高校二年の、ゴールデンウィーク明け。
四月はまだなんとなくだったクラスの人間関係も、その頃には、とりあえず定着しつつあった。
よくある県立高校の、何のへんてつもない普通クラスの昼休憩。
その日も私は、二年になってから一緒にいる美織と杏とで、ひとつの机を囲んでいた。
水色のナプキンを広げてお弁当の蓋を開ければ、杏が大きな声を出す。
「真菜のお弁当、おいしそう!」
「ありがとう」
ネギを入れた卵焼き、昨日の肉じゃが、アスパラのベーコン巻き、あとは隙間にミニトマトを詰め込んだお弁当。もうひとつの段には、じゃこを混ぜたおにぎりが入っている。
「真菜のお母さんって、料理好きだよね。うちのお母さんなんか、冷凍食品ばっかり」
杏が、自分のお弁当に入っていた磯部揚げを箸に挟みながら言う。
「うちのお母さんも、あまり料理しないよ。これ、自分で作ってるの」
「うそっ!?」
ふたりの声が重なった。
「マジで⁉ 女子の鏡! 私なんか、ご飯の炊き方も知らないよ」
「ええっ、杏。それはさすがにヤバくない?」
間髪入れずに飛んでくる、杏と美織の声。
「なんで、なんで? いつから作ってるの?」
「高校から。中学は給食だったから……」
「すごいねー。偉いね、真菜」
うちは、母子家庭だ。朝早くから夜遅くまで働いてるお母さんの代わりに、家事は私がほとんどこなしてる。
だけどこれ以上話を広げられたくなくて、私は曖昧に笑った。
中学校のとき、母子家庭だと知られたことがきっかけで、友達に見えない線を引かれたことがあったから。そのときは、母子家
庭なんて珍しくないだろうと、深く考えていなかった。
だけど、興味本位の噂はあっという間に広まった。
『水田さんって、お父さんいないんだって』
『えー、かわいそう。貧乏なんだろうね。家もアパートだし』
翌日、ヒソヒソと囁かれるそんな声を耳にしたとき、息が詰まりそうになったのを覚えている。
その出来事は、私の胸に大きな傷を残した。
だから怖いのだ。
普通ではない家庭環境を、知られるのが。
あるがままの自分を晒すのが。
私がいつものように、それきり黙ってしまったせいか、美織と杏との間の空気が重くなる。
すると、気まずい雰囲気を蹴散らすように、杏が話題を変えた。
「見て、ほら。小瀬川くん、まだ寝てる。ご飯食べないのかな」
杏の声につられるように、私も杏が視線で示す方向に目をやった。
私たちのいる場所の、斜め後ろ。窓側の席で、男子生徒がひとり、机に突っ伏している。他の生徒は皆お弁当やパンやら食べているから、寝ている彼は明らかに浮いていた。
窓から入り込んだ柔らかな風が、彼のモカ色の髪をサラリと撫でる。
そうか、彼は小瀬川というのか。
新学年になって一ヶ月が過ぎたのに、いまだクラスの名前を憶えていなかったことに、私は少しだけ焦った。
「小瀬川くん……」
つい小声で呟くと、隣で杏がクスリと笑う。
「真菜、小瀬川くんの名前、まだ覚えてなかったんでしょ?」
「えっ」
図星すぎて、ドキリとした。小瀬川くんはすぐそこで寝てるのに、聞かれたら失礼過ぎる。
「小瀬川桜人くんだよ。桜に人って書いて、はるとって読むみたい」
「桜に人……」
きれいな名前。
まるで、満開の桜の木から生まれてきたみたいな名前だ。
そう思ったとき、ガタン、と大きな音がする。
寝ていたはずの小瀬川くんが、立ち上がったのだ。
小瀬川くんは、今の今まで寝ていたのが嘘のように、しっかりと私たちに顔を向けた。
アーモンド形の瞳に、筋の通った鼻、男子にしては色白の肌。身体つきはスラリとしていて、クラスでも一番背が高い。
――あ、目が合った。
というより、睨まれた。
小瀬川くんはすぐに私から目を逸らすと、席から離れて教室を出て行ってしまう。彼のいなくなった机の向こうでは、真昼の光に包まれた新緑の植え込みが、サワサワとまるで噂話でもするようにさざめいていた。
「うわ。真菜、今睨まれなかった?」
杏の声に、私はどうにか頷く。
「睨まれた……気がする」
「真菜が、まだ名前覚えてないみたいなこと言ったからじゃない? 普通さ、この時期ならさすがに覚えてるじゃん」
美織が、少し軽蔑するような口調で言った。
「小瀬川くん、ちょっと怖いよね。顔はかっこいんだけどさ」
「それに、とっつきにくいしね。男子の誰ともつるんでないみたい」
「でも、顔はいいんだよね」
「そうそう、もったいないよね」
心底残念そうに、言葉を交わす美織と杏。それからすぐにふたりは小瀬川くんのことは忘れ、昨日LINEで話したらしい会話の続きを始めた。途端にふたりの空気ができあがってしまって、私は疎外されてしまう。
黒髪ロングの美織は、和風顔の美人だ。涼しげな切れ長の目をしていて、スタイルがいい。バスケ部に入っていて、学年でも目立つ存在だ。性格もはっきりしていて、思ったことをきちんと口に出して言うタイプの子。
杏は、茶色のふんわりボブで、目のパッチリした小柄な女の子。明るくてよく笑うから、友達がたくさんいて、いつもLINEの返事に忙しそう。おしゃべりが大好きで、誰とでも打ち解けるから、美織と同じくクラスでも目立っている。
去年も同じクラスだったふたりは、そもそも仲が良かった。そこに、たまたま杏の前の席だった私が加わることになって、なんとなく一緒にいるようになった。
だけど私は、しょっちゅうふたりの会話に入れないでいる。
三人でいても、話すのは美織と杏ばかりで、ひとりで黙って聞いていることが多い。移動教室のときも、ふたりの後ろを歩いてついていくような、そんな感じ。
すでに出来上がってしまっているふたりの空気には、すごく入りにくい。
原因は、分かってる。私があまり自分のことを話さないからだ。
だけど気が緩むと、自分の家庭環境がバレてしまいそうで怖い。
私はもう、中学のときと同じ過ちを繰り返したくはない。
一方で、ふたりから離れる勇気もない。
クラスの女子のグループ分けはもう決まっていて、ふたりのもとを離れてしまえば、ひとりになってしまう。
ひとりは怖い。
学校でひとりでいることは、普通じゃないからだ。
せめて学校では、私は普通でありたいと願っている。
四月はまだなんとなくだったクラスの人間関係も、その頃には、とりあえず定着しつつあった。
よくある県立高校の、何のへんてつもない普通クラスの昼休憩。
その日も私は、二年になってから一緒にいる美織と杏とで、ひとつの机を囲んでいた。
水色のナプキンを広げてお弁当の蓋を開ければ、杏が大きな声を出す。
「真菜のお弁当、おいしそう!」
「ありがとう」
ネギを入れた卵焼き、昨日の肉じゃが、アスパラのベーコン巻き、あとは隙間にミニトマトを詰め込んだお弁当。もうひとつの段には、じゃこを混ぜたおにぎりが入っている。
「真菜のお母さんって、料理好きだよね。うちのお母さんなんか、冷凍食品ばっかり」
杏が、自分のお弁当に入っていた磯部揚げを箸に挟みながら言う。
「うちのお母さんも、あまり料理しないよ。これ、自分で作ってるの」
「うそっ!?」
ふたりの声が重なった。
「マジで⁉ 女子の鏡! 私なんか、ご飯の炊き方も知らないよ」
「ええっ、杏。それはさすがにヤバくない?」
間髪入れずに飛んでくる、杏と美織の声。
「なんで、なんで? いつから作ってるの?」
「高校から。中学は給食だったから……」
「すごいねー。偉いね、真菜」
うちは、母子家庭だ。朝早くから夜遅くまで働いてるお母さんの代わりに、家事は私がほとんどこなしてる。
だけどこれ以上話を広げられたくなくて、私は曖昧に笑った。
中学校のとき、母子家庭だと知られたことがきっかけで、友達に見えない線を引かれたことがあったから。そのときは、母子家
庭なんて珍しくないだろうと、深く考えていなかった。
だけど、興味本位の噂はあっという間に広まった。
『水田さんって、お父さんいないんだって』
『えー、かわいそう。貧乏なんだろうね。家もアパートだし』
翌日、ヒソヒソと囁かれるそんな声を耳にしたとき、息が詰まりそうになったのを覚えている。
その出来事は、私の胸に大きな傷を残した。
だから怖いのだ。
普通ではない家庭環境を、知られるのが。
あるがままの自分を晒すのが。
私がいつものように、それきり黙ってしまったせいか、美織と杏との間の空気が重くなる。
すると、気まずい雰囲気を蹴散らすように、杏が話題を変えた。
「見て、ほら。小瀬川くん、まだ寝てる。ご飯食べないのかな」
杏の声につられるように、私も杏が視線で示す方向に目をやった。
私たちのいる場所の、斜め後ろ。窓側の席で、男子生徒がひとり、机に突っ伏している。他の生徒は皆お弁当やパンやら食べているから、寝ている彼は明らかに浮いていた。
窓から入り込んだ柔らかな風が、彼のモカ色の髪をサラリと撫でる。
そうか、彼は小瀬川というのか。
新学年になって一ヶ月が過ぎたのに、いまだクラスの名前を憶えていなかったことに、私は少しだけ焦った。
「小瀬川くん……」
つい小声で呟くと、隣で杏がクスリと笑う。
「真菜、小瀬川くんの名前、まだ覚えてなかったんでしょ?」
「えっ」
図星すぎて、ドキリとした。小瀬川くんはすぐそこで寝てるのに、聞かれたら失礼過ぎる。
「小瀬川桜人くんだよ。桜に人って書いて、はるとって読むみたい」
「桜に人……」
きれいな名前。
まるで、満開の桜の木から生まれてきたみたいな名前だ。
そう思ったとき、ガタン、と大きな音がする。
寝ていたはずの小瀬川くんが、立ち上がったのだ。
小瀬川くんは、今の今まで寝ていたのが嘘のように、しっかりと私たちに顔を向けた。
アーモンド形の瞳に、筋の通った鼻、男子にしては色白の肌。身体つきはスラリとしていて、クラスでも一番背が高い。
――あ、目が合った。
というより、睨まれた。
小瀬川くんはすぐに私から目を逸らすと、席から離れて教室を出て行ってしまう。彼のいなくなった机の向こうでは、真昼の光に包まれた新緑の植え込みが、サワサワとまるで噂話でもするようにさざめいていた。
「うわ。真菜、今睨まれなかった?」
杏の声に、私はどうにか頷く。
「睨まれた……気がする」
「真菜が、まだ名前覚えてないみたいなこと言ったからじゃない? 普通さ、この時期ならさすがに覚えてるじゃん」
美織が、少し軽蔑するような口調で言った。
「小瀬川くん、ちょっと怖いよね。顔はかっこいんだけどさ」
「それに、とっつきにくいしね。男子の誰ともつるんでないみたい」
「でも、顔はいいんだよね」
「そうそう、もったいないよね」
心底残念そうに、言葉を交わす美織と杏。それからすぐにふたりは小瀬川くんのことは忘れ、昨日LINEで話したらしい会話の続きを始めた。途端にふたりの空気ができあがってしまって、私は疎外されてしまう。
黒髪ロングの美織は、和風顔の美人だ。涼しげな切れ長の目をしていて、スタイルがいい。バスケ部に入っていて、学年でも目立つ存在だ。性格もはっきりしていて、思ったことをきちんと口に出して言うタイプの子。
杏は、茶色のふんわりボブで、目のパッチリした小柄な女の子。明るくてよく笑うから、友達がたくさんいて、いつもLINEの返事に忙しそう。おしゃべりが大好きで、誰とでも打ち解けるから、美織と同じくクラスでも目立っている。
去年も同じクラスだったふたりは、そもそも仲が良かった。そこに、たまたま杏の前の席だった私が加わることになって、なんとなく一緒にいるようになった。
だけど私は、しょっちゅうふたりの会話に入れないでいる。
三人でいても、話すのは美織と杏ばかりで、ひとりで黙って聞いていることが多い。移動教室のときも、ふたりの後ろを歩いてついていくような、そんな感じ。
すでに出来上がってしまっているふたりの空気には、すごく入りにくい。
原因は、分かってる。私があまり自分のことを話さないからだ。
だけど気が緩むと、自分の家庭環境がバレてしまいそうで怖い。
私はもう、中学のときと同じ過ちを繰り返したくはない。
一方で、ふたりから離れる勇気もない。
クラスの女子のグループ分けはもう決まっていて、ふたりのもとを離れてしまえば、ひとりになってしまう。
ひとりは怖い。
学校でひとりでいることは、普通じゃないからだ。
せめて学校では、私は普通でありたいと願っている。