そのテキストファイルを読み終え、呆然とスマホを見つめる。
 私が焦がれた小説家である北条涼太にはとても似合わない物語であるが、彼から送られてきたという事は、つまりは彼が書いたものなのだろう。
 彼はどんな思いで、この物語を書いたのか。そして、何を思って私にこれを送ってきたのだろうか。
 心臓はドクドクと早鐘を打ち、ぐらぐらと眩暈がしてくる。
 再び、スマホが短く振動する。新しいメッセージを受信した様だ。テキストファイルを閉じ、トーク画面に目を遣った。

〈君に、この物語を終わらせて欲しい〉

 そのメッセージが脳内で、彼のあの優しい声音で再生される。
 テキストファイルを読んでいた時から、あの物語は私と白川を重ねたものなのだと分かっていた。故に、そのメッセージを見て驚く事は無かった。
 親指が動かず返事が出来ないままディスプレイを見つめていると、追加でメッセージが送られてきた。

〈心の中の植物は、知らない感情に触れた時以外にも、自分が変わりたい、何かを成し遂げたい、と強い意志を持った時に変化が訪れる。君はどうかな。君の心は、雪斗と出逢って変わった?〉

 ――植物。
 それは決して目視出来ず、ただ感じ取る事だけが出来るもの。しかしその場で目を伏せると、まるでそれが目の前にあるかの様に鮮明に思い浮かべる事が出来た。
 私の心の内の花は、枯れる事無く今も美しく咲き誇っている。水を遣っていないのに、肥料も与えていないのに、それでも枯れずに瑞々しさを保ったまま花開いている。
 
 ――人魚姫は、魔女に美しい声だけを返してもらった。
 では、私は? この世界には、魔法も無ければ毒林檎も無い、魔女も居ない。新しい足をくれて、声を返してくれる魔女は存在しないのだ。しかしそれと同時に、私は何も奪われていない。
 足に障害を負った事、それは言い換えれば〝奪われた〟のかもしれないが、御伽噺の世界とは異なる。
 私が彼女――人魚姫なら。声を返してもらって、何をするだろう。白雪姫に、何を――

 ピコン、と思考を遮る様に、モニターから電子音が鳴った。その音に、伏せていた瞳を開く。
 表示されているのは、自身の受付番号。相変わらず、タイミングが悪い。
 小さく溜息を吐いて、ソファから腰を上げた。スマホをポケットにしまいつつ、診察室へと足を向ける。

「こんにちは」

 診察室の扉を開くと、瀬那先生が相変わらずの優しい表情で迎えてくれた。
 しかし、私の顔を見て何か異変に気付いたのか、私が椅子に座るや否や「何かあったのかな」とやや神妙な面持ちで尋ねてきた。
 どこかもたもたとしながらもカバンからタブレットを取り出し、ディスプレイにペンを走らせた。

〈友人が、事故に遭って〉

 簡潔すぎると、自分でも思う。それに、寝不足続きが原因か手に上手く力が入らず、書いた文字はへなへなとしている。大分力無い字だ。それに、頭も上手く働かなかった。

「……白川くん、かな」

 瀬那先生の問いに、こくりと頷く。

「遠海さんの様子を見るに、容態は良くない様だね」

〈四日経つんですが、まだ目を覚まさないんです〉

 タブレットの文字を見た瀬那先生は、言葉を選んでいるのか少し間を置いて、「そうだったんだね」と静かに言った。その顔には、普段の様な笑みは無い。

〈私のせいで、車と接触して〉

「どうして、遠海さんのせいなのかな? 喧嘩でもした?」

〈いえ、私が、余所見していて、それを彼が〉

 ペンを握る手が震える。文字もどんどんと歪になっていって、最後にはミミズの這った様な解読が出来ない字になった。