最終章

「――先生。お昼休みは、またお姉さんのお見舞いに行くんですか?」
 夢現の看板を〈準備中〉にかえてから、桜井は怜にたずねた。
 午前の最終枠――樋口優衣の施術が終わり、片づけも終わった。
 午後の営業までは二時間の昼休みを挟む。昼食休憩をとるため、二人はリビングへと移動した。リビングやキッチンは、桜井と怜の共同休憩スペースになっている。
「ええ。毎日恒例なのは、もう知っているでしょう?」
「そうなんですけど……。私も一緒に――」
「お昼休みまで拘束してしまっては、雇用者として問題です。桜井さんは自由にしていてください」
「……はーい。それじゃあ、ここでお弁当食べて勉強してます!」
「またですか? それでは休憩にならないでしょうに」
「さっきの樋口さんにやってたみたいに、私もできるようになりたいんです!」
 桜井は怜につめよりながら、グッと手をにぎる。いまだ研修が終わらず、独り立ちして業務をおこなう知識と技能がない桜井だ。どうやら焦っているらしいと怜は思った。
「桜井さんは医療系の大学出身じゃないんです。焦らないでください」
「……でも。私は先生と違ってバカで不器用だから。このままじゃ、役立たずで……」
 尻下がりに声量が小さくなっていき、怜は最後まで聞き取れなかった。聞きなおそうと思った時――テーブルに置いたままだった自分のスマホに留守電が入っているのが映る。
「――この電話番号」
 怜はスマホのトップ画面に表示されている電話番号に覚えがある。
 サッと血の気が引き――手が震えた。
「京極先生? どうしました?」
 桜井は冷蔵庫にしまわせてもらったお弁当をとろうとしていたが――。
「せ、先生!? 顔が真っ青ですよ! 大丈夫ですか!?」
 尋常じゃない様子で震える怜を視界にとらえ、駆け寄ってきた。桜井の金切り声に、意識が薄れていた怜もハッとする。
「ぃ、いえ……。はい。大丈夫ですよ。ええ、大丈夫……」
 その言葉は桜井の問いへの答えだったのか。それとも、自分に言い聞かせたものか。
 怜は震える手でスマホを操作し、留守電を再生しようとして――動揺のあまり、スマホを落としてしまった。スマホがフローリングの床を転がっていく。
「ちょっ! 京極先生、スマホが……」
 桜井が慌てながら落ちたスマホを手に取り、怜へ返そうとする。しかし返そうとした時、うっかりディスプレイを触ってしまったのか。留守電が流れ出した。――スピーカー音声で。
『京極怜さまのお電話でお間違いないでしょうか。私――病院看護師の斉藤ともうします。先ほど入院中のご家族さまの容態が急に悪化しました。現在、医師が対応していますが、すぐに来ていただく必要があります。このお電話を聞かれたら、折り返しのご連絡をください』
 その音声が流れたあと、静寂が室内を支配した。
「せ、先生……」
 桜井がおそるおそる怜を見ると、スマホを落としたままの姿勢で固まっている。真っ青な顔色で、視点の定まらない目をしながら――震えていた。
「――先生! しっかりしてください! は、早く折り返しの電話をッ!」
 桜井が怜の肩を揺すり、怜にスマホを差し出す。
 怜は震える手でスマホを受け取り、病院への折り返し通話ボタンを押しながら――。
「そ、そうですね。まずは聞かないと――あ、すいません。こちらの話です、失礼しました」
 桜井に返事をしている途中で、スマホから病院職員の声が聞こえてきた。怜は慌てて謝罪する。もはや順序だててものごとをできないぐらい、怜は動揺していた。
「あ、あの。……先ほどお電話をもらった京極怜です」
 いつも冷静で段取りがいい、なんでもできる超人。桜井の目からは怜がそう見えていた。いつも頼れる存在だったが、今は桜井からみても頼りないほどに混乱している。
「――姉に、なにがあったんですか。今は、どういう状況ですか?」
『急に呼吸状態が悪くなりまして……。一時、心肺停止状態でした』
「――しんぱい、ていし……?」
 怜は目の前が真っ暗になったような錯覚を抱いた。
『現在は心肺機能も戻り、酸素投与を開始している状態です』
「姉は……平気なんですか?」
『詳しくは医師から説明しますので、まずはすぐ病院にきてください』
「わ、わかりました。すぐに、お伺いします」
 看護師は『お待ちしております』と伝え、通話を切った。怜は――現実とは思えなかった。
 夢であれと思わず祈った時――。
「――京極先生! これ、コートです! 早く行ってあげてください」
「ぁ……。そ、そうですね。あとはおまかせしました」
「はいっ。私はしっかりやってますから!……しっかり、しておきます。だから、早く!」
 怜は一瞬、桜井が表情に影を落としたように見えた。
 でもすぐに病院にいかねばならない。なんと言っても、姉が心肺停止状態になった。現在はなんとか心肺機能が戻っているようだが……。今でも酸素を投与しているということは、決してもう平気だということではないはずだから。
「――行ってきます!」
 怜は弾かれたように動き出し、脱いだスリッパを片づけることもなく土足に履きかえ、夢現をあとにする。
 二月中旬。
 まだまだ寒い季節だが、昼は暖かくなってきた。
 だからだろうか。家を出てすぐなのに、怜の顔には早くも汗の粒が浮いている。
(なんで……。姉さんに生きていて欲しくて。それで入院させるって決断したのに。苦渋の決断だったのに!――どうしてこうなってしまうんですか!?)
 乱れる息も。ドクドクとうるさい鼓動も。なにもかもを忘れて――怜は病院に走った。

「――すいませんっ。先ほど電話した、京極怜です!」
「京極さん。お待ちしてました! 先生からお話が――」
「――姉は!? 姉は無事なんですか!?」
 スタッフステーションまで走りっぱなしだった怜は、息を切らせて問う。
 男性看護師が椅子から立ち上がり寄ってくる。――怜は寄ってきた男性看護師の両肩をとびかかるようにつかむ。
 なによりも、まずは姉がどうなったのか。それをいち早く確認したくて。
「――京極さん。本日、病棟を担当させてもらいました内科医です」
 どう対応したものかと助けを請う看護師の視線で、医師も椅子から立ち上がり怜のもとへとやってくる。
「先生……。姉をありがとうございました。……それで今、姉は?」
 男性看護師の肩をつかんでいた怜の手を、医師はスッと外し――。
「――お姉さん。舞香さんは、集中治療室に移っています。話は、そちらで」
「……はい」
 冷静な医師の様子に、怜はいくらか落ちつきを取り戻した。
(集中治療室……。この病棟では、すぐに駆けつけられるようにスタッフステーションとドアでつながっていたはず)
 かつては理学療法士として病院勤務をしていたこともある怜だ。病棟というものの構造は、だいたい理解している。さらに、足しげくお見舞いへ通っていたことで、この病棟の構造も完璧に頭へインプットされていた。
(そうだとすれば――あのモニター心電図に映るのは、姉さんの心臓……)
 ゆっくり歩きながら、チラッと目に映る。スタッフステーションに置かれたモニター心電図の波形。そして酸素がどれぐらいどれているのか。
(酸素が……基準値より低い)
 そして姉の――舞香の状態に予測がついてしまった。医師が集中治療室へのドアを開け、怜もつづいてなかに入る。
 部屋のなかに四つしかないベッド。その窓際にある一つに――酸素マスクをつけた舞香が横たわっていた。すぐに駆けよりたい衝動が怜をおそう。だが、怜はグッとこらえて――。
「――先生。姉に……なにがあったんでしょうか」
 唇を少し噛みきり、冷静に聞いた。
 怜と医師の二人が、ゆっくりと舞香のベッドサイドに立つ。見下ろす舞香の酸素マスクからは、シューと酸素が流れ出る音がする。やせ細った舞香に合わないのだろうか。こけた頬の隙間から酸素が霧のように漏れ出ているようだ。
「自力では痰を吐き出せなかったのでしょう。窒息して、一時心肺停止状態になりました。救命措置で今は心肺が戻っていますが……。レントゲンを撮ってみたら、誤嚥性肺炎も見つかりました」
「……やはり、ですか」
「誤嚥性肺炎を、ご存じでしたか?」
「私は、理学療法士でしたから」
「なるほど。それでしたら、予測がつくかもしれませんね。まずは現状からご説明したいのですが、いいですか?」
「……はい」
 動じない淡々とした声音で言う医師。神経質になっている怜は、それが少しイラだたしい。それでも、プロフェッショナルの証。医療者側の証拠だと自分に言い聞かせる。そして怜は数回、深呼吸をする。怜が落ち着いたのを見計らって、医師は説明をはじめる。
「お姉さんは原因不明で、長らく意識がない状態です。わかりやすく言うと、寝たきりですね。それで飲みこむ筋力――嚥下ですが。その筋力も落ちてしまったと思われます」
「……はい」
「今回、自分の痰を飲みこめずに気管へと痰がつまってしまった。そして窒息しかけたのだと思われます」
「……自力で飲みこまなくなって、七年以上ですからね」
「ええ。……我々もリスクを感じて、窒息には注意をして対策をしていました。それでなんとかすぐに発見できましたが……。現在も酸素は一分間に五リットル投与して、なんとか命をつないでいる状態です」
「……痰が食道じゃなくて、気管に入ってしまったせいですよね。それで肺が炎症を起こして十分に酸素を吸収できない……。だから、酸素を送りこんでなんとか維持している、と」
「その通りです。……そして、今も口から痰を吸いこむための吸引チューブというものを使っています。かなりの回数、口のなかにある痰を看護師が吸っているんです」
「……このビンに入っているのは、姉の痰ですね」
 酸素チューブがつながっている横に、血がまじった白濁色の水がつまったビンがある。
「そうです。看護師が吸引チューブにつなげたこのビンに、お姉さんの痰を吸い出しています。……量を見ていただければ、お察しいただけると思いますが……」
「……ええ。肺炎だから、痰も増えるんですよね」
「その通りです。粘膜はもろく、吸引チューブで傷付いて出血もしやすい。……肺炎になって痰が増える前でも危うかったのです。このまま意識がなく、自力で痰を出せない状態で診るのは、もう危険と判断しました」
「……どうするおつもりですか?」
 怜は舞香を見つめていた視線を医師にむける。医師もジッと怜をみすえて――。
「――気管を切開して、カニューレという管をいれた方がいいでしょう」
 医師の言葉に、怜は呼吸すら忘れたように立ちつくす。
 そして、ジワジワとこみあげてくる。かつて病院勤務時代に、重傷の患者さんでなんども見てきた処置だ。
「……姉の気管から、常に外へと通じる管を通す。……そういうことですね」
「ええ。そういう手術です。外に通じる管を置くことで窒息のリスクは減ります。痰を吸引する時に、粘膜を傷つける危険性も。……お若い女性です。見た目を気にするのはご理解しますが……」
「……判断は、今すぐじゃないといけませんか?」
 怜は前髪をたらし、うつむく。急な話に、とてもついていけない。冷静な判断ができない。なんとか理性をふりしぼって出したのが、その問いだった。
「急なことでお心の整理もつかないでしょう。判断が早い方がリスクは減りますが……。しばし、スタッフステーションにおりますので」
「……ありがとうございます」
 病室から出ていく医師に軽く礼をして見送った。
 怜は再び姉を見下ろしながら、枯れ木のように細く、骨が浮き出た舞香の手をとる。
「……姉さん。私は、間違っていたのでしょうか。姉さんに生きてて欲しい。そう願い、入院で命をつないでもらっていた。その間に、姉さんから生気を奪った――メアをとらえようとしていました。でも、そんな延命は……。私の独りよがりだったのでしょうか?……姉さんは、そんなことは望んでいないのですか?……あのまま静かに――死なせて欲しかったんでしょうか?」
 舞香から答えが返ってくることはない。
「……姉さん。私は、私は……どうすればいいんでしょうか」
 ポタッと、舞香の枯れた顔を涙が濡らす。
「……黙ってないで、教えてくださいよ。……お願いですからなにか、なんでもいいから反応してくださいよ……」
 震えを帯びて言った声は、涙に濡れているように響いた。
 怜はしばし、静かな病室内でシューと流れる酸素の音。そして隣接するスタッフステーションに置いてあるモニター心電図のピッピッと規則的になる音を聞いていた。
(脈拍と連動して……たしかに姉さんの心臓が動いている。姉さんの心はわからない。……でも、心臓はまだ……生きることをやめていない反応をしている)
 トンットンッと。姉の脈と心電図の音はほぼ同時だ。生命の脈動を肌で感じ、怜は――。
「……姉さんを傷つけてまで延命している間に、メアから生気を取り戻せるのか。何年かかるか、間に合うのかもわかりません。……そもそも、メアを一度とらえたところで――」
 涙があふれそうになったのを、怜は天井を見上げることでグッと我慢する。
(ここで諦めたら……。弱っていくと知りながら入院させ、姉さんと戦ってきた七年間が……。すべてムダになる。姉さんまで失い、家族のなかで私だけ生きのこるのは……。でも、そんな私の独りよがりで、これ以上姉さんを傷つけていいのでしょうか……)
 数秒、そうして考えをまとめて、再び舞香を見つめる。
「――すいません、姉さん。……美しかった姉さんの体に、深い傷をつける判断をする。こんな愚弟を……どうか罵ってください」
 無理して微笑む怜の頬を、ツッと涙がすべり落ちていく。
 怜はそっと舞香の手をベッドに戻し、愛おしそうに頭をなでる。
(こんなことを言ったり、勝手に頭をなでたり。活発だったころの姉さんなら、いずれも怒ったりなにかしらの反応をしてくれたでしょうに)
 怜はしめつけられる胸の痛みに耐え――スタッフステーションに戻り、ドアをノックする。
 そして医師が出てくると――。
「――姉の気管切開……。どうぞお願いします」
 そう言って頭を下げた。呼吸をするのもつらいのか。それはまるでマラソンを走ってきたあとのように、弱々しい声音だった。
「わかりました。昼休憩でスタッフがたりません。戻ってから準備と処置をはじめますので。経過は、またお電話でよろしいでしょうか?」
「……ええ」
 下げていた頭を戻した怜の顔は――ひどく憔悴していた。

 病院から出たあと、怜は力なく夢現への帰路についていた。
(……なんで、こうなったんでしょうか。一時しのぎで入院して。一時しのぎで姉さんの気管に消えない傷を残す判断をして。……そんな急場をしのぎ、逃げた先で……。本当に姉さんと笑えるのでしょうか。……そんな日が、またくるのでしょうか)
 怜の頭に、かつての家族ですごした温かい日々が浮かんでくる。今では休憩所になっているリビングで――家族と笑い合ってすごした光景が。ホコリをかぶっているアルバムに写る、産まれてからの日々が。
(私や姉さんが大きくなっていくにつれ、徐々に老けていった父さんと母さん。……その流れが――いつしか止まってしまいました)
 両親はもう、老けることもない。遺影に写った姿を最後に、笑うことも泣くこともない。
 残された舞香と、そして怜は――。
(姉さんは、ドンドンと死へ近づいていて……。私は、夢現にさまよっている。姉の笑顔を、家族ですごす笑顔の日々を取り戻す。その最大の夢は……もう――)
 ――諦めるしかない。
 そう思った瞬間だった。
 まだ冷たい風が――怜の胸にポッカリとあいた穴を吹き抜けていくように感じる。
「目の前の人を笑顔にする……。その夢だけが叶ったところで――」
 その先はなんとか、口にはせずに済んだ。
 怜は自分を戒めながら――泣きたい心をビンにいれて蓋をするようにしまいこむ。
「……午後のお客さんも、待っています」
 仕事をすることで忘れようとする。その場しのぎにしかならないことは理解していた。
 それでも、怜は対価としてお金をもらうプロだ。
 そう自らの乱れた心を律して、リラクゼーションサロン夢現の――自宅のドアを開いた。
「ただいま戻りまし……」
 考えごとをしていると、時間はあっという間に過ぎ去るものだ。怜の体感時間では、病院を出てからは――本当にあっという間に夢現へ戻ってきたと感じた。
 そんな怜の目にとびこんできたのは――。
「……疲れて、眠ってしまいましたか」
 施術や夢に関する書籍を広げたまま、リビングテーブルに突っ伏して眠る桜井だった。無理な姿勢で寝ているためか、眠っている顔は少し苦しげだ。
「不慣れな分野でしょうに。〈明晰夢〉を見る練習の夢日記といい、本当に勤勉ですね」
 ノートにまとめているのも目に入る。重要な文など、なにか桜井なりの基準があるのだろう。様々な色を使いわけ、カラフルにまとめてある。
「昼休みは……。まだ半分ぐらいありますね。このままでは寒いでしょう」
 壁掛け時計を確認して、怜は施術スペースからブランケットを持ってくる。
 そして座ったまま、無理な姿勢で寝ている桜井にかける。
「……健康が一番、ですよ」
 ちょんっと、一瞬桜井の肩に触れた瞬間――。
『――聞こえるか!』
「――獏。……人の脳内で、そう大声をださないでください」
『そんなことを言っている場合ではない!』
「本当に騒々しい。……できれば少し、ソッとしておいて欲しいのですが。なんですか?」
『今、そやつに触れた瞬間、たしかに伝わってきた!』
「……なにがです?」
『――今、こやつの夢にメアがおる!』
「――は?」
 怜は脳内で響く相棒――クマの体にゾウの頭を持ち、人の悪夢を喰らうという霊獣。獏の声に、ドクンと胸を大きくはねさせる。
 そして大衆の前で演説や発表でもするかのように、心臓が早鐘をうちはじめた。
『このままでは、こやつは堕ちる。そうなれば、生気もヤツに持っていかれるだろう』
「――姉さんのように……ですか」
『……ああ』
 そうだったと、怜は思い出す。
 メアをとらえるために、忘れられた古い神から与えられた能力。それはなにも、既に犠牲になった姉のような人を救うだけのものではない。
「――新たな犠牲者を、増やしてなるものですか……」
 メアをとらえれば、姉も救えるかもしれない。だがそれは――非常にむずかしいと理解している。
 しかし――新たな犠牲者をださない。
 そのために施術に夢を取り入れ、通販で獏の力と一緒に安眠グッズも世界へ売り出した。
 その歩みを止めはしない。メアをとらえれば――すべて元通りになる。そんなことは、大海にただようワラのように儚い希望だ。それでも――。
「――私の目の前で……。これ以上不幸にはさません!」
 ――そうして、怜はもぐりこんでいく。
 無理な苦しい姿勢で眠る、桜井の夢へと――。

『――車の周囲の安全確認、よし! ミラーの調整よし。うん、完璧!』
 そう言ってから、桜井は車にエンジンをかけた。
 場所は立体型の有料コインパーキング。桜井はそこに自分の車を停めていたようで、自宅へ帰ろうと走り出した。
 そうして料金精算所のバーの前まで車を動かし、停車する。
『えっと……。まずは駐車券をいれて。……お、お金たりるかな。ま、まぁ。とりあえず駐車券をいれて、確認してみないと!』
 桜井は財布から駐車券を取り出すと、運転席の窓を開ける。
 そうして自動精算機に駐車券をいれようとするが――。
『う~んっ!』
 もう少しのところで、手がとどかない。姿勢を変えたりして、なんども手を伸ばす。
 それでも、とどかない。
 やがて、車内にいたままでは無理だと思ったのか。車の外に出て――。
『やっと入った。……もう、腕の長さがたりない!』
 文句を言いながらも、表示された料金を支払おうと財布に手を伸ばす。
 しかし、ビービーッと警告音が立体駐車場になり響いた。そして赤いパトランプがグルグルと回り出す。
『えっ、えっ!? なに、なに!?』
 急にけたたましくなった状況に、桜井は身を小さくしておびえる。
 慌てて車内に戻ろうとしたが――。
『待ちなさい。ちょっとこちらで話を聞かせてください』
『きょ、京極先生!? その格好は、なんですか!?』
 それは警察官の姿をした――怜だった。
『いいから来てください。まさか、身に覚えがない、などとは言わないでしょうね?』
『み、身に覚えですか!? え、その……まさか、これは夢?』
 桜井には逮捕されるような覚えはない。しかし、本当に罪を犯していないのだろうか。そう得も言えぬモヤモヤが心をみたす。
 そして、これは夢じゃないかと疑問に思いながらも――桜井は怜についていった。
 そうして連れていかれたところは、夢現の施術スペースだ。
『あの、ここでなにを……。それに、ベッドの上……。なんで、これがここに?』
 本来、お客さんがリラックスするための施術ベッド。そこには――桜井の失敗してきた証が山のようにちらばっている。
『――赤点の答案用紙に、追試のお知らせですか。……これでウチなら受かると思った。それは――ウチをなめているのですか?』
『ち、違いますっ! わ、私は……。このお店が素敵だから、ここで働きたいと……』
『その素敵なお店に、あなたは相応しいと……。本当にそう思っているんですか?』
『……そ、それは』
 鋭い怜の指摘に、桜井は沈鬱としてしまう。床を見つめながら、自分の無力さとふがいなさを思い出す。役立たずで、クビにされるんじゃないかと怯えていたことも。
『たしかに……。私は、まだ失敗ばかりです。でも、いつかは京極先生のように――』
『――いつかは、ですか。あなたが成長するまでにきたお客さんに、失敗して不満を与えてしまうのは――仕方がない。そう言いたいのですね?』
『ちっ……。ちが……くないかも、しれません』
 否定しようとしたが――桜井は、とても否定しきれなかった。
 心の奥で、研修中だから仕方ない。まだ社員じゃないんだから、知らなくて当然。大学の専攻が違うのだから、失敗するもの。そう思っていた。
(私は……できないダメな自分に言い訳して……。失敗を、正当化してた)
 怜の口から指摘されたことで――蓋をして見ないようにしていた情けなさが、一気にあふれ出してきた。
(目をそらしていた……。見ないようにしていた。お金をもらうに値しないって、本当はわかってたのに……)
 泣きそうになりながらも、下唇を噛んで耐え忍ぶ。
 そんな桜井に、怜は手加減などしない。口早に――。
『物覚えが悪い。何度教えても触り方すら上達しない。そのくせ、あなたはなんど資料をひっくり返して。なんどお客さんの荷物をけりとばしました? 数えきれませんよね。ええ、私も数えきれないのでわかりません。あなたの失敗や不運を数えるために雇っているのではないです。お客さんもそんなことのためにお金を払ってきているわけではないのですからねぇ』
 ――桜井を責めたてた。嫌味ったらしく、ネチネチと。
 わざとイラだつような抑揚をつけているのだろうか。桜井が思わずそう聞きたくなるぐらい、煽るような口調だった。
(なにも、そんな言い方しなくても……。私だって……。できないなりに、なんとかしようとあがいてるのに。産まれてからズッとそうだったけど。それでも諦めないで……!)
 反感を押し殺し、桜井は『すいません』と細い声で返す。
 うつむく桜井の顔をのぞきこむようにして、怜は――。
『――おや? なにやら不満があるような顔ですねぇ……。まさか、こう考えているのでは?――私だって諦めないでがんばってる。だから許してよ、と』
 パサッと――怜がかぶっていた警察官の帽子が床に落ちた。
『そ、そんなことは……』
『またそうして、嘘を重ねるのですか。……面接の時の嘘といい。信用できない人です』
 怜は帽子をひろいなおし、頭にかぶる。そして警察手帳を取り出して、嘆息しながらメモをするようになにかを書いている。
 桜井の瞳には、それが自分のついた嘘などの罪をメモしているように映った。
『――ぅ……』
『あの時あなたは――どうしてもウチで働きたい。そう言いました。しかし、私がもっと好条件をつきつければすぐに他に転びましたねぇ』
『ぃ、今は……、もうそんなことは言いません』
『それを私に信じろと?――これまでの結果で? これまでは試用期間、テストだとは思わなかったんですか?』
『ぇ……』
 桜井はうつむいていた顔を上げ、怜の顔を見る。いつもの柔らかい笑みが見えた。
 つられて、『なんだ冗談か』と桜井は笑みを返そうとするが――。
『――あなたは不採用。不合格です』
『……はい?』
『おや、聞こえませんでしたか?』
 仕方なさそうに笑いながら、怜は桜井の耳元まで口元をよせ――。
『――あなたは、いらない。そう言ったんですよ』
 声は小さいはずだ。しかし桜井の耳には、やけにその声が響いた。
 まるで耳から心臓までを震わせるかのように。
 少しずつ、意味を理解していった桜井は――。
『ぁああああ……。そんなの、そんなのいやぁあああ!』
 頭を抱えて、うずくまってしまう。暴れる子供のように泣きじゃくり、逃げようとする。
 そんな桜井のゆく先々に――。
『おやおや。ここで食らい付いてこないで逃げ出すとは。あなたの言う〈どうしても〉とは、しょせんこの程度でしたか。残念です』
『――京極先生! 私、もっとがんばります! だから、内定を取り消さないで! もう不採用って言われたくないんです! どうしてもここで働きたいんです!』
『ええ、いいですよ?』
 先ほどまでのネチネチと追いつめる口調から一転。
 コロッと軽い口調で怜が言う。そして、爽やかな笑みを浮かべ、座りこむ桜井に手をさしのべた。そうして桜井を立たせながら、言葉を続ける。
『むしろ、私こそ謝罪すべきかもしれませんね。……新人の教育をおろそかにしました』
『そ、そんなことありません! 京極先生はいつも一生懸命教えてくれました!』
『しかし、お客さんの方にばかり注意がむいていました。……これからは、あなたのことをしっかり見ようと思うのですよ』
『え……。でも、それは……。お客さんに失礼じゃ、ないんですか?』
『私にもできない時期はありました。誰にでも新人教育期間はあるものです。その間は――仕方ないじゃないですか』
『……仕方ない?』
『そうです。――だって、あなたの言う通り。誰でも最初から一人前ではない。時間を与えられないのは、きびしすぎませんか?』
 呆然としていた桜井は――数秒、うなだれながら沈黙した。
『……違います』
『……うん? 今、なんと?』
『――違うと言ったんです! 京極先生、それは違います!』
『な、なにを……。なにを言うのですか?』
 桜井は、涙で濡れている目に力をこめ――キッと怜を睨む。
 そして、歯をギリッと噛みしめて立ち上がり、怜につめよる。
『京極先生。やさしい言葉で私を……。私を、甘やかさないでください!』
『な、なぜです? あなたのペースで歩むことを許して欲しい。そうでしょう?』
『そうなれたら……楽でしょう! でも、違うんです!』
『なにが、なにが違うと言うのですか!?』
『お客さんが私の成長するペースに合わせるのは間違ってるってことです!』
『……はい?』
 桜井は両手で怜の腰元をつかみながら、力強い声をあげた。
 怜は戸惑い、目線を泳がせている。
『理解できません。いいんですよ。私にもありました、新人の間は――』
『――私は、一人一人に万全の準備をしていきます! 京極先生ほどの実力はなくても、学んできたすべてをつくす!――それがセラピストだ!……私にそう教えてくれたのは、先生じゃあないですか』
 桜井の表情は笑っているのに、ポロポロッと水滴か落ちていく。
『な、なぜ……そんな表情で泣いているのですか!?』
 怜は慌てながら桜井の顎をつかみ、目をしっかり見ながら問う。
 桜井は、黒い宝玉のような怜の瞳に魅入られ、ついつい甘えそうになる。――しかし、自分の弱い心にムチをいれた。
『京極先生が……やさしい嘘をつくからですよ』
 震える声音で、桜井は怜の腰元をギュッとつかむ。
 恐怖か。悲しみか。それとも――他のなにかか。桜井の手はぷるぷると震えている。
『私は嘘なんかついていませんよ? いいんです。あなたはがんばっているんだから』
『――私は、それは違うと思います。がんばっているという事実を、免罪符にしてはいけないのではないかと思うんです』
『…………』
『京極先生。――私は、あなたに救われました。そしてあなたに憧れ、目指しています。……だから、そんな低いレベルで見捨てないでください』
『…………』
『ましてや、京極先生の一番嫌いなことは――仕方ない、ですよね?』
『……は?』
『お客さんを笑顔にできないのは、仕方ない。――私が一番尊敬する先生が一番嫌う逃げ道を……どうか私に、指し示さないでください! 未熟でも、今ある知識と技能を振り絞って、真摯に向き合えって。――みくびらないで、そう言ってください!』
 桜井が決意のこもった言葉を、だまりこくっていた怜にぶつけた。
 警察の制服は、桜井の手汗と強くつかまれたことで、しわくちゃになっている。
 だまりこくっていた怜は、チッと小さく舌打ちをして口元を歪め――。
『――よく言えましたね、桜井さん』
『――なにッ!?』
 施術用ユニフォームに身を包むもう一人の怜があらわれ――警察の制服を着た怜が、羽交いじめにされた。
『きょ、京極先生が二人!?』
『貴様、なんだ!?――いや、この焼ける熱さ! お前は、まさかあの時の!?』
『積年の思い……。そして私の部下をいじめた報いです。――今日は逃がしませんよ』
『くそッ! 離せッ! 肌が焼けるッ! 溶けるッ!――ワタシを離せッ!?』
『――ヒッ! 悪魔のような翼と馬の尻尾!? あなたはいったい……。いや、違う。私は……私は知ってる! いつかの夢で、あなたを見たことがある!……夢?』
 不思議に思う桜井をよそに、警察官の制服を着ていた怜は――姿を変えた。
 慎重一四〇センチメートルぐらいの、小柄な悪魔の女性だ。漆黒の翼に――馬の尾。
 それはまぎれもなく、怜たちがズッと探し求めていた存在。
 古い神話の時代から存在する、人の夢に入りこんで生気を奪う悪魔――。
『桜井さんのすばらしい言葉に気をとられてくれて、助かりました。この体勢からでは、もう逃げられませんよ?――メア』
 ――メアの耳元で怜がつぶやく。
 普段はやさしげに聞こえる怜の声が――ドスの効いた、低い声に。いや、殺気さえ感じさせる圧を帯びて響く。
 ジタバタと暴れているメアは、小さく『ヒッ』っと悲鳴をあげるが――。
『逃がすわけがないでしょう?……よくもやってくれましたね』
『許して、見逃してくれッ! まだワタシはなに奪ってないだろ!?』
『――なにも……奪っていない?』
『そ、そうだ! 今回ワタシはなにも奪っていない! そこのクソ女が堕ちなかったせいで! ちくしょうが! 今ならこの女を一気に堕として美味な生気を奪えると思ったのにッ!』
『それは彼女が強かったからであって、あなたに害意がなかったことにはなりません。――もういいです。獏、やってください』
『おう。――やっと貴様に一泡ふかせられるな』
『……グッ! そうか、二人が組んでワタシを消そうと動いていたのか!? クソが、覚えていろよ! ワタシは諦めないッ! 意地でもこの娘を――』
 メアがそこまでわめきたてたところで――。
『――この悪夢ごと、貴様を喰らう!』
 獏の言葉が、空間を制止させた。
 そうして古い神話時代の悪魔、メアですら――夢ごと喰らいつくす。

「――はっ! わ、私は……。ここは? さっきのは、夢? 現実?」
 桜井はガバッと起きると――机の上にちらばる勉強道具を見て、ボソリと言う。
 その言葉に――。
「――夢であり、現実でしたよ」
「きょ、京極先生!?」
 爽やかな笑みを浮かべた怜が後ろから声をかける。すると桜井は、椅子をふきとばしながら立ちあがった。
「桜井さん。あなたの決意、たしかに聞きました。……立派な心がけです」
「わ、私……。えっ。えっ」
 なおも夢と現実の境界があいまいで、脳が追いついていないのだろう。
 桜井は頭を抱えながら喜怒哀楽と、まるで百面相のように表情を変えていた。
「――メアは、桜井さんを堕として生気を奪おうとしてきました。上手くいかない現実に絶望しては這いあがってを繰りかえす。消えそうになってはまた光を取り戻す心。それは魅力的な生気だったのでしょう。チカチカと誘惑的に灯り、食いつかずにはいられないぐらい」
「……え。先生、偽物? 本物?……どっちですか?」
 怜は顎に手をあてながら桜井を観察し――。
「〈明晰夢〉を見る練習は、現実すらわからなくなる危険をはらむと言います。……しばらく、桜井さんには違う勉強をさせるべきですかね」
「――あっ! その言い方! 甘やかさずに別の方法で努力させる、この陰湿サドっぷり――京極先生だ!……あっ」
 ビシッと指を差してから己の失言に気づいたのか――桜井が石のようになる。
「……ほう。そのように思っていたんですね。なるほど、なるほど……。だからあのように、私に自分を責めさせるような夢が無意識に形成されたのですかねぇ」
「い、いえいえっ!? それは、その……。メアが私を堕とす手段だったのではとッ!」
「たしかにその側面もあるでしょう。特に桜井さんが泣いてうずくまってからの甘い言葉は、まさに楽な方向へと堕とす誘惑でした。しかしながら、その前までは――」
「――ちょっと待って!? 京極先生、待ってください!」
「……なんでしょう?」
 ハァハァと荒い息を整えながら、桜井は目を丸くした。
 そして怜を恨みがましい目で見つめると――。
「……京極先生、いつから私の夢のなかにいたんですか?」
 いじけたように、そうたずねる。
 怜はほんのわずかも表情を変えず、微笑んだまま――。
「立体駐車場でわめきながら、私に化けたメアに連れていかれるところですね」
 そう言い切った。
「それ、けっこう最初の方ですよね!? ひどい、私かなり傷付いてたのに!」
「ええ。桜井さんは無意識でこのような不安を抱えていたのか。有料駐車場を停滞した自分の成長に置き換えて。そして、そこから出るもの――車に乗ってもでられない。また失敗するのではという恐怖が形になり、そして私に責められる。……心情が痛いほど伝わってきました」
 怜に悪びれている感情はない。メアを確実にとらえるために必要だった。そして怜もメアと同じように、これは堕ちると思っていた桜井が――自ら立ち上がるのに目をとられただけだ。怜のなかではそのように片づけた、もはや過去の夢にすぎない。
「冷静に分析しないでくださいよ! こっちはビックリしたんですよ!? 京極先生が突然二人になって! そうかと思えば、メアを背後からはがいじめに――」
 そこまで口にして、怜はハッと思い出す。
(夢にひっっぱられていた。夢現に――現実との境界があいまいになっていました!)
 桜井も、怜の表情で気が付いた。
 怜の――メアをとらえて姉を救うという夢が、叶ったのではないかと。
「きょ、京極先生。その……メアをとらえて。……舞香さんは?」
 病院でどういう話をしていたのかを桜井は聞いていない。
 一時心臓も呼吸も止まったけど、それはも持ちなおした。でも、他に問題があるというところで得た情報も止まっている。
 だからか。おそるおそる舞香の名前を出したようだが――。
「――桜井さん。私はもう一度、病院に行ってきます!」
 慌ててコートを手に取り、怜が駆け出す。いても立ってもいられないと。
「私もいきます! こ、今度は私も一役かってるから、関係者のはずです!」
「それは……。そう、ですね。走りますが、急いでください!――姉の状態を確認するより前に、手術がはじまったら……」
 そうなれば、美しかった姉の体に大きな、一生のこる傷を刻んでしまう。
 桜井が駆け出たのを確認すると、怜は玄関のカギを閉めた。
 そして、病院に向かって全速力で走り出す。
 息切れする桜井を横目で確認しながら――。

「――京極です! 集中治療室にいる姉は!? もう、気管切開してしまいましたか!?」
 スタッフステーションのドアに激しくノックをすると、先ほどの男性看護師がいた。
 男性看護師は慌てて怜に駆け寄り、ドアを開くと――。
「京極さん。ど、どうされましたか。そんなに慌てて。……それにそちらの方は?」
「姉に、姉に面会をさせてください!」
 息もたえだえに、怜が懇願する。その後ろで、桜井も膝に手をつき息を整えている。
 なにがどうしてこうなっているのか。男性看護師は理解できない。
 それでも面会許可証を首から下げているし、病棟側の管理としても、面会拒否するほどではない。そう判断したのか――。
「どうぞこちらへ。……本当に、大丈夫ですか? お二人とも、肩で息をしていますが」
 男性看護師に心配されながらも、怜と桜井は集中治療室に入っていき――。
「……姉さん」
「舞香さん……」
 四人部屋の一番奥、窓際のベッド。
 ――あいもかわらず、そこに枯れ枝のごとく横たわる舞香が見えた。
「――目も閉じたまま。意識も戻らず、ですか」
「……京極先生」
 ハハッとから笑いしながら、怜は一歩一歩、舞香のもとへ歩み寄る。――そして、舞香の手をつかみ、膝から崩れ落ちた。
「京極さん、大丈夫ですか!?――先生、誰かいらっしゃいませんか!?」
「京極先生、しっかりしてください!」
 男性看護師はドアを開けてスタッフステーションへと声をかけ、医師を呼んでいる。桜井は怜に駆けよろうとしたところで――ビシッと。足に痛みを感じ、部屋の中央で動きを止めた。
 それは急に走ったからという一時的なものか。それとも慌てすぎて痛めたのか。
 桜井は一瞬だけ考えたが、すぐに怜を見る。
 今、怜が浮かべる笑みは――。
(ヤケになって、から笑いしている笑みだ……。何度も、鏡でみた笑い方)
 桜井は怜の笑みを――現実のなにもかもが上手くいかず。心が折れそうな時に浮かべていた自分の笑みと同じだと感じた。
(……少し陰湿でサドっぽいけど、頼れる院長先生。お客様の笑顔のためにバイタリティーあふれていて。それでいて、人を安心させるような笑み。それが……こんな。メアをとらえるということは、たぶん京極先生にとって――最後の希望だったんだろうな)
 それが――無意味だった。
 夢も希望もなく――絶望する怜が痛々しくて、思わず桜井は目をそらす。
 スタッフステーションでバタバタする音だけが響く室内。
「……桜井さんは、信じられないでしょうけどね。姉はすごく美しくて……。誰もが羨むような美貌を持っていたんですよ」
 その沈黙をやぶる口火を切ったのは――怜だった。
「……はい」
「男からモテることを、何度も。何度も何度も自慢してきたんです。嫉妬するでしょ?……ってね。このミイラのように枯れた姿では、信じられないでしょう?」
「……信じますよ。私は、信じます」
 自虐的な怜に視線を戻し――桜井は、澄んだ目に一杯の涙を溜めこんで答えた。
 窓から差しこむ日光がキラキラと虹彩に反射して――神秘的に輝いている。
 怜はいつか見た、教会のステンドグラスを思い出した。怜にメアと――姉を夢の世界の住人にして、生気を奪った悪魔と戦う力をくれた教会を。
 怜は――神の力を与えられても、姉を破滅からは救えなかった。
 その事実を再認識して――。
「――゙ぁ゙あ゙あ゙あッ……。゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァッ!」
 押しつぶされたように濁った声をあげ――姉の手に自分の顔をこすりつけた。膝立ちになり、ベッドにもたれかかるようにしながら――。
 病棟に、深い悲しみにみちた泣き声が木霊していく。
「やっと、あいつにやりかえせたのにッ! 七年かけて、やっとヤツにたどり着いたのにッ……。このまま、なんの希望もなく、死ぬまで姉さんを生かし続けろと言うんですか!?」
「……京極、先生っ」
「私がみたいのは、そんな姉さんじゃない! 生かされている姉さんじゃない! 少し憎たらしいぐらいに自信満々でもいいッ。うっとうしいぐらいの絡み方をしてきてもいいッ! そんな、どこにでも転がってる当たり前のッ……。当たり前の、暖かな家庭を……もう一度、取り返したかった! それだけの、たったそれだけの些細な望みなのに……なぜこうなるんですかッ!?」
「…………」
 桜井はなにも言えない。
(その苦しんで、戦ってきた七年間を知らない私は……なにも言えない!)
 桜井は、怜につられて嗚咽をあげそうな口を押さえつける。
「私の夢が……! いくらお客さんを笑顔にする夢を叶えても! 最大の――姉とまた、暖かな家庭を作るという夢が叶わなければ、なにも生きる理由がないんですよッ!」
 誰に言うでもない。独白を叫び、やがて怜は脱力してしまった。
「……メアをとらえても無意味なら。もう私には、うつ手がありません……」
 このまま、怜は舞香と無理心中をしてしまうのではないか。
 桜井がそう思うほど、怜は悲嘆に暮れ――痛々しすぎて、見ていられない。
 すっと、桜井は視線をそらした。
 その桜井の目が――ある一点を見て、まん丸に開かれる。
「……ぁッ!」
 口にできず、思わず桜井は指さしてしまう。
 それが――人間に対してするのは、失礼な行動だとはわかりながらも。
 怜は挙動不審な桜井の様子に呆気にとられていた。
 だが、もしかしたらとベッドの上をのぞきみて――。
「――姉さんが……目を開いている?」
 濁って弱い光をはねかえす瞳が――たしかに、動いた。
 怜は慌てて立ち上がり、姉の目を見つめる。ぶつかってしまいそうな距離で。酸素マスクから漏れ出た霧が、頬をさらに湿らせる。
「姉さん!? 聞こえますか、見えますか!?――僕だよ、怜だよ!? 現実に生きている、姉さんの弟だよ!?」
 怜が心のたかぶりを抑えきれない、乱れた口調で姉の肩を揺らす。
 その様子を目にした男性看護師と医師が怜を止めようとつかみかかって――。
 怜だけではない。桜井も、医師も男性看護師も目にした。
 酸素マスクのなかで――七年以上ぶりに、口元が声を発するために動くのを。
 ――れい。
 間違いなく、そう動いていた。
 弱り切った発声器官から出る声は、酸素を送るシューという音にかき消されてしまった。
「……姉さん。今……僕の名前を?」
「京極先生、私も見ました! 間違いなく、先生の名前を呼んでましたよ!」
「先生……。本当に、姉は自力で?」
「……たしかに。目を長くあけているのがつらいのか、もう目は閉じてしまいましたが……。意識を取り戻したのかもしれませんね」
 医師は目の前で起きた現実に首を何度も傾げ、そう答えた。
「――では、姉のやるはずだった……気管切開手術は?」
「……気管切開をしてカニューレ――管をいれた方が安全なのは間違いありません」
 ゴクリと唾を飲みこみながら――怜が目線を落とそうとした時。
「――ですが、意識もふくめて回復傾向ですからね。……少し様子を見ましょう。胃から栄養を流していますし。どれだけ飲みこむ力があるのか。今後の見こみもふくめ、言語聴覚士と検査してから判断しましょうか」
「あ、ありがとうございます!」
 その判断が、医学的にどれだけ優先されるべき判断だったのかは怜にはわからない。それでも――大切な姉に、これ以上の傷をつけたくはなかった。傷つけずに姉が生きていけるなら、こんなにありがたいことはない。
 心からのありがとうを告げられた医師は、スタッフステーションへと戻っていく。看護師も、慌てて医師のあとを追った。
「京極先生、よかったですね! 舞香さん――お姉さんが意識を取り戻して!」
「桜井さん……」
 桜井が怜の腕にヒシッとしがみつき、目を潤ませた。
 すると怜は、片手で頭を押さえ、しかめっ面を浮かべた。
「あ……す、すいません。うっとうしかったですよね」
 思わずザッと離れる桜井。
 そして怜は弁明するように首をふりながら――。
「――いえいえ。違いますよ。……鬱陶しかったのは、獏です」
「……獏さん?」
「ええ。……どうやら、メアから取り戻した生気を私に託していたようです。私が手をにぎることで、生気が移っていく仕組みにしたようです」
「それは……。獏さん、もっと早く教えてくれてもいいのにですね。イジワルですか?」
「……メアの犠牲者を選別するのが困難だったと、言い訳をしていますが……。まぁもっともですかね」
「……え。他にも犠牲者がいて、その人たちは助からないんですか?」
「他の人どころか……。姉さんも、まだ生気がかなり不足しているようです。このままでは、ベッドの上でほとんど介助されて。それでギリギリ生活できる程度だろうと」
「――ぇ。メアとの戦いは、終わりじゃないんですか? ちゃんと消しましたよね!?」
「神話の時代から、世界各地にヤツは存在します。……今回は、獏と同じ――。数ある分体の一つぶんの生気を取り返しただけです。例えるなら、オセロで一枚だけひっくり返したようなものでしょう。……これで詰みには、ならないようですね」
「で、でも! 少しでも、目が覚めただけよかったですよね!?」
「……ええ。それはもちろん」
 今もその瞬間を思い出したのか――怜は目を潤ませ、舞香を見つめる。
 そんな様子を桜井も涙ながらに見ていたのだが――。
「……あ」
 なにかに気が付いたかのように言葉を漏らした。
「桜井さん?……どうかされましたか?」
「ぃや、でも……。こんな時に、アレなんで」
「私に遠慮は必要ありませんよ?」
「で、では……」
 怯えながら、桜井は唇を震わせ――。
「――私の採用理由って、メアが私の夢にでやすいからですよね? 一度ひっかかってしまった私の夢には、もうこないのでは? そうなると、私は内定取り消しになるのでは……と」
「なるほど……。それで怯えているのですね」
「すいません! こんな、兄妹の感動の再会に水を差すようなことを。ちょっと、かなり……不安になってしまって」
「……メアには子供っぽい意固地な面があるようです。獏に喰われる瞬間も、絶対に諦めない。この娘をと口走っていたました。時期を置いて、またくるでしょう」
「よ、よかった~。……って、あれ。内定を取り消されないのはいいけど、悪魔に目をつけられてるのはよくないんじゃ!? で、でも、就活地獄に戻らずに済みました~」
「夢に見るぐらいですからね。大丈夫です。私は桜井さんの努力も、成長も認めていますから。内定は取り消しません。――私には、桜井さんがいなきゃダメなんです」
「きょ、京極先生……」
 桜井は胸のときめきを感じ、キュッとにぎった手を左胸に抱え――。
「――メアのエサとして。そして女性のお客さんに安心される女性スタッフとして」
「で、ですよね~! そうですよね、期待してすいません!」
 乙女心が一瞬で砕け――桜井は涙目で苦笑した。
 すると、逆に怜の方が少し不安そうに口を開く。
「桜井さんこそ、夢現で働くことがイヤではないんですか? 新たに覚える知識技術、そしてメアにと……。大変な職場でしょう?」
「私は、新しい知識を学べて。尊敬する上司がいて。――それでお客さんが喜んでくれる職場に大満足です!」
「――そうですか。……失念していましたが、従業員の満足者も百%にできるようにしないといけませんね」
「あ! それじゃあ、お給料を……」
「それは実績しだいですね。指名数で考えましょう」
「そ、そんなの、かなり先じゃないですか!? まだ独り立ちもしてないのに!」
「ふふっ。冗談ですよ」
「京極先生、からかいましたね!? そんなことするなら、私だって先生のことをからかってやりますからね!」
「ほう、桜井さんが私をですか? それは楽しみですね」
「バカにしましたね!? いいですよ。それなら本当にからかってやりますよ!――京極先生?」
「どうされましたか、桜井さん?」
「先生って……。お姉さんに対しての一人称は――〈僕〉なんですね?」
「――なっ……」
「ふふっ。顔を真っ赤にしてます! 可愛いッ!」
「年上にして雇用者をからかうとは……。いいでしょう。それならば、私にも考えがあります。正社員としての雇用契約書の内容は楽しみにしといてください!」
「ああっ!? ちょっ、それはズルいですよ!?」
「契約内容の確認をせずに内定を受諾する方が悪いんです。桜井さんには社会の――」
「――き、京極先生ッ!?」
「なんですか? いまさら謝っても遅いですよ」
 興奮した様子の桜井が、怜となにかに視線を右往左往させている。
 どうしたのだろうかと怜が思っていると――。
「――ま、舞香さんの顔ッ!」
「――ぇ……。姉さん。今……笑って?」
 七年以上ぶりに、舞香が現実を見て――微笑んでいた。
 それはもしかしたら、見間違いかもしれない。
 ほんのわずか、はにかんだかな?――というぐらいだ。それでも、怜にはわかる。
 心地よく都合のよい夢を見て――夢現な状況で笑っているのではない。
 ――自分から、現実の自分たちを見て、おかしなやりとりで笑顔になってくれたんだと。
 そのことが、怜には――涙で視界がぼやけるほどに嬉しかった。
「……また、僕のやりとりで笑ってくれたんだね。姉さん……。二人っきりになっちゃったけどさ……。一人よりはズッといいよ。また笑い合える、暖かい家庭を作ろう?」
 怜の潤んだ問いに答えるほどの体力や気力はまだ戻っていないのか。
 舞香の表情は、またいつもの口を半開きにした状態になってしまう。
 しかし、一瞬でもよかった。
「そう簡単には、戻りませんよね。――でも、姉さんの笑顔が見られて……。もう一回見られる日を、私はっ。……ずっと心待ちにしていましたッ。だから――見られて、よかったッ!」
 七年以上――全力で、姉が笑顔になるよう努力し続けたんだから。
「京極先生。……本当に、よかったですね!」
 怜はあふれてくる涙を必死にこらえながら。
「――はいッ。……本当に、よかったです。――これで、夢を諦める必要もなくなった」
 舞香から桜井の方へ、ゆっくり振りむいて――。
「おかげさまで私は――夢の続きが見られます」
 怜は――ほころんだような笑みをむけた。
 それは、お客さんにむける爽やかな、柔かい笑みとは違う。
 まるで愛おしい家族にむけるような――親しみにあふれた笑顔だった。
 病室の窓からは、ポツポツと薄紅色が広がって見える。
 梅のつぼみたちが、競うように花開こうとしている。 
 百花にさきがけて咲く梅。
 寒さがきびしい冬を乗りこえ。命芽吹く春のおとずれを、誰よりも早く知らせる。
 しかし、本年の一番咲きは――ゆずることになった。
 七年以上ぶりに花咲いた、雫をまとう男の笑顔へと――。