君がひとりで泣いた夜を、僕は全部抱きしめる。

驚いて、斜め後ろを振り返る。

小瀬川くんが、スッと片手を上げていた。

クラス中の空気が、震撼した。

だって一匹狼の小瀬川くんは、役員に立候補なんていう柄じゃない。クラスメイトと積極的に関わるところを見たことがないし、教室内にいることすら少ない、そんな存在だからだ。

だけど先生は、「そっか、やっとやる気になってくれたか。お前、やればできるやつなんだよな、知ってたぞ!」とやる気のなかった小瀬川くんがやる気を出してくれたことに、心底喜んでいる。

美織に杏、それから私のことを笑っていた女子たちが、静ヒソヒソとざわついていた。

「え、なんで急に?」「うそ、小瀬川くんが立候補?」「私、手挙げればよかったー」

どうやら、小瀬川くんは、密かに女子たちに人気があるみたい。

「小瀬川、急にどうした? 水田のこと好きなの?」

すると、小瀬川くんの後ろの席の男子が、茶化すようにそんなことを言った。斉木君という、クラスで一番お調子者の男子だ。黒髪に短髪で、たしかサッカー部だったはず。

とたんにクラス中がザワザワし始め、私は顔に火が着いたような羞恥心に苛まれる。

クラスメイトが全員見ている中でのそういった発言は、拷問に等しい。

すると小瀬川くんは、露骨に眉間に皺を寄せた。

「そんなんじゃない。水田さんを推薦しといて、陰で笑ってる雰囲気が、すげえ嫌だから」

小瀬川くんがそう言った途端、ひやかしモードに変わりつつあった教室の空気が、ピリリと張り詰めた。私も、背筋にしびれが走ったみたいになって、手元が微かに震えた。

小瀬川くんのその言い方だと、私がクラスの女子からいじめられてるみたいで。

これ以上私をみじめな存在にしないでって、うつむいた私の胸に、怒りが沸々と込み上げる。

だけど同時に、私は気づいてしまったんだ。

――これは、嫌がらせなんかじゃなくて、正真正銘の、いじめなんだって。

不穏な空気が漂い、静まり返るなか、先生だけが「そうか」と深く頷いている。

「頼んだぞ、小瀬川」

「はい」

また、小瀬川くんに思い知らされた。

つまらない見栄で、美織や杏から離れられなかったことを指摘されたときと同じように、いじめに気づかないフリをして見栄を張ろうとしたことを、暴かれた。

唇を食み、ようやくもとのざわめきを取り戻しつつある教室で、ひとり項垂れる。

――小瀬川くんには、敵わない。
 

「ごめんね、真菜。役員決めのとき、何も言えなくて」

その日の昼休み、お弁当を持って廊下に出るなり、夏葉が謝ってきた。

「そんな、気にしないで。夏葉は何も悪くないから」

「でも私、代わりにやるっていうこともできたのに、言い出せなかった。真菜、忙しいのに……」
廊下を歩みながら、遠慮がちに言う夏葉。

その声色が優しくて、私は思わず泣きそうになった。

母子家庭で、お母さんに代わって家のことをしないといけないとか、病気がちな弟がいるとか、夏葉にはまだ言ってない。だけど夏葉は、きっと勘づいてくれている。

そのうえで、あえて聞かないでいてくれる。

自然と、笑みが零れていた。こんなふうに優しく笑えたのは、いつぶりだろう。

「……本当に、大丈夫だよ。ひとりじゃないし。ありがとう、夏葉」

夏葉は、うん、と頷いて、「小瀬川くんがいるもんね」と言った。

「小瀬川くん、ああ見えてしっかりしてるから大丈夫だよ。同中だったから、それは知ってる」

「そうだったんだ」

初めて知る事実に、少し驚く。

「小瀬川くん、中学のときはね、生徒会長やってたの。だから文化祭実行委員くらい、お手のものだよ」

「小瀬川くんが、生徒会長?」

あの誰ともつるまない、一匹狼の小瀬川くんが生徒会長? 想像もつかない。

「うん。彼、中学のときは明るくて、クラスのムードメーカーで、人気者だったんだよ。勉強もできて、かなりモテてたし。高校になってから、ガラッとイメージ変わっちゃったけどね」

どうしてだろ?と夏葉が首を傾げる。

「そうなんだ……」

明るくてムードメーカーの小瀬川くんなんて、今の彼からは想像もつかない。

性格が変わってしまうほどのなにかが、彼の身に起こったのだろうか……。

なんともいえないモヤモヤが、胸の奥に渦巻いていた。
その日の放課後。

久しぶりに、文芸部に行ってみることにした。参加するのは、これで三回目だ。

入部早々幽霊部員になりはててしまって、普通なら気まずいところだ。だけど増村先生の許しがあったし、部員たちもそれを咎めたりするタイプではなさそうだから、それほど気にならなかった。

部室棟の一番端にある文芸部は、ひっそりとしていて、まるであることすら忘れられているみたい。コツコツとドアノックすれば、「どうぞ」といつもの淡白な川島部長の声が帰ってきた。

「水田です。入ります」

ガチャリとドアを開ける。

途端に、開け放しの窓から、サアッと風が吹いてきた。狭い部室に、ほんのり雨の香りが立ち込める。朝から曇りだったし、夕方から雨が降るのかもしれない。湿気を孕んだ風を肌に感じると、なぜか心が洗われるような、清涼な気持ちになった。

長テーブルの上座、いつもの位置で、川島部長はいつものように本を読んでいた。

壁際の書架の前では、くるくる頭の田辺くんが本を物色していた。

「久しぶり、水田さん。今日は増村先生来ないから、ゆっくりして」

「はい」

川島部長の声に答えてから、部室に足を踏み入れる。

だけど次の瞬間、驚きのあまり体の動きを止めていた。

川島部長の背後、窓辺に置かれたパイプ椅子に、小瀬川くんが腰かけて本に目を落としていたからだ。

「どうして……」

委員決めのことや、夏葉の話もあり、ずっと胸の奥で小瀬川くんのことを考えていただけに、驚きもひとしおだった。

呆然としていると、ちらりと目だけをこちらに向けた小瀬川くんの代わりに、川島部長が答えた。

「会うのは初めてだったかしら? 彼、二年の小瀬川くん。ほとんど来ないけど、うちの部員よ」

「部員……?」

思ってもみなかった川島部長の返事に、動揺してしまう。

だけど考えてみたら、小瀬川くんがこの部室でお昼ご飯を食べているのは、部員だったからなんだと合点がいった。

縁もゆかりもない部室でも、彼なら『人が来ないから』という理由で無断で使用しそうだと、勝手に思い込んでしまったのがいけなかった。

それに、大人っぽくてあか抜けた外見からして、小瀬川くんは文芸部という雰囲気ではない。文芸部って、地味な人が在籍しているイメージだから。そんな勝手な先入観も、邪魔していたように思う。

「小瀬川くんにも、紹介するわ。新しい部員の、水田さん」

川島部長が、小瀬川くんに顔を向ける。

「知ってます。同じクラスなんで」

「あら、そうだったの? なら話が早いわね」

川島部長は納得すると、再び本の世界に戻っていった。

窓辺で本に目を落としている小瀬川くんを、ちらりと盗み見る。

寡黙で、文芸部在籍の彼。中学のときは明るくてムードメーカーだったという夏葉の言葉が、やっぱり信じられない。

どうにか動揺を胸でおさえ、私は小瀬川くんから視線を逸らすと、書架に近寄った。

適当に選んだ一冊を手に取る。

有名なロシアの純文学みたい。しっかり読むわけではなく、心に響く言葉を探るように、まばらに読んでいく。

いつもと同じ、静かな空間に、ゆったりと時が流れていく。

窓から入り込む湿気まじりの風、夏の初めの匂い。

各々が本のページを捲る、パラリという音。

なんとなく読み進めてはいるものの、文体が難しいせいか、私はなかなか本の世界に入れないでいた。そもそも、読書はそこまで好きな方ではない。恋すらしたことがないのに初恋ものの小説を選んだのも間違いだったのだろう。

どうにも集中できなくて、本をパタリと閉じると、もとの棚に戻した。続いて選んだのは、アメリカの古典文学。

だけどこの本にもまったく集中できなくて、すぐにもとに戻した。

そのとき、書架の一番下に、薄い冊子がズラリと並んでいるのを見つける。

この間見た、毎年文化祭に合わせて製作してるという、文芸部の冊子だ。

無意識のうちに、手が紫色の去年の冊子に伸びていた。パラパラと捲り、一番最後のページに辿り着く。

それだけ制作者の名前もタイトルもない、不思議な詩。

ロシアの純文学やアメリカの古典文学みたいに有名じゃない。だけど名もない生徒が書いたその一編の詩は、今まで読んだ何よりも、私の心を捉えて離さなかった。

 僕が涙を流すのは、君のためだけ
 僕のすべては、君のためだけ
 閉ざされたこの世界で、僕は今日も君だけを想う

なんて真っすぐで、ひたむきで、美しい詩だろう。

何が、この人にこれを書かせたのだろう。

ほんの数行のその詩に改めて熱中していると、「あ」と隣から声がした。見ると、田辺くんが、私が手にしている冊子を覗き込んでうれしそうな顔をしている。

「どうかした?」

すると田辺くんが、詩を指差し、からかい口調で言った。

「それ、小瀬川先輩が書いたんですよ。イメージに合わないですよね」

――え?

驚いて窓辺にいる小瀬川くんに目をやると、凄んだ顔の彼と目が合う。彼の方でも、私たちの会話を耳にしていたようだ。

ガタッとパイプ椅子を引いて立ち上がると、小瀬川くんはものすごい勢いでこちらへと歩んでくる。そして私の手から、奪うように冊子を取り上げた。

「ちょっ……!」

何するの、と言いかけて、思わず固まってしまう。

冊子を持った手を隠すように背中にやっている小瀬川くんの顔が、見たこともないほど赤くなっていたからだ。

普段はあんなクールな小瀬川くんでも、こんな顔をするんだと驚いた。

「ごめん……」

きっと、ものすごく知られたくないことだったのだろう。小瀬川くんの態度からそれを察知した私は、小さく謝る。

隣にいた田辺くんも、目を剥いていた。彼にしろ、小瀬川くんがこんな行動をとるとは、予想できなかったみたい。

すると小瀬川くんが、ハッとしたように私に視線を戻した。

「俺こそ、ごめん……」

後ろ手に持った冊子を、前に持って来る小瀬川くん。それから彼はしゃがみ込むと、冊子をもとあった場所に戻そうとした。

水色のワイシャツの、小瀬川くんのその背中は、全力で私を拒絶している気がした。

いつも以上に、境界線を引かれている雰囲気だ。

私にあの詩の作者が小瀬川くんだと教えてくれた田辺くんも、怯えた顔で彼を見ているほどに。

だけど、初めて読んだときからあの詩がずっと頭に残っていたことや、ツルゲーネフよりもゴールズワージーよりもよほど心を
打たれたことを、どうしても小瀬川くんに伝えないといけない気がした。

病院の前で、呼吸困難になったとき。

文化祭の実行委員を決めたとき。

同じクラスになって二ヶ月ほどで、そんなに話したこともないのに、嫌になるくらい私の気持ちに気づいてくれた彼に。さりげなく、他の誰よりも寄り添ってくれる彼に。素直な気持ちを、伝えなくちゃと思った。

「――その詩、すごく好きだよ」

ポツンと言葉を吐き出し、視線を上げる。

間近で、驚いたような顔をしている小瀬川くんと目が合った。

「初めて読んだときから、すごく好きだと思った。よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの」

悲しくて幸せ。

言葉にするのは難しかったけど、それがぴったりな表現だと思った。

こんな気持ちになったのは久しぶりだった。

お父さんが亡くなってから、ずっとそう。ドラマを見ても映画を見ても、面白いとは思っても、何も響かない。心をすり抜け、
あとには空虚な気持ちが残りだけ。

だけどこの詩は、私の心をぶわっと震わせてくれる。

悲しくて――そして幸せな気持ちにさせてくれる。

ありがとう、って伝えたかったけど、さすがに大袈裟な気がして、代わりに笑ってみた。

ものすごく久しぶりに、笑った気がする。

凍ったように私の顔をまじまじと見ていた小瀬川くんだけど、私が笑った途端にフッと下を向いた。

不快な気持ちにさせたかなって、胸がチクリと痛んだ。

だけど小瀬川くんは、またすぐに顔を上げる。

私の顔の斜め下を見ている小瀬川くんの瞳は、よく見ると髪の色と同じく茶色がかっている。

とても深い目の色だと思った。

陰のある彼のイメージそのまんまに、混沌としていて、迂闊には入り込めないなにかを感じる。

「小瀬川くん……?」

返事がないから、不安になって、彼の名前を呼ぶ。

すると小瀬川くんが、「はると……」と小さな声で、呟いた。

「……え?」

あまりにもボソボソした声だったから、聴き間違いかと思って聞き返すと、小瀬川くんはひとつ瞬きをして、今度は真っすぐに私を見つめて言った。

「桜(はる)人(と)って呼んで。俺のこと」

びっくりして、喉から変な音が出そうになる。

だけど驚きは、やがて温かな熱を伴って、じわじわと胸に広がった。

同じクラスなのに、いつも私を助けてくれるのに、どういうわけか私に境界線を引こうとしている彼が、突然近くに歩み寄ってくれたような気持ちになれたんだ。

「……うん」

自然と笑みが零れていた。

「分かった。桜人って呼ぶ」

素直な気持ちを伝えたことが、功を奏したのかもしれない。

正直な言葉は、ときに人を動かすことができるんだ。

「……コホンッ!」

そこで、隣からわざとらしい咳ばらいが聞こえて、ハッと目を覚ました。

そういえば隣にいた田辺くんが、恥ずかしそうにうつむいている。

「こっちが恥ずかしくなるから、そういうの、ふたりだけのときにやってくださいよ」

「は? そんなんじゃねーし……!」

小瀬川くんも、思い出したかのように真っ赤になって、私から離れていった。

川島先輩だけは、どこ吹く風といった感じで、先ほどと変わらず読書を続けている。

「……じゃあ、俺、用事あるんでもう帰ります」

小瀬川くんは部室の隅に置いていた黒のスクールバッグを肩にかけると、逃げるようにドアに向かう。

「先輩、また来るの、楽しみしてますから」

「気を付けてね」

田辺くんと川島部長が、口々に小瀬川くんの背中に声を掛けた。

――バイトかな。

そう思いながら、小瀬川くんを見つめていると、横を向いた彼と目が合った。

だけど小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らし、文芸部の部室から出て行った。
***

およそ一年前から、俺の世界は混沌としている。

まるで深海のように、すべてに靄がかかっていて、暗くて、何を見ても、何をしていてもすべてがどんよりとしている。その濁った空気の中を、俺はただ、息を殺して生きるだけ。

だけど。

『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの』

ようやく今日彼女の笑顔が見れたとき、一瞬だけ、世界が淡い光をまとったかのように光り輝いて見えた。


『K大付属病院前』

いつものバス停で降りて、バイト先に向かう。

更衣室でグレーストライプのシャツに着替え、黒のロングエプロンを腰に着けた。

ロッカーの鏡に映る俺は、バイト仲間が言うように、言われなければ高校生には見えない。

どこの大学?と客からもよく聞かれる。

まあ、老けてて当然といえば当然なんだけど。

だけど、その方が好都合だった。

青臭さがあったら、高一でバイトの面接に受からなかったかもしれないから。年齢のわりに落ち着いてたから採用したって、店長も言ってたし。

アメリカ発祥の『デニスカフェ』は、コーヒーなどのドリンクの他に、サンドウィッチやパスタなどの食事メニューも充実していた。ケーキやパフェなどのスイーツメニューも豊富だ。

『デニスカフェ』のバイトは、レジと厨房に分かれる。レジは客からオーダーを取り、ドリンクを用意し、調理の必要があるメニューは厨房に声をかける。厨房は調理をしたり、備品を補充したり、できたメニューを客席まで運んだりする。

レジ横で今日の担当を確認すれば、厨房だった。

「お疲れさまです」

「お、小瀬川くん、お疲れ」

厨房に入り挨拶をすると、店長が笑顔で答えてくれた。アラサーの店長は、髭がダンディーなイケメンだ。声も渋くて、店長目当てに店に通う女性客も多いと聞く。

前のシフトのパートさんと交代し、仕事に入った。

仕事のときは、笑顔を心がけてる。同じ学校のやつが見たら、気色悪いと思われそうなほどの愛想の良さだ。学校から遠いところをバイト先に選んで、つくづく正解だと思う。

ここをバイト先に選んだ理由は、本当はもっと別のところにあるのだけど。

六時を過ぎたばかりのこの時間、学校や仕事帰りの客で、店内は混雑する。目まぐるしく働き、ようやく客足が途絶えた頃には、二十一時を過ぎていた。

今日のシフトは、二十二時まで。営業は深夜一時までだから、本当はもう少し働きたいけど、ぎりぎり十八歳になっていない俺は二十二時までしか働いてはいけない。

ひと息つきつつ、今しがた帰った客が座っていた窓辺の席を片付けに向かった。まるで嵐が去った後の静けさのように、今の店内には客ひとりいない。だけど、またすぐに新規の客が来るのも時間の問題だ。

ふと顔を上げれば、窓ガラスの向こうに、闇に染まる歩道が見えた。

アスファルトに突っ伏していた彼女を発見したときの緊張を思い出し、反射的に目を凝らして見たけど、そこに彼女はいなかった。

考えてみれば、今日は部活に来てたし、病院に行く予定はないはずだ。

こんなところにいるわけがない。

『……小瀬川くんには、わからないよ――普通でいられなくなる気持ちなんて……』

闇を見ていると、あのときの彼女の声が耳に蘇り、俺の胸を締め付ける。

彼女を“普通”に縛り付ける理由を、俺は知ってるから。

罪悪感と切なさと苦しさで、気づけば彼女に手を差し伸べていた。

関わってはいけないことは分かっているけど、つらそうな彼女を見ていたら、行動せずにはいられなかったんだ。

「いや~、小瀬川くん。ピーク超えたみたいだね」

ふいに、横から声がした。隣のテーブルでナプキンを補充している店長の声だった。

「そうっすね」と俺は愛想笑いを浮かべる。

「最近、客増えたと思わない? 小瀬川くん目当てかな」

「いやいや、店長目当てですよ」

ハハ、と笑って軽口を受け流すと、店長は「そんなことないって!」と謙遜した。

こういった店長とのどうでもいい会話は、正直めんどくさい。

「そういえば、小瀬川くんって彼女いないの?」

客もいないし、店長の雑談はまだ続くようだ。

「いないです」
「モテそうなのに、もったいない」
「俺、ネクラなんで。学校でも浮いてるし」
「本当に? 誰とでも仲良くなれそうなのに、想像つかない」

大袈裟に眉根を寄せる店長に、誤魔化し笑いを向ける。

ああ、もう。本当にめんどくせえ。

「彼女とか、欲しいって思ったことないんで」
「ええっ! 大丈夫? 無理してる? 思春期青年のセリフじゃないでしょ」
「本心ですよ」

ちょうどそのとき、客が来店した。

「いらっしゃいませ」

とたんに店長は仕事モードに切り替わり、俺から離れレジに向かった。

イケメンの店長の出迎えに、若い女性のふたり連れは頬を紅潮させている。

ぼんやりとその様子を目で追っているうちに、まるでフラッシュバックのように、今日の部室での出来事が脳裏に蘇った。

『桜人って呼んで』

どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、今更ながら羞恥心が込み上げる。

彼女に、俺の書いた詩が好きだと言われた瞬間、気づけばそう口走っていたんだ。

羞恥心を押し殺していると、もう一度、今日見た彼女の笑顔が頭に浮かんだ。

無理をしている彼女の笑顔はつらい。胸がズタズタになって、見ていられなくなる。

だけど素の彼女の笑顔は、すごくキレイだ。

彼女は本来、ああいう笑い方をする子だった。


少しだけ……ほんの少しだけなら、許されるだろうか。

あの笑顔を取り戻すために、この混沌とした世界から、わずかながらも手を延ばすことを。
六月の中頃、光がまた入院になった。

学校に復帰して、それほど間もないうちの、再入院だった。

光は、よほどショックだったのだろう。

再入院してから、以前にも増して、口をきいてくれなくなった。


放課後、K大付属病院前でバスを降りる。

バスを乗る前までは、ぎりぎり曇りだったのに、その頃にはザーザーと滝のような雨が降っていた。

傘を差し、病院のエントランスに向かって歩く私の足取りは重い。

心を閉ざしている光を見るのはつらかった。

だけど私は、こうやって、定期的にお見舞いに行くことしかしてあげられない。

お母さんは相変わらず忙しくて、ろくにお見舞いにもいけない様子だから、光はまた私に八つ当たりしてくるだろう。それを考えると、どうしても気が重くなる。

小児病棟の二階、今回の光の部屋は、前回のふたつ隣だった。

入り口で“水田光”の名前を確認して、中に入る。雨のせいで、病室内は薄暗く、どんよりとした空気が漂っていた。

今回は三人部屋で、光以外のベッドは空いてるみたい。だから事実上、個室のようなものだ。それにも関わらず、光のベッドには、隅から隅まできっちりカーテンが引かれていた。

カーテンの前で息を整え、できるだけ明るい声をだす。

「光、来たよ。具合はどう?」

「……姉ちゃん」

答えにはなってないけど、意外にも返事はすぐにあった。拍子抜けした気持ちになりながらも、カーテンの隙間から中を覗けば、光はベッドの上に座り込み、スケッチブックに向かって色鉛筆を走らせていた。

「……絵、描いてるの?」

「うん、そう」

光は、幼い頃から絵を描くのが好きだった。好きこそものの上手なれの言葉通り、私なんかよりはるかに上手で、夏休みの絵画コンクールには毎年のように入選している。

だけど一年くらい前から、光は絵を描かなくなった。度重なる入院によるストレスが原因なのには、勘づいていた。

絵を描いている姿を見るのは、久しぶりのことで、急な心境の変化に驚かされる。同時に、とてもうれしくなった。だけど大袈裟に喜んだり褒めたりしたら、光はまた反抗的になるかもしれない。そう思って、あえて感情を押し殺す。

棚に入っていた洗濯物をまとめ、持参したパジャマと交換する。さりげなく光の様子を見ると、とても顔色がよかった。こんなに真剣な、生き生きとした目の光を見るのは、本当に久しぶりだ。

光が色とりどりの色鉛筆をとっかえひっかえ使い、懸命に描いているのは、燦燦と光り輝く太陽に向かってみずみずしい枝葉を広げる木の絵だった。

「この木、そこの窓から見えるんだ」

私の視線に気づいた光が、鉛筆を持つ手を止めて窓を指し示す。

あいにくの雨で視界は悪く、入院棟の中庭に植わった木らしきシルエットはぼんやり見えるものの、はっきりとはしない。

「木? でも、今は見えないけど……」

「覚えてるから、大丈夫」

構わず、光は手を動かし続ける。

「さっちゃんが来てくれたとき、一緒にじっくり見たんだ。だから、はっきり覚えてる」

「さっちゃん?」

首を傾げると、光は丸い目をこちらに向け、そして恥ずかしそうにうつむいた。

「……友達」

光の照れたような、でも子供らしいうれしそうな顔を見て、確信した。

友達ができたんだ。おそらく、同じように小児病棟に入院している子だろう。

どうやらその“さっちゃん”が、光をこんなにも前向きに変えてくれたらしい。

――好きなのかな。

直感でそう思った。

「そっか。友達できたんだ」

「うん。さっちゃんに、今度僕が描いた絵を見せてあげるって約束した」

「ふうん、そっか」

ニヤニヤをどうにか抑え込んで、あくまでも平生を装う。だけど心の中は、いつになく浮ついていた。光のお見舞いに来て、こんな幸せな気持ちになれるなんて思わなかった。

光を変えてくれたさっちゃんに、心から感謝したい。

恋の力ってすばらしい。
小瀬川くん――桜人が文芸部だって知ってから、短時間でも、毎日放課後に文芸部に行くようになった。

彼のことを、知りたいと思ったからだ。

光と違って、恋とか、そういうのじゃない。

いつも私の心を暴く彼。

高校に入ってから、イメージが変わったらしい彼。

人の心を揺さぶる詩が書ける彼。

そういった全てが、興味深かった。

桜人は、二日に一回ぐらい文芸部に顔を出した。

前からそれぐらいのペースで部活に来ていたのかと思ったけど、田辺くんが言うには「先輩、最近よく来ますね」とのことなので、そうでもないみたい。

ある日文芸部に行くと、珍しく川島部長も田辺くんもいなかった。

窓辺のいつものパイプ椅子で、桜人がひとり本を読んでいるだけだ。

お昼ご飯を部室で食べていたときぶりの、ふたりきり。

なんとなく緊張してしまって、長テーブルにバッグを置きながら言葉を探す。

「部長と田辺くん、来てないね」

「ああ」

「今日、バイトあるの?」

「六時から。ここで、少し時間潰してから行く予定」

「ふうん、そうなんだ」

そうだ、私も光のお見舞いにいかないといけなかった。

「じゃあ、私も桜人と一緒に帰る」

そう言うと、桜人が顔を上げ、こちらを凝視した。

ほんの少し動揺した顔をしていて、気のせいか顔が赤い。

「あ……」

言葉が足らずだったことに気づいて、私は慌てた。これじゃあ、ただただ桜人と一緒に帰りたがっているだけみたいじゃないか。

それから、本人に言われたとはいえ、初めて彼を下の名前で呼んでしまったことを、今更のように恥じらってしまう。

「K大付属病院に、弟が入院してるの。だから、お見舞いに行かないといけなくて……。ほら、同じ方向だから」

「そっか」

桜人はそう答えると、また下を向いて、黙り込んでしまった。

パラ……、と桜人が本を捲る音が室内に響く。窓からそよぐ風が、彼のモカ色の髪を揺らした。スッと通った鼻梁に、目元に陰を作る長めのまつ毛。同級生より大人っぽい桜人は、こうして見ると、今すぐにでも俳優になれそうなくらい見た目が整っている。

窓辺で本を読む桜人は、まるで映画のワンシーンのようにとてもきれいだ。

先ほどの名残のせいか、彼の首筋がほんのり赤い。

クールで何事にも動じない人だと思っていたけど、桜人は、わりと照れ屋みたい。

彼の知らなかった一面が知れて、気恥ずかしいながらも、うれしい気持ちになる。

そこで、彼が手にしている本の背表紙が目に入った。

――『後拾遺和歌集』

予想外の本のチョイスに、驚きを隠せない。

「それって、和歌の本だよね。和歌、好きなの?」

桜人は本に目を落としたまま、静かに答えた。

「うん、和歌とか俳句とか、子供の頃から好きなんだ」

「へえ……」

「子供の頃は、本ばかり読んでたから」

どことなく寂しげな目をして、桜人が言う。

桜人は、どうやら文学少年だったようだ。

だから文芸部在籍なんだと、今更のように納得してしまった。見た目は、ともすると遊んでいるようにも見えるのに、人って見かけによらないものだ。

でも、そんな彼の意外な一面を、また素敵だなと思った。

「どうして、和歌や俳句が好きなの?」

「……ありったけの想いが、詰まってるところかな。短いからこそ、胸に染みて、なんかいいなって思う。日本語って、芸術だなって思う」

「ふうん……」

かすかに微笑みながら語る桜人を見て、本当に、和歌や俳句が大好きなんだなと感じた。

「好きな和歌って、あるの?」

聞くと、桜人は顔を上げて「こっちに来て」と私を呼ぶ。

窓辺の椅子に座る彼に歩み寄れば、手にした『後拾遺和歌集』を差し出される。頭のすぐ近くに、桜人の柔らかそうな髪の毛の気配がした。

 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
 
指差された文字を、ゆっくりと目で追う。

「これ、知ってる。たしか、百人一首のだよね」

「……そう。百人一首は、いろいろな歌集から歌を集めて編纂されたものだから。この和歌は、もともとこの本に載っていたものなんだ」

「へえ、そうだったんだ……」

桜人の博識ぶりに感心した。

「どういう意味なの?」

「“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”って意味」
淀みなく、桜人は答えた。

その和歌に秘められた壮大な想いに、思わず唸る。

「深い恋の歌なんだね……。死んでもいいという思いを超えて、生きたいと思うようになったほど、好きになったってことでしょ?」

死生観を覆すほどの大恋愛とはどういうものだろう? まだ恋を知らない私には想像もつかない。

「うん、そうだと思う」

「……なんか、すごい」

「うん」

淡白な返事だけど、桜人の声は、いつになく弾んでいる気がした。本当に、この和歌が好きなんだろう。意外な一面が知れた気がして、うれしくなる。

「それに、言葉の響きがとてもきれい」

『日本語って、芸術だなって思う』と言った桜人の気持ちが、少し分かった気がした。

ふと顔を上げれば、思ったより近くに桜人の顔があった。

大人っぽいイメージの彼だけど、近くで見ると、思ったよりも幼く感じる。茶色い瞳が、どことなく不安な色を浮かべていたからかもしれない。きっと、私と同じように、自分について他人に話すことに慣れていないのだろう。

彼を励ますように、そっと微笑みかければ、桜人はまたすぐに下を向いてしまった。

それきり、私たちはほとんど会話を交わさなかった。

互いの気配を感じつつも、それぞれ本に没頭していただけ。

桜人がバイトに行かなければならない時間になり、一緒に部室を出て、廊下を歩み、学校を出てからも、無言のことの方が多かった。

だけど前を行く桜人が、私のペースに合わせて歩く速度を落としているのが分かって、見えにくい優しさに少し心が温かくなった。
気象庁が梅雨入りを発表してからというもの、雨の日が続いていた。

その日私は、話したことのないクラスの女子に呼び出されていた。

浦部さんっていう、きれいに巻いた茶髪ロングの、派手な雰囲気の女の子。

夏葉と同じグループだった子だから、夏葉について言われるのかと身構えたけど、浦部さんは予想外のことを口にする。

「あのさ。文化祭実行委員、変わってくれない?」

「へ……?」

キョトンとしてしまう。

それなら、委員決めのときに、手を上げて立候補すればよかったのに。

腑に落ちない顔をしていると、「小瀬川くん」と浦部さんが囁いた。

「私、小瀬川くんのことが好きなの。だから、話すきっかけが欲しくて」

ストレートすぎる浦部さんの物言いに、ああ、と心の中で納得した。

そういうことか。

「水田さん、やりたくて委員になったわけじゃないでしょ? それにいつもすぐ帰るし、塾とか忙しいんじゃない? 代わった方が水田さんも助かると思うのよね。先生には私から言っておくから」

まるで、もう決まったことだとでも言わんばかりに、巻き髪を揺らして自信たっぷりに言う浦部さん。

たしかに、委員を変わってもらえたら助かる。

光がまた入院になったら、私は放課後長く学校に居残って委員の仕事をすることができなくなるから。――でも。

「……ごめん。代われない」

気づけば、反射的にそう答えていた。

途端に浦部さんは、眉間に皺を寄せる。

「なんで?」

「……もう、決まったことだから」

断固として言い切ると、浦部さんは不機嫌そうな顔で、「そ、ならいい」と私の前から立ち去ってしまった。明らかに、背中が怒っている。

私のために桜人は立候補してくれたのに、ここで交代したら失礼だと思ったんだ。

相方が桜人に決まるなり、委員をやりたいと言いだした浦部さんの都合のよさを、ちょっと不快に思ってしまったのもある。

でも、よく分からないけど、もやもやと胸がくすぶっているのは――それだけが原因じゃない気がした。


七月に入っても、冴えない天気の日々が続いていた。どんよりとした曇り空でも、気温だけは真夏並みに高い。じめじめと湿度の高い教室内は、期末試験も近づいているせいか、うだるようなやる気のなさに満ちていた。

その日、学活で、十月初めにある文化祭のクラスの出し物を決めることになった。

夏休みは、部活や補習なんかで皆忙しく、なかなか時間が作れないだろうと考えてのことらしい。今から動き出した方が安心だからと、先生は言っていた。

「それでは、まずは、出し物を決めたいと思います。やりたいことがある人はいますか?」

人前で話すのは苦手だけど、私は腹をくくることにした。

ドキドキしながら、教卓の前で声を出す。だけど案の定、教室はシーンと静まり返っていて、桜人が黒板にチョークで字を書く音だけが響いていた。

「あの……。なんでもいいので、意見を言ってください」

もう一度言っても、皆こちらを見ていないか、こちらを見ていても、我関せずといった目をしているだけ。

心無いヒソヒソ声や、雑談だけがやたらと耳につく。

「声、小さくね?」

「腹から出せっつうの」

「ていうか小瀬川くんの字、めちゃくちゃキレイなんだけど」

「ねえねえ。そういえば、昨日のあれ見た?」

ふいに、美織と杏の様子が視界に入った。ふたりとも完全に私をシャットアウトしている空気で、そっぽを向いている。それから、凄むような目で私を見ている浦部さんと目が合って――。

「……っ」

どう考えても歓迎されていない空気に、怖気づいてしまった。皆をまとめる委員なんて、やっぱり私には無理だったのかもしれない。微かな息苦しさを覚えていると、隣に気配がした。

黒板に文字を書き終えた桜人が、教室中を見渡している。

やがて桜人が、気持ち語気を強めて言った。

「大丈夫? 増村先生が言うには、決まらなかったら劇やらされるらしいけど。さむいコントみたいな、どう考えてもスベるやつ」

えっ、とクラス中が震撼した。一気にざわつきはじめる。

「やだよ、劇とか。練習きつそうじゃん」
「頑張ったのにスベるとか耐えられない」

決まらなかったら劇をやるなんて、増村先生は一言も言ってなかった気がする。『お前らに全部まかせたぞー』と無責任な言葉を私と桜人に投げかけただけだ。

思うに、これは桜人の策略だ。

驚いて桜人を見たけど、相変わらずいつもの淡々とした顔をしていた。

意外と策士みたい。

「コントみたいな劇が嫌なら、意見言って」

「はい、はい!」

桜人の声かけで、勢いよく、お調子ものの斉木くんが手を上げた。

「タピオカ屋は? タピオカドリンク作ってカフェみたいな感じにしたら、盛り上がると思うんだよね」

「タピオカ屋ね、いいと思う」

桜人の賛同の言葉を聞いて、斉木くんがうれしそうにしている。書いて、と桜人に小声で言われ、チョークを手渡された。私は小さく頷くと、“出し物候補”のうしろに“タピオカ屋”と書く。

「他に意見はある?」

あちこちから、ぽつぽつと手が上がった。

「みんなでダンスとか」
「お化け屋敷」

夏葉も手を上げて、「将棋カフェなんてどうかな?」と恥ずかしそうに発言していた。

先ほどまでのやる気のないクラスとは思えない、変貌っぷりだ。

サクサクと進行を進めていく桜人にも驚かされる。

次々と意見が上がり、話し合いの末、最終候補が三つに絞られた。

「じゃあ、目を瞑って顔伏せて。ひとつだけ、やりたい出し物に手を上げて」

多数決の結果は――お化け屋敷。

すぐに桜人はメモに何やら書き、私に見せて耳打ちしてくる。

「これ、黒板に書いて」

道具係、衣装、お化け役、受付、音響。

「来週の学活では、役割を決めるから。どれがやりたいか、考えといて」

よく通る声で皆に呼びかける桜人。あっという間に、バラバラだったクラスをまとめてしまった。いつもひとりでいる、寡黙な普段の様子からは考えられない。誰もが、桜人の頼りがいのある雰囲気に魅了されていた。

さすが、もと生徒会長。

それに考えてみれば、自分よりもはるかに年上の人たちに紛れて、立派にバイトをこなしてるんだ。このクラスの誰よりも、実はしっかり者なのかもしれない。

「小瀬川くん、めちゃ頼りになるね」
「やばい、かっこいいんだけど」

ヒソヒソと囁かれる声。桜人を見る、皆の期待のこもった眼差し。後ろで板書しかしていない私のことなんて、視界の隅にも入ってなさそうだ。

軽い劣等感を覚えていると、美織と杏の様子が目に映った。

美織はつまらなさそうに窓を見ていて、杏はこそこそと机の下で何かやってる。多分、スマホを操作しているのだろう。桜人の活躍にクラス中がにわかに湧いている中で、ふたりだけが白けた雰囲気を醸し出していた。

そういえば、多数決にも、ふたりは参加していなかった。

そして学活が終わるや否や、申し合わせたように、ふたりそろって教室から出て行く。

「………」

胸が、重苦しくなる。

美織と杏は、私を困らせるために、文化祭実行委員に推薦した。彼女たちが見たかったのは、クラスをまとめることができなくてあたふたする私の様子だったんだと思う。

だから、桜人のおかげでクラスが思いがけず盛り上がって、面白くなかったのだろう。肩を寄せて何かを話しながら廊下へと消えて行く美織と杏を、私は複雑な気持ちで見送った。
翌週、役割が決まり、その週の放課後から、残れる人だけ残って少しずつ作業に入ることになった。

そして、事件が起こる。

美織と杏が、まったく作業に参加しようとしないのだ。

「あいつら、一回も手伝ったことないんだぜ。部活だとか、忙しいとか言って。俺とか、部活で忙しいやつも、時間見つけてなんとかしてるのに。今日やっと残ったと思ったら、さっそくどこかに消えるし」

ある日の放課後、私と桜人に向かって、斉木くんがそんな愚痴をこぼした。

光が先週退院したから、私はどうにか居残ってる。桜人もバイトで忙しいはずだけど、毎日のように残っていた。バイトの時間を調整して、なんとかやりくりしているみたい。

美織と杏に対するクラスメイトの不平不満は、日に日に高まっていた。

この状況に、どうしても責任を感じてしまう。

私ではない女子が文化祭実行委員だったら、ふたりはこんな態度は取らなかっただろうから。

「実行委員からちゃんと言ってくれよ。水田は、あいつらと仲良かっただろ?」

「……うん」

どうにかしないとは思うけど、ふたりを見ると、いまだにすくみ上る自分がいた。

そんな私の様子を察知してか、「もう少し様子を見よう」と桜人が斉木くんに提案する。

途端に、斉木くんは不服そうに唇を尖らせた。

「待ったところで、あいつらが改心する気配ないけどな」

ちょうどそのとき、スマホを見てはしゃぎいだように声をあげながら、美織と杏が教室に戻ってくる。

手には、カフェオレのパックと、コンビニの袋。どうやら、学校前のコンビニに買いに行ってたみたい。

教室で作業をしている面々には目もくれずに、ふたりは教室の隅にあった椅子にドカッと座った。皆が作業をしてるのに、手伝うどころか、カフェオレの紙パック片手におしゃべりに夢中になっている。

「くっそ、あいつら……!」

ふたりの自分勝手な振る舞いを目の当たりにして、『もう少し様子を見よう』と桜人に言われたことを、斉木くんはすっかり忘れてしまったらしい。我慢がならないといった声で唸ると、ドシドシと大股で美織の前まで歩み寄り、大きな声をあげた。

「お前ら、たまにはちゃんとやれよ。みんなやってるだろ?」

美織が、ストローを口にくわえたまま、反抗的な視線を斉木くんに向ける。

「やる気なんてあるわけないじゃない。別に、お化け屋敷なんてしたくないし」

「はあ? 話し合いで決まったことだろ?」

斉木くんが声を荒げると、美織の向かいにいる杏は若干罰が悪そうな顔をしたけど、美織は動じなかった。 

「皆が皆、ちゃんとしてるわけじゃないでしょ? どうして私たちだけ非難されるわけ?現に、皆を取り仕切る実行委員ですら、小瀬川くんが仕切ってるだけで、もうひとりは何もしてないじゃん」

唐突に自分のことを言われて、胸を打つような衝撃を受けた。

“もうひとり”。そんな他人行儀な呼び方をされたことにも、ショックを受ける。

クラス中が、静まり返っていた。

誰も、何も言い返さない。おそらく、美織の言ったことが紛れもない事実だったからだ。

仕切ってるのは小瀬川くんで、私は彼に言われたことをこなしてるだけ。頑張らないとと思っても、どう人をまとめていいのか分からなくて、結局いつも桜人のサポート的な立場に引き下がっている。

「とにかく、実行委員すらちゃんとしてないのに、ちゃんとやれって言われる筋合いないから」

美織は目の前にいる斉木くんをキッと睨むと、背後にいる私に視線を移した。その目は、私を激しく拒絶していた。

冷たくされても、ここまでの露骨な悪意を、彼女から向けられたことはない。喉が塞がれたような息苦しさを覚え、私は立っているのもやっとだった。

やがて美織は、バッグを手に取り、怒った勢いそのままに教室を出て行く。

「美織、待って!」

その背中に、慌てたように杏が声をかける。バッグを掴んだあとで一瞬だけ私と目を合わせた杏は、気まずそうな目をしてすぐに逸らした。

ふたりがいなくなった教室は、しばしの静寂に包まれた。

皆の意識が、私に向いているのが伝わった。

汗ばんだ掌をぎゅっと握る。

「……気にしないでいいよ、真菜。あんなの、言いがかりだよ」

夏葉が励ますように肩に手を置いてくれたけど、私は曖昧に笑い返すことしかできなかった。

「道具係、そういえば買い出しリスト作った?」

桜人が何事もなかったように動き出し、やがて皆も、我に返ったようにそれぞれの作業に戻っていく。その様子を見ているだけで、また心が乾いたようになった。

桜人は、皆をまとめてる。だけど私は、まとめるどころかチームワークを乱している――。

悶々としていると、斜め後ろから視線を感じた。振り返ると、こちらをじっと見ていた浦部さんと目が合う。浦部さんは勝気な
瞳でしばらく私を見たあと、プイッとそらした。それから、同じ衣装担当の子たちに楽しそうに声をかける。浦部さんのいるチームは、和気あいあいとしてうまくいっている様子だ。

私は、どうしようもない劣等感に苛まれていた。
次の日の放課後、各クラスの文化祭実行委員が集う委員会が、視聴覚室であった。

教室までの帰り道、人気のない渡り廊下で、私は思い切って先を歩く桜人を呼び止める。

「あの、話があるんだけど。ちょっといいかな……」

「なに?」と桜人が足を止めて私を振り返る。

言いだしにくい話で、切り出すのを躊躇ってしまう。

だけど桜人は、せかすことなく、ただ静かにじっと、私が口を開くのを待ってくれていた。

「私、文化祭実行委員、辞めようかと思ってるの……」

思い切って、ついに口にした。

すると、桜人の顔が、みる間に凄んでいく。

「は? どういうこと?」

「美織と杏があんな態度なのは、私が実行委員だからでしょ? 美織と杏は、私のことあんまりよく思ってないから……。それに私、実行委員としてあまり役に立ててないし……。浦部さんが実行委員やりたいって言ってたから、代わった方がいいと思うの」

自分で言っておいて、情けなくなる。

だけどもう、私は限界だった。

桜人は凄んだ顔のまま、固まったように私を見ていた。そんな彼を見ていると、なぜか罪悪感が込み上げてきて、下を向く。すると、頭上から低い声がした。

「……ふざけんなよ」

桜人のここまで怒った声を聞くのは初めてで、背筋がぞくっとする。

「逃げるなよ」

「逃げてなんか……」

「逃げてるだろ、こっち向けよ」

怖くて上を向けないでいると、大きな掌が、頬に触れた。

強引に、だけどあくまでも優しく、上を向かされる。間近に、怒りを滲ませた茶色い瞳があった。

「この先も、何かつらいことがあるたびに、お前はそうやって逃げる気か」

なぜか泣いているようにも見える桜人の顔から、目が離せなくなる。

「逃げるなよ。どうしたら前に進めるか考えろ」

桜人にこんな厳しい態度を取られたのは、初めてだ。

「どうしたらって……分かんないから悩んでるんじゃない」

桜人の言ってることは正論だ。だけど、私はそれをスムーズにこなせるほど器用じゃない。

何でもこなせる桜人とは、何もかもが違うんだ。

彼の言い分に、だんだん腹が立ってくる。

「あいつらと、ちゃんと話せよ。お前の考えを、ちゃんとあいつらにぶつけたことがあるか? 自分を偽って接するから、そういうことになるんだ」

桜人のその言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。

たしかに私は、いつも自分を隠して美織と杏と接していた。

母子家庭であることがバレたら、中学校のときのように冷たい態度を取られるんじゃないかと怖くなって、一線を引いていた。

美織と杏は私が隠し事をしていることに気づいて、距離を置くようになったんだと思う。自分を偽ってる人間なんかと、仲良くなれないだろう。

でも――。

やるせない思いが、今にも爆発しそうで、ぐっとこらえる。目尻には、悔し涙が浮かんでいた。

「……だって、自分を偽るしかなかったの」

絞り出した声は、情けないほどに弱々しく震えていた。

「お父さんが亡くなってから、お母さんは土日も仕事してる。弟は病気で、しょっちゅう入院してて、目が離せない。私は家事と弟の世話をしてばかり。こんな暗い、笑えない家庭の事情、バレたら嫌がられるでしょ? だから隠すのに必死だったの」

こんなことを、心のままに、誰かに話したのは初めてだった。

緊張が解けたように、どっと涙が溢れてきて、頬にある桜人の手を流れていく。

桜人は、泣きながら喚く私を、しばらくの間呆けたように見つめていた。

だけど、やがて力ない声を出す。

「そんなことで、別に嫌がったりはしないだろ」

「……中学のとき、そういうことがあったの。それに桜人だって、今戸惑ってるじゃない」

すると、桜人の瞳にまた怒りが戻った。

何かを言いかけたあとで、彼は口を閉ざす。それから、私の頬から手を離した。

「……戸惑ってなんかいない」

静かに、桜人が言った。声が、微かに震えている。それから桜人は息を整えると、落ち着いた声で、ゆっくりと、私を諭すように言った。

「お父さんは、家族のことを想って亡くなった。お母さんは、家族を想って働いてる。弟は、頑張って病気と闘ってる。お前の家族は立派だ、誇りを持てよ」

力強く見つめられながら、私は目を見開いた。そんなふうに、思ったことがなかったからだ。人によってはそんなふうにも見えるのかと、冷水を浴びせられたような気持ちになる。

桜人が、また悲しげに言い放った。

「――自分の家庭環境を卑屈にしてんのは、お前自身だろ?」

桜人のそのひと言が、心の奥まで響いて、繰り返し耳元でこだまする。

――私、自身……?

もしも、家庭環境を知られたら美織と杏に受け入れられない、と私が決めつけていなかったら。美織と杏が、中学のときの友達と同じ態度をとるとは限らない。

もしも、自分を包み隠さず、ありのままの姿で接していたら。

ふたりとの関係に、なにか変化があっただろうか。

私は、桜人の言うように、単に臆病になって逃げていただけなのかもしれない。

涙でボロボロの顔で、ひっくひっくとしゃくり上げながら桜人を見る。

「とにかく、委員を辞めるのは、俺が許さないからな」

桜人は、断ち切るように言うと、私から顔を逸らす。そして、背を向けた。

水色のシャツの背中は、私を振り返ることもなく、上靴の音を響かせながら廊下を進む。やがて夕焼け色に染まるグラウンドに面した渡り廊下の向こうへと、見えなくなってしまった。
次の日、私は朝から、美織と杏と話す機会を伺っていた。

だけど勇気が出ないまま、放課後になってしまう。

クラスメイトと揉めた日以来、まったく放課後の作業に参加しなくなっていた美織と杏は、今日も終わるなり教室を出ようとしていた。その姿を見て、焦りが込み上げる。

ふと、窓辺の席で、バッグを片手に斉木くんと話している桜人が目に入った。

――『逃げるなよ。どうしたら前に進めるか考えろ』

昨日聞いた桜人の声が、耳に蘇る。

――『この先も、何かつらいことがあるたびに、お前はそうやって逃げる気か』

桜人との会話の記憶に後押しされるように、気づけば私は、教室を飛び出していた。

「……待って!」

廊下を走り、その先にいた、美織と杏の背中に向かって声を出す。

立ち止まったふたりは、怪訝そうに私を振り返った。

冷たい視線に、一瞬また怖気づきそうになったけど、どうにか自分自身を奮い立たせる。

このままじゃだめだ。

このままだと、何も変わらない。

私を叱ってくれた桜人にも失礼だ――。

「今まで、ごめんなさい」

意を決して謝ると、不可解な顔でふたりは顔を見合わせた。

「ふたりはいつも、私と仲良くしてくれたのに、うまく喋れなくて……」

「今更なに言ってるの? もう帰りたいんだけど」

しごくだるそうに、美織が言った。

「――うち、母子家庭なの」

今にも私に背を向けそうになってるふたりに、そう告白する。

ふたりは体の動きを止め、表情をますます凍りつかせた。

「お父さんは小学校の頃に亡くなって、うちは貧乏で、お母さんは必死になって働いてる。弟がひとりいるんだけど、身体が弱くて入院を繰り返していて……。私の家、そんな感じなの。そんな家庭環境に引け目を感じてて、知られたら嫌われるんじゃないかって考えたら、うまく喋ることができなくなってた」

大きく、息を吸い込んだ。

『お前の家族は立派だ、誇りを持てよ』と言った桜人の声が、耳を打つ。

誰に、どう思われたっていい。堂々と胸を張って、自分の家庭事情を受け入れていたらよかった。中学のときの友達が悪いわけじゃない。卑屈になってしまったのはすべて、私の弱い心が原因だった。

「ふたりと、本当は仲良くしたかった。それが私の本音。私が気に食わないのは分かるけど、私は文化祭の委員をこれからも続けたい」

もう、逃げたくはないから――。

「だから、少しだけ、クラスに協力して欲しい」

長い、沈黙が訪れた。

廊下の端で立ち止まる私たちの横を、楽しそうに話しながら幾人もの生徒が通り過ぎていく。

「……なに、それ。意味わかんない」

やがて、苛立ったような口調で美織が言った。

「母子家庭だからって、そんなふうに思ってたわけ? 私も中学まで母子家庭だったけど、そんな風に思ったことなんてないんだけど」

驚いて顔を上げると、戸惑ったような顔をしている美織と目が合った。

「今はもう、お母さん再婚してるから、母子家庭じゃないけど……」

バツが悪そうに、美織が言葉を足す。

ひとつ、間をおいて。「ずっと……」と美織が改めて切り出す。

「ずっと、真菜は、私たちと一緒にいることが、しんどいんだろうなって思ってた。仲良くなりたかったけど、真菜は全然心開いてくれなくて、だんだんムカついてきて……」

美織の声が、尻すぼみになっていく。

「私たちこそ、つらい思いをさせてたと思う。わざと話に入れなかったり、無視したり……」

「……うん、ごめんね」

隣で、杏も申し訳なさそうに呟いた。

「それに、委員に推薦したのも意地悪。真菜、みんなを取り仕切るのとか苦手そうだから、困らせたくて。なのに真菜はちゃんとやってて、ますますムカついて、つまらない意地張ったんだ」

思いがけない美織の告白に、私は困惑した。

「でも、小瀬川くんはともかく、私は何もしてないから……」

「表立つことはしてないけど、裏方頑張ってるじゃん。リスト作ったり、みんの希望聞いて紙に書いたり。それでいいんじゃない? 小瀬川くん、ああ見えてみんな引っ張るのうまいし、リーダーは任せて大丈夫だと思う。それに、浦部さんとかめっちゃやる気だし、なんなら私も頑張るし。ていうかずっとやりたかったし、お化け屋敷なんて超楽しそーじゃん」

「あー、美織、ついに言えたね」

杏が、安心したようにクスクス笑ってる。

「そうだったの……?」

放心状態で見つめると、美織は少し顔を赤くした。

「……うん。真菜は、陰で皆を支えればいいと思う。そういうこと、私は出来るタイプじゃないから、逆にすごいって思ってる。できるとこできないとこ、皆で助け合いながら、補っていけばいいんじゃない?」

美織の照れたような笑顔を見ているうちに、目元が潤んで、視界がぼやけていた。

どうして、もっと早く本音で接しなかったんだろうって思って。

美織も杏も、こんなにもいい子だったのに。

桜人に言われなかったら、ふたりとの関係は、私にとって一生つらいものになっていた。

誤魔化すようにわたしは洟をすすると、さりげなく目元の雫を拭う。

美織の目元も潤んでいるように見えるのは、気のせいじゃないだろう。

「……教室に戻ろ」

そう言って微笑むと、ぎこちなくだけど、美織と杏は頷いてくれた。

久しぶりに、三人並んで廊下を歩く。

「ていうか私と杏をお化け役にしたの、真菜? 勝手にお化け役のところに名前があったんだけど」
「違うよ、多数決で決まったの」
「えー何それ。私たち、いったいどういうイメージよ」
「嫌なら変えてもらう?」
「いいって、真菜! 大丈夫! 美織、実はめっちゃやる気なんだから」
「ちょっと杏、そこは秘密にしといてよね」

ふと窓の外を見れば、朝からポツポツと降っていた雨がやんで、晴れ間が広がっていた。

雨上がりの青空は、水気が飛んだみたいに、からりとしていて清々しい。

私たちは、今までの気まずい関係が嘘だったように笑い合いながら、クラスメイトが待つ教室へと戻っていった。