「まぁ、そう落ち込むなよ」
〈別に落ち込んでない〉
社務所へ行っていた白川が、戻ってくるなりにやにやと腹の立つ笑いを浮べて私の肩をぽんと叩いた。コンマレベルの早さでその手を振り払う。
拝殿でのお参りが終わり、神社内にあったベンチに腰掛けている私の手には〝凶〟と書かれたおみくじが一枚握られている。お参りが終わった後、折角だからおみくじを引こうと白川が言い出し、それに乗ってみればこの有り様だ。
自販機で買ったばかりの熱々の缶コーヒーを膝の上に乗せ、暖を取りながらスマホで文字を打つ。
〈別に落ち込んではいないが金をどぶに捨てたとは思った〉
「めちゃめちゃ落ち込んでんじゃん」
〈だから落ち込んでない〉
何故か愉快そうにわざとらしく溜息をついた白川が、私の目の前に長方形の何かをぶら下げて見せる。距離が近く、最初は何をぶら下げられているのか分からなかったが、徐々にピントが合ってそれが小さな御守りだと言う事に気付いた。思わず手を出すと、ぽとりとその御守りが手の内に落とされる。
「無難に学業成就にしといた」
〈わざわざ買って来てくれたのか。ありがとう〉
「まぁ、初詣で御守り買わないのは無いな、と思ってな。他にも色々あった。子宝祈願とか」
〈なんで数ある御守りの中からそれを選んだんだ〉
「子供は多い方が良いじゃん」
「……」
どっこいしょ、と声をかけ白川が私の隣に腰を掛ける。その瞬間、白川がコートのポケットに赤い御守りを入れたのが見えた。
〈白川は、何を買ったんだ〉
「え? 御守り」
〈いや、そうじゃなくて〉
私の言葉に、彼がなにやら考え込む様な表情を見せる。しかし、すぐさま普段の表情に戻り、「何買ったと思う?」と問い返してきた。年齢当ててみて、という女並みにうざい質問だ。
〈子宝祈願〉
一気に興味が失せ適当に返すと、白川が「いや、なんで数ある御守りの中からそれ選んだ」とやや引き気味に言った。お前にだけは言われたくない。
「もっと真面目に答えろよなぁ」
白川は口を尖らせるも、すぐにまぁいいやと言ってポケットから買ったばかりのものであろう缶コーヒーを取り出した。
私が買ったコーヒーはミルク多めの甘いカフェオレ。しかし、白川の手に持たれているのは大人の男性が飲む様なブラックコーヒーだ。カシュ、と音を立ててプルタブを起こし、自然な流れでコーヒーに口を付ける白川の横顔を見つめる。
白川はいつも、炭酸飲料やジュースばかりを好んで飲んでいた。そんな白川がまさかブラックコーヒーを選ぶとは思わず、なんだかいつもの彼ではない様な気がして変に鼓動が早まる。
「まぁ御守りなんか殆ど効果無いけどな。要するに気の持ちよう。こんなの気休め」
〈お前いつかバチ当たるぞ〉
「こんな、千円程度の御守り一つで願い叶ったら逆に困るし、バチだって当たらねぇよ」
〈じゃあなんで買ったんだ〉
「ノリと勢い」
〈本当にバチ当たり〉
いつの間にか缶コーヒーを空にしていた白川が、ベンチのすぐ傍に置かれている缶専用のごみ箱に缶を投げ入れた。ガラガラと騒がしい音を立てて、白川が投げ入れた缶がゴミ箱の中の空き缶と混ざる。
「お参りも終わったし、寒いし、帰るか」
寒いは余計だが、もう神社で出来る事は終わってしまった。三が日も終わったからか出店も無く、これ以上ここに留まる必要は無い。何となく名残惜しい気持ちになりながらも、白川の言葉に頷いた。
ベンチから腰を上げ、自身の膝の上に乗せていたカフェオレをコートのポケットに押し込む。熱々だったカフェオレは雪と気温のせいか冷えるのが早く、触っていればなんとなく温かさを感じない事も無いが、カイロ代わりにはなりそうになかった。飲みながら帰る事も考えたが、この雪の中微妙な温度のカフェオレを飲むのは気が進まない。それなら、自宅に帰ってから温め直して飲む方が余程良いだろう。
雪の上を歩く度に、ザクザクと音がする。私と白川の間に会話は無く、やけに静かだ。
帰ったら、また先程と同じ様に課題だろうか。白川も私も課題の大半を終わらせている為そう急ぐ必要性は無いのだが、如何せん我が家には何も無い故に課題以外やる事が無い。
そういえば、最近映画を観ていないな。私は読書の次に映画鑑賞が趣味であり、母が生きていた頃はよく二人で色んな映画を観ていた。テレビが無い為視聴は全てノートパソコンだったが、二人で観るだけなら充分だ。
それに今はサブスクリプションなるものがあり、わざわざレンタルビデオ店まで足を運ばなくとも自宅で簡単に映画や動画が視聴できる。
白川は、映画に興味があるだろうか。白川の性格上あまり興味がある様には見えないが、提案だけはしてみても良いかもしれない。
右手に持っていたスマホを操作し、白川にメッセージを送る。
〈映画、興味あるか〉
「映画? 興味無くは無いけど、好きなジャンルは狭いよ」
〈帰っても課題しかやる事無いだろ。ネットで映画でもレンタルして、観てみるか〉
「あぁ、なるほど」
白川が顔を上げ、曇った空を見上げる。
「この天気の中遊びに行くのはちょっと、だもんなぁ」
〈初詣に誘ってきた奴に言われたくは無いが〉
「初詣は違うじゃん。儀式みたいなもんだし」
〈儀式言うな〉
白川と並んで神社を後にし、ザクザクと足元で音を立てながら道を進んでいく。
正月は、サブスクリプションに加入する人が多いと聞く。暇を持て余した独り身の人達がこぞって加入し、大量に映画を観ては時間を消費するのだとか。
もしかすると、有名どころの映画が半額になっているかもしれない。利用客が多い時期は、映画半額セールや無料トライアル期間増加などの広告をよく見る気がする。
「俺、あの映画観たい。タイトル忘れたんだけど、沈没した豪華客船のやつ。確かイギリスの……サウサンプトン? からアメリカのニューヨーク、に渡った、実在した船の話じゃなかったっけ。その船の、沈没までを描いた恋愛映画」
〈そこまで情報揃っててなんでタイトルだけ忘れるんだよ〉
「俺あんまりタイトル覚えないから……」
彼の説明で、なんの映画かは直ぐに察しが付いた。母が好きで、よく観ていた映画だ。私も母の隣で観ていた為ストーリーはしっかりと覚えている。涙無しでは観られない映画だ。
「タイトルなんだっけ、船、実在、映画、とかで調べれば出てくるかな」
〈もうちょっと頭良く検索して欲しいものだが。まぁ、有名な映画だからその情報だけでも出てくるだろうな〉
「え? 遠海知ってんの?」
〈母が好きだった〉
「そういうの早く言えよ」
母が好きで、繰り返し観ていた映画を観るのは複雑だ。それも、人の死が関わる映画を。
だが、白川と一緒だったらそれも観られる気がした。彼が隣にいれば、嫌な事を考えず、母があの映画の何処に惹かれたのか、という所まで考えられる様に思える。――そんな考えは、甘いだろうか。やはり、彼と共に居ても母を思い出してしまうだろうか。
「――遠海」
彼に名を呼ばれ、顔を上げた。
「道路凍結してて、危ないから」
そう言って、白川が此方に手を差し伸べる。
彼の言葉に、これから進む先の道路が凍結している事に気付いた。考え事をしながら歩いていたら、きっと滑って転んでいた事だろう。彼の手を握る事に少々躊躇いを覚えるも、今まで彼に触れた事は幾度と無くある。それこそ、頭を撫でられたり、バスで補助して貰ったり――お姫様抱っこされたり。今更手を握る事に躊躇いを感じてどうする、と自身の思考に呆れ、彼の手を取った。
その手は、冬だというのに僅かに温かい。冷え性の私は直ぐに手足が冷えてしまうのだが、白川は冬でも体温を奪われずにその手足に熱を保っていられるタイプの様だ。
彼に手を引かれるまま、慎重に凍結した道路を歩いていく。
〈ありがとう。凍結してるの、気付かなかった〉
凍結した道路を抜けた先で、パッと彼から手を離しスマホでメッセージを送る。あとは、信号を渡って、歩道橋を渡れば自宅に着く。横断歩道は車通りが多いからか、隅に雪が多少残っているものの、凍結は無さそうだった。
「あんまり言いたくは無いけど、足悪いと危ないだろ。転んだら悪化するかもしれないし、変な痛め方するかもしれないし」
〈そうだな。気を付ける〉
彼の言葉に頷いたと同時に、横断歩道の信号が青に変わった。ゆっくりと歩を進めながら、メッセージアプリを閉じ、映画の配信サービスを検索する。
何処が一番作品数が多いのだろうか。サブスクリプションなるものは過去に使った事が無い為、正直疎いなんて程度ではない。とりあえずは、白川が希望するあの映画が観られれば良いのだが、折角加入するのなら作品数は多い方がいい。それとも、普通にレンタルビデオ店のオンラインでレンタルした方が早いのだろうか。いや、レンタルビデオ店のオンラインを利用するとDVDが宅配で届くだけな気がする。――だめだ、分からない。
ここは素直に、恥を忍んで白川に聞いた方が早いだろう。そう思い、メッセージアプリを開いた。瞬間。
「あ、ぶなっ――!」
白川の切羽詰まった声が背後で聞こえたと同時に、ドン、と何かに強く背を突き飛ばされた。
――この感触を、私は知っている。私の背にこびりついて離れなかった感触、思い出したくなかった感触。
飽和させる、あの、夏が――
足が痛い。右足首を、痛めてしまった様だ。
ただでさえ足が悪いのに。先程、白川に気を付けると言ったばかりなのに。
広がる惨状を目の前に、雪の残る道路に座り込みそんな事を考える。
縁石に乗り上げた赤い軽自動車。ヘッドランプには罅が入っていて、フロントバンパーは無残な程に凹んでいる。僅かに血液が付着している様に見えるが、あれは車体の色がそう見せているだけだろうか。
「 」
名前を呼びたくても、喉からひゅうと異音がするだけで声が出ない。横断歩道の白線を赤く濡らしていくのは、雪でも無く車の塗装でも無く――血液。
状況に、理解が追い付かない。追い付かないはずなのに、嫌というほどこの光景が目に焼き付いていく。
呼吸が浅くなり、瞳から涙が零れ落ちる。動かない足を放り、両手を突いてコンクリートの上を這う。横断歩道の上でうつ伏せになり、ただただ血を零し続ける――白川に、近づく。
何故、こんな事になってしまったのか。私がスマホなんか見ていたから。家に帰ってから調べればよいものを、青信号だからと油断して、どうだっていい情報を調べていた。
彼は凍結した道路を歩く事を案じて、手まで貸してくれたのに。こいつは、そういう奴なのに。なのに、なのに、なのに、私は、自分の事だけ考えて、白川の事を、そもそも周囲を、見ていなかった。あの時もそうだ。目先の海だけに囚われ、周囲を見ていなかった。母の言葉にも気付けなかった。何故私は同じ事を、何故、こんなにも無様に同じ事を繰り返しては他人を傷つけてしまうのか。
溢れる涙が、彼の黒いコートの上に落ちる。視界が暗く、狭くなっていく。
音の無い、慟哭。脳の神経が焼き切れそうな程の、深い後悔と自分への憎悪と怒り。
――いつか、白川とも別れが来る。それは、覚悟の上だ。
――その為にも、今のうちに白川との思い出を残しておきたい。少しでも、白川の中に残れる様に。少しでも、私の中に白川が残る様に。
――あと何回その顔が見れて、あと何回その声が聞けるだろう。
家を出る前、白川を見ながらそんな事を考えた。馬鹿な、考えだった。
別れの覚悟なんて、出来ている訳がなかった。
何が、今のうちに思い出を残しておきたい、だ。何が、一緒に居たい、だ。本当に思い出を残したいのなら、本当に一緒に居たかったのなら、〝あの夏の出来事〟を忘れ去るのではなく、脳内に刻み付けて同じ過ちを繰り返さない様にするべきだった。
誰かが、私の肩を掴む。私を案ずる声が聞こえる。いつの間に時間が経過したのか、遠くから救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。
しかしどれだけ周りの状況が変わっても、私の瞳は倒れる白川を映したままだった。
そうこうしている間に救急車が近くに停車し、隊員がストレッチャーを押しながら降りてくる。周囲の人に肩を掴まれ白川から引き剥がされ、隊員が容態を確認しながら彼の身体を動かしている。そしてストレッチャーに乗せられた白川が救急車の中へと運ばれてゆき、私は咄嗟に肩を掴む人の手を振り払った。痛む足など関係無しに何度も転びながら救急車に近付き、隊員の一人の腕を掴む。
「ご家族の方ですか? お怪我は?」
そう問われるが、答えたくても答えられない。しかし取り乱した私を見て、その隊員は状況を察してくれたのか、慣れた手つきで私を補助し、ストレッチャーの隣のソファに座らせてくれた。
車内には独特の消毒液のにおいが充満しており、息を吸う度に頭の奥が疼く様に痛みだす。隊員の声も、車載モニターの音も、ぼんやりとしていてやけに遠くで聞こえる。あの、青い夢の中の様だ。
いっそ、この状況も夢であってくれないか。初詣に行った事も、雪が降った事も全て夢で、起きたら白川が何事も無かったかの様に、いつも通りの顔をして我が家に来てくれないか。そうであったとしたら、どれだけ幸せな事だろう。もし本当に夢だったなら、私は絶対に同じ過ちは繰り返さないのに。
気が付けば大きな病院――学校近くの大学病院の様だ――に到着していて、医者や看護婦がストレッチャーを押して白川を手術室へと連れて行ってしまった。
なんとか足を引き摺りその後を付いて行くが、辿り着いた頃にはもう手術室の扉は固く閉ざされていて、点灯した赤いランプに手術中だという事を悟る。
人のいない、手術室の前。床に座り込み、痛む頭を押さえる。
何故、こんな事になった。何故、白川が事故に遭ったのか。何故、事故に遭ったのが私ではなかったのか。
去年の夏、初めて一人で訪れた墓参り。とてもとても暑い日だったのを覚えている。
その時私は、初めて亡き母に問いかけた。
――『私はこれからも、貴女の命の上で生きていってもよいのでしょうか』
母の後を追うつもりは無かった。だけど、一人きりで生きていく覚悟も、気力も無かった。
命を落としてでも私を庇った母の為にも、生きていかねばならない事は分かっていた。だがどうしても、希死念慮が消える事は無かった。
しかし白川と出逢って、いつの間にかその感情は薄れていった。いつの間にか母の事を思い出す時間が減り、白川の事を考える時間が増えた。
なのに、この有り様だ。
私が、スマホなんて見ていなければ。そもそも、初詣になんて行かなければ。
珍しい積雪に、外に出たいと思った時点で間違っていたんだ。ただ黙って課題を熟していれば良かった。
――いや違う。もっと前から間違っていた。私と白川が、最初からただのクラスメイトでいればこんな事にはならなかったのだ。家に招いたりなどしたから。変に距離を縮めてしまったから。
そもそも、出逢った時点で既に間違っていたのではないか?
怪我をした足が痛む。その痛みは、痛いなんて言葉で表す事は出来ず、あの夏の事故を彷彿とさせた。
あぁ、そうだ。家族に連絡をしないと。白川の家族は、彼が病院に運ばれた事を知らない。
しかし、一体誰に連絡をすれば良いのだろう。水商売をしている母親は、白川の事を疎んでいた。そんな彼女からすれば、白川が病院に運ばれたなど知ったことでは無いだろう。寧ろ、願ったり叶ったりかもしれない。
一番伝えなくてはならないのは父親だ。しかし、父親の連絡先など知らない。
ふとそこで、先程救急車の中で隊員から白川のコートを渡された事を思い出した。私の腕に抱かれているのは、血液が付着した黒いコート。コートのポケットを漁り、白川のスマホを取り出す。
機種にもよるが、スマホにはパスコードを解除しなくとも緊急連絡先が見れる便利な機能があったはずだ。スマホを買った時、店員にそんな事を言われた記憶がある。勿論それは、持ち主本人が登録していれば、の話なのだが。
彼が父親を緊急連絡先に登録している事を願って、スマホの電源を入れた。
ロック画面の下方にある緊急通報ボタンを押し、表示されたキーパットの更に下にある[医療情報]を開く。ディプレイに表示された、名前、身長、体重、血液型などの情報。そのまま下にスクロールさせると、〝父〟の文字と共に電話番号とメールアドレスが書かれていた。緊急連絡先はその一件のみだ。身寄りの狭さを意味する登録画面に胸が痛くなるのを感じながらも、そのメールアドレスをタップする。すると、メール作成画面がディスプレイいっぱいに表示された。
本来ならば、電話をするのが一番だ。声が出ないのなら、病院関係者に連絡して貰うべきである。しかし白川の事で、今私に出来る事は他に何も無い。ただ。ここで手術が終わるのを待つしかない。そんなの、耐えられなかった。
問題があるのなら、後程病院関係者から電話を入れて貰おう。そう自身に言い聞かせ、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理する様にゆっくりとキーボードを打ち始めた。
メールには基本的文字数制限は無いが、長々と書いても仕方が無い。自身の名前と、白川が事故に遭った事、そして運び込まれた病院名と、現在手術中だと言う事を簡潔に纏めて、三度程読み返した後送信ボタンを押した。
このメールが、白川の父親に無事届いたか確かめる術は無い。今はただ、送ったという事実に安堵し、信じるしかない。
スマホの電源を落とし、膝の上に両手を投げ出す。溜息をつき、その場に項垂れた。
「……」
視界の隅に映った、赤い物体。吸い寄せられる様に、それに目を向ける。
それの正体は、白川が先程神社で買った赤い御守りだった。どうやら、コートのポケットからスマホを取り出した際に落としてしまったらしい。
『何買ったと思う?』
神社のベンチで、白川にそう問われた事を思い出す。
あの問いに、私はなんと答えたのだったか。確か、子宝祈願だなんて言って真面目に答えようとしなかった。
そっと手を伸ばし、その御守りを拾い上げる。此方側には、金の糸で神社の名前が刺繍されていた。裏側には、彼が願った事が刺繍されているはずだ。
学業成就? 無病息災? 厄除け祈願? もしかすると、白川の事だから金運上昇や開運祈願かもしれない。それとも、母親との関係の修復を願って家内安全だったりするのだろうか。
色々な事を考えながら、手に持っていた赤い御守りをひっくり返す。
――恋愛成就。
金の糸で刺繍されたその文字を見て、思わず目を見張る。
御守りは、色々な人が持ちやすい様に複数の色が用意されている事が多い。白川なら絶対に青を選ぶだろうと思っていたのに、赤い御守りを持っていたのは妙だと思った。
白川は特別赤が好きという訳でも無く、どちらかと言えば暗い色を選びがちだ。なのに、そんな彼が赤い御守りを買っている時点で、何かに気付くべきだった。
今までの白川の言動を見ていて、彼の想い人が誰か分からない程私は馬鹿じゃない。秋口の、放課後の教室での椎名さんとの会話だって、家に来るようになってからの白川の言葉だって、今まで私がバスに乗りやすい様に補助してくれていたのだって、病院に付き添ったのだって、全ての理由はこの言葉だけで片づけられる。
――好きだから。
恋愛成就の赤い御守りを握り締め、床に座り込んだまま近くの硬いソファに突っ伏す。
御守りなんて殆ど効果が無い、要するに気の持ちよう、なんて言っておいて、なんでこんなもの買ってるんだよ。さっさと言葉にすればよいものを、このヘタレが。
そう内心毒づきながらも、そんな彼の事を堪らなく愛おしく思ってしまうのは、きっと私も同じ様に思っているからだ。
彼の事を好きになったから、学校で執拗に絡んできても突き放さなかった。好きだから、誰にも話さなかった過去を話した。好きだから、あの晩一人でいる白川に声を掛けた。好きだから、料理も覚えた。好きだから、カウンセリングでの会話も増えた。好きだから、好きだから、全て、好きだから。
遠くへ引っ越してしまうだけなら、どうとでもなる。でも、母と同じ様に、〝死〟が引き裂いてしまったら、もう何も出来ない。言葉は伝わらない。
何で、このタイミングで。何で、今になって。――こんな事に、気付いてしまうなんて。
ぽつぽつと、止まったはずの涙がソファに落ちた。それと同時に、胸の中に育った蕾が音も無く花開いていく。
――今更咲いたって、もう、遅いんだよ。
涙は止めどなく溢れるのに、呼吸が浅くなるだけで、嗚咽が漏れる事は無い。叫びたくても、暴れ出したくても、そんな事今の私には出来ない。
酷い、出血だった。あの夏を回顧する程の怪我だった。医学知識の無い私にも、命に関わるかもしれないと言う事位分かる。
身体が、とても冷えている。ガタガタと震えが止まらず、自身の身体を抱く様にして両腕を摩った。
しかし、この病院内は汗が出る程に暖房が効いている。寒さを感じるはずがない。
それでも、すごく寒い。意識が朦朧とする程に、寒い。
そういえば、あの夏もそうだった。暑い暑い夏だというのに、私は寒さで身体の震えが止まらなかった。汗は止まらないのに、身体の奥底が凍っている様な。とにかく私は、身体を丸めて寒さに耐えていた。
あの、夏の日――
*
ジワジワと、建物の外から蝉の鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声が、自分を責め立てている様で酷く不快だった。
母の死後は、火葬式だけで終わった。親戚が少ないのも理由の一つだが、大人の事情というものもあったのだろう。しかし当時中学生だった私には、何故通夜も無ければ葬儀も告別式も無いのかが分からなかった。
『――まだ中学生なんだから、保護する者がいない訳にはいかないだろう』
『――来年には高校生になるじゃない! 高校生なら、一人暮らし位普通でしょう?』
『――だが、世間体というものがあってだな……』
『――世間体も何も、もう長年会ってなかったんだから他人も同然じゃない! うちの子は受験生なんだから、今家庭を乱されるのは困るのよ!』
私がすぐ傍で聞いているというのに、お構いなしに口論しているのは叔父と、その妻である叔母だ。父方も母方も祖父母は既に他界していて、親戚と呼ばれるのは長年会っていなかった母の兄弟しかいない。
しかし母はその兄弟と折り合いが悪かったらしく絶縁状態で、叔父は母の事にも私の事にも無関心だった。そして更には叔父は金持ちの家に婿入りをしたらしく、妻である叔母に強くものを言えない様でもあった。
そして今、母を火葬している最中だというのに私を引き取るか引き取らないかで酷く揉めている。
『――真姫』
突然名を呼ばれ、顔を上げる。
叔父は怖い位に無表情で、その後ろに控える叔母は私をきつく睨みつけていた。
『――高校の入学手続き、アパートの名義変更、そして金銭的援助はしてやる。だからお前は、今まで通りあのアパートで暮らしなさい』
「……え」
喉から絞り出した声は、酷く小さくて枯れている。
今思えば、この時の声が最後の声だった。私に無関心な叔父に向けた、この声が。
『――お前が望むなら、今より良いマンションを与えてやってもいい』
叔父の言葉に、慌てて首を横に振る。あのアパートは、確かにボロく狭苦しい場所だったが、母との思い出がつまった大切な場所だ。奪われる訳にはいかない。
『――まぁ、お前も母親と二人で暮らしてきたあのアパートの方が生活がしやすいだろう。厄介事に巻き込まれ、此方に飛び火するのは御免だが……、そこは良い。暫くは、足の事もあって不便だろうが、治療費も学費も此方で面倒をみる。だから、此方の家庭には一切干渉をしない事。……分かったね?』
大人は上手く、狡く、人を誘導するのだと思った。こんな事を言われてしまえば、従わない訳にはいかない。
叔父の言葉に小さく頷くと、叔父が溜息をつきながら、
『――返事も出来ないのか、あいつの娘は』
と憎らしげに言った。
『――そもそも、学費までこっちで面倒見る必要なんかないんじゃないの?』
『――私立に行くわけでもないんだから、大した額にはならない。それに、あの足じゃバイトも仕事も出来ないんだから援助しない訳にはいかないだろう』
『――だって私達には関係ないじゃない! 面倒見るのは、お金の事だけですからね! あの子の為に時間を割くなんて、私は絶対に嫌ですから! 私達が最も大事にしなきゃいけないのは、後継ぎであるうちの子の未来だけなのよ!』
『――分かっているから、そう大きな声を出すな。あの子とは今後関わらない様に上手くやる。だからお前もあの子に関わるな。間違っても、下手に関わって問題事を起こすなよ』
遠くで叔父と叔母が言い争う声が聞こえる。しかし、今の私にはどうだって良かった。
私は、母を喪った。私は一人だ。
今までもそうだった。結局、私は一人になる運命なのだ。
下手に引き取られなくて、良かったかもしれない。ただでさえ自由に歩ける足を失ったというのに、叔母やその子供である従妹から虐げられるなんて事があれば私は生きていけないだろう。
車椅子のハンドリムをぎゅっと握り、全てから逃げ出す様にその場で目を伏せた。
――母の火葬式が終わって一週間ほどが経過したある日。叔父から、毎月二十八日に生活費を振り込むから確認しなさいと一方的に告げられた。此方に連絡を寄越すのは、金が振り込まれていなかった時だけにしてくれ、とも。
電話での連絡だったが、私は一言も喋る事は無かった。その時点でもう声を失っていたからというのもあったのだが、叔父が喋る隙を与えなかった、という方が正しかった。
そしてその月の二十八日、叔父に言われた通り銀行口座を確認すると、とても一人では使いきれない額が振り込まれていた。それこそ、オートロック付きの高層マンションを借りても余る程の額が。
その振り込まれた金を見て私は、『金銭的援助はしてやるから絶対に此方には関わるな、絶対に頼るな』という意味が込められている事を悟った。
それに対して怒りも悲しみも何も無かったが、それと同時に毎月振り込まれる金を意地でも使い切ってやろうなんて事を思った。それからだ。棚にぎっしりと埋まる程本を買い漁る様になったのは。それでも、振り込まれた額をひと月で使い切れた事は無く、口座に金は溜まっていく一方なのだが。
しかしそれでも、叔父に感謝はしている。この足のせいでバイトも何も出来ない私に、金だけは与えてくれたのだから。
だが私の心にはぽっかりと穴が空いたままで、ただ有り余る金を見ては虚無感を抱くばかりであった。
白川の手術が終わったのは、十八時を少し回った頃だった。手術に時間が掛かったのか、それともこれが妥当な時間なのかは私には分からない。
手術が終わるまでの間、警察が来て色々と事故の説明をされた。軽自動車を運転していたのは老人で、赤信号だという事に気付かず横断歩道に突っ込んでしまったらしい。
それ以外にも色々と状況確認等をされたが、細かい事はよく覚えていない。多分、白川が庇ってくれた、自分は事故の瞬間を見ていない、位の事しか伝えていない気がする。警察は家族が来たらまた改めて説明する、などと事務的に伝えて帰っていった。
手術が終わり、もう彼此一時間が経つ。ICUに入れられた白川には沢山の管が繋がれていて、私はそれをガラス越しに見ている事しか出来なかった。
幸いにも命に関わる怪我では無く、現在はバイタルが安定しているらしい。手術を担当した医者からそう聞いた。しかし今後脳に血種が出来る可能性もあり、今はまだICUから出られないのだとか。
意識が戻り、血圧も安定して自力でナースコールが押せるようになったら一般病棟に移れるよ、と医者は優しく言って、私の頭をぽんと撫でた。何処か、カウンセラーの瀬那先生に重なる優しそうな医者だった。この人に任せれば、きっと白川は目を覚ましてくれるだろう、なんて錯覚してしまう位には。
長く暖房の効いた病院にいたからか、喉が渇いてしまった。その喉の渇きに気付いたのはICUの中で眠る白川を見つめ一時間半が経過してからの事だったが、精神的に限界だったのだろう。時計を見た瞬間、今まで感じなかった右足首の痛みが突然現れ、その場に崩れ落ちそうな程の疲労感に襲われた。
大学病院程大きな施設であれば、何処か探せば自販機があるはずだ。白川が着ていた黒のコートを抱き締めたままICUの前から離れ、ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く。途中、看護婦や医者と擦れ違う度に「足を怪我しているのではないか」と心配されたが、今は誰とも話す気分になれなかったうえに、足の治療も受ける気にはなれなかった為、全て首を横に振ってその場をやり過ごした。
幸いにも、自販機は直ぐに見つかった。通話可能エリアのすぐ傍に、メーカーの違う自販機が三つ置かれている。ぼんやりと並んだラベルを眺めるが、何を見ても〝飲みたい〟という感情が湧かない。きっと身体が、甘いものやさっぱりしたもの、苦いもの温かいもの、などといったものを欲していないのだろう。ただ漠然と、喉を潤したいと思うだけだ。これ以上眺めていても仕方が無いと、並ぶ飲み物の中で最も価格が安い水を選んだ。
ガタン、と取り出し口の中に落ちた水が、人のいない夜の院内に響く。
疲労故か、ペットポトルのキャップを開けるという、たったそれだけの動作に随分と時間が掛かってしまった。中々力が入らず、キャップの凹凸が手指を刺激してじんじんと痛む。
漸く、カチリと音を立ててキャップが開いた頃。腕に掛けた白川のコートから、僅かに振動が伝わってくるのを感じた。それがスマホのバイブ音だという事に気付き、開けたばかりのペットポトルのキャップを閉めながら通話可能エリアに向かう。そしてコートからスマホを取り出すと、白川のスマホのディスプレイに〝父〟の文字が書かれていた。
応答マークをスライドし、スマホを耳に当てる。
『――もしもし?』
スマホ越しに聞こえてきた、何処か温かさを感じさせる低い男性の声。その声を聞いて、最も重要な事を思い出した。
そうだ、私は声が出ないのだから、人と電話が出来ないのだった。電話に出る事は出来ても、会話が出来ない。何故、何も考えず出てしまったのだろう。
声を失ってからというもの、人から電話が掛かってくる事は無く、この様な状況に直面する事自体が無かった。故に、恐らく昔の癖でつい反射的に出てしまったのだろう。自分の迂闊さにうんざりしながらも、どう応答しようかと考えあぐねる。すると、電話の向こう側から『もしかして、君が遠海さんかな』と優しげな声が聞こえた。
『もし間違いないなら、スマホのマイク部分を一度指先で叩いてみてくれるかな』
何故、言葉を発していないというのに私だと気付いたのだろう。そう疑問に思いながらも、言われた通り指先で軽くマイク部分を叩く。
『あぁ、やっぱり君が遠海さんだったんだね。病院の人にスマホを預けているかもしれないと思って電話を掛けたんだが、君が出るとは思わなかった。すまない、配慮が欠けていたね』
彼がそこで一度言葉を区切るが、私への配慮かすぐさま言葉を続けた。
『君に幾つか質問をしたいのだが、YESなら一回、NOなら二回、マイク部分を叩いて応えてくれると助かる。出来るかな』
そんな方法で、本当に伝わるのだろうか。メールに切り替えた方が確実なのではないか。なんて不安を抱くも、今はそれすらも伝えられない。今出来るのは、彼の言う事に従う事だけだ。指先でもう一度マイクを叩くと、『ありがとう、助かるよ』と優しい声が返ってきた。
どうやら、これでちゃんと受け答えが出来ているらしい。杞憂に終わって良かったと安堵する。
『雪斗の手術は終わったかな』トン、と一回マイクを叩く。
『容態は安定している?』再び、一回。
『もう目を覚ました?』今度は、二回。
『君はまだ病院に居るのかな』一回。
私の反応は全て伝わっている様で、彼が長い溜息をついたのち『なるほど』と零した。
『今、タクシーで病院に向かっているんだ。恐らくあと十分程で着くと思うから、君には申し訳ないがもう少し病院で待っていてくれるかな。少し君と話がしたいんだ』
私と?
一体何を話すというのだろうかと、思わず固まってしまう。
もしや、息子を事故に遭わせたなんて、と、この疫病神と罵られるのだろうか。――いや、罵られて当然の事を、私はしたのだけど。
マイクを一度叩くと、彼は『ありがとう、では失礼するよ』と変わらずの優しい声で告げて、電話を切った。プツ、と電波が切断された音を最後に、スマホからは何も聞こえなくなる。
音の聞こえないスマホを耳に当てたまま、暫くその場に立ち尽くし壁に貼られた〝通話可能エリア〟と書かれた張り紙を見つめる。
あと十分。それは、短くも長くも感じられる時間だ。
とりあえず、白川が眠るICUまで戻ろう。あまり院内を無駄にうろうろしていれば、会えるものも会えない。
先程買った水の存在も、喉の渇きも忘れたまま、ただこれから会う白川の父親とどの様な会話をすればよいのかと、働かない頭をなんとか動かし廊下を歩いた。
*
ガラス張りになっているICUの前のソファに座り、ぼんやりと電源の落ちた白川のスマホを見ていると、遠くからパタパタと二人分の足音が近付いてきた。顔を上げ、その二人に目を向ける。
――あぁ、皮肉だ。まさか、こんな。
二人のうち一人は、ICUに何度か出入りもしている看護師だ。もう一人は、黒のスリーピーススーツにトレンチコートの、少々堅苦しい恰好をした――北条涼太だった。
その顔は何度もネット上で見ている為、見間違える筈が無い。白川の言葉を疑っていた訳では決してないのだが、彼の父親は本当にあの小説家、北条涼太だったのだと思い知らされる。
あれほど、会いたいと、会話をしたいと願った人物。短冊にまで、書いてしまう程。
何度彼と話す事を願ったか。何度彼の言葉を聞く事を望んだか。
そんな夢が、こんな状況で、こんな場所で叶うだなんて、皮肉以外のなんであるのか。
彼は看護師に案内されるままICUのガラスに近付き、食い入る様にベッドに眠る白川を見つめる。そして数秒。ゴン、とガラスに額を付け、絶望が感じ取れる程の重い溜息をついた。
「――今の所バイタルは安定しています。ですが、容態が急変する可能性も無いとは言い切れないので、現在此処で様子を見つつ、投薬治療をしています」
看護師が冷たいとも温かいとも言えない事務的な声で、彼に状況を説明する。
「目覚める見込みは? 後遺症は? 容態が急変する確率は? 急変したら、――死ぬ、という事ですか」
先程の電話と同じ声だというのに、その声には優しさも温かさも無い。
矢継ぎ早に質問をする彼に向って、看護師が「お気持ちお察し致します」と前置きをした後、「現時点では、お答えできません」そう言って、軽く会釈をしたのちこの場を去っていった。
その看護師の背を見つめていると、彼――北条涼太がゆっくりと振り返り私に目を遣った。視線に気づき、慌てて顔を彼に向ける。
「君が、遠海さんだね」
憔悴しきった顔に無理矢理笑みを浮かべ、
「先程は無理に電話を続けてしまってすまなかった」
精一杯、優しさを見せようと頑張ってくれているのだろう。看護師に向けた声とは違っていて、電話越しで聞いた声に戻っていた。しかし、上げた口角が僅かに震えていて、彼なりにこの状況を酷く悲しんでいるのだという事が分かる。
胸の内に沸き上がるのは酷い後悔と、安堵感。白川から母親の話を聞いていたからだろうか、白川の身をこうも案じる人間が身内にいた事に、深く安堵する。しかしそれと同時に、白川を大切に思っていた彼にそんな顔をさせてしまった罪悪感が心中を埋め尽くす。あの、ICUのベッドに眠っているのが、白川でなく私であれば良かったのに、と。
ぼんやりと、その悲しげな笑みを見つめる事数秒。「えっと……」と続けた彼の言葉にはっと我に返り、慌てて着ていたコートのポケットから自身のスマホを取り出した。
「あぁ、あのね、君の事は雪斗から色々と聞いているんだ」
彼が少々困った様に頬を掻く。
「声の事も、聞いてる。だから、無理して会話をしようとしなくていいよ」
まさか、自身が憧れていた作家が自身を認知していただなんて。こんな状況でなければ、羞恥と喜悦に卒倒していたかもしれない。
自身のスマホを握りしめたまま、彼の言葉に小さく頷く。
「此処だと、少し話しづらいね。確か入り口近くに小さなカフェがあったな。まだ営業している様だったから、そこで話そうか」
確かに、ここだと会話がしづらい。どれだけ会話に集中しようとしても、どうしてもガラスの向こう側に眠る白川に意識が向いてしまい、上の空になってしまいそうだ。再び頷き、ソファから腰を上げた。