「いやぁ、良かった良かった。一時はどうなるかと思ったよ」

 高そうなシャンパンを片手に、へらへらと笑うのは私の憧れであり、雪斗の父親である――北条涼太だ。
 此処は、北条が借りているマンションの一室――つまりは彼の家だ。リビングにはデスクトップパソコンやプリンターが並び、印刷済みの紙の束や新品のコピー紙が至る所に積まれている。見れば見る程、彼が〝小説家〟なのだと実感させる部屋だった。

「酒弱いんだから、あんまり飲みすぎるなよ」

 自身の隣に座っていた雪斗が、呆れ顔で北条を窘める。そんな雪斗に向かって、彼が透かさず「退院祝いなんだから良いじゃないか」と反駁した。
 今日は、雪斗の退院祝いとして彼の家に招待されている。しかし退院祝いと言っても、テーブルの上にはスーパーの惣菜コーナーで買ったであろうオードブルがトレーのまま置かれているだけで、とても退院祝いとは言えない見た目だ。せめて、皿に位盛り付けて欲しいものである。こうなる事が事前に分かっていれば、私が幾らか手伝ったのにな、とすら思う位だった。
 だが今の私は、北条の服装にどうしても意識が向いてしまい中々会話に集中ができなかった。
 彼は病院で会った時と同様、随分と堅苦しい恰好をしている。カッターシャツにネクタイを締め、黒のウェストコート。室内故かジャケットは流石に羽織っていないが、立派な正装だ。その服装はどうもこの部屋の内装と、雑なテーブルの上の料理に合わず、強烈な違和感を生み出している。――シャンパングラスを持つ姿は、様になっているのだが。

「お仕事、だったん、ですか?」

 そう問うと、北条が「ん?」と首を傾げた。

「僕は一応小説家だからね、仕事は毎日しているよ。家で」

「では、スーツ、は、私服、ですか?」

「あぁ、これ?」

 北条が自身の身体を見下ろし、苦笑する。

「そうだね、今は私服みたいなものかな」

「親父、破滅的にファッションセンスが無いんだよ」

 苦笑する北条を尻目に、雪斗が吐き捨てる様に言った。ファッションに拘りの無い雪斗がそういうという事は、余程のものなのだろう。
 しかし雪斗とよく似た、端正な顔立ちをした北条の私服、というのは想像がつかない。死ぬ程ダサい服装をしている姿も、お洒落な服装をしている姿も、だ。一人首を傾げていると、北条が「この前の天才Tシャツは中々良いと思ったんだけどなぁ」と呟いた。天才Tシャツ?

「あれはねぇよ、そういう所がファッションセンス無えって言ってんだよ」

 しかし雪斗は北条の言葉を一蹴するだけでは留まらず、北条が哀れに思えてくる程容赦なく貶す。彼等の会話に『家族って良いな』と思う反面、どうしてもその天才Tシャツとやらが気になってしまって仕方が無かった。

「ほら、これ」

 そんな私の心を見透かした様に、雪斗が慣れた手つきでスマホを操作し一枚の画像を表示させた。

「これが天才Tシャツ」

 スマートフォンに表示されたのは、北条の口元から腰までが写った自撮り写真だ。彼が身に纏っているのは、シンプルな黒生地のTシャツである。そこまでは良かった。しかし圧倒的に目を引く、胸元にゴシック体ででかでかと書かれた「天才」の文字。

「これ、は……」

 想像の遥か上をゆくダサさに、言葉を失う。天才Tシャツは比喩表現では無く、そのままの意味だったのか。
 私の中で彼は、人を上手く諭し人の心を動かす天才的な小説を書く人物だと思っていたのだが、そんな人物にも欠点はあった様だ。同じ人間である事に安堵感を抱くと同時に、憧れがガラガラと音を立てて崩れていく感覚に陥る。

「親父に服選ばせたら絶対こういう変なの持ってくるから、普段は常にスーツ着とけって言ってんの。多少堅苦しくても、スーツ姿見て不快に思う奴はいねぇだろ」

「たし、かに」

 私達を見ていた北条が、居心地悪そうに身じろぎする。目を泳がせながらシャンパングラスの縁を徒に指先でなぞるその仕草は、なんとも女々しい。

「そう、いえば」

 そんな彼を見ていられなくなり、無理に話題を変えようと声を上げた。

「声、ちゃんと、出て良かった、です。わざわざ、ICUに、入れて貰ったのに、声、出せなかったら、意味が無かった、ので」

 今でもよく思い出せる、ICUの中の妙な緊張感。潰れてしまいそうな程のプレッシャー。瞳を閉じればあの時の感覚が直ぐに蘇る。

「確かに、君が声を出せなかったらどうしようとは僕も思っていたよ」

 北条が言葉を区切り、シャンパンを口に含む。

「だけど、君が声が出せる事は分かっていたから」

「え?」

「雪斗から真姫ちゃんの話を聞いて、僕なりに心因性失声症の事を調べたんだ。心因性の場合声帯には異常が無いから、眠っている時に寝言を言う事もあるらしい」

「寝言を、言う」

 自身の知らない情報にオウム返しすると、北条が「うん」と言って優しく笑った。

「真姫ちゃんがICUの前のソファで転寝をしていた時、雪斗の名前を呼んでいたんだよ」
 ――それは、知らなかった。
 確かに、疲れてICUの前のソファで転寝をしてしまった事は何度かある。しかし、まさか自身が寝言を言っていただなんて。その事実に驚愕する。

「だから僕は、真姫ちゃんにあのテキストファイルを送ったんだ。即興で書いたものだから、今思えば稚拙で読めたものでは無いけどね」北条が空になったグラスにシャンパンを注ぎながら困った様に笑った。「頭の良い真姫ちゃんなら意味が分かると思って」

「頭は、良く、ないです」

 なんだか気恥ずかしくなり、北条から目を逸らしボソボソと彼の言葉を否定する。
 だが、注いだシャンパンを一気に呷った北条は既にもう酒気を帯びていて、私のこの気恥ずかしさには一ミリたりとも気付いておらず「あ、そうだそうだ」と言って足元に置いていたらしきダンボールをガサガサを漁り出した。

「今朝ね、献本が届いたんだ」

 私と雪斗の間に置いたのは、一冊のハードカバー。見た事の無いデザインの表紙に、箔押しされたタイトル。どうやら、北条涼太の新刊の様だ。

「見ても、いいですか?」

 そう問いながらも待ちきれず、そのハードカバーを手に取る。北条は私の問いに返事する事無くふふふ、と雪斗に似た不気味な笑いを浮かべた。
 パラパラとページを捲り、ぎっしりと詰め込まれた文字に心酔する。発売はいつ頃だろうか。私が焦がれた小説家である北条涼太の新刊を、一足先に拝めるだなんて欣幸の至りだ。

「……ん?」

 断片的に目に入る文章や文字。それ等には少々見覚えがある様な気がして。ぱたりと本を閉じ、改めて表紙をまじまじと見つめた。
 林檎を齧るセーラー服の少女と、黒髪の青年の後ろ姿。水中を連想するデザインの帯には〝毒林檎も魔法も無い世界で、決して出会う筈の無かった二つは静かに惹かれ合う〟とキャッチコピーが美しいフォントで書かれている。

「これ、もしかして」

 思わずそう呟くと、北条が柔らかい口調で「そうだよ、君達の本だ」と言った。
 まさか、こんな事が現実で起こるなんて。過去の自分に教えたら、そんなの嘘だ、現実を見ろと一蹴されそうである。

「一時はボツになると思ったけどね。今では良いラストになったと思ってる」

「息子の不幸を仕事に使うな」

「雪斗だって、最初にこの話をした時は反対しなかったじゃないか」

「反対はしねぇけど、気分は悪いわ」

 言い争う雪斗と北条の声を聞きながら、箔押しされたタイトルを指でなぞる。
 その、本のタイトルは――

 ――冷淡人魚姫は、暴君白雪姫に恋をする。