気が付けば大きな病院――学校近くの大学病院の様だ――に到着していて、医者や看護婦がストレッチャーを押して白川を手術室へと連れて行ってしまった。
 なんとか足を引き摺りその後を付いて行くが、辿り着いた頃にはもう手術室の扉は固く閉ざされていて、点灯した赤いランプに手術中だという事を悟る。

 人のいない、手術室の前。床に座り込み、痛む頭を押さえる。
 何故、こんな事になった。何故、白川が事故に遭ったのか。何故、事故に遭ったのが私ではなかったのか。
 去年の夏、初めて一人で訪れた墓参り。とてもとても暑い日だったのを覚えている。
 その時私は、初めて亡き母に問いかけた。

 ――『私はこれからも、貴女の命の上で生きていってもよいのでしょうか』

 母の後を追うつもりは無かった。だけど、一人きりで生きていく覚悟も、気力も無かった。 
 命を落としてでも私を庇った母の為にも、生きていかねばならない事は分かっていた。だがどうしても、希死念慮が消える事は無かった。
 しかし白川と出逢って、いつの間にかその感情は薄れていった。いつの間にか母の事を思い出す時間が減り、白川の事を考える時間が増えた。
 なのに、この有り様だ。
 私が、スマホなんて見ていなければ。そもそも、初詣になんて行かなければ。
 珍しい積雪に、外に出たいと思った時点で間違っていたんだ。ただ黙って課題を熟していれば良かった。
 ――いや違う。もっと前から間違っていた。私と白川が、最初からただのクラスメイトでいればこんな事にはならなかったのだ。家に招いたりなどしたから。変に距離を縮めてしまったから。
 そもそも、出逢った時点で既に間違っていたのではないか?

 怪我をした足が痛む。その痛みは、痛いなんて言葉で表す事は出来ず、あの夏の事故を彷彿とさせた。
 あぁ、そうだ。家族に連絡をしないと。白川の家族は、彼が病院に運ばれた事を知らない。
 しかし、一体誰に連絡をすれば良いのだろう。水商売をしている母親は、白川の事を疎んでいた。そんな彼女からすれば、白川が病院に運ばれたなど知ったことでは無いだろう。寧ろ、願ったり叶ったりかもしれない。
 一番伝えなくてはならないのは父親だ。しかし、父親の連絡先など知らない。
 ふとそこで、先程救急車の中で隊員から白川のコートを渡された事を思い出した。私の腕に抱かれているのは、血液が付着した黒いコート。コートのポケットを漁り、白川のスマホを取り出す。
 機種にもよるが、スマホにはパスコードを解除しなくとも緊急連絡先が見れる便利な機能があったはずだ。スマホを買った時、店員にそんな事を言われた記憶がある。勿論それは、持ち主本人が登録していれば、の話なのだが。
 彼が父親を緊急連絡先に登録している事を願って、スマホの電源を入れた。
 ロック画面の下方にある緊急通報ボタンを押し、表示されたキーパットの更に下にある[医療情報]を開く。ディプレイに表示された、名前、身長、体重、血液型などの情報。そのまま下にスクロールさせると、〝父〟の文字と共に電話番号とメールアドレスが書かれていた。緊急連絡先はその一件のみだ。身寄りの狭さを意味する登録画面に胸が痛くなるのを感じながらも、そのメールアドレスをタップする。すると、メール作成画面がディスプレイいっぱいに表示された。
 本来ならば、電話をするのが一番だ。声が出ないのなら、病院関係者に連絡して貰うべきである。しかし白川の事で、今私に出来る事は他に何も無い。ただ。ここで手術が終わるのを待つしかない。そんなの、耐えられなかった。
 問題があるのなら、後程病院関係者から電話を入れて貰おう。そう自身に言い聞かせ、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理する様にゆっくりとキーボードを打ち始めた。
 メールには基本的文字数制限は無いが、長々と書いても仕方が無い。自身の名前と、白川が事故に遭った事、そして運び込まれた病院名と、現在手術中だと言う事を簡潔に纏めて、三度程読み返した後送信ボタンを押した。
 このメールが、白川の父親に無事届いたか確かめる術は無い。今はただ、送ったという事実に安堵し、信じるしかない。
 スマホの電源を落とし、膝の上に両手を投げ出す。溜息をつき、その場に項垂れた。