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更衣室で着替えながら若菜が「あーむかつく!」と声を上げた。
先ほど先輩に言われたことが相当頭にきているらしい。

「つーか、杏里のことうけるとか先輩マジで最悪じゃない?」
「そーそー、杏里が部長やったらダメなのかって感じ! ひどくない?」

いつのまにかあたしが部長をやる流れになっていて、顔がひくつく。やりたいなんて一度も言っていないのに、どうしてそんな話になってしまっているのだろう。


「でもあたし、部長なんて絶対務まらないからさー」
笑って言うと、ほんの一瞬空気が固まった。そしてすぐに若奈が私の肩を叩く。


「杏里が部長だったら、みんな手伝うって。だから心配しなくてもいいよ」
若菜は基本的に目立ちたがり家だ。この間までは部長の座と狙っていたはずなのに、やめたのは恐らく今の部長の仕事内容をきいたからなのだと思う。

だからきっと自分は副部長の座を狙っているのだろう。
そして桑野先生と連絡をとったり、面倒な雑務を部長に押し付けて、自分は部活の指示を出すつもりなのだ。

胃がきりきりと痛む。嫌だ。昔からまとめ役とかはできないタイプだった。明るいとか元気とか言われることは多かったけれど、人前に立つと急に緊張してうまく言葉が出てこなくなる。


中学生の頃に体育祭のリーダーをやらされたときに、マイクを片手に黙り込んでしまいざわついたことが未だに記憶に色濃く残っていた。


「そうだよ、杏里! 私らも協力するから心配しないで!」

周りの部員たちは笑顔の仮面をつけていて、恐怖が全身を飲み込んでいく。
誰も助けてくれない。みんな笑顔なのに、冷たい視線を向けられているような気がしてしまう。


いつか見た朝葉のような曖昧な笑みを浮かべることしか、私にはできなかった。

「杏里は元気キャラだからいけるって! 桑野もそういう子好きじゃん?」

——元気キャラ。
その言葉にひやりとした。

「キャラって、作ってるみたいじゃん。あはは」
「作ってるって言いたいわけじゃないってー! たださ、杏里って元気オーラあるじゃん?」
「まあ、言いたいことわかるけど〜!」

みんなが笑いながら私の話をする。
笑わなくちゃ。私もなにそれって言いながら、キャラじゃないしって突っ込みたいのに、言葉が出てこない。

だって本当にそうだから。

人前で〝あたし〟って言うのは、小学生の頃に身につけた私なりの自己防衛。
元気で明るくて、無害。そういう漫画のキャラに寄せて、女の子たちのグループの中で生き抜いてきた。

じゃないとすぐに標的にされてしまう。

——杏里ちゃんって、男子と仲良いよね。
たまたま近所に男子が数名住んでいて、小学生の頃から一緒にサッカーやバスケなどのスポーツを男子たちに混ざってやっていた。

低学年までは、私も髪の毛が短くて男っぽかったから指摘はされなかったけれど、四年生になったあたりから、性別で分けられるようになった。

『杏里ちゃん、あんまり男子たちと一緒にいない方がいいよ。裏で言われてるから。〝男好き〟って』

だんだんと周りの女の子たちから冷めた目で見られるようになって、焦りを覚えた私はお姉ちゃんが持っていた漫画からヒントを得た。

私みたいに髪が短くて、運動好き。そんなキャラクターの子が、女の子扱いをあまりされず男女両方と仲良くしている。

『あたし……あたしは』
そのキャラクターの真似をするように一人称を変えていく。
女の子たちから嫉妬を向けられないために、ちょっとがさつで女子として見られにくいキャラになろうと必死だった。

そうしていくうちに、私はみんなからいじられたり可愛がられたりするような立ち位置になった。
女の子たちは、私と仲がいい男子と親しくなる口実に近づいてくる。

利用されているとわかっても、私はそれでもよかった。

誰からも敵意を向けられない平穏。それがなによりも大事だったのだ。


だから高校生になって、私が作ったキャラをこうして指摘されて、血の気が引いていく。

でも動揺したら変に思われてしまう。
大丈夫、落ち着いて。いつもみたいに笑わなくちゃ。

そしたら心も後からきっとついてくるから。


「てか、杏里って悩み事とかあるの?」
「なにそれ酷すぎ」
「いや悪い意味じゃないって、ただそういうイメージなくってさ〜」

笑え笑え、笑え。大丈夫。この場を乗り過ごせればそれでいい。


「杏里、今日着替えるの遅くない?」
「私らトイレ行ってていいー?」
話が切り替わって、ほっと胸を撫で下ろす。

「いいよー!」
早く行ってほしい。もう笑顔を保っているのが辛い。
みんなが次々と出て行ったのを見送って息を吐くと、すぐに更衣室のドアが開いた。


俯いていた顔を慌ててあげると、そこに立っているのは常磐先輩だった。
他の先輩たちよりも、まだ常磐先輩ならマシだ。周りをよく見てくれている人で、いつだって優しい。


「ああ……そういうこと」

呟いた常磐先輩は、無表情のまま私の横を通り過ぎていく。


「ねえ、杏里ちゃん。働きアリの法則って知ってる?」
「え?」

突然よくわからない話題を振られて、着替える手を止める。
脈絡もなく言われても、全くなんのことだかわからない。


「よく働いているアリが二割、時々サボるけれど普通に働いているアリが六割、サボっているアリは二割なんだって」
「あの……?」
「だけどね、よく働いているアリを間引くと、残ったアリたちの中からよく働くアリが生まれるの」

私が戸惑っていてもお構いなしに、常磐先輩が話を続けていく。
こんな先輩は初めて見た気がして、少し胸の奥がざわついた。


「私たちのバスケ部も、よく働いてくれていた子が抜けたら、次の働く子が生まれるんだなって思って」

そして、ゆっくりと形のいい唇が動き、声のトーンが僅かに下がる。


「それって、まるで生贄みたいだと思わない?」

言葉が喉元に引っかかって、うまく出てこなかった。

〝生贄〟その言葉は、私の中でしっくりときてしまって、そして今まさに自分がそれになっているのだと、痛感する。


「ごめんね。気を悪くした?」
「……え、っと」
「今までいた生贄がいなくなっちゃったから、これからが大変だね」

人ごとのように話す常磐先輩の眼差しは酷く冷めていて、今までの温厚な姿が嘘のようだった。


「あ、責めているわけじゃないの。グループ内での役割ってあるもの」
「やく、わり……」

それならきっと女子バスケ部の二年は、まとめ役ではなく〝押し付け役〟が必要なのだ。

やりたくないことを押し付けて、裏で好き放題に陰口を叩く。そして〝褒める役〟〝同調する役〟も同時に必要だった。


今まで私は〝褒める役〟と〝同調する役〟でみんなの機嫌取りをしていたのだ。

「すごいね」「さすがだね」「あたしにはできないよ」とみんなを持ち上げて、自尊心を満たす役割だった。だけど〝押し付け役〟に欠員が出たから、私がそちらに回されるのだ。


「大丈夫よ。だって杏里ちゃんは今までうまくやってきたじゃない」
「ぁ……え、っと」
言葉が詰まる私を見て、常磐先輩は少し迷った様子で口を開く。

「……本当はこんなこと言う資格ないけど」
「え?」
「——見失わないようにね」

いったいなにを?
けれどそれを聞く前に、常磐先輩は着替え終わって更衣室から出て行ってしまう。


……生贄。
私今まで、朝葉のことをそんなふうに扱ってた。自分じゃなくてよかったって心の中で思っていた。
友達、だったのに。苦しんでいるのを、無理しているのを、気づかないふりをし続けていた。


私はその場にしゃがみこんで、自分の体を両手で抱きしめる。

怖い。これから私はどうなってしまうのだろう。
みんなに、どう扱われるのか想像するだけで、腹部に不快感の塊のようなものが浮遊する。


『杏里は馬鹿なんかじゃないよ』

——そうだ。
あの日『杏里はさ、要領が悪くて得してるよね。ちょっとお馬鹿で抜けてるのが愛嬌っていうかさー』そう言われた後に、帰り道で優しく慰めてくれた。


〝大好き!〟そう私が言うと、彼女も同じように返してくれる。


『私も、杏里のこと大好き』

私を唯一馬鹿にしなかったのは、一番傷つけて犠牲にした朝葉だった。
好きだった気持ちは嘘じゃないのに。いつからか下に見て、都合のよく押し付けて、自分に被害がないことに安堵していた。


涙がこみ上げて、嗚咽を漏らしながら下唇を噛み締める。


どうしていつも私は、考えが足りていなくて間違えてばかりなんだろう。

保身ばかりで、自分の言動で誰かを傷つけて苦しめていることをきちんと考えられなかった。


なにもかもが今更遅くて、この場所から抜け出す方法がわからない。


————そして再び涙が頬に伝ったとき、なにがかが壊れるような音がした。