冷淡人魚姫は、暴君白雪姫に恋をする。

「編入生の俺が来ても我関せずで窓の外見てるし、初っ端から筆談だし。校内案内も即答で断るし。変わってんなこいつ、と思ってたけど、その変わってる所に惹かれたっていうか。なんか、あー、こいつ俺と似てんなって思ったっていうか。お前だけは、他の奴らとは違って信じられるんじゃないかって思った。そんだけ」

 再び、白川が笑った。その拍子に、私の肩に乗せていた彼の頭が僅かに揺れて、髪が頬を擽る。

「今は、遠海の事信じてるよ。それに――」

 ピコン、と、白川の言葉を遮る様に待合室に設置されていたモニターから電子音が鳴った。モニターに表示されているのは、自身の受付番号。

「ほら、行ってこい」

 私に凭れ掛かっていた白川が身体を起こし、私の背を押した。
 振り返り白川に目を遣るが、彼の表情はいつも通りだ。大事な話をしていたはずなのに、彼は平然としている。
 モニターに表示された番号は点滅しており、これ以上白川と話している余裕は無さそうだ。渋々と診察室へ向かい、軽くノックをして扉を開いた。

「こんにちは」

 診察室を開いた先に居たのは、いつも通り優しい表情を浮べているカウンセラーの瀬那(せな)(あらた)先生。短髪に黒ぶち眼鏡が良く似合う男の先生だ。
 クリーム色のテーブルを挟んで瀬那先生の向かいに座り、ぺこりと浅く頭を下げた。

「遠海さん、今日はいつもと少し違うね。何かあった?」

 瀬那先生の言葉に返答しようと手元に視線を落とすが、白川との会話の途中だった為片手にはスマホが握られたままだった。慌ててスマホをポケットに押し込み、カバンの中からタブレットとペンを取り出す。そんな私を見て、瀬那先生が「慌てなくていいよ」と朗らかに笑った。

〈いつも通りです。多分〉

「多分?」

〈直前まで友人と話していて。会話の途中だったので〉

「そうだったんだね。直前、という事はメールでもしていたのかな」

〈いえ、その友人が今日は付き添ってくれていて。最近ではアプリで会話する方が楽なので、スマホを使う事の方が多いです〉

 そう書いたタブレットを見せると、瀬那先生が驚いた様に目を瞬かせた。

「今までも、こうしてお友達と一緒に来た事はあった?」

〈今日が初めてです〉

「そっかそっか。そのお友達と、今日一緒に来る事になった経緯を聞いても良いかな?」

「……」

 瀬那先生の言葉に、数日前の事を思い出す。
 そういえば、瀬那先生には白川の話をした事がなかった。白川と毎日家で過ごしている事も、学校で常に行動を共にしている事も、瀬那先生は知らない。
 何処から話せば良いのだろうか、と考えあぐねていると、先生が言葉を続けた。

「ここ最近の遠海さんが、前より僕と長くお話してくれる様になった事に関係があるのかな」

 その言葉の意味が分からず、ペンを握ったまま首を傾げる。

「今まで……そうだね、大体夏頃位までかな。悪く聞こえてしまうかもしれないけれど、遠海さんは僕と事務的な会話しかしてこなかったんだよ。好きな事を聞いても、最近何をしているか聞いても、〈特に何もない〉というだけでね。でも最近になって少しずつ言葉が増えてきて、読書を趣味にしている事とか、好きな作家の事とか、今まで読まなかった漫画を読む様になった事とか、料理をする様になったとか、色々教えてくれる様になって、話す時間が前に比べて平均で十五分も増えてるんだよ」

〈そんなに増えてましたか〉

「遠海さんは気付いていなかったんだね。僕は遠海さんの心に何か変化があったんだと思っていたんだけど、そのお友達が遠海さんを変えたんじゃないかな」

 心の、変化。
 自分では、細かな事は分からない。瀬那先生と事務的な会話しかしていなかった自覚すらなかった位だ。私は相当鈍いのかもしれない。
 しかし、私の心に変化を与えたとすれば、それは紛れもなく白川だろう。

〈先生、人の心に花が咲く事はありますか?〉

 私の言葉に、瀬那先生が首を傾げて「ん?」と問い返した。
 だいぶ不可解な質問をしてしまった様だ。慌てて【削除】ボタンを押し、ディスプレイにペンを走らせる。
〈これは好きな本の影響だったりするんですけど。ある人に出会ってから、心の中に芽が出て、幹を伸ばして葉を付けて、蕾が付いた、気がしたんです。例え話なんですけど〉

「なるほど」

〈それが、その蕾が、花開く事はあるのかなと思って〉

 瀬那先生が考え込む様にうぅんと唸る。しかしその顔には、優しい笑みが浮かんでいた。

「読書家、というだけあって遠海さんは面白い事を言うね。その花が開くかどうかは、遠海さんとその相手の子次第じゃないかな。これは僕の憶測だけど、その〝ある人〟というのが、今日一緒に来ているお友達なんじゃないかな?」

「……」

 瀬那先生から視線を外し、空いた左手で髪の毛先を弄りながら曖昧に頷く。すると瀬那先生は、何故だかとても嬉しそうに笑った。

「そのお友達、僕にも紹介してくれないかな」

〈紹介、ですか。不真面目な奴ですけど〉

「構わないよ、ここに連れておいで」

 瀬那先生に促されるまま、タブレットとペンをテーブルに置いて席を立つ。そして診察室の扉を開いて頭だけを外に出し、遠目に見える白川に向かって手招きをした。
 私の姿を見て数秒固まった彼が、一度振り返ったのち自身を指差して見せる。そのジェスチャーに頷くと、白川がいそいそとソファから立ち上がった。

「え、何。なんで俺?」

 此方に来るなり、白川が困惑の声を上げる。それに対して何も返答する事が出来ず、診察室の扉を大きく開いてとりあえず中に入るようにと促した。

「急に呼んでしまってごめんね。驚いたかな」

 瀬那先生の言葉に、「あぁ、はい。ちょっとだけ」と白川が曖昧に答える。
 私の隣の席に腰掛けた彼は、なんだか落ち着かない様子で瀬那先生の顔を見たり俯いたりを繰り返していた。こんな白川の姿が見れる事は殆ど無い為、なんだか面白く感じる。

「なんて呼んだらいいかな」

「えっと、白川、で」

「白川くんね。僕は、遠海さんのカウンセリングを担当している瀬那です。よろしくね」

 瀬那先生が朗らかに笑って、首下げ名刺を手に持って見せた。その名刺には、瀬那新の名と一緒に顔写真が印刷されている。
 どの位前に撮影されたものなのだろうか。前髪が長く表情の無い写真の中の瀬那先生は、とても今の先生と同一人物には見えない。しかし掛けている眼鏡が同じな為、瀬那先生で間違いはないのだろう。

「あの、なんで俺呼ばれたんですか。部外者が付き添いとか、まずかったですか」

「いやいや、そんな事はないよ。ただ、この一年ずっと一人だった遠海さんが初めて人を連れて来たから、どんな子なのかなと気になってね」

「え、親戚とかは……」

 白川の問いに、何処まで答えて良いか困ったのだろう。瀬那先生がちらりと此方に視線を遣った為、素早くタブレットに〈私に付き添ってくれる親戚はいない〉と書く。

「白川くんにとって、遠海さんはどんな存在なのかな」

「……どんな、って言われても」

 白川が困惑したように、まぁその、などと言い淀む。
 そして何故だか、彼の視線が此方に向いた。視線が交わると、焦った様に直ぐに逸らす。明らかに挙動不審な白川を見て、妙な不信感が募っていくのを感じた。
 白川は、私をどう思っているのだろう。そんなに、パッと出てこないものなのだろうか。
 確かに私も、瀬那先生に同じ事を問われたら直ぐには出てこないかもしれない。だが白川の事は、今は良い友人だと思っている。一緒にいて、安らぐ友人だと。

「遠海さん、少し、白川くんと二人で話してみてもいいかな」

 唐突に瀬那先生に話を振られ、慌てて顔を上げた。瀬那先生の顔は、変わらず穏やかだ。私のいない所で二人が私の話をするのは気分がいいものでは無いが、先生の頼みであれば従う他無い。小さく頷き、タブレットとペンをカバンに押し込んだ。

 今頃、二人は何を話しているのだろうか。クラスメイトの様に、私の悪口を言う事は無いとは分かっているのだが、気になってしまいそわそわと落ち着かない。
 診察室を出て、待合室のソファに深く沈み込み、意味無くメッセージアプリを開いて白川とのトークを遡る。一方的に私がメッセージを送ってばかりで、白川からのメッセージは少ない。時々、謎のスタンプが挟まれる位だ。
 ふと、先程の白川との会話を思い出し、メッセージアプリを閉じて検索エンジンを開いた。私が焦がれた作家であり、彼の父親である北条涼太の名前を打って検索をかける。
 出てくるのは、巨大フリー百科事典に載せられた北条涼太のプロフィール。名前、生年月日、出身地、言語、活動期間、ジャンル、代表作、主な受賞歴。そして来歴やメディア出演、著書などが全て書かれている。その中から、著書の一覧を開いた。出版作品は、全部で四作。全て、我が家の本棚に収まっている。
 ああ、そうか。自身の父親の本だから、白川は我が家の本棚に彼の本が全て揃っている事に気付いたのか。
 あの時は大して気に留めていなかったが、今なら分かる。自身の父親の本が人の家の本棚に並んでいたら、ついその作家――父親の話を振りたくなってしまうだろう。
 私は彼に北条涼太の話を振られた時、何と答えたのだったか。好きだと言った記憶はあるが、それ以上の話をしていない気がする。
 彼は、自分の父親を尊敬している様だった。ならば、もっと北条涼太の本が好きだと、彼の描く世界に恋焦がれていると伝えておけば良かったかもしない。そうしたら、白川はきっと喜んだはずだ。
 ――いや、本当にそうだろうか。喜びはするだろうが、彼の中学時代の話を聞いていて、彼にとって北条涼太は一種の地雷の様なものに感じた。決して踏み込まれたくないものの様な。
 人の心は複雑で、繊細だ。
 私の言動は正しかったのか、もっと他に出来る事があったのではないかと思い悩む。しかしどれだけ悩もうと答えが出てくる事は無く、大きく溜息をつきスマホを持った手をソファに投げ出した。
 新年を迎え、三が日が終わった一月四日の事。
 僅か二週間程だが冬休み期間である私達は、自宅のローテーブルでだらだらと寛ぎながら出された課題を熟していた。
 白川は真面目に課題をする気はさらさら無い様で、先程からオレンジ色のネットに詰め込まれたみかんを凄まじい勢いで消費している。そのみかんを買ったのは白川本人の為あまり文句は言えないのだが、このまま放っておけば全て食べ尽くしてしまいそうだ。みかんの食べ過ぎは、柑皮症や腹痛を引き起こす――と、聞いた事がある。知識は曖昧であり、更にはスーパーで買ったみかん位の量であればそこまで健康被害を起こす事は無いと思うが、そろそろ止めるべきだろう、と思いネットの端を引っ張り此方に引き寄せると、白川が何やら不満げに眉を顰めた。

「そういえば、今年初詣行ってないな」

 何を見て思い出したのか、白川がふと唐突にそんな事を言い出す。

〈私は去年も行ってない〉

「なんで? 女子ってそういう、神頼みとか願掛けとか好きなもんなんじゃねぇの?」

〈偏見だ。一昨年母が亡くなった事で去年は初詣どころでは無かった〉

「あー……」

 白川が曖昧な反応を示し、そろりとみかんへ手を伸ばす。その手をぱしりと叩くと、今度は大人しく手を引っ込めた。

「初詣行く?」

〈今からか?〉

「三が日終わったし、もう神社もそんな人居ないっしょ」

 白川はやけに楽観的だ。

〈考えが甘い、と言いたいところだが〉

 そこまで書いて、窓の外へ視線を向ける。それに釣られ、白川も窓の外へ目を遣った。

「遠海が言わんとしてる事は分かるけど、人居なさそうでしょ」

 白川の言葉に、小さく頷く。
 窓の外は一面銀世界。昨晩、白川が自宅へ帰った頃位から降り始めたが、まさか朝起きたらここまで降り積もっているとは思わなかった。積雪を見るのは、何年ぶりだろうか。
 毎年雪が降る事はあっても微雪程度であり、積もる事は殆ど無い。

「あと一日早ければ御降(おさが)りになったんだけどな」

〈降り始めたのは昨日の夜だから、一応御降りになるんじゃないのか?〉

 元旦や正月の三が日に降る雨や雪は、一般的に御降りと呼ばれているらしい。とてもめでたいものとされている様だ。
 最後に、正月に雨や雪が降ったのはいつだっただろう――なんて思うが、覚えている限りでは正月に雨や雪を見た事は無かった様な気がしてくる。
 確か、正月に雨や雪が少ないのは北西の風が原因じゃなかっただろうか。その風の方向にある山地や北陸では、雨や雪が降りやすいのだとか。そんな話を、昔何かで読んだ様な。
 大体天気は地形によっても変わってくる為、恐らくそれらが関わっているのだろう。ともなれば、今年の降雪は非常に珍しいものとなる。めでたいものとされているかどうかは、古い言い伝えや迷信などの様な気もする為よく分からないが、そう珍しい天気となれば意味が無くとも外に出て見たくなってしまうものだ。更にはそんな現在、目の前に〝初詣〟という理由がぶら下げられている。初詣自体に然程興味がある訳では無いのだが、外に出たいと思うのは確かだった。
〈初詣、行ってみるか〉

「え? 行くの?」

〈お前が行くって言い出したんだろ〉

 パタパタとノートや教科書を閉じてテーブルの隅に追い遣り、善は急げとローテーブルに手を突いて立ち上がる。そして痛む足を引き摺りながらハンガーフックに掛けていたコートを羽織ると、背後から慌てた様子の白川がついて来た。

「そんな軽装で良いのかよ」

 コートのポケットに財布やスマホを押し込んでいると、白川がコートを羽織りながら訝し気に言った。

〈そんなに遠くじゃないだろ〉

「いや、神社って……、あれ、初詣行くとは言ったけど神社って何処にあんの」

〈そんな事も知らないで初詣行くとか言ったのかよ〉

 スマホで開いていたメッセージアプリを閉じ、仕方なく地図アプリを立ち上げる。縮小拡大を繰り返し、現在地から神社までの道のりがディスプレイに収まる様に表示させた。
 その画面を無言で白川に見せると、「俺地図とか苦手なんだよなぁ」なんて零しながら彼がスマホを覗き込む。

「地図上だとめっちゃ近く見えるけど……」

 白川の言葉に頷き、彼の手からスマホを抜き取る。そしてメッセージアプリを再び立ち上げ、白川にメッセージを送信した。

〈すぐそこの歩道橋を渡って、信号二つ渡ったら神社がある。それ程大きくは無いが〉

「へぇ」

〈知らなかったのか?〉

「いやだって、俺この街に引っ越してきてまだ一年経ってねぇし。知らない場所だらけだわ」

 白川の言葉に、そういえばそうだった、と納得する。
 彼がこの街に来た正確な時期は分からないが、恐らくは去年の夏休み頃だろう。クラスメイトが夏休みを満喫している間、彼は編入試験やらで忙しかったに違いない。
 そう考えると、冬休み位は白川にも何か記憶に残る事をして貰いたい、なんて思えてくる。
 別に休みはこれが最後という訳でも無いし、また来年も再来年もあるのだが、何故だか白川には一度しかない学生生活を満喫して欲しいという願望があった。誰目線だよ、なんて自分自身にツッコミながらも、出来ればその思い出の中に、私もいられたら、なんて思ってしまう。来年の夏休みも冬休みも、再来年も。普段と変わらない顔で、その声で、私の名前を呼んでくれたら。そう思うのは、烏滸がましい事だろうか。
 ――いつの間にか、白川といる事が私の中で当たり前の事となっていた。
 少し前までは、白川とのこれからの関係を考えるべきだ、とか、白川とは友達ではない、仲良くはない、なんて思っていたのに。そんな日々が懐かしく思えてしまう程、今は彼との関係も大きく変わっていた。
 それでも、決して忘れた訳では無い。
 私の周りの人は、いつか居なくなる。それは明日かもしれないし、十年後かもしれない。人間関係に、永遠は無い。
 だからいつか、白川とも別れが来る。それは、覚悟の上だ。
 その為にも、今のうちに白川との思い出を残しておきたい。少しでも、白川の中に残れる様に。少しでも、私の中に白川が残る様に。
 ざわざわと、胸の内で育ったものが揺れる。幹がしなり、葉が震える。
 ――それでも、失いたくない。ずっと一緒にいたい。出来れば、永遠に。
 玄関へと向かっていく白川の背を眺めながら、そんな儚い希望を抱く。

「遠海? 何してんの?」

 玄関のドアノブに手を掛けた白川が、振り返り此方に視線を向けた。そのいつも通りの顔と声に、思わず感傷的な気持ちになってしまう。
 あと何回その顔が見れて、あと何回その声が聞けるだろう、と。

 ――なんでもない。
 そう言いたくても相変わらず私の喉は塞がったままで、無言で首を横に振り白川の元へと向かった。

     *
「まぁ、そう落ち込むなよ」

〈別に落ち込んでない〉

 社務所へ行っていた白川が、戻ってくるなりにやにやと腹の立つ笑いを浮べて私の肩をぽんと叩いた。コンマレベルの早さでその手を振り払う。
 拝殿でのお参りが終わり、神社内にあったベンチに腰掛けている私の手には〝凶〟と書かれたおみくじが一枚握られている。お参りが終わった後、折角だからおみくじを引こうと白川が言い出し、それに乗ってみればこの有り様だ。
 自販機で買ったばかりの熱々の缶コーヒーを膝の上に乗せ、暖を取りながらスマホで文字を打つ。

〈別に落ち込んではいないが金をどぶに捨てたとは思った〉

「めちゃめちゃ落ち込んでんじゃん」

〈だから落ち込んでない〉

 何故か愉快そうにわざとらしく溜息をついた白川が、私の目の前に長方形の何かをぶら下げて見せる。距離が近く、最初は何をぶら下げられているのか分からなかったが、徐々にピントが合ってそれが小さな御守りだと言う事に気付いた。思わず手を出すと、ぽとりとその御守りが手の内に落とされる。

「無難に学業成就にしといた」

〈わざわざ買って来てくれたのか。ありがとう〉

「まぁ、初詣で御守り買わないのは無いな、と思ってな。他にも色々あった。子宝祈願とか」

〈なんで数ある御守りの中からそれを選んだんだ〉

「子供は多い方が良いじゃん」

「……」

 どっこいしょ、と声をかけ白川が私の隣に腰を掛ける。その瞬間、白川がコートのポケットに赤い御守りを入れたのが見えた。

〈白川は、何を買ったんだ〉

「え? 御守り」

〈いや、そうじゃなくて〉

 私の言葉に、彼がなにやら考え込む様な表情を見せる。しかし、すぐさま普段の表情に戻り、「何買ったと思う?」と問い返してきた。年齢当ててみて、という女並みにうざい質問だ。

〈子宝祈願〉

 一気に興味が失せ適当に返すと、白川が「いや、なんで数ある御守りの中からそれ選んだ」とやや引き気味に言った。お前にだけは言われたくない。

「もっと真面目に答えろよなぁ」

 白川は口を尖らせるも、すぐにまぁいいやと言ってポケットから買ったばかりのものであろう缶コーヒーを取り出した。
 私が買ったコーヒーはミルク多めの甘いカフェオレ。しかし、白川の手に持たれているのは大人の男性が飲む様なブラックコーヒーだ。カシュ、と音を立ててプルタブを起こし、自然な流れでコーヒーに口を付ける白川の横顔を見つめる。
 白川はいつも、炭酸飲料やジュースばかりを好んで飲んでいた。そんな白川がまさかブラックコーヒーを選ぶとは思わず、なんだかいつもの彼ではない様な気がして変に鼓動が早まる。

「まぁ御守りなんか殆ど効果無いけどな。要するに気の持ちよう。こんなの気休め」

〈お前いつかバチ当たるぞ〉

「こんな、千円程度の御守り一つで願い叶ったら逆に困るし、バチだって当たらねぇよ」

〈じゃあなんで買ったんだ〉

「ノリと勢い」

〈本当にバチ当たり〉

 いつの間にか缶コーヒーを空にしていた白川が、ベンチのすぐ傍に置かれている缶専用のごみ箱に缶を投げ入れた。ガラガラと騒がしい音を立てて、白川が投げ入れた缶がゴミ箱の中の空き缶と混ざる。

「お参りも終わったし、寒いし、帰るか」

 寒いは余計だが、もう神社で出来る事は終わってしまった。三が日も終わったからか出店も無く、これ以上ここに留まる必要は無い。何となく名残惜しい気持ちになりながらも、白川の言葉に頷いた。
 ベンチから腰を上げ、自身の膝の上に乗せていたカフェオレをコートのポケットに押し込む。熱々だったカフェオレは雪と気温のせいか冷えるのが早く、触っていればなんとなく温かさを感じない事も無いが、カイロ代わりにはなりそうになかった。飲みながら帰る事も考えたが、この雪の中微妙な温度のカフェオレを飲むのは気が進まない。それなら、自宅に帰ってから温め直して飲む方が余程良いだろう。
 雪の上を歩く度に、ザクザクと音がする。私と白川の間に会話は無く、やけに静かだ。
 帰ったら、また先程と同じ様に課題だろうか。白川も私も課題の大半を終わらせている為そう急ぐ必要性は無いのだが、如何せん我が家には何も無い故に課題以外やる事が無い。
 そういえば、最近映画を観ていないな。私は読書の次に映画鑑賞が趣味であり、母が生きていた頃はよく二人で色んな映画を観ていた。テレビが無い為視聴は全てノートパソコンだったが、二人で観るだけなら充分だ。
 それに今はサブスクリプションなるものがあり、わざわざレンタルビデオ店まで足を運ばなくとも自宅で簡単に映画や動画が視聴できる。
 白川は、映画に興味があるだろうか。白川の性格上あまり興味がある様には見えないが、提案だけはしてみても良いかもしれない。
 右手に持っていたスマホを操作し、白川にメッセージを送る。

〈映画、興味あるか〉

「映画? 興味無くは無いけど、好きなジャンルは狭いよ」

〈帰っても課題しかやる事無いだろ。ネットで映画でもレンタルして、観てみるか〉

「あぁ、なるほど」

 白川が顔を上げ、曇った空を見上げる。

「この天気の中遊びに行くのはちょっと、だもんなぁ」

〈初詣に誘ってきた奴に言われたくは無いが〉

「初詣は違うじゃん。儀式みたいなもんだし」

〈儀式言うな〉

 白川と並んで神社を後にし、ザクザクと足元で音を立てながら道を進んでいく。
 正月は、サブスクリプションに加入する人が多いと聞く。暇を持て余した独り身の人達がこぞって加入し、大量に映画を観ては時間を消費するのだとか。
 もしかすると、有名どころの映画が半額になっているかもしれない。利用客が多い時期は、映画半額セールや無料トライアル期間増加などの広告をよく見る気がする。

「俺、あの映画観たい。タイトル忘れたんだけど、沈没した豪華客船のやつ。確かイギリスの……サウサンプトン? からアメリカのニューヨーク、に渡った、実在した船の話じゃなかったっけ。その船の、沈没までを描いた恋愛映画」

〈そこまで情報揃っててなんでタイトルだけ忘れるんだよ〉

「俺あんまりタイトル覚えないから……」

 彼の説明で、なんの映画かは直ぐに察しが付いた。母が好きで、よく観ていた映画だ。私も母の隣で観ていた為ストーリーはしっかりと覚えている。涙無しでは観られない映画だ。

「タイトルなんだっけ、船、実在、映画、とかで調べれば出てくるかな」

〈もうちょっと頭良く検索して欲しいものだが。まぁ、有名な映画だからその情報だけでも出てくるだろうな〉

「え? 遠海知ってんの?」

〈母が好きだった〉

「そういうの早く言えよ」

 母が好きで、繰り返し観ていた映画を観るのは複雑だ。それも、人の死が関わる映画を。
 だが、白川と一緒だったらそれも観られる気がした。彼が隣にいれば、嫌な事を考えず、母があの映画の何処に惹かれたのか、という所まで考えられる様に思える。――そんな考えは、甘いだろうか。やはり、彼と共に居ても母を思い出してしまうだろうか。

「――遠海」

 彼に名を呼ばれ、顔を上げた。

「道路凍結してて、危ないから」

 そう言って、白川が此方に手を差し伸べる。
 彼の言葉に、これから進む先の道路が凍結している事に気付いた。考え事をしながら歩いていたら、きっと滑って転んでいた事だろう。彼の手を握る事に少々躊躇いを覚えるも、今まで彼に触れた事は幾度と無くある。それこそ、頭を撫でられたり、バスで補助して貰ったり――お姫様抱っこされたり。今更手を握る事に躊躇いを感じてどうする、と自身の思考に呆れ、彼の手を取った。
 その手は、冬だというのに僅かに温かい。冷え性の私は直ぐに手足が冷えてしまうのだが、白川は冬でも体温を奪われずにその手足に熱を保っていられるタイプの様だ。
 彼に手を引かれるまま、慎重に凍結した道路を歩いていく。
〈ありがとう。凍結してるの、気付かなかった〉

 凍結した道路を抜けた先で、パッと彼から手を離しスマホでメッセージを送る。あとは、信号を渡って、歩道橋を渡れば自宅に着く。横断歩道は車通りが多いからか、隅に雪が多少残っているものの、凍結は無さそうだった。

「あんまり言いたくは無いけど、足悪いと危ないだろ。転んだら悪化するかもしれないし、変な痛め方するかもしれないし」

〈そうだな。気を付ける〉

 彼の言葉に頷いたと同時に、横断歩道の信号が青に変わった。ゆっくりと歩を進めながら、メッセージアプリを閉じ、映画の配信サービスを検索する。
 何処が一番作品数が多いのだろうか。サブスクリプションなるものは過去に使った事が無い為、正直疎いなんて程度ではない。とりあえずは、白川が希望するあの映画が観られれば良いのだが、折角加入するのなら作品数は多い方がいい。それとも、普通にレンタルビデオ店のオンラインでレンタルした方が早いのだろうか。いや、レンタルビデオ店のオンラインを利用するとDVDが宅配で届くだけな気がする。――だめだ、分からない。
 ここは素直に、恥を忍んで白川に聞いた方が早いだろう。そう思い、メッセージアプリを開いた。瞬間。

「あ、ぶなっ――!」

 白川の切羽詰まった声が背後で聞こえたと同時に、ドン、と何かに強く背を突き飛ばされた。
 ――この感触を、私は知っている。私の背にこびりついて離れなかった感触、思い出したくなかった感触。

 飽和させる、あの、夏が――
 足が痛い。右足首を、痛めてしまった様だ。
 ただでさえ足が悪いのに。先程、白川に気を付けると言ったばかりなのに。
 広がる惨状を目の前に、雪の残る道路に座り込みそんな事を考える。
 縁石に乗り上げた赤い軽自動車。ヘッドランプには罅が入っていて、フロントバンパーは無残な程に凹んでいる。僅かに血液が付着している様に見えるが、あれは車体の色がそう見せているだけだろうか。

「    」

 名前を呼びたくても、喉からひゅうと異音がするだけで声が出ない。横断歩道の白線を赤く濡らしていくのは、雪でも無く車の塗装でも無く――血液。
 状況に、理解が追い付かない。追い付かないはずなのに、嫌というほどこの光景が目に焼き付いていく。
 呼吸が浅くなり、瞳から涙が零れ落ちる。動かない足を放り、両手を突いてコンクリートの上を這う。横断歩道の上でうつ伏せになり、ただただ血を零し続ける――白川に、近づく。
 何故、こんな事になってしまったのか。私がスマホなんか見ていたから。家に帰ってから調べればよいものを、青信号だからと油断して、どうだっていい情報を調べていた。
 彼は凍結した道路を歩く事を案じて、手まで貸してくれたのに。こいつは、そういう奴なのに。なのに、なのに、なのに、私は、自分の事だけ考えて、白川の事を、そもそも周囲を、見ていなかった。あの時もそうだ。目先の海だけに囚われ、周囲を見ていなかった。母の言葉にも気付けなかった。何故私は同じ事を、何故、こんなにも無様に同じ事を繰り返しては他人を傷つけてしまうのか。
 溢れる涙が、彼の黒いコートの上に落ちる。視界が暗く、狭くなっていく。
 音の無い、慟哭。脳の神経が焼き切れそうな程の、深い後悔と自分への憎悪と怒り。
 
 ――いつか、白川とも別れが来る。それは、覚悟の上だ。
 ――その為にも、今のうちに白川との思い出を残しておきたい。少しでも、白川の中に残れる様に。少しでも、私の中に白川が残る様に。
 ――あと何回その顔が見れて、あと何回その声が聞けるだろう。

 家を出る前、白川を見ながらそんな事を考えた。馬鹿な、考えだった。
 別れの覚悟なんて、出来ている訳がなかった。
 何が、今のうちに思い出を残しておきたい、だ。何が、一緒に居たい、だ。本当に思い出を残したいのなら、本当に一緒に居たかったのなら、〝あの夏の出来事〟を忘れ去るのではなく、脳内に刻み付けて同じ過ちを繰り返さない様にするべきだった。
 誰かが、私の肩を掴む。私を案ずる声が聞こえる。いつの間に時間が経過したのか、遠くから救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。
 しかしどれだけ周りの状況が変わっても、私の瞳は倒れる白川を映したままだった。
 
 そうこうしている間に救急車が近くに停車し、隊員がストレッチャーを押しながら降りてくる。周囲の人に肩を掴まれ白川から引き剥がされ、隊員が容態を確認しながら彼の身体を動かしている。そしてストレッチャーに乗せられた白川が救急車の中へと運ばれてゆき、私は咄嗟に肩を掴む人の手を振り払った。痛む足など関係無しに何度も転びながら救急車に近付き、隊員の一人の腕を掴む。

「ご家族の方ですか? お怪我は?」

 そう問われるが、答えたくても答えられない。しかし取り乱した私を見て、その隊員は状況を察してくれたのか、慣れた手つきで私を補助し、ストレッチャーの隣のソファに座らせてくれた。
 車内には独特の消毒液のにおいが充満しており、息を吸う度に頭の奥が疼く様に痛みだす。隊員の声も、車載モニターの音も、ぼんやりとしていてやけに遠くで聞こえる。あの、青い夢の中の様だ。
 いっそ、この状況も夢であってくれないか。初詣に行った事も、雪が降った事も全て夢で、起きたら白川が何事も無かったかの様に、いつも通りの顔をして我が家に来てくれないか。そうであったとしたら、どれだけ幸せな事だろう。もし本当に夢だったなら、私は絶対に同じ過ちは繰り返さないのに。