室への教室移動。

放課後は、増村先生に呼ばれて文芸部に行った。

増村先生は私が入部したことをすごく喜んでくれて、部員三名に向かって文学について熱弁していた。だけど気乗りせず、なにひとつ耳に入らない。

五時頃、増村先生に解放されるなり、光の病院に急ぐ。

ついた頃には、もう六時半になっていた。

相変わらず光は反抗的で、ろくに話すら聞いてくれなかった。

布団をかぶり、なにを言っても「うん」とか「ふうん」とか答えるだけ。しまいには、なにも返事をしてくれなくなった。

お母さんとの約束通り、大きめのタオルとか、使ってないティッシュとか、退院までにもう使わなさそうなものをひとまとめにして、私は病院を出た。

学校のカバンだけでなく、光の入院セットを入れた大きめのボストンバッグを持っているから、かなり重い。

ふらふらになりながら病院前のロータリー脇の道を歩いて、敷地外に出る。

外は、すっかり暗くなっていた。

光の病室でなんだかんだ用事をしたから、今はもう、八時近いのだろう。

病院を出るのがこんなに夜遅くなったのは、久しぶりだ。

群青色の夜空には雲が立ち込め、星ひとつ見えない。片道二車線の車道は、煌々とライトを灯した車が行き交っている。見慣れない夜の景色を見ていると、まるで、知らない街を歩んでいるみたいで心がざわついた。

「おっも……」

ボストンバッグを肩にかけなおしたとき、反動で足元がふらついた。隣を横切った知らないおじさんが、怪訝そうに私を睨んでくる。ふらついた際に、肩と肩が少し触れ合ったからだろう。

「こんな時間まで、高校生が遊んでるんじゃねえよ」

苦々しく吐き出されたおじさんの悪意ある呟きが、私の心に傷を作る。

私は、遊んでいたわけじゃない。

学校でつらい一日に耐え、弟の病院に行っただけだ。

それなのに、どうして、そんな嫌味を言われないといけないのだろう。

おじさんは、私のことなんてなにも知らないのに。

みじめな気持ちになって、どうしようもないほどに泣きたくなった。

「……っ」

唇元が、震える。足に力が入らない。

だけど、ここで泣いてはダメだと思った。路上で泣いている女子高生なんて、普通じゃない。私は、普通でありたい。当たり前からはみ出したくない。

私よりもっとつらい境遇の人は、世の中にいくらでもいる。

悲劇のヒロインぶっている場合じゃない。

もっと頑張れば。頑張ればいいだけなんだ。

だけどどんなに自分に言い聞かせても、足からはみるみる力が抜けていく。

そのうち立っていられなくなり、私は足もとから崩れ落ちるように、その場にうずくまった。

「ハア、ハア……」

何コレ、息が苦しい。

いつものように平生を装うと努力しても、うまくいかない。

まるで喉が詰まったみたいに呼吸がうまくいかなくて、瞳には生理的な涙が次々溢れ出す。

「ハッ……ハア……」

頑張らなきゃ………。