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 笑って生きるって案外大変だよね――そう話した時の、君の横顔は今でも覚えている。その静かな横顔で君は何を考えていたのだろう。ジリジリと日差しが照り付けたあの夏、あの日、あの瞬間の君の気持ちを知ることはもうない。君はあの夏に灼かれてしまったのだから。

 毎年のようにこの夏は災害級の猛暑になるなどとニュースキャスターによって注意喚起が繰り返されるが、高校二年生の夏、この年は特に暑かった。
 進学した公立高校は偏差値はそこそこ。歴史はあるが自由な校風が売りだ。校舎は年季が入っていてこの前は教室の床板が剥がれたという。きっとそんなんだから生徒が集まらず、比較的簡単に改善ことができる校風を現代に合わせたのだろう。そのようなおんぼろ校舎はどの設備も古くて、美術室なんかはクーラーも壊れていた。だから美術の授業は多くの人から倦厭されていた。
 その日だってそうだった。美術の授業が終われば汗だくになった生徒たちは、今みたいに小型の扇風機などはないから下敷きで風を生み出していた。体育の授業後のような疲労感があったが、爽快感は皆無なのだから皆重い足取りで教室に戻った。
 ワイシャツが汗で張り付いて不快だった。今日は早く帰宅してシャワーでも浴びようと思っていたのに、ノートをどこかに忘れてきたことに気付いたのはホームルームの最中だった。
 五限、六限はどちらも別教室での授業だったから荷物をまとめて移動していた。大方、最後に授業があった美術室に置いてきたのだろう。暑いせいで気が散漫していたのだろう。舌打ちをしたくなったが、察しがついているのだからあちこち探し回る手間は省けたと己を納得させて溜飲を下げた。
 ノートを回収したらさっさと帰るつもりだった。この出会いは俺にとって予想外で、運命を変えるものだった。
 隣の美術準備室からガタガタと物音が聞こえた。美術教師はおじさんだし、この学校に美術部は存在しない。人の気配に驚いて睨みつけるように声のした方を見た。
 大きなキャンバスがカタンカタンと左右に揺れながら動いている。その後ろから伸びる手脚は女子のものだった。

「あ、もしかして君がウシオナルミくん?」

 ひょっこり顔を覗かせた女が俺の名前を呼んだ。記憶力は良い方だと自負しているが、全く見覚えがない。なぜ名前を知っているのだ。自然と目元が険しくなってしまった。
 あちらから話しかけてきたというのに、よたよたと危なかしい足取りでマイペースに移動を続ける。

「よっこいしょ」

 間抜けな掛け声と共にキャンバスを置いた女は「あー疲れた」と言いながら大袈裟に肩を回した。
 ひとりごとにしては声が大きすぎる。労いの言葉を掛けろということなのだろうか。だとしたら随分と図々しい女だと思う。
 話しかけてくんなという意思表示の為に背を向けたが、空気が読めないのか読む気がないのか女は回り込むようにして視界に入ってきた。黒々としたまつげに縁取られた瞳がじっと見つめてきた。

「何だよ」

 じろりと睨みつけるように見れば、女はきょとんと目を丸くした。全体的にパーツが丸いのか周囲の大人びた女子たちに比べてあどけなく感じた。しかし口端をほんの少しだけ持ち上げて、ふふっと息を漏らして笑う姿は大人びて見えて、俺の幼稚さを浮き彫りにするようで腹立たしかった。

「表に出ろって感じ?」

 こちらの苛立ちを感じ取ったうえでこの状況を楽しんでいるらしい。大人びた印象から一転して悪ガキのような挑発的なニヤケを隠そうともせず、顔を覗き込んできた。
 もしかしたらノートはすでに誰かが見つけて職員室にでも届けられているのかもしれない。そうでなかったとしてもノートの表紙に名前を書いているのだから手元に戻ってくるのも時間の問題だ。
 とにかく今は見当たらないのだからこれ以上探すのは時間の無駄だし、何よりこの女の相手をする気にはなれなかった。鞄を肩にかけ直し、扉の方へと向かおうとすれば女が慌てた声を上げた。

「待って待って!」

 待ってやる義理はない。さっさと立ち去ろうとしたが女が扉の前に立ちはだかった。

「これ君のノートでしょう?」

 女が顔の前に掲げたノートの表紙には、潮匠美と確かに俺の名前が書かれていた。どうやらこの女が見つけて預かっていたらしい。

「ここに置いてあったから取りに来るかと思って待ってたんだよ」
「ドーモ」

 さっさと受け取ろうとしたが、掴む直前でノートが引っ込められた。

「ハ?」

 自然と低い声が出てしまったが仕方がないだろう。初対面であるのに随分と馴れ馴れしいし、暑さも相まって苛立ってしまう。ノートを回収して帰るだけのはずがこの女のせいで時間を浪費している。

「何がしてぇんだよ」
「この後の予定は?」
「帰る」

 俺の予定を知って何になるのか。質問に質問をノートを回収できないと今日の復習が出来ないのが痛いが、やるべきことは他にも沢山あるのだ。時間は有限、会話が成立しない相手に付き合ってやるほど暇ではない。横を通り過ぎようとしたが女は腕にまとわりついてきた。

「絵を描くのに少し付き合ってよ」
「何で」
「好きなんでしょう?」

 眼前に突きつけられたのはノートの見開きページ。そこにはシャーペンで描いただけの落書きがあった。心臓がドクリと嫌な音を立てる。

「勝手に見んなよ」
「ごめんね、拾った時に見えちゃって」

 情けないことに声が少し掠れてしまった。動揺を悟らせてしまった。女は慌てた様子で「この絵、良いなって思ったの」とフォローなのか何なのか訳の分からない言葉を付け加えた。
 もう描かないと決めていたのに。その落書きは教師のくだらない雑談の合間に手持無沙汰で、魔が差した。最悪だ。
 女の手からノートを奪い取り、落書きをしていたページを破り取った。

「……何で!」
「意味ねぇし」

 これでもかというほど見開いて丸くなった目がこちらを見た。責め立てるような口調で破いた理由を問いかけられたが、意味なんてない。ただの時間潰し、こんなものに価値などないのだから。

「もう話しかけんな」

 破いたページを握りつぶし、ごみ箱に投げ捨てた。

「待って!」

 呼び止められたが、その声かけに応えてやるような優しい人間ではない。

「サイアク」

 蝉の鳴き声がさらに苛立たさせた。