ICUの中は、妙に緊張感が漂っている。
 消毒液の匂いと、規則正しく鳴る心電図の独特な機械音。異様に白い壁と蛍光灯。
 白雪姫を連想する程に白い肌を持つ男だったが、今の白川は色白、という寄りも血色が悪い。点滴の管が繋がった手を握ると、青い静脈が透けて見えているのが分かった。白粉をはたいた様に白い肌に、怖気が全身を襲う。
 口に付けられた酸素マスクが白く濁ってはクリアになって――を繰り返している為、彼が生きている事は分かる。だが、あまりに悪いその顔色に、彼の命は本当に続いているのだろうかと不安を抱いてしまう。
 まるで肉体だけを此処に置いて、何処か遠くへ行ってしまった様な。もう、彼は此処にはいないのだと思わせる様な。
 彼の手を握ったまま、ベッドの横に置かれていた木の丸椅子にそっと腰掛ける。繋がった手からは、体温は感じられない。
 最後に、白川の手に触れたのは四日前だ。神社を後にして、路面凍結に気付いた彼が私に手を差し出した。その時の彼の手は、冷え性の私と違ってとても温かかった。だが今は、私の手の方がきっと温かい。
 すう、と小さく息を吸い込む。白川の顔を見つめ、口を開いた。

「    」

 ゆっくりと口を動かすも、喉奥は塞がったまま声は出ない。
 駄目だ、これでは名前が呼べない。手が震え、彼の父――北条の願いも叶えられないのだと恐慌状態に陥りそうになる。
 白川の手を強く握り、その場で目を伏せた。
 瀬那先生にも言われたじゃないか、喉の病気では無いと。私は声が出せるのだと。出せる筈なんだ。病気じゃないのだから。声帯に問題は無いのだから。魔女に声を奪われた訳では無いのだから。
 だから、だからどうか、今この瞬間だけでも――

『――真姫』

 やけに懐かしい、それでいて鮮明に思い出せる優しい声が、ふと何処からか聞こえた気がした。一瞬本当に、大切な人――母に呼びかけられたのかと錯覚するが、此処は病院のICUの中だ。耳に届くのは、心電図の音のみ。すぐさま、私の記憶が呼び起こした声なのだと理解する。
 もう一度その声が聞けないかと、目を伏せたまま記憶を探る様に大きく深呼吸を繰り返した。

『――夕闇迫る 一人きりで 怖い 怖い 夜がくる』

 徐々に脳内で鮮明になっていくのは、母の歌声。小さな頃、帰り路や眠る前などによく母が歌ってくれた歌だ。どれだけ調べてみても、曲名が分からなかった歌。母が作ったものだったのだろうか。

『――何も見えない 暗い 暗い 夜の中』

 子供ながらに、何故そんな怖い歌を歌うのかと疑問で仕方なかった。母にそう問うてみても、母は笑うばかりで答えてくれなかった。だが、何故だか不思議とその歌を聴くと心が安らぐ様な気がしていた。

『――誰もいない 怖い さみしい 夜の中』

『――でも大丈夫 見上げれば そこで』

『――月が君を 視ているから』

 決して長い歌では無く、〝月が君を視てる〟で終わるとまた冒頭に戻る。何度も何度も繰り返し、母は同じ歌詞を歌う。
 それに合わせて、良く私も歌っていた。怖い歌だと思いながらも、それでもその歌が何故か印象に残って――

『――夕闇迫る 一人きりで』

「……こ、わい、こわ、い、……よる、がく、る」

『――何も見えない 暗い』

「……くら、い、よる、のなか」

 繋がった手が、重ね合わせた掌が、僅かに動く。

『――誰もいない 怖い』

「……さみ、しい、よ、るのなか」

『――でも大丈夫 見上げれば そこで』

「……つきがきみを、みている、から」

 何年ぶりだろうか、この歌を口にするのは。私が大きくなるにつれて母はこの歌を歌わなくなり、私も自然と忘れていった。

「……ゆうやみせまる ひとりきりで」

 ICUの中に、自身のたどたどしい歌声が静かに響く。

「……こわい こわい よるがくる」

 音程も外れていて、とても歌とは呼べない聞くに堪えないものだ。

「……なにもみえない くらい 暗い よるの中」

 それでも、何故だか先程出なかった筈の声がするりと喉から出てくるのが不思議で、その歌を辞める事はしなかった。

「だれもいない 怖い さみしい 夜の中」

「でもだいじょうぶ 見上げれば そこで」

「月が君を 視ているから」

 握った手が、私の手を握り返す。
 きっと今、この歌を思い出したのは。
 母が私を、白川を、救ってくれたのだろうな。


「――雪斗、起きて」


 久しぶりに聞いた自身の声に、笑ってしまいそうになる。
 少し低くて、可愛げのないややハスキーな声。人魚姫に例えられていたのが、申し訳なくなる位だ。
 瞳を開き、ベッドで眠る――いや、眠っていた筈の彼に視線を向ける。
 その長い睫毛が私と同じ様に動いて、色素の薄い茶色の目が私を捉えた。

「――真姫」

 酸素マスクに遮られ、その声はやけにくぐもっている。更には、元の声が思い出せなくなってしまう程、酷く掠れていた。

「――下手くそ」

「……うるさい、な」

 瞳から零れた生暖かい雫が、着用していたマスクを濡らす。それが何だか気持ち悪くて、乱暴に目元を拭った。

     *