ガラス張りになっているICUの前のソファに座り、ぼんやりと電源の落ちた白川のスマホを見ていると、遠くからパタパタと二人分の足音が近付いてきた。顔を上げ、その二人に目を向ける。
 ――あぁ、皮肉だ。まさか、こんな。
 二人のうち一人は、ICUに何度か出入りもしている看護師だ。もう一人は、黒のスリーピーススーツにトレンチコートの、少々堅苦しい恰好をした――北条涼太だった。
 その顔は何度もネット上で見ている為、見間違える筈が無い。白川の言葉を疑っていた訳では決してないのだが、彼の父親は本当にあの小説家、北条涼太だったのだと思い知らされる。
 あれほど、会いたいと、会話をしたいと願った人物。短冊にまで、書いてしまう程。
 何度彼と話す事を願ったか。何度彼の言葉を聞く事を望んだか。
 そんな夢が、こんな状況で、こんな場所で叶うだなんて、皮肉以外のなんであるのか。
 彼は看護師に案内されるままICUのガラスに近付き、食い入る様にベッドに眠る白川を見つめる。そして数秒。ゴン、とガラスに額を付け、絶望が感じ取れる程の重い溜息をついた。

「――今の所バイタルは安定しています。ですが、容態が急変する可能性も無いとは言い切れないので、現在此処で様子を見つつ、投薬治療をしています」

 看護師が冷たいとも温かいとも言えない事務的な声で、彼に状況を説明する。

「目覚める見込みは? 後遺症は? 容態が急変する確率は? 急変したら、――死ぬ、という事ですか」

 先程の電話と同じ声だというのに、その声には優しさも温かさも無い。
 矢継ぎ早に質問をする彼に向って、看護師が「お気持ちお察し致します」と前置きをした後、「現時点では、お答えできません」そう言って、軽く会釈をしたのちこの場を去っていった。
 その看護師の背を見つめていると、彼――北条涼太がゆっくりと振り返り私に目を遣った。視線に気づき、慌てて顔を彼に向ける。

「君が、遠海さんだね」

 憔悴しきった顔に無理矢理笑みを浮かべ、

「先程は無理に電話を続けてしまってすまなかった」

 精一杯、優しさを見せようと頑張ってくれているのだろう。看護師に向けた声とは違っていて、電話越しで聞いた声に戻っていた。しかし、上げた口角が僅かに震えていて、彼なりにこの状況を酷く悲しんでいるのだという事が分かる。
 胸の内に沸き上がるのは酷い後悔と、安堵感。白川から母親の話を聞いていたからだろうか、白川の身をこうも案じる人間が身内にいた事に、深く安堵する。しかしそれと同時に、白川を大切に思っていた彼にそんな顔をさせてしまった罪悪感が心中を埋め尽くす。あの、ICUのベッドに眠っているのが、白川でなく私であれば良かったのに、と。
 ぼんやりと、その悲しげな笑みを見つめる事数秒。「えっと……」と続けた彼の言葉にはっと我に返り、慌てて着ていたコートのポケットから自身のスマホを取り出した。

「あぁ、あのね、君の事は雪斗から色々と聞いているんだ」

 彼が少々困った様に頬を掻く。

「声の事も、聞いてる。だから、無理して会話をしようとしなくていいよ」

 まさか、自身が憧れていた作家が自身を認知していただなんて。こんな状況でなければ、羞恥と喜悦に卒倒していたかもしれない。
 自身のスマホを握りしめたまま、彼の言葉に小さく頷く。

「此処だと、少し話しづらいね。確か入り口近くに小さなカフェがあったな。まだ営業している様だったから、そこで話そうか」

 確かに、ここだと会話がしづらい。どれだけ会話に集中しようとしても、どうしてもガラスの向こう側に眠る白川に意識が向いてしまい、上の空になってしまいそうだ。再び頷き、ソファから腰を上げた。