足が痛い。右足首を、痛めてしまった様だ。
 ただでさえ足が悪いのに。先程、白川に気を付けると言ったばかりなのに。
 広がる惨状を目の前に、雪の残る道路に座り込みそんな事を考える。
 縁石に乗り上げた赤い軽自動車。ヘッドランプには罅が入っていて、フロントバンパーは無残な程に凹んでいる。僅かに血液が付着している様に見えるが、あれは車体の色がそう見せているだけだろうか。

「    」

 名前を呼びたくても、喉からひゅうと異音がするだけで声が出ない。横断歩道の白線を赤く濡らしていくのは、雪でも無く車の塗装でも無く――血液。
 状況に、理解が追い付かない。追い付かないはずなのに、嫌というほどこの光景が目に焼き付いていく。
 呼吸が浅くなり、瞳から涙が零れ落ちる。動かない足を放り、両手を突いてコンクリートの上を這う。横断歩道の上でうつ伏せになり、ただただ血を零し続ける――白川に、近づく。
 何故、こんな事になってしまったのか。私がスマホなんか見ていたから。家に帰ってから調べればよいものを、青信号だからと油断して、どうだっていい情報を調べていた。
 彼は凍結した道路を歩く事を案じて、手まで貸してくれたのに。こいつは、そういう奴なのに。なのに、なのに、なのに、私は、自分の事だけ考えて、白川の事を、そもそも周囲を、見ていなかった。あの時もそうだ。目先の海だけに囚われ、周囲を見ていなかった。母の言葉にも気付けなかった。何故私は同じ事を、何故、こんなにも無様に同じ事を繰り返しては他人を傷つけてしまうのか。
 溢れる涙が、彼の黒いコートの上に落ちる。視界が暗く、狭くなっていく。
 音の無い、慟哭。脳の神経が焼き切れそうな程の、深い後悔と自分への憎悪と怒り。
 
 ――いつか、白川とも別れが来る。それは、覚悟の上だ。
 ――その為にも、今のうちに白川との思い出を残しておきたい。少しでも、白川の中に残れる様に。少しでも、私の中に白川が残る様に。
 ――あと何回その顔が見れて、あと何回その声が聞けるだろう。

 家を出る前、白川を見ながらそんな事を考えた。馬鹿な、考えだった。
 別れの覚悟なんて、出来ている訳がなかった。
 何が、今のうちに思い出を残しておきたい、だ。何が、一緒に居たい、だ。本当に思い出を残したいのなら、本当に一緒に居たかったのなら、〝あの夏の出来事〟を忘れ去るのではなく、脳内に刻み付けて同じ過ちを繰り返さない様にするべきだった。
 誰かが、私の肩を掴む。私を案ずる声が聞こえる。いつの間に時間が経過したのか、遠くから救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。
 しかしどれだけ周りの状況が変わっても、私の瞳は倒れる白川を映したままだった。
 
 そうこうしている間に救急車が近くに停車し、隊員がストレッチャーを押しながら降りてくる。周囲の人に肩を掴まれ白川から引き剥がされ、隊員が容態を確認しながら彼の身体を動かしている。そしてストレッチャーに乗せられた白川が救急車の中へと運ばれてゆき、私は咄嗟に肩を掴む人の手を振り払った。痛む足など関係無しに何度も転びながら救急車に近付き、隊員の一人の腕を掴む。

「ご家族の方ですか? お怪我は?」

 そう問われるが、答えたくても答えられない。しかし取り乱した私を見て、その隊員は状況を察してくれたのか、慣れた手つきで私を補助し、ストレッチャーの隣のソファに座らせてくれた。
 車内には独特の消毒液のにおいが充満しており、息を吸う度に頭の奥が疼く様に痛みだす。隊員の声も、車載モニターの音も、ぼんやりとしていてやけに遠くで聞こえる。あの、青い夢の中の様だ。
 いっそ、この状況も夢であってくれないか。初詣に行った事も、雪が降った事も全て夢で、起きたら白川が何事も無かったかの様に、いつも通りの顔をして我が家に来てくれないか。そうであったとしたら、どれだけ幸せな事だろう。もし本当に夢だったなら、私は絶対に同じ過ちは繰り返さないのに。