最近、唐突に何かを深く考え込んでしまう事がある。それも、答えの出ない事ばかりだ。もう少ししっかりしなければ。そう思いつつ、グラスに汲んだ麦茶を口に含んだ。

「俺の事、雪斗って呼んでよ」

「――!」

 なんの前触れもない白川の言葉に、思わずぐふ、と麦茶を吹き出す。幸い大きな被害は無かったが、口に含んでいた麦茶がボタボタと口から伝い落ちる。

「そんな驚く?」

 にやけた顔の白川を尻目に、ティッシュを数枚毟り取り乱暴に口元や濡れた胸元を拭う。そしてペンを握り、殴る様に〈なんだ急に〉とタブレットに書いた。
 その文字を見た白川が、先程と同じく意味有りげに笑ってグラスに口を付ける。私と同じ様に白川にも麦茶を吹き出させてみたいものだが、衝撃的な事は何も浮かばないうえに声が出ない為、その顔を睨みつけながらぎりぎりと悔しさに歯ぎしりする事しか出来ない。

「いや別に大した話じゃないんだけど」

 そう前置きをして、白川が音を立てずにグラスをテーブルに戻した。

「雪斗って、親父が付けた名前なんだ。由来は聞いてないから知らないけど。そんで、白川は母方の姓。クラスの奴らからは別になんて呼ばれようがどうだっていいけど、なんか遠海にだけは白川って呼ばれるの気に食わないんだよな」

〈気に食わないってなんだよ〉

 そんな事を言うなんて、狡いと思う。
 男子の下の名前を呼ぶなんて、相当な勇気が無いと出来ない事だ。軽々と出来てしまう女子も居るのだろうが、少なくとも私には難しい話である。
 ――雪斗。……雪斗。
 心の内で何度も白川の名を繰り返し、ペンを握り締める。
 まだ声が出ないだけ幾らか呼びやすいのだろうが、もう一年も筆談を続けていれば書いた文字は自身の声も同然だ。当然、羞恥だって感じる。白いキャンバスに〝雪〟の字を書きかけ、慌てて【削除】ボタンを連打し掻き消した。

〈白雪、でどうだ〉

「は?」

〈白川の白と、雪斗の雪で、白雪〉

「……」

 白川はなにやら難しげな顔をしてディスプレイを見つめている。

「……それ、フルネームで呼ばれてるのとそう変わらない気が」

〈気のせい〉

「気のせいではねぇだろうがよ。そんなに名前で呼びたくねぇか」

 白川が口を尖らせ、不機嫌そうにテーブルに頬杖を突いた。食事中に肘を突くなんて行儀が悪い。その肘を払い除けると、彼が一層不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。

〈お前が、私を真姫って呼ぶなら考えてやってもいい〉

 最悪の交換条件だ、と自分でも思う。これで白川が何の躊躇いも無くさらっと私の名を呼べば、私は白川の事を名で呼ばなくてはいけなくなる。まだ、何の覚悟も出来ていないというのに。
 余計な事を言った、と素早く【削除】ボタンを押すが、白川はしっかりとその文字を読んでいたらしい。「なんだよその交換条件」と言ってやや複雑な表情を浮べた。

〈呼べないのか?〉

「よ、呼べ、呼べなくは、ねぇよ。多分」

〈じゃあ呼んでみろ〉

「……」

 私と白川の間に妙な沈黙が流れる。煽ったのは他でも無い自分だというのに、鼓動は徐々に早くなってゆきくらくらと眩暈がしてくる。
 彼の頬も徐々に赤みを帯びてきて、とうとうこの空気感に堪えられなくなったのか白川が声を上げた。

「あぁ! もう! いいよ白川のままで!」

〈結局呼べないのかよ、ヘタレ〉

「うるせぇな!」