***
およそ一年前から、俺の世界は混沌としている。
まるで深海のように、すべてに靄がかかっていて、暗くて、何を見ても、何をしていてもすべてがどんよりとしている。その濁った空気の中を、俺はただ、息を殺して生きるだけ。
だけど。
『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの』
ようやく今日彼女の笑顔が見れたとき、一瞬だけ、世界が淡い光をまとったかのように光り輝いて見えた。
『K大付属病院前』
いつものバス停で降りて、バイト先に向かう。
更衣室でグレーストライプのシャツに着替え、黒のロングエプロンを腰に着けた。
ロッカーの鏡に映る俺は、バイト仲間が言うように、言われなければ高校生には見えない。
どこの大学?と客からもよく聞かれる。
まあ、老けてて当然といえば当然なんだけど。
だけど、その方が好都合だった。
青臭さがあったら、高一でバイトの面接に受からなかったかもしれないから。年齢のわりに落ち着いてたから採用したって、店長も言ってたし。
アメリカ発祥の『デニスカフェ』は、コーヒーなどのドリンクの他に、サンドウィッチやパスタなどの食事メニューも充実していた。ケーキやパフェなどのスイーツメニューも豊富だ。
『デニスカフェ』のバイトは、レジと厨房に分かれる。レジは客からオーダーを取り、ドリンクを用意し、調理の必要があるメニューは厨房に声をかける。厨房は調理をしたり、備品を補充したり、できたメニューを客席まで運んだりする。
レジ横で今日の担当を確認すれば、厨房だった。
「お疲れさまです」
「お、小瀬川くん、お疲れ」
厨房に入り挨拶をすると、店長が笑顔で答えてくれた。アラサーの店長は、髭がダンディーなイケメンだ。声も渋くて、店長目当てに店に通う女性客も多いと聞く。
前のシフトのパートさんと交代し、仕事に入った。
仕事のときは、笑顔を心がけてる。同じ学校のやつが見たら、気色悪いと思われそうなほどの愛想の良さだ。学校から遠いところをバイト先に選んで、つくづく正解だと思う。
ここをバイト先に選んだ理由は、本当はもっと別のところにあるのだけど。
六時を過ぎたばかりのこの時間、学校や仕事帰りの客で、店内は混雑する。目まぐるしく働き、ようやく客足が途絶えた頃には、二十一時を過ぎていた。
今日のシフトは、二十二時まで。営業は深夜一時までだから、本当はもう少し働きたいけど、ぎりぎり十八歳になっていない俺は二十二時までしか働いてはいけない。
ひと息つきつつ、今しがた帰った客が座っていた窓辺の席を片付けに向かった。まるで嵐が去った後の静けさのように、今の店内には客ひとりいない。だけど、またすぐに新規の客が来るのも時間の問題だ。
ふと顔を上げれば、窓ガラスの向こうに、闇に染まる歩道が見えた。
アスファルトに突っ伏していた彼女を発見したときの緊張を思い出し、反射的に目を凝らして見たけど、そこに彼女はいなかった。
考えてみれば、今日は部活に来てたし、病院に行く予定はないはずだ。
こんなところにいるわけがない。
『……小瀬川くんには、わからないよ――普通でいられなくなる気持ちなんて……』
闇を見ていると、あのときの彼女の声が耳に蘇り、俺の胸を締め付ける。
彼女を“普通”に縛り付ける理由を、俺は知ってるから。
罪悪感と切なさと苦しさで、気づけば彼女に手を差し伸べていた。
関わってはいけないことは分かっているけど、つらそうな彼女を見ていたら、行動せずにはいられなかったんだ。
「いや~、小瀬川くん。ピーク超えたみたいだね」
ふいに、横から声がした。隣のテーブルでナプキンを補充している店長の声だった。
「そうっすね」と俺は愛想笑いを浮かべる。
「最近、客増えたと思わない? 小瀬川くん目当てかな」
「いやいや、店長目当てですよ」
ハハ、と笑って軽口を受け流すと、店長は「そんなことないって!」と謙遜した。
こういった店長とのどうでもいい会話は、正直めんどくさい。
「そういえば、小瀬川くんって彼女いないの?」
客もいないし、店長の雑談はまだ続くようだ。
「いないです」
「モテそうなのに、もったいない」
「俺、ネクラなんで。学校でも浮いてるし」
「本当に? 誰とでも仲良くなれそうなのに、想像つかない」
大袈裟に眉根を寄せる店長に、誤魔化し笑いを向ける。
ああ、もう。本当にめんどくせえ。
「彼女とか、欲しいって思ったことないんで」
「ええっ! 大丈夫? 無理してる? 思春期青年のセリフじゃないでしょ」
「本心ですよ」
ちょうどそのとき、客が来店した。
「いらっしゃいませ」
とたんに店長は仕事モードに切り替わり、俺から離れレジに向かった。
イケメンの店長の出迎えに、若い女性のふたり連れは頬を紅潮させている。
ぼんやりとその様子を目で追っているうちに、まるでフラッシュバックのように、今日の部室での出来事が脳裏に蘇った。
『桜人って呼んで』
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、今更ながら羞恥心が込み上げる。
彼女に、俺の書いた詩が好きだと言われた瞬間、気づけばそう口走っていたんだ。
羞恥心を押し殺していると、もう一度、今日見た彼女の笑顔が頭に浮かんだ。
無理をしている彼女の笑顔はつらい。胸がズタズタになって、見ていられなくなる。
だけど素の彼女の笑顔は、すごくキレイだ。
彼女は本来、ああいう笑い方をする子だった。
少しだけ……ほんの少しだけなら、許されるだろうか。
あの笑顔を取り戻すために、この混沌とした世界から、わずかながらも手を延ばすことを。
およそ一年前から、俺の世界は混沌としている。
まるで深海のように、すべてに靄がかかっていて、暗くて、何を見ても、何をしていてもすべてがどんよりとしている。その濁った空気の中を、俺はただ、息を殺して生きるだけ。
だけど。
『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの』
ようやく今日彼女の笑顔が見れたとき、一瞬だけ、世界が淡い光をまとったかのように光り輝いて見えた。
『K大付属病院前』
いつものバス停で降りて、バイト先に向かう。
更衣室でグレーストライプのシャツに着替え、黒のロングエプロンを腰に着けた。
ロッカーの鏡に映る俺は、バイト仲間が言うように、言われなければ高校生には見えない。
どこの大学?と客からもよく聞かれる。
まあ、老けてて当然といえば当然なんだけど。
だけど、その方が好都合だった。
青臭さがあったら、高一でバイトの面接に受からなかったかもしれないから。年齢のわりに落ち着いてたから採用したって、店長も言ってたし。
アメリカ発祥の『デニスカフェ』は、コーヒーなどのドリンクの他に、サンドウィッチやパスタなどの食事メニューも充実していた。ケーキやパフェなどのスイーツメニューも豊富だ。
『デニスカフェ』のバイトは、レジと厨房に分かれる。レジは客からオーダーを取り、ドリンクを用意し、調理の必要があるメニューは厨房に声をかける。厨房は調理をしたり、備品を補充したり、できたメニューを客席まで運んだりする。
レジ横で今日の担当を確認すれば、厨房だった。
「お疲れさまです」
「お、小瀬川くん、お疲れ」
厨房に入り挨拶をすると、店長が笑顔で答えてくれた。アラサーの店長は、髭がダンディーなイケメンだ。声も渋くて、店長目当てに店に通う女性客も多いと聞く。
前のシフトのパートさんと交代し、仕事に入った。
仕事のときは、笑顔を心がけてる。同じ学校のやつが見たら、気色悪いと思われそうなほどの愛想の良さだ。学校から遠いところをバイト先に選んで、つくづく正解だと思う。
ここをバイト先に選んだ理由は、本当はもっと別のところにあるのだけど。
六時を過ぎたばかりのこの時間、学校や仕事帰りの客で、店内は混雑する。目まぐるしく働き、ようやく客足が途絶えた頃には、二十一時を過ぎていた。
今日のシフトは、二十二時まで。営業は深夜一時までだから、本当はもう少し働きたいけど、ぎりぎり十八歳になっていない俺は二十二時までしか働いてはいけない。
ひと息つきつつ、今しがた帰った客が座っていた窓辺の席を片付けに向かった。まるで嵐が去った後の静けさのように、今の店内には客ひとりいない。だけど、またすぐに新規の客が来るのも時間の問題だ。
ふと顔を上げれば、窓ガラスの向こうに、闇に染まる歩道が見えた。
アスファルトに突っ伏していた彼女を発見したときの緊張を思い出し、反射的に目を凝らして見たけど、そこに彼女はいなかった。
考えてみれば、今日は部活に来てたし、病院に行く予定はないはずだ。
こんなところにいるわけがない。
『……小瀬川くんには、わからないよ――普通でいられなくなる気持ちなんて……』
闇を見ていると、あのときの彼女の声が耳に蘇り、俺の胸を締め付ける。
彼女を“普通”に縛り付ける理由を、俺は知ってるから。
罪悪感と切なさと苦しさで、気づけば彼女に手を差し伸べていた。
関わってはいけないことは分かっているけど、つらそうな彼女を見ていたら、行動せずにはいられなかったんだ。
「いや~、小瀬川くん。ピーク超えたみたいだね」
ふいに、横から声がした。隣のテーブルでナプキンを補充している店長の声だった。
「そうっすね」と俺は愛想笑いを浮かべる。
「最近、客増えたと思わない? 小瀬川くん目当てかな」
「いやいや、店長目当てですよ」
ハハ、と笑って軽口を受け流すと、店長は「そんなことないって!」と謙遜した。
こういった店長とのどうでもいい会話は、正直めんどくさい。
「そういえば、小瀬川くんって彼女いないの?」
客もいないし、店長の雑談はまだ続くようだ。
「いないです」
「モテそうなのに、もったいない」
「俺、ネクラなんで。学校でも浮いてるし」
「本当に? 誰とでも仲良くなれそうなのに、想像つかない」
大袈裟に眉根を寄せる店長に、誤魔化し笑いを向ける。
ああ、もう。本当にめんどくせえ。
「彼女とか、欲しいって思ったことないんで」
「ええっ! 大丈夫? 無理してる? 思春期青年のセリフじゃないでしょ」
「本心ですよ」
ちょうどそのとき、客が来店した。
「いらっしゃいませ」
とたんに店長は仕事モードに切り替わり、俺から離れレジに向かった。
イケメンの店長の出迎えに、若い女性のふたり連れは頬を紅潮させている。
ぼんやりとその様子を目で追っているうちに、まるでフラッシュバックのように、今日の部室での出来事が脳裏に蘇った。
『桜人って呼んで』
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、今更ながら羞恥心が込み上げる。
彼女に、俺の書いた詩が好きだと言われた瞬間、気づけばそう口走っていたんだ。
羞恥心を押し殺していると、もう一度、今日見た彼女の笑顔が頭に浮かんだ。
無理をしている彼女の笑顔はつらい。胸がズタズタになって、見ていられなくなる。
だけど素の彼女の笑顔は、すごくキレイだ。
彼女は本来、ああいう笑い方をする子だった。
少しだけ……ほんの少しだけなら、許されるだろうか。
あの笑顔を取り戻すために、この混沌とした世界から、わずかながらも手を延ばすことを。