――彼のあの時の言葉が、今はよく分かる。初めて『植物』を読んだ時、私の傍には母がいた。故に、自身の心に植物が育っている事に気付かなかった。
 だが母を喪って、世界が色褪せた。その時は〝心の植物が枯れた〟なんて思わなかったが、恐らくはあの瞬間枯れてしまったのだろう。そして、白川と出会い、もう一度植物が育った。

「――待たせてごめんね。先生が中々捕まらなくて」

 ふと右横から声が聞こえ、伏せていた瞳を開いた。其方に目を向けると、先程と同じく泣き出しそうな顔をした彼と、白川の主治医が立っていた。瀬那先生に何処か重なる、あの優しい医者だ。

「こっちおいで」

 医者が柔らかい口調でそう言って、ICUの入り口に繋がる方――一般人は立ち入れない場所だ――に入っていく。医者の言葉の意味が分からず、助けを求める様に北条の方へ目を向けるが、彼は「大丈夫だよ」と言うだけだった。
 痛む足を引き摺りながら恐る恐る医者の後に続くと、そこは映画の中で見た手術準備室の様な場所になっていた。手を洗うシンクがあり、消毒液やペーパータオル、電源の入っていない色々な機械が並べられている。

「本当は、外部の人間は入れないんだけどね」

 医者がシンクで手を洗いながら軽い口調で告げる。

「でも、ご家族にあんな風に頭下げられたらね、こっちも強く拒絶は出来ないんだよ」

 手を洗った後、医者は慣れた手つきでペーパータオルで手の水分を拭き取り、不織布の青いエプロンを身に着けた。促されるままに私も手を洗い、用意されたエプロン、ヘアキャップ、マスク、手袋と、所謂防護具と呼ばれる物を身に着ける。
 私はこれから、白川が眠るICUに入れて貰える様だ。だが、家族以外の人間は面会出来ないと、手術後に看護師から言われたのを良く覚えている。

 ――ご家族にあんな風に頭下げられたらね、こっちも強く拒絶は出来ないんだよ。

 状況に理解が追い付かず、更には軽い口調で言われた為に聞き流してしまっていたが、医者の先程の言葉がふと蘇る。
 私が白川と面会が出来るように、北条は頭を下げてまで医者を説得してくれたのだ。
 何故そこまで、と思うも、白川は彼にとってそれ程に大事なのだろう。白川の意識を引き戻せるのなら、それをするのは当然なのかもしれないとも思えた。同時に、声が出せなければ全てが無意味になってしまう、北条からも失望されてしまう、というプレッシャーが伸し掛かる。

「長くても、二十分ね。それ以上は許可出来ない」

 私と同じ様に防護具を着た医者に言われ、小さく頷く。そして医者の後に続き、ICUの入り口である全面ガラスの自動ドアを通った。