それから、食事を終えた後も暫く白川と他愛のない話を続けていた。
 音楽の話や休日の過ごし方、お互いの好きな作品の話など。名前の呼び方の話が出たのは、あの一度限りだった。
 今となっては、少し惜しい事をしたかもしれないと思う。機会を逃してしまった為に、今後白川を下の名前で呼ぶ事も、彼から真姫と呼ばれる事も無いだろう。

「そういえばさ」

 白川がふと振り返り、本棚に目を遣る。

「この作家、好きなの?」

 白川が指したのは、最も取りやすく、更には掃除もしやすい位置に並べられている北条涼太の本。思わぬ所で彼の本を指摘され、鼓動が早くなる。

〈好きだが、何かあるのか?〉

 北条涼太の書く小説の魅力を語り倒したい衝動に駆られながらも、冷静を装い静かにタブレットにペンを走らせる。 

「いや、この作家の本は全部揃ってるから」

 白川が本の背表紙を徒に指先でなぞり、ぽつりと呟く様に言った。
 ――ん? 全部?
 そこで漸く彼の言葉に違和感を覚え、思わず〈北条涼太を知ってるのか〉と問うた。

「え? なんで?」

 白川は目を丸くして、問い返してくる。

〈全部揃ってるから、って言っただろ。それだと、北条涼太が出してる本を全て把握してる事になる〉

「あー」

 白川がなるほど、と言って曖昧に笑った。

「純粋に、この作家有名だから出されてる本がどれだけあるか知ってただけだよ。でも別に、名前見た事ある程度」

 今度は私がなるほど、と納得し、彼の言葉に小さく頷いた。
 確かに北条涼太は有名だ。それに、受賞してからまだ二年程しか経過していない為、出版されている本も少ない。
 しかし、白川は小説は読まないと言っていたはずだ。小説を読まない人間からすれば、有名な作家だろうと覚えるに至らないのではないだろうか。私だって、有名な漫画家の名前を出されたとしても知っていると言えるか怪しい。歴史に残る漫画家の代表作ですら、答えられない程だ。そんな疑問を抱くが、それ程北条涼太は魅力的な作家なのだろうな、と自身を無理矢理納得させた。

「もう二十一時か」

 白川が壁時計を見遣り、何処か残念そうに言った。

「そろそろ帰るわ」

 随分と長く話し込んでしまった様だ。学校でも常に会話を交わしているというのに、何故だか白川とは会話が尽きる事はない。

「今日はありがとな。手料理美味しかったし、遠海の私服も見れたし良い日になったわ」

 名前は呼べない癖に、こういう事はさらっと言うのだから困る。
 顔に熱が上るのを感じながらも、〈その手料理は丸焦げだったけどな〉と書いたディスプレイを見せた。
 玄関に向かう白川の後を追いながら、一人ぼんやりと明日の事を考える。
 明日もきっと、白川は家に帰らず何処かで時間を潰すのだろう。それは今日と同じスーパーの近くかもしれないし、何処か別の場所かもしれない。
 彼には、彼の事情がある。だが、私は白川が一人外で時間を潰しているのが嫌だった。靴を履いて、玄関扉に手を掛けた白川の袖を掴み引き止める。

〈明日は何が食べたい?〉

 そう書いたタブレットを、白川の胸に押し付けた。首を傾げつつタブレットを受け取った彼の視線が、ディスプレイに落ちる。

「え……」

 白川は驚いた様に僅かに声を漏らしただけで、そのまま口を噤んでしまった。
 余計な事を言ったかもしれない。彼はもう、ここに来るつもりは無かったのかもしれない。手料理を美味しいと言ってくれた事も、全てお世辞だったかもしれない。
 羞恥に似た複雑な感情が一気に押し寄せ、白川の手に持たれていたタブレットを引ったくる様に掴んだ。しかし、白川はタブレットを強く掴んだまま離そうとしない。

「……中華」

 ぼそりと呟かれた言葉に、顔を上げ彼と視線を合わせる。

「中華料理が食べたい」

 そうしっかりと口にした白川の顔は仄かに赤く染まっていて、気まずいのか視線が僅かに泳いでいる。取り敢えず何か反応を示さねばと、こくりと頷いて見せると、白川がやっとタブレットを離した。

「じゃあ、今日はありがとう。また明日」

 やや早口でそう言って、白川は逃げる様に去って行った。扉が閉まったのを確認してから、玄関にぺたりと座り込む。
 ――明日も、来てくれるんだ。
 それが嬉しくて、何故だかほっとして、火照る顔を両手で包み込んだ。そしてそのまま顔を覆い、身体を折り曲げ蹲る。
 中華料理のレシピ、覚えないとな。
 頭の中は明日の事ばかりで、その晩のスマホの検索履歴が中華料理のレシピで埋まったのは言うまでもない。