放課後になると「あちー」と口々に溢しながらも人は廊下に溢れ、階段へと流れた。昇降口に一番近い階段をつかう者は多く、下の階の者たちも合流する者だから流れは気が遠くなるほどゆっくりだ。窓はあるけれど閉め切っているせいで熱がこもっていた。

「帰りアイス食べようぜ」
「……え、あぁ、アイスな」

 山本の誘いに対する反応が遅れたのは暑さのせいもあるけれど、一番の原因は榎本蛍だった。放課後、美術室で待っているから──榎本蛍の声が頭から離れなかった。
 先ほどまで一人でペラペラと話し続けていた山本が不自然に言葉を止めた。何だと隣を見れば、山本はじっとこちらを見ていた。

「潮、何かあった?」
「何かって何」
「上の空じゃん」

 女好きだし、頭の悪そうな妙に間延びした喋り方をするけれど、馬鹿ではないのだった。何もないと返そうと思ったけれど、気がそぞろになっていたのも事実な為、「べつに」と否定するにしては弱々しい言葉を返した。これでは肯定しているも同然だ。

「忘れ物でもした? 取りいく?」

 帰宅しようとする集団の流れに逆らって歩くなど考えるだけで疲れる。気付けば顔を顰めていた。
 決して美術室に来いと言われた訳ではない。命令でも約束でもない、あれはただの宣言だ。俺が何かをする義理はない。

「別に何も忘れてねぇよ。暑くてぼぅっとしてただけ」
「そう?」

 納得はしていない様子だったが、「アイスどこ買いに行く?」と話題を持ち掛ければ、「駅前のとこ! 新作出てた」とすぐに食いついてきた。山本の関心はすでに新作アイスに向けられているらしく、駅前のコンビニにはどっかのメーカーとコラボしたアイスが売られているとか、コンビニのオリジナルブランドのアイスに新作が出たとか、あまり役に立ちそうにない情報を得意げに語っていた。
 校舎を出てからも、アイスを食べている間も、自宅のベッドに寝転んでからも頭の中には榎本蛍の声がする。思考から追い出そうとすればするほど、頭の中で存在を大きくして占領した。
 クーラーが壊れた美術室はさながらサウナのようだ。待っているはずがない。木陰の方がよほど風があって過ごしやすい。あのような蒸し蒸しとした空間では一時間過ごすのが限界だ。
 ベッドに横たわったままスマホの画面を見る。あれから二時間経過している。もし約束通りに美術室に足を運んでいたとしても、二時間も経てばどれほど鈍いやつでも約束をすっぽかされたことに気付くはずだし、どれほど諦めが悪いやつでも諦めるはずだ。
 でももし本当に待っていたならば──
 舌打ちをしてベッドから跳ね起きた。いつまでも頭の中を占領されるのも腹立たしい。気がかりでならないのならば、榎本蛍が美術室に居ないことをさっさと確認してしまえば良い。そして、やっぱり居ないじゃないかと鼻で笑ってやれば気が晴れるはずだ。

「どこ行くの?」
「学校! 忘れ物!」

 母親とはなぜこうも喧しいのだろうか。リビングから張り上げた声で行き先を尋ねてきた母親と同じように声を張り上げた。
 ローファーのつま先を地面に打ち付けるようにして踵まで入れると、そのまま家を出た。
 校舎に残っているのは部活動に勤しむやつらばかりだった。校舎に向かって歩いていると隊列をなして走る坊主頭達とすれ違った。あちらはこの炎天下に走っていて極限状態のはず、周囲など気にする余裕などないだろう。一人の男子学生が校舎に向かって歩いていたところで、気に留めることも、訝しがることもないだろう。ここに来るまでに考えた、課題が出ている数学の教科書を忘れた、という言い訳の出番はなさそうだった。
 
 美術室の扉は開いていた。やはり居ないということを確かめて笑う予定だったというのに、美術室の奥で熱心に画集を眺めている榎本蛍を見つけてしまったせいでちっとも笑えそうになかった。
 ただ絵を眺めているようだったが、それにしては何かに焦がれているかのような、縋っているかのような眼差しだった。
 踏んでいた扉のレールが小さく音を立ててしまった。パッと顔を持ち上げた榎本蛍は俺の姿を視界にとらえた途端に目元をゆるませた。

「来てくれたんだぁ」
「本当に待ってるとか馬鹿だろ」

 汗で前髪は張り付き、頬が真っ赤に染まっている。室内にいるというのにまるで運動をしたあとのような姿だ。その間抜けさを馬鹿だと悪態をついたというのに、榎本蛍はなぜか目じりを垂らして笑った。

「外は暑かったでしょう?」
「サイアク」

 俺が一度帰宅したことは明らかだ。待たされたと文句でも言ってくるかと思ったが、不満一つ溢さず「だよねー」と間延びした同意を寄越した。
 へらへらと笑う榎本蛍と先ほどの何かに焦がれるような瞳は結び付かなかった。なぜあのような瞳をしていたのか知りたくて、その視線の先にあった画集を見た。
 女性が赤子を抱えている絵だった。確か、マリアとイエスだっただろうか。

「この絵、何か良いなって思って」

 俺の視線が画集に向けられることに気付いたのか、画集を撫でながら榎本蛍は感想を口にした。黒々とした睫毛が瞳を隠してしまってその眼差しを知ることは出来なかった。

「飲んどけ」
「ありがとう」

 家から持ってきていたスポーツドリンクを押し付ければ、ぱちりぱちりと瞳を瞬かせてから、丁寧に礼を言った。照れ隠しなのか「やさしいね」と揶揄うような口調で話してから、ごくごくと音を鳴らしながら一気に半分ほど呷った。
 このような暑い場所で、本当に来るかも分からない相手を待ち続けるなんて馬鹿げている。もし俺が来なかったならばこいつはどうしていたのだろうか。美術室はほとんど誰も寄り付かない為、もし倒れたとしても教師がカギ閉めで巡回するまで気付かれなかった可能性すらある。

「……何で俺に執着すんの」

 そこまでして俺を待っている理由が分からなかった。この学校には美術部は存在しない。だから部活でもない、ただ絵を眺めるだけならクーラーが効いた別の教室や図書室だって良い。この暑い教室に留まってまで俺に会おうとした理由が見当もつかないのだ。
 怪訝な目で見れば、榎本蛍は画集を閉じて机の上に置いてからこちらに向き合うようにして座り直した。

「ウシオナルミくん、中学校の時にコンクールで賞を取っていたよね」

 中学校、コンクール──この二つの単語に、背筋に嫌な汗を感じた。

「脅してんのか」

 自分で思っていたよりも低い声が出た。こんなにも暑いのに背骨のあたりを流れる汗は妙に冷たくて、血の気が引くとはこのことだろうとまるで現実逃避のように考えた。榎本蛍は否定も肯定もせず黒い瞳でじっと俺を見た。

「私のこと描いて欲しいの」
「ハ?」
「匠美くんに私のこと描いて欲しい」

 聞こえなかった訳ではない。ただ榎本の言っていることが理解できなかった。咄嗟に低い声が出てしまったが、榎本はそのようなこと気に留めず同じ言葉を繰り返した。まっすぐ見つめてくる瞳に居心地の悪さを感じて視線を落とせば、絵の具で汚れた木目の床が視界に入った。

「もう描かないって決めたんだよ」
「どうして」
「俺は何者にもなれない」

 何でもないことのように話したつもりだったけれど、俺の声は情けない響きを持って響いた。沈黙の居心地が悪い。

「街のコンテストで何度も金賞を取った。だから俺は天才だって思ってた」

 その沈黙を埋めるように言葉を続けたら話さなくてもいいことまで話してしまう始末だ。親にも話さなかった本音、隠しておくつもりだった。

「思ってた……?」

 しかし語尾を拾われてしまい、今さらどれだけ言葉を尽くしたところで誤魔化すことはできないし、余計に弱さを晒すことになる。

「……けど違った。中学になって県のコンテストに出した途端に、俺の絵はよくて佳作、選ばれないことの方が多くなった」

 人よりも何倍も絵に費やしても、だ──と嘲るように付け加えた。
「何枚描いても、何百時間費やしても上手くならない。それどころか色を重ねるうちにどんどん汚くなって、何を描いていたのか分からなくなる」
 日々上達しているはずなのに、渾身の一枚を描きあげたはずなのに、なぜだか評価が伴わない。何が良くて何が悪いのかを悩むうちに、キャンバスの上はどんどんと汚くなって、何が描きたかったのかすら分からなくなった。

「だから真似た」

 あの頃の俺は自分は天才なのだと、特別な存在なのだと示したかった。ネットを開けばいくらでも才能ある作品が転がっている。誰が描いたのか、どのような思いを込めたのか、そのようなことどうでも良かった。俺も才能が欲しかった。これだけ作品が転がっているのだ、その一つを貰ったところで誰も気づかないと思った。

「でも銀賞。良い作品を真似たところで凡人は天才を超えられない。そんで、その後に盗作もバレた」

 才能ある作品を真似ても越えられなかった。残ったのは盗作をした中学生という評価と、盗作をしても凡人でしかない己の平凡さと、大好きだった創作活動を己の手で汚してしまったという後悔だけだった。

「俺は天才だって勘違いしていただけの凡人だって気付いた。だからやめた」

 盗作をしたという噂は瞬く間に学年、学校中に広まった。娯楽も少ない狭い田舎ではそのようなゴシップは皆の関心をそそる。翌週には町中に広まった。
 居心地が悪くなって中学には行かなくなった。両親は怒ることも同情することもなかった。ただいつも通り接してくれていた。
 高校は知り合いがいないところに行きたかった。電車とバスを乗り継いで二時間かかる場所に通うことを覚悟したが、両親は「仕事の都合で、引っ越したいんだ」といって持ち家を売って、俺が進学すると決めた高校の側に中古の家を買った。
 努力もズルも無駄。俺はどうしても天才にはなれない。憧れるから羨んでしまうのだ、羨むから苦しいのだ、絵を描くのをやめれば全てから解放される。だから絵を描くのはやめた。新しい場所で平凡な人間に相応しい生き方をしようと思った。

「何を期待してんのか知らないけど、とにかく俺は描かない」

 蓋をしていた感情を、まさか今になって掘り起こされるとは思わなかった。腹の奥をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようだった。少しでも気を抜けばこの汚くみっともない感情が溢れてしまいそうだから早くこの場から立ち去りたかった。

「期待外れで悪いけど、そういうことだからもう関わってくんなよ」

 これだけ重たくみっともない話をしたのだ、もう関わりたいとも思わないだろう。汗でぐしょぐしょに濡れたワイシャツが気持ち悪い、早く帰宅してシャワーを浴びて寝てしまおう。そうしたらきっとこのサイアクな気分も少しはマシになるだろう。

「私は期待なんてしてないよ」

 美術室を出ようとしたタイミングで榎本蛍が声を張り上げた。

「私は才能ある絵とか、表彰される絵を描いて欲しいなんて思ってない。ただ匠美くんに私を描いて欲しい、それだけだよ」
「そんな絵に何の価値があるんだよ」
「あるよ、私にはある」

 振り返れば榎本蛍はまっすぐにこちらを見つめていた。
 絵があったって腹が膨れる訳でも、誰かの命を救う訳でもない。世間の評価があってやっと価値が認められるのだ。綺麗事ばかり並べられて腹が立った。
 捨てろと言ったのにご丁寧に荷物と一緒に机の上に置かれていたノートを広げ、ぶんどった鉛筆を滑らせた。

「ほら描いた、これで満足かよ」
「匠美くんが全力で描いたって言うなら」

 三十秒もかけずに丸とか三角とか図形だけで形作った似顔絵を押し付ける。自分の発言がいかに綺麗事だと認めさせたかった。認めさせられずとも、少しでも居心地の悪そうな反応をさせられたならば溜飲が下がると思った。しかし榎本蛍は真っ直ぐに見つめ返してくるものだから、なぜだか俺の方が居心地悪くなった。

「これが匠美くんの全力なんだよね」
「なわけねぇだろ」

 煽ることで本気を出させようという魂胆が丸見えだ。

「……帰る」
「逃げるの?」

 もう一度踵を返したところで慌てたように声をかけてきた。ガタガタと椅子から立ち上がったようだった。

「道具ないと描けないだろ」

 振り返りながら道具が必要だと話せば、榎本蛍は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。意趣返しが成功してほんの少し溜飲が下がる。

「明日の放課後もここ使えんだろうな」
「うん」
「許可は」
「ある」

 状況が呑み込めていないのか未だにきょとんと目を丸くしたままの表情でこちらを見ていた。やはり柄にもないことはやめるべきだっただろうかと後悔が生まれはじめた頃に榎本蛍はゆっくりと口を開いた。

「……屋上とか立ち入り禁止の場所とかにも勝手に忍び込みそうな見た目してるのに、真面目だね」
「怒られんのは面倒だろうが」

 榎本蛍は俺のことを何だと思っているのだろうか。確かに高校に入ってから染めた髪は思いのほか明るくなってしまったが、校則には違反していない。
 授業にも課題にも真面目に取り組んでいる。教師からの評判はそこそこだ。許可がない場所に立ち入ってしまい怒られるというのも、自ら評判を落とすというのも腹立たしい。当たり前だろうと話せば、くすくすと笑い声が返ってきた。

「はったりヤンキーだ」
「何だそりゃ」

 見掛け倒しだと言いたいのだろうか。睨み返せば、誤魔化すかのようにへらっと笑った。

「明日、楽しみにしてるから」

 今度こそ美術室を出た俺の背中に投げかけてきた。