〈先生、あの〉
それでもなんとか手を動かし、文字を書く。
これは私が此処に来て、瀬那先生と出逢って――いやそれより前からだ。母を喪ってから、初めて抱いた感情。初めて尋ねる言葉。
一世一代と言っても過言では無い。それ程、私にとっては大きな事だった。
〈どうしたら、声が出せますか?〉
相変わらず力の無い文字だったが、それでもしっかりと書いた言葉。
瀬那先生は驚くことなく、タブレットを見つめている。もしかすると、いつか私がこう言い出す事を予測していたのかもしれない。それでもいい。なんだって構わない。
ただ私は、声を出したい。あの人魚姫の様に、声を取り戻したい。努力次第でどうにかなるものならば、幾らだって努力する。私の声で、白雪姫――白川の名を呼びたい。引き戻したい。
「――逆に、聞くけどね」
瀬那先生がこほんと咳払いして、
「どうして、遠海さんは声が出ないのかな」
衝撃的とも言える言葉を放った。
予想だにしていなかった言葉だ。ペンを持ったまま思わず固まってしまい、瀬那先生が「言い方が悪かったかな」と言って苦笑した。
「遠海さんは声が出せるんだよ。声帯に問題は無い。実際、一年以上も声を出していないから声帯が弱っている――という事はあるかもしれないけれど、決して喉の病気では無いんだ」
先生が一度言葉を区切って、柔らかく笑った。そして優しく諭す様に、言葉を続ける。
「心因性失声症の場合、一番大切なのは『声を出したい』と思う気持ちなんだよ。逆に、声を出す必要性を感じていなければ声は一生出ないままだ。だけど、今の遠海さんは違うんじゃないかな。それにね、白川くんの今の容態を僕が知る事は出来ないから一概には言えないけれど、意識レベルによっては昏睡状態でも外の音が聞こえている事があるんだ。だから、声を掛けて、名前を呼んであげる事は凄く大事な事なんだよ。実例をあげると、事故にあって昏睡状態になった親子が居て、二人とも一か月間目を覚まさなかった。だけど、母親が先に目を覚まして、母親の方が先に回復したんだ。そして、回復して初めて我が子と対面した時、母親が子供の名前を一度呼んだだけで、その子供は目を覚ました」
海外の話だけどね、と瀬那先生が一言付け加える。
〈興味深いですが、スピリチュアル的な話ですね〉
「そう一蹴する医者も勿論いるよ。でも、事実目を覚ましたんだから原理とか考えなくても良いんじゃないかな」
瀬那先生の優しい声が、ぼんやりとした頭に染み渡る様に響く。
声を掛けたい、名前を呼びたい、私の声が聞こえるのなら彼を引き戻したい。そう思うのは事実だ。だがそれと同時に、不安も押し寄せる。
私はもう一年以上も声を出していない。声の出し方など忘れてしまった。元々私には声帯が備わっていないのではないかと思ってしまう程に、自分の中にある声が見つからない。
ペンを握っていた手が緩み、テーブルの上にぱたりと落ちる。
「前に、白川くんと僕が二人きりで話した時の事を覚えているかな」
先生の言葉に頷く。
「あの時白川くんね、凄く真剣に遠海さんの話をしていたよ」
瀬那先生が優しく笑って、その時の白川の言葉を聞かせてくれた。
――『遠海の事は、俺が守りたいって思ってる。勿論遠海の気持ちを無視するつもりは無いし、他に好きな奴がいるなら諦めるけど。でも、これから先隣にいるのは俺でありたい。俺は遠海に救われたから、遠海を救うのも俺でありたい』
その言葉を聞いて、思わずがたりと音を立て椅子から立ち上がった。両足に一気に負担が掛かり、ズキズキとした痛みに顔を顰める。それでも、そんな痛みなどどうだって良く感じてしまう程に今は白川に会いに行きたかった。
胸の奥から何かが迫り上がってくる様な、胸の内の花がざわざわと揺れる様な。咄嗟に開いた口からは震えた息が漏れ、声の代わりに両目から涙が零れ落ちた。
「いいよ、行っておいで。今の遠海さんなら大丈夫。自然に任せればいいんだよ」
瀬那先生の言葉に数回頷いて、カバンを引っ掴み診察室を飛び出した。
足が悪い故に、走る事は出来ない。待合室の壁に凭れ掛かりながら、何とか前へ進もうと足を出す。
大丈夫。
私なら大丈夫だ。ただ、名前を呼ぶだけで良い。
今なら、彼――北条涼太の紡ぎ出した物語を終わらせられる様な気がした。
それでもなんとか手を動かし、文字を書く。
これは私が此処に来て、瀬那先生と出逢って――いやそれより前からだ。母を喪ってから、初めて抱いた感情。初めて尋ねる言葉。
一世一代と言っても過言では無い。それ程、私にとっては大きな事だった。
〈どうしたら、声が出せますか?〉
相変わらず力の無い文字だったが、それでもしっかりと書いた言葉。
瀬那先生は驚くことなく、タブレットを見つめている。もしかすると、いつか私がこう言い出す事を予測していたのかもしれない。それでもいい。なんだって構わない。
ただ私は、声を出したい。あの人魚姫の様に、声を取り戻したい。努力次第でどうにかなるものならば、幾らだって努力する。私の声で、白雪姫――白川の名を呼びたい。引き戻したい。
「――逆に、聞くけどね」
瀬那先生がこほんと咳払いして、
「どうして、遠海さんは声が出ないのかな」
衝撃的とも言える言葉を放った。
予想だにしていなかった言葉だ。ペンを持ったまま思わず固まってしまい、瀬那先生が「言い方が悪かったかな」と言って苦笑した。
「遠海さんは声が出せるんだよ。声帯に問題は無い。実際、一年以上も声を出していないから声帯が弱っている――という事はあるかもしれないけれど、決して喉の病気では無いんだ」
先生が一度言葉を区切って、柔らかく笑った。そして優しく諭す様に、言葉を続ける。
「心因性失声症の場合、一番大切なのは『声を出したい』と思う気持ちなんだよ。逆に、声を出す必要性を感じていなければ声は一生出ないままだ。だけど、今の遠海さんは違うんじゃないかな。それにね、白川くんの今の容態を僕が知る事は出来ないから一概には言えないけれど、意識レベルによっては昏睡状態でも外の音が聞こえている事があるんだ。だから、声を掛けて、名前を呼んであげる事は凄く大事な事なんだよ。実例をあげると、事故にあって昏睡状態になった親子が居て、二人とも一か月間目を覚まさなかった。だけど、母親が先に目を覚まして、母親の方が先に回復したんだ。そして、回復して初めて我が子と対面した時、母親が子供の名前を一度呼んだだけで、その子供は目を覚ました」
海外の話だけどね、と瀬那先生が一言付け加える。
〈興味深いですが、スピリチュアル的な話ですね〉
「そう一蹴する医者も勿論いるよ。でも、事実目を覚ましたんだから原理とか考えなくても良いんじゃないかな」
瀬那先生の優しい声が、ぼんやりとした頭に染み渡る様に響く。
声を掛けたい、名前を呼びたい、私の声が聞こえるのなら彼を引き戻したい。そう思うのは事実だ。だがそれと同時に、不安も押し寄せる。
私はもう一年以上も声を出していない。声の出し方など忘れてしまった。元々私には声帯が備わっていないのではないかと思ってしまう程に、自分の中にある声が見つからない。
ペンを握っていた手が緩み、テーブルの上にぱたりと落ちる。
「前に、白川くんと僕が二人きりで話した時の事を覚えているかな」
先生の言葉に頷く。
「あの時白川くんね、凄く真剣に遠海さんの話をしていたよ」
瀬那先生が優しく笑って、その時の白川の言葉を聞かせてくれた。
――『遠海の事は、俺が守りたいって思ってる。勿論遠海の気持ちを無視するつもりは無いし、他に好きな奴がいるなら諦めるけど。でも、これから先隣にいるのは俺でありたい。俺は遠海に救われたから、遠海を救うのも俺でありたい』
その言葉を聞いて、思わずがたりと音を立て椅子から立ち上がった。両足に一気に負担が掛かり、ズキズキとした痛みに顔を顰める。それでも、そんな痛みなどどうだって良く感じてしまう程に今は白川に会いに行きたかった。
胸の奥から何かが迫り上がってくる様な、胸の内の花がざわざわと揺れる様な。咄嗟に開いた口からは震えた息が漏れ、声の代わりに両目から涙が零れ落ちた。
「いいよ、行っておいで。今の遠海さんなら大丈夫。自然に任せればいいんだよ」
瀬那先生の言葉に数回頷いて、カバンを引っ掴み診察室を飛び出した。
足が悪い故に、走る事は出来ない。待合室の壁に凭れ掛かりながら、何とか前へ進もうと足を出す。
大丈夫。
私なら大丈夫だ。ただ、名前を呼ぶだけで良い。
今なら、彼――北条涼太の紡ぎ出した物語を終わらせられる様な気がした。