五章
「――どうしよう。ヤバいよ、不安すぎて集中できない。前期試験まであと二週間ないのに……。私は集中しないと、ヤバいのに」
高校三年生の樋口優衣は、第一志望の国立大学の入試テストを前に焦っている。机に向かいながらも、まったく集中できず苦悶の表情を浮かべていた。
「共通テストはギリギリの七十九%しかとれなかったんだから……。このままじゃダメのに。もっと勉強しなきゃなのに! なんで、なんでペンを持つだけで吐き気がするの!?」
シャープペンをにぎる手は、優衣の意識とは関係なしにぷるぷると震えている。――文字を書くことすらままならないようだ。
優衣の目指している国立大学は、日本でトップレベルの学力を必要とする難関校だ。過去に合格した者の共通テスト最低ラインは――得点率七十八%だ。合否は共通テストと大学の前期テストの合計点数で決まる。共通テスト結果が最低ラインと一%しか離れていない優衣は、次の前期テストで少しもミスをする余裕がない。本当にギリギリのラインに立たされていた。
「もっと共通テストで得点ができていれば、前期が楽だったのに! もっと心に余裕をもてたのに……。イヤだ……。イヤだよ……。周りは私がこうしている間にも、ドンドン勉強してる。うちの高校で第一志望を落とすのが私だけだったらどうしよう!?」
優衣の高校は、いわゆる進学校。それも都内で指折りの進学実績をほこっている。周囲の同級生も受験よりかなり前から準備をはじめていた。そして勉強が生活の中心であるのが当たり前の生活をしていた。
「身の丈に合わない高校に進学するんじゃなかった。ううん。それ以前に、恋愛なんかに現をぬかしてたからだ。あそんでた私と違って、みんなは勉強してたのに……」
ノートの上にぽたぽたと雫が落ちていく。せっかく書いた文字が紙ごと歪んでしまう。
「もう無理。もう無理だよぉ……。でも、受からなきゃヤバい。第一志望行かなきゃ……」
優衣は腕でゴシゴシと涙をぬぐう。あふれ出た涙と一緒に、頭に浮かびかけていた元交際相手のこともぬぐいさった。一方的に別れを告げブロックした罪悪感からか、どうしても時々、顔をだす。
「そう、過去を考えてもダメ。前をむいてがんばらなきゃ。後悔も罪悪感も、今は考えない。今はとにかく、受験に集中しないと。……そうしないとなのに」
ペンを持ちながらも、震えてしまい手が動かない。
(書きすぎて筋肉が疲れたのかな? それなら……読んで覚えよう)
優衣はペンを離し、参考書を食い入るように見る。
(あれ……。なんだっけ、ここで使う公式がわからないッ。何度も勉強してきたとこなのに! なんで私は覚えてないの!? こんなんだから共通テストも目標にとどかないんだよ!)
もう何度も勉強した範囲でも、覚えきれていない。その事実が、優衣をさらに追いこむ。
ギュッと唇を噛みしめながら、悔しさにまた涙をながす。
そうして数時間、参考書を読みかえしていると――。
こんこん、と。優衣の自室をやさしく、気づかうようにノックする音がした。
「……どうぞ」
参考書から目を離さずに優衣が言う。すると、そっとドアが開き――。
「お邪魔するわね。お疲れさま、優衣。夕ご飯ができたけど……」
「うん。ここで食べる」
「そう、わかったわ。持ってくるわね」
まるで腫れものに触るようだ。母からすれば敏感な受験期にある娘の神経に障らないよう気を遣っているのだが。母はすぐにパタンとドアを閉じた。
そうして部屋に夕食が運ばれてきて。優衣は本を片手に食事をして。廊下に食器を置いておく。そのまま深夜になり――また控えめなノックの音がした。
「……今日は大丈夫」
まだなにも言われていない。ノックをされただけなのに、優衣はそう答えた。すると廊下から「わかったわ」と母の声が返ってくる。
(夜食を食べている暇なんてない。太るし、吐き気がして夕食も吐きそうなのに……)
母は優衣に夜食がいるか。そう聞こうとしていたらしい。だが、すべてを口に出すまでもなくコミュニケーションが成立してしまう。そこからも、優衣が深夜まで勉強している生活をずっとしていることがうかがえる。
そこまで勉強に集中しようとしているのだが――。
(いい加減に筋肉の疲労はとれたでしょ!? なんで……。ペンをもとうとすると、手が震える! それに、首がざわざわしてくる! じっとしてられなくなりそう!)
いまだにペンを持つことができない。それどころか、じっとしてられないぐらいの焦燥感におそわれる。ここにきて生じた異常にうろたえつつも、優衣は――。
「……じっとしてられないなら。それなら、歩きながら本を読めばいいか」
参考書を持ちながら椅子から立ち上がり、室内を歩き出した。
(……なんか、黙っているのもつらくなってきた。……それなら!)
優衣は室内をウロウロと歩きながら、参考書の内容を小声でしゃべり出す。
「ダイオードは、p型半導体とn型半導体を接合した素子で――」
室内には優衣のみしかいない。それなのに、まるで誰かに講義でもしているかのような異様な光景だ。優衣はがむしゃらに勉強を続ける。生じている異常に次々と対処をしながら。
しかし――。
(眠い……)
いよいよ、眠気に勝てなくなってきた。
優衣は目をこすりながら参考書を机の上に戻し、寝間着に着がえ出す。
(本当は、最後の追いこみの時期に寝てる余裕なんてない。でも、最低でも四時間は寝て――ノンレム睡眠を二回しないと。そうしないと、記憶が脳に固定されなくて効率が悪いって先生も言ってたし。……ああ、でも寝てる時間がもったいない!)
優衣は学校で教師に教わった内容にしたがって勉強している。それが効率のよい方法だとはわかりつつも、寝ることに罪の意識がある。よけいに焦るとも言えるだろう。
寝間着に着がえ、アラームをセットして素早くベッドにもぐる。
電気を消した部屋で、優衣は目をつぶりながらも――。
(共通テストでギリギリだったのに。前期試験まであと二週間切ってるのに……。私は、こんな休んでられる立場じゃないのに!)
閉じられた瞼から、頬をツッと伝い落ちていく温もりを感じた。
(……動悸までしてきた。息が苦しい)
心臓の鼓動と連動するように、敷き布団がバクンバクンとゆれるようだ。優衣はそう思いながらも、早く眠りに落ちろと願う。
そんな思いとは裏腹に、脳は考えることをやめない。脳内でチカチカと明かりが灯っては消えているような錯覚におちいる。優衣はドンドンと不安がつのっていった。
(眠いはずなのに。なんで眠れないの!?)
バチッと目を開いて閉じて、深呼吸したりを繰りかえす。なんとかリラックスして眠れるようにと。しかし、その努力もむなしい結果となった。
その夜、優衣が眠ってからアラームが鳴るまでは、一時間ぐらいしかなかった――。
翌朝。
非効率な睡眠の取り方でさらに焦り、優衣はベッドから起きてすぐさま顔を洗う。
「……動悸が。息が苦しい」
階段をおりて、のぼって。そうして二階の部屋に戻ってきただけだ。それなのに、優衣はハァハァと荒い息をしながら左胸を押さえた。
「勉強……。勉強しなきゃ。落ちたくないよ……」
これまで、意図的に『落ちる』など試験での不合格を連想させる言葉はさけてきた。
しかし、あまりの体調の悪さに思わず口から漏れ出てしまう。
「第一志望……。国立……」
ぶつぶつとつぶやきながら、椅子に座ってペンをもとうとすると――。
「――ぅえっ」
たちまち手がぶるぶると震え出す。さらには耐えがたい吐き気。全身の血の気がサッと引くような感覚。急に起きて目眩がした時のような気持ち悪さがおそってくる。
「……なに、これ。私……。なにが起きちゃったの!?」
明らかに異変が生じている体に、優衣は混乱してしまう。強引にペンをにぎろうとしても――さらに涙があふれ、動悸が激しくなる。
「なんで……。なんでよ!? ペンがもてなきゃ、勉強できないじゃない! それどころか、入試も受けられないじゃない!? 動け、動いてよぉッ!?」
もはや恐慌状態におちいった優衣が叫ぶ。
すると――。
「――優衣!? どうしたの、大丈夫!?」
キッチンで朝食を作っていたのだろう。エプロンを身につけたままの母親が慌てて部屋にとびこんできた。
そんな母親を見つめ――優衣は堰を切ったようにブワッと涙をあふれさせる。そして、がくりと床に崩れ落ちた。
「――お母さん! 私、私……。ぁあああああ……っ!」
「どうしたの!? なにがあったのか言ってくれないと、お母さんもわからないわ!」
母は優衣を抱きしめ、頭をなでて落ちつけようとする。
「これだけズッと! ズッとがんばってきたのにッ!」
「そうね。優衣はがんばってるわ。だから焦ることはないのよ?」
「違うっ!――違うのッ! 私の、私の体がッ!」
「……体がどうかしたの?」
「――壊れちゃったのッ! 私の体ッ!」
「――え?」
泣き叫びながらも、なんとか優衣は伝えた。
だが――母は理解できなかった。娘がなにを言っているのかを。
「壊れちゃったって……。どこが?」
「脳もッ! 心臓も、腕もッ!――心もッ!」
「……なんでそう思ったの?」
「ペンっ! ペンを持とうとするとっ!――ダメになってッ! 震えてこうなるのッ!」
「……ぇ」
まともな文章になっていない。まるで泣きじゃくる子供のように説明をする優衣。
しかし母もやっと娘がどういった状態にあるか理解して、全身から血の気が引いた。
言葉を失い数秒固まってから――。
「――優衣。とりあえず病院にいきましょう」
「……でもっ! 勉強っ! 私は、バカだから! べんきょう、しないとッ!」
「そんなことない。優衣はバカなんかじゃないわ。しっかり症状を落ちつけないと、お勉強もできないでしょ?」
「……ぅうッ! このままじゃ、試験もッ! これだけ、これだけズッとがんばってきたのにッ! 書けなきゃ、受けられないよぉ……」
「そうね。だからこそ、今はお医者さんにいきましょう。急がば回れって言うじゃない? 賢い優衣なら知ってるわよね?」
そうして数十分間。優衣は母の腕のなかで泣きじゃくる。
思春期の娘から嫌われているため、廊下で隠れるように事情を聞いていた父親は――。
「――もしもし。すいません、一つお伺いしてもいいですか。……ありがとうございます。そちらにかかったことはないのですが、本日なるべく早めに診察してもらうことは――。……ダメですか、予約。そうですか……。ありがとうございました」
精神科がある病院に電話をかけていた。
しかし、どこも新患は予約でしか受付ていないと断られ――。
やっと診てくれる場所が見つかったのは二十件近く電話をかけてからだった。急なキャンセルで空きがあるので、特別にということのようだ。
父親は急にキャンセルしてくれた患者に感謝しつつ、車のエンジンをかけに走った――。
「――樋口優衣さんですね。それでは、こちらの問診票の方にご記入をお願いします」
「……はい」
車で数十分間の場所に、その精神科クリニックはあった。車のなかでも「私はもう終わりだ」。そう泣きじゃくっていた優衣は、両親に付きそわれながら受付をしている。
優衣はクリップボードを受け取り、待合室の椅子に座る。
そうして記入をしようとするが――。
「……なんで。勉強じゃないのに。もう、ボールペンってだけで……もてないッ!」
ボードにはさまれたボールペンをとろうとしただけで、腕がぶるぶると震える。そして全身の血の気が引いて泣きそうになった。
「――優衣。紙にはお母さんが書いてあげる。だから、回答をスマホのメモ帳に入力して?」
「……お母さん。わかった」
それならできるかもと優衣はメモ帳を開く。そうして問診票を見ながら、回答をうちこんでいく。
(スマホは大丈夫なのに……。ペンはもてないなんて。私の体、どうなってるの?)
母親は優衣のスマホディスプレイを見ながら、スラスラと紙の空白をうめていく。優衣は、しっかりとペンをにぎれて文字を書ける母を羨ましそうに見つめていた――。
そうして、受付番号が呼ばれて優衣と両親が診察室へと入る。そして白髪まじりの医師に着席を促された。症状やこれまでについて、いくつも受け答えをしたあと、医師は――。
「お話と症状をお聞きしますと、書痙や適応障害、不安神経症――今は不安障害ですが。それにふくまれるパニック発作などが強く出ている疑いがあるかと思います」
――そう診察結果を伝えた。
「これらの病気は、ストレスの原因に上手く対処できないことで症状があらわれることが多いです。また初診では明確に他の疾患と区別がつきにくいのも特徴ですね。まずはお薬を飲んでみて。その効能をみてから、正確な診断名にかわることもあります」
優衣は白衣を着ている男性からの視線というだけで、少しビクッとしてしまう。でも、勇気を出して口を開き――。
「――試験が、あるんです。大学入試の前期試験が、あと一週間ちょっとなんです。……それまでに治りますか?」
沈んだ声で、たずねた。その問いに、医師は少し迷う様子を見せてから答えた。
「……こういったお薬はだいたい二週間以上のスパンを開けて判断と調整をしていきます。即効性が高い、心が落ちつく薬も出しますので」
「……そうですか」
『間に合うか』。『間に合わないか』。明言をさけられ、治療方針を説明された。――それだけで、賢い優衣は悟ってしまった。
「……間に合わないんですね。……私はッ。試験にッ!」
体がザワつき涙がこみあげてくる優衣の背を、両親がさする。
医師は顎に片手をあてながら少しうなる。
「不安障害でしたら。……他にも、カウンセリングが治療に有効なことがあります」
「あの……。そのカウンセリングでは、どういったことをするのですか?」
母はカウンセリングという、よく耳にするが内容はよく知らない言葉についてたずねた。
「あくまで例ですが。認知行動療法という自分の思考パターンの歪みを自覚してストレスの少ない方向へ修正していく治療とか。自分の状況を理解し、適応するための感情制御をともに話し合っていくなどですね。代表的なところですと……フロイトやユングといった精神科医は、夢などをカウンセリングして心を分析し、精神疾患の治療に役立ててきた歴史があります」
「なるほど……。あの、こちらの病院ではやっていただけないのでしょうか?」
「お母さん、もうしわけありません。当院にはカウンセラーがおりませんので」
「それでしたら、どちらでやっていただけるのでしょうか?」
「保険適用じゃないので高くつきますが、民間で独立しているカウンセラーもおります。カウンセラーがいる病院に紹介状を書くこともできますが……。いずれにせよ、予約制なのですぐに受けることはむずかしいでしょう」
「そうですか……。とにかく、まず娘は即効性の高いお薬で症状が落ちつくのを祈るしかない。そういうことでしょうか?」
「試験のことを考えると、そうなります」
「……わかりました」
優衣は絶望し、もはやなにもしゃべらず涙をこぼしている。父親もむずかしい顔をしながら黙って聞いていた。
母親が医師と話を進め、その日は薬を処方してもらい帰宅した。
優衣と両親は悩んでいる。
ペンすらもてないぐらい、強いストレスと不安を抱えていることに――。
優衣が精神科を受診してから、二日が経過した。
優衣は自室で朝の薬をゴクリと飲んで、考える。
(睡眠剤はストンと眠りに落ちるけど――そのあとも頭がぼーっとするなぁ)
優衣はあいかわず、ペンがもてない。半ば諦めのような境地にいたり、椅子の上に体育座りをしている。そして参考書のページをペラリとめくっては読んでいく。
(……ペンがもてなきゃ0点。この勉強も、今までしたことも……。すべてムダなのに。私、なにやってんだろ。どうすればいいのかな。私……。こんな残酷な罰を受けるほど悪いことをしてきたのかな?)
いまでも考え出すと、すぐに涙がこみあげてくる。全身がザワついて、動悸もする。
(恨まれることは、してきたか……。別れた相手に、恨まれてるだろうな。……私が受験勉強を優先して、メッセージで一方的に別れるって言ったし)
一方的に別れを告げ、ブロックまでしてしまった元彼氏とのメッセージを見る。そして優衣は、こういう時こそ頼りたかったのに、自分が短絡的にしてしまった行動を後悔した。
優衣が自責の念にかられ、膝の間に顔を押しあてた時――。
トントンと力強いノックの音が響いた。
「……なに」
ドアを開けて入ってきたのは――母だった。
(音の強さ的に、お父さんかと思ってた)
優衣は前とは違う様子の母を、視界の端に置いたままうずくまっている。
「優衣。でかける支度をして」
「……え?」
「カウンセラーじゃないけど。午前の最終枠で予約がとれたから」
「……は? カウンセラーじゃないけどって、どういうことなの?」
「お母さんも調べたの。そうしたら――リラクゼーションサロンの口コミで見つけたの。『院長先生と話して、夢で気づかされた。育児に追われていた心が救われた』っていう口コミを」
「……リラクゼーションサロンで心が救われたとか。専門家でもないんでしょ? もしかして、お医者さんが夢でカウンセリングとか言ってたから? そんな簡単なもんじゃないよ……」
諦めてまた顔をうずめ、視界を閉ざそうとする。
――そんな優衣の肩を、母はガシッとつかんだ。
「諦めてなにも行動しないよりはいいでしょ!? お母さんは、悔しいの!――優衣が今までがんばってきたのに、試験すら受けられないのが!」
「お母さん……」
「別に結果はどっちでもいいの。浪人でもいい。――ただ、こんなしこりが残るような終わり方……。優衣は本当に納得できるの!?」
力強い母の言葉に、優衣は目を丸くする。
そして唇をギュッと噛んでから、ゆっくりと外出用の服に着がえはじめた――。
そうして優衣は母親の運転する車に揺られ、コインパーキングに車を停めてから数分ほど歩く。そうして店のドアを開け――。
「――樋口さんですね。ようこそ。私は院長の京極怜ともうします。こちらは、研修中の桜井さんです」
「本日はよろしくお願いします!」
爽やかな笑みを浮かべる若い男性の紹介に、優衣は面くらった。
優衣が母を見ると「今日はよろしくお願いします」と頭を下げている。どうやら院長が若い男性だと知っていたらしい。優衣は少し、心のなかで戸惑った。
(男性に体を触られるの?……まぁお母さんも見てるし。それに女性スタッフもいるから……。大丈夫、かな。男の人だけだったら、絶対に帰ってた。変態だったらヤバいし)
胸中ではそのように思いながら、母につづいて店内へと入っていく。
優衣と母親は、よい香りと暖色の照明で焦った気分がちょっとだけ落ちつく。
ベッドに座る優衣の横で、母は怜を見つめ、必死にうったえかける。
「先生、問診にも書かせていただきましたが。娘は試験のストレスで――」
「お母様。事前問診を拝見させていただきました。――ストレスが原因でペンがもてない。とても大変な状況のようですね。私も心身のリラックスに全力を注がせていただきます」
「はい、試験結果は別にいいんです。でも、試験は受けさせてあげたいんです。ずっとがんばってきた力を発揮させてあげたくて……。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。――樋口さん。桜井にも、少しお手伝いしてもらってもいですか?」
「はい。……女性の方が安心できますので」
「コラ、優衣。先生に失礼よ?」
軽くたしなめる母親に怜は微笑みながら首をふる。
「いえいえ。やっとお話をしてくださいましたね」
「……え?」
「――失礼ながら、事前問診。そしてこのお店に入ってきてから、お母様の気持ちと、お母様からみた情報しか伝わってこなかったもので。優衣さんの気持ちがわかりませんでした」
「え、ちょっ。あのっ! きょ、京極先生!?」
いつになく失礼な物言いに、桜井はあわあわと慌てはじめた。
「……なら、カウンセリングができるんですか? 気持ちを話せば、楽になるんですか?」
「優衣さん。ここで私が実はカウンセラーで、カウンセリングができると言えば楽になるのですか? 肩書きだけで気持ちを話して楽になるかが決めるのでしょうか?」
「それは……。肩書きだって、信頼する要素ですから」
「一要素としてはそうですね。それでは医師やカウンセラーならば。――それだけで信頼して、なにもかもを話せますか?」
「それは……」
「それはむずかしい、ですよね。肩書きは話す理由にはなりますが、信頼する理由としては薄い。信頼に大切なのは、結果の積み重ねですから。テストに臨む自信と同じです」
「…………」
「――正確な情報がないと、正しい施術も結果の判定もできません。優衣さんに――そしてお母様。優衣さんの人生の主役は、いつだって優衣さんです。……優衣さん自身がどう悩み、どう願っているのか。私が信頼できるのかテストすると思って、お聞かせいただけませんか?」
柔らかかった怜の笑みは消え、真剣な面持ちに変わっている。
そのどこまでも真剣な眼差しに優衣は少し怖じ気づきながらも――。
「――試験を受けたい。合格したいッ。進学校で、ずっと周囲の期待がプレッシャーだった! 青春も恋人も捨てて勉強してきたんですよ!?――こんな終わり方、イヤですッ!」
ポロポロと涙をながしながら、どうなりたいかのビジョンと思いをうち明けた。それを聞いた怜は深くうなずく。
「優衣さん自身の思いを話してくださり、ありがとうございます。――全身全霊をもって、心身ともにリラクゼーションできるようつとめさせていただきます」
「……京極先生」
優衣は正直、全身をマッサージされたところでなにも変わらない。リラクゼーションサロンなんて気休めにもならない。そうたかをくくっていた。
だが、瞳の奥に宿る熱意に――考えを改めさせられる。
怜の熱意にあてられたのか母親も、桜井まで涙を浮かべていた。
「――手当てというのは、文字通り手をあてて痛みを癒やすこと。世界で最古の治療と言われています。私は手を使い癒やす――セラピストです。普通の人が、ただ手をあてることとは、まったく異なりますからね」
「……まだ半信半疑ですけど、どうせ無理だろうって決めつけてました。……すいません」
怜は再び柔らかな笑みを浮かべる。
「いえいえ。――さて、それではまずうつ伏せになってください」
そうして母親が見守るなか、怜と桜井が全身をリラクゼーションしていく。
(……本当。手をあてられてるところの温かさが全然違う)
優衣は怜のプロフェッショナルの腕前、そしてやさしい――どこか特別な温もりを感じる。
そうして優衣は徐々に力が抜け――夢の世界へと落ちていった。
『――これはものすごい悪夢の予感がするのう』
『ええ、そうですね……獏』
夢の世界に入るなり――怜と桜井は燃えさかる図書館のなかにいた。
『きゃあっ! 火事、早くみんな逃げて!』
桜井はさっそく、優衣のみる夢の登場人物として逃げまどっている。優衣を逃がそうと必死に炎をよけながら出口を探しているらしい。
まだ〈明晰夢〉で夢のなかだと認識し、自分の行動をコントロールはできないようだ。
そんな様子を怜と、宙にふよふよと浮かぶクマの体とゾウの鼻や牙を持った存在――獏は冷静にながめている。
『……ほとんどの床や建物は燃えているのに、なかには燃えていない本棚がありますね。これはいったいなにを意味するのでしょうか』
怜は炎に追われるように逃げ惑う優衣の後ろをゆっくりと歩いて着いていく。
『燃え死んじゃう、助けて!――本棚が、動いた!?』
そして優衣が燃えていない本棚を押すと――隠し扉のようにスライドした。すると――。
『――優衣、本当にここでやめていいの?』
『お母さん!?――ダメ、ここは通っちゃいけない!』
優衣の母親がいた。
その姿を見て、なぜかここから逃げてはダメだと思ったのか。優衣はまた走り出す。
『……なるほど』
『お主はこの夢の意味が分析できたのか?』
『予測ですが。……しかし、この悪夢のワンシーンを――私は操作しないことにします』
『ほう。我はどちらにせよ喰らうからかまわん。だが、よいのか?』
『優衣さんの背景を考えると……。妙に変えてしまうより、夢から自分の心を知ることがよいと思いました。……それが気持ちの整理や気分の安定につながる可能性があります』
怜は顎に手をあてながら、燃えさかる火の手を気にすることなく歩む。
そして優衣が、次の火が付いていない本棚をスライドさせると――。
『進学校なんて行かないで、私たちとあそぼうよ! また中学の時みたいにさ!』
『あ……。こ、こっちにも逃げちゃダメッ!』
学生服を着た女性――かつての同級生らしき女性の言葉に、優衣はまた逃げ出す。桜井は崩れ落ちてくる建物の一部から、優衣を守っていた。
そうしていくつもの本棚をスライドしていき――。
『最後の燃えていない本棚ですね。……さて、なにが出るか』
怜が注意深く監視して――目を細くした。
『制服を着た男子高校生……ですか』
『ふむ。ただの同級生ではないようじゃな。先ほどまでの者とは対応が違う』
獏の言葉に怜はうなずき、さらに近づいてみる。
どうやら、先ほどまであらわれていた人との対応とは、様相が異なるようだ。
『あなたは私を燃やしたいぐらい憎いんでしょうけど、私には私の人生があるの!』
『その優先順位で、俺をきり捨てたんだろ。本当に自分勝手だよな』
『みんながずっとがんばってるのに、私だけ恋愛に現をぬかしてられなかったのよ!』
『だから俺は待ってるって言ったのにな。俺との記憶も、参考書と一緒に燃やすんだろ』
『違う! 私は天才じゃないから! 一つのことしか集中できないの!』
『だから俺を捨てて、自分だけ助かろうってか』
『一緒に逃げればいいじゃない! あなたこそ私を燃やしたいんでしょ!?』
『なんでそうなる?』
『だって私が燃えてても、なにも動じた顔してないじゃない! そうよ、私だって自分なんか燃えればいいと思う! 自分勝手でペンすらもてなくなった私なんてゴミ以下よ!』
『そう思ってるのは、自分だけだろ? いつも自分で勝手に完結させてんだから』
『それはッ!……もういい! もう、私なんか焼かれて死ねばいいのよ!』
男子生徒と言い合いをしていた優衣が、やけになったように身をひるがえす。そして数歩歩くと――もうどうにでもなれと言わんばかりに、床へと横たわった。追ってくる炎から逃げることをやめ、その身を焼かせようとしている。そんな行動を桜井が止めようとするが――。
『――桜井さん。こちらへ』
『京極先生!? なんでそんな見捨てるようなことを――。……あれ。京極先生が、学校の図書館にいる? これって、本当に現実?』
怜に言われるまでもなく、自分から『これは夢ではないか』。そう疑い出した。
〈明晰夢〉を見るための練習が身に付いていると、怜は満足気にうなずく。
怜が床で仰向けに眠る優衣を見ると――。
『――炎に包まれながらも、満足気で気持ちよさそうな顔をしています』
『そろそろか』
『……ええ。自発的に目が覚めてしまう前に。どうぞ、獏』
『うむ。――この悪夢を喰らうとしよう』
その言葉を最後に、夢の世界はパッと消えた――。
「――はっ!? えっ、えっ!?」
玉のように汗をかきながら、優衣がベッドからとびおきた。
あたりを見まわし、炎があがっていないことを確認してほっと一息つく。
「こちらのタオルをどうぞ!」
「あ……。桜井さん。どうもありがとうございます」
「優衣! すごくうなされていたけど、大丈夫なの!?」
「お母さん……。うん、怖い夢を見ただけ」
その言葉で、母親は安心して椅子に座りなおした。
「――優衣さん、おはようございます。……夢の内容を覚えていますか?」
「……・京極、先生。ええ、いつもは夢なんて見ないのに。けっこう、覚えてます」
「そうですか。桜井さんは忘れないうちに記録をしてきてください。ああ、記録が終わったらすぐに戻ってきてくださいね」
「は、はい! 私も忘れないうちに、ですね。すいません、失礼します!」
優衣や母親に頭を下げると、桜井はパーテ―ションの奥へと姿を消した。
(なんの記録だろ……。カルテみたいなのかな?)
そう優衣が思っていると――。
「カナダにあるモントリオール大学の心理学者、トーレ・ニールセン先生の論文報告でなんですけどね。入眠段階で起きた人は、七十五%の確率で夢を見たと自覚しているそうですよ。夢なので、日記にでも書かないと覚えていられないですが」
怜が先ほどの話を再開するように説明した。
「そうなんですか。――まさか、先生はわざと夢を見させた……とか?」
「そんなことが可能ならば、どうでしょうね」
「……それもそうですよね」
人に夢を見させる。そんな真似ができるはずがないかと優衣は笑った。
「さて。せっかく夢を見たのです。一緒に考えていきたいのですが……。優衣さんはどのような夢を見ましたか? ぜひ、私にも教えてください」
怜は優衣の斜め前にしゃがんで問いかけてきた。
(話したところで笑われる……。いや、それはないかな。この先生は、私にあんなにも真剣な瞳をむけてきたんだし)
優衣は夢の断片をゆっくりと思い出してつなぎ――。
「学校の図書館が燃えていました。建物も、本棚も。火の手はまるで私を追ってくるように広がって。……でも、不思議なことに燃えてない本棚もあったんです。その本棚は出口につながるようなスライド式で。……でも、スライドさせると母や古い友人、元交際相手がいました。……元交際相手とは口論になって。それでなんかもういいかって思ってしまい、炎に焼かれる床で眠った。そんな夢です」
そこまで語ったところで、桜井が戻ってきた。邪魔をしないように怜の少し後ろに立つ。
「なるほど。では、夢の一つ一つを分析してみましょう。――炎に追われる夢を見て、優衣さんはどのような気分になりましたか?」
優衣はなぜこんなことを聞かれるのか、少し疑問に思う。だが――プロフェッショナルである怜のことを信頼して、真剣に考えてみた。
「……すごく焦りました、息ができなくて。――でも、図書館が燃えていく。それが不思議と嬉しかったような気がします」
「では燃えていない本棚に隠れていた人は、あなたにとってどういう人です?」
「もしかしたら……。自分にとって、勉強以外の相手だったのかもしれません。日常的な話などをしたり。過去の交際相手だったりとか」
「ほう。それには、どういう意味があると思いますか?」
「……これも、もしかしたらですけど。炎に追われて焦る私にとって、休む場所だったのかもしれません。でも、怒鳴られて言い合いになりました。……現実では口論しなかったのに」
「現実と違って、口論になったのはなぜだと思います?」
「……炎に追われて死ぬと焦っていて。もう最後だしと本音を言えたんだと思います。息ができないぐらい苦しいはずなのに。言葉がスラスラと出ていましたから」
「なるほど……。では、炎は優衣さんにとって、どういう意味があると思いますか?」
「……最初は、勉強ができない自分を追いつめて。焼き殺そうとしているんだと思いました。でも、炎は温かいベッドのように気持ちよかったんです」
「なるほど。温かいベッドのように。では、この夢を見たことは、どのような意味があったと思いますか? あるいは、この夢を見てどのように思いました?」
そこで優衣は、言葉につまってしまう。
(夢全体の意味。どう思うか、か……。むずかしいなぁ)
悩んでいる優衣を見て、人が安心するような笑みを浮かべた怜が――。
「イメージリハーサル療法というんですがね。――悪夢の脚本を書きかえてみてください」
「……脚本を、書きかえる?」
「ええ。一つ一つをつなげながらも、これならいいと思える形に書きかえてください。大きく転換するのではなく、あくまでこれなら自分に馴染みやすい筋書きへ」
そう言葉をつけたされて、優衣は思索にふけった。
そうしてゆっくり。大切そうに言葉を紡ぎ始めた。
「……最初は、ただ勉強しろと炎に追いつめられてるんだと思いました。ふがいない結果しか出せないことを炎にも責められて、焼き殺されてるんだと」
「…………」
「だけど、もしかしたら違うのかもしれません。本を燃やしつくす。そのぐらい勉強したら、他のことをしていい。本音をぶつけて口論したいと思いました。責任感からも逃げて、すべてが終わったら気持ちよく寝ていいんだよ。義務なんて焼きはらって。……終わったら、最高に気持ちよくて温かいんだよ。そう夢に言われてる気分になりました」
そう、筋書きを自分なりにまとめて怜に語る。
怜は微笑みながら大きくうなずく。そして、いつもアフターサービスとして渡している手紙。そしてペンをやさしく優衣の手にぎらせた。
「――では、せっかくそんな気分になれたんです。忘れないようにメモしておきましょう。どうぞ、こちらをお使いください」
「あ、ありがとうございます」
そうして優衣は、少しつまりながらも先ほど怜に語った夢の脚本と、自分なりの解釈を書いていく。数十秒後、書き終えた優衣は――。
「終わりました。貸していただき、ありがとうございました」
そう言ってペンを怜に返そうとする。怜は口角を上げてペンを受け取りつつ――。
「いえいえ。よかったです。――ペンを持って、書けましたね」
その言葉に優衣も、優衣の母も。桜井までハッと目を丸くして驚く。
「優衣! あなた、ペンをもてたじゃない!? あんなに……。ペンをもとうとするだけでパニックになってッ。泣き出していたのにッ!」
「……本当だ。持ってた。私……ペンで文字が書けたッ!?」
優衣は自分で手紙に書いた文字を凝視している。まるでタネのわからないマジックを見た人のように。
「優衣さんのなかで、なにかが変化したのかもしれないですね。それは他ならぬ、優衣さんの努力のたまものです。悪夢と向き合い、こうして目に見えた成果が出たのかもしれません」
「成果……。私、できますかね?……あと一週間ちょっと、試験まで勉強して。本番でも……。同じようにペンをにぎってられますかね?」
「私は未来を見られるわけではないですから。確実なことはもうしあげられません」
「そう……ですよね」
また医師のように、明言をさけられた。一瞬、そう気落ちした優衣だが――。
「――ですが、この世には未来にわたって0%と百%が保証されたことなどありません。先ほど夢を解釈されたように自分を責任から解放して。終わったあとのご褒美も用意して。自分の成果を認めてあげられるなら。大丈夫な可能性が高いのではと私は思います。この成果――よい結果の積み重ねで、自分を信じてあげられるなら。優衣さんは、どう思いますか?」
怜の問いかけに、優衣は十秒ほどうつむきながら考える。
そして、憑きものが落ちたようにパッと笑みを浮かべた。
「私も、さっきのように責任から逃げていいんだ。そう思ったら、いける気がしてきました。だって、おかげさまで動悸もおさまって呼吸も楽ですし。少しなら、自分を信じられそう!」
優衣は、晴れやかにそう口にした。母は優衣の後ろで口元に両手をあてて涙を流している。
「私、先生のおかげでグッチャグチャだった自分の心を知れて……。整理できた気がするんです! 本当に、ここにきてよかったです! バカにしてて、すいませんでした!」
「その言葉。そしてその笑顔……。それこそが、セラピストとしての私の幸せです。こちらこそ、ありがとうございました。よろしければ、またいらしてください」
「はい! 桜井先生も、ありがとうございました!」
「さ、桜井先生!? わ、私はまだ研修中なんで! 先生なんて身分じゃないですよ!?」
「それでも、私は助けられたので。……男性一人だったら、パニックになって帰ってたかもしれません。だから、私が先生って呼びたいんです」
「桜井さん。いえ、桜井先生。よかったですね」
「京極先生!? からかわないでください!」
和気あいあいとしている空間。それをなごり惜しく思いつつも――優衣は立ち上がる。
そして出口へとスタスタ歩いていった。
「――では、京極先生。……あと一週間ちょっと、もう一踏ん張りしてみます!」
「先生がた、本当に娘がお世話になりました。本当に、本当にありがとうございました!」
「い、いえいえ! 頭を下げるのは京極先生に! 私は本当になにも……」
オロオロとしている桜井を残したまま、怜は玄関のドアを開ける。
そうして頭を下げている優衣と母親に返礼しながら――。
「優衣さん。どうぞ、お大事になさってください。本日はリラクゼーションサロン夢現へのご来店、ありがとうございました。落ち着いたら報告がてら、またのご来店をお待ちしています。よろしければ、口コミや寝具の通販もお願いします。――では、よい現実をつかまれることをお祈りしてます」
そう言って、ドアを閉じた。
午前中の営業はこれで終了だ。夢現の施術スペースに戻り、二人は後片づけをはじめる。
「京極先生! 今回は、いつにもましてすごかったですね! 夢を一緒に分析してるの、はじめてみました! 私、こんなのもあるんだ~って驚きましたよ!」
手はしっかりと動かしつつ、桜井は興奮しながら怜へ感想を言った。
怜は思わず、苦笑してしまう。
「――実を言うとですね。優衣さんの解釈された夢は、私の解釈とは違ったんです」
「……え? そうなんですか!?」
「はい。セラピストと患者が一緒になって夢を探究。そして解釈することをドリームワークと言うことがあります。ドリームワークでは、何十という考え方や切り口があるんですよ」
「……なる、ほど?」
「無意識の葛藤や欲望をたどろうとするフロイトの夢理論。ユングなら神話や個人の無意識や集合意識がいかに夢を構成するか。ゲシュタルト心理学なら、容認できる面と容認できない面をふくめた人格の投影が夢の要素になる。他にも多種多様です」
「あ、その名前は京極先生から渡された本に書いてありました!」
「とても有名ですからね。……本当に、夢を臨床に取り入れるのはむずかしいんです。実際の解釈はなん通りもあるし、脳は違う意味で夢を構築したのかもしれない。――動悸や呼吸が落ち着いたのもそうです。本当は医師が処方した薬が効いただけかもしれないですから」
「むむ……。そう言ってしまうと、正解がわからなくなりそうです……」
「案外、それこそが正解かもしれません」
「――え?」
「たった一つの正解なんてない。本人の精神が楽になったという結果。そういう結果につながると解釈できる要素は、すべてが正解なのかもしれないですね」
「ええ!? それでいいんですか!?」
口をあんぐりと開けながら、桜井が聞く。怜は顔に喜色を浮かべ――。
「はい。特定できれば次も同じ結果にできますが――セラピストにとっては、いま相手が納得して楽になることが一番大切。自分の理論を押しつけるのではなく。そうは思いませんか?」
怜は首をちょっとだけ傾げ、逆に問う。
そんな怜に桜井は「たしかに。納得して笑顔が一番です!」。
そうほがらかに笑みを返した。
それは怜のセラピストとしての夢――人を笑顔にする。そんな職場に相応しい。
まるで人に移るような。本当に無邪気な笑顔だった――。
「――どうしよう。ヤバいよ、不安すぎて集中できない。前期試験まであと二週間ないのに……。私は集中しないと、ヤバいのに」
高校三年生の樋口優衣は、第一志望の国立大学の入試テストを前に焦っている。机に向かいながらも、まったく集中できず苦悶の表情を浮かべていた。
「共通テストはギリギリの七十九%しかとれなかったんだから……。このままじゃダメのに。もっと勉強しなきゃなのに! なんで、なんでペンを持つだけで吐き気がするの!?」
シャープペンをにぎる手は、優衣の意識とは関係なしにぷるぷると震えている。――文字を書くことすらままならないようだ。
優衣の目指している国立大学は、日本でトップレベルの学力を必要とする難関校だ。過去に合格した者の共通テスト最低ラインは――得点率七十八%だ。合否は共通テストと大学の前期テストの合計点数で決まる。共通テスト結果が最低ラインと一%しか離れていない優衣は、次の前期テストで少しもミスをする余裕がない。本当にギリギリのラインに立たされていた。
「もっと共通テストで得点ができていれば、前期が楽だったのに! もっと心に余裕をもてたのに……。イヤだ……。イヤだよ……。周りは私がこうしている間にも、ドンドン勉強してる。うちの高校で第一志望を落とすのが私だけだったらどうしよう!?」
優衣の高校は、いわゆる進学校。それも都内で指折りの進学実績をほこっている。周囲の同級生も受験よりかなり前から準備をはじめていた。そして勉強が生活の中心であるのが当たり前の生活をしていた。
「身の丈に合わない高校に進学するんじゃなかった。ううん。それ以前に、恋愛なんかに現をぬかしてたからだ。あそんでた私と違って、みんなは勉強してたのに……」
ノートの上にぽたぽたと雫が落ちていく。せっかく書いた文字が紙ごと歪んでしまう。
「もう無理。もう無理だよぉ……。でも、受からなきゃヤバい。第一志望行かなきゃ……」
優衣は腕でゴシゴシと涙をぬぐう。あふれ出た涙と一緒に、頭に浮かびかけていた元交際相手のこともぬぐいさった。一方的に別れを告げブロックした罪悪感からか、どうしても時々、顔をだす。
「そう、過去を考えてもダメ。前をむいてがんばらなきゃ。後悔も罪悪感も、今は考えない。今はとにかく、受験に集中しないと。……そうしないとなのに」
ペンを持ちながらも、震えてしまい手が動かない。
(書きすぎて筋肉が疲れたのかな? それなら……読んで覚えよう)
優衣はペンを離し、参考書を食い入るように見る。
(あれ……。なんだっけ、ここで使う公式がわからないッ。何度も勉強してきたとこなのに! なんで私は覚えてないの!? こんなんだから共通テストも目標にとどかないんだよ!)
もう何度も勉強した範囲でも、覚えきれていない。その事実が、優衣をさらに追いこむ。
ギュッと唇を噛みしめながら、悔しさにまた涙をながす。
そうして数時間、参考書を読みかえしていると――。
こんこん、と。優衣の自室をやさしく、気づかうようにノックする音がした。
「……どうぞ」
参考書から目を離さずに優衣が言う。すると、そっとドアが開き――。
「お邪魔するわね。お疲れさま、優衣。夕ご飯ができたけど……」
「うん。ここで食べる」
「そう、わかったわ。持ってくるわね」
まるで腫れものに触るようだ。母からすれば敏感な受験期にある娘の神経に障らないよう気を遣っているのだが。母はすぐにパタンとドアを閉じた。
そうして部屋に夕食が運ばれてきて。優衣は本を片手に食事をして。廊下に食器を置いておく。そのまま深夜になり――また控えめなノックの音がした。
「……今日は大丈夫」
まだなにも言われていない。ノックをされただけなのに、優衣はそう答えた。すると廊下から「わかったわ」と母の声が返ってくる。
(夜食を食べている暇なんてない。太るし、吐き気がして夕食も吐きそうなのに……)
母は優衣に夜食がいるか。そう聞こうとしていたらしい。だが、すべてを口に出すまでもなくコミュニケーションが成立してしまう。そこからも、優衣が深夜まで勉強している生活をずっとしていることがうかがえる。
そこまで勉強に集中しようとしているのだが――。
(いい加減に筋肉の疲労はとれたでしょ!? なんで……。ペンをもとうとすると、手が震える! それに、首がざわざわしてくる! じっとしてられなくなりそう!)
いまだにペンを持つことができない。それどころか、じっとしてられないぐらいの焦燥感におそわれる。ここにきて生じた異常にうろたえつつも、優衣は――。
「……じっとしてられないなら。それなら、歩きながら本を読めばいいか」
参考書を持ちながら椅子から立ち上がり、室内を歩き出した。
(……なんか、黙っているのもつらくなってきた。……それなら!)
優衣は室内をウロウロと歩きながら、参考書の内容を小声でしゃべり出す。
「ダイオードは、p型半導体とn型半導体を接合した素子で――」
室内には優衣のみしかいない。それなのに、まるで誰かに講義でもしているかのような異様な光景だ。優衣はがむしゃらに勉強を続ける。生じている異常に次々と対処をしながら。
しかし――。
(眠い……)
いよいよ、眠気に勝てなくなってきた。
優衣は目をこすりながら参考書を机の上に戻し、寝間着に着がえ出す。
(本当は、最後の追いこみの時期に寝てる余裕なんてない。でも、最低でも四時間は寝て――ノンレム睡眠を二回しないと。そうしないと、記憶が脳に固定されなくて効率が悪いって先生も言ってたし。……ああ、でも寝てる時間がもったいない!)
優衣は学校で教師に教わった内容にしたがって勉強している。それが効率のよい方法だとはわかりつつも、寝ることに罪の意識がある。よけいに焦るとも言えるだろう。
寝間着に着がえ、アラームをセットして素早くベッドにもぐる。
電気を消した部屋で、優衣は目をつぶりながらも――。
(共通テストでギリギリだったのに。前期試験まであと二週間切ってるのに……。私は、こんな休んでられる立場じゃないのに!)
閉じられた瞼から、頬をツッと伝い落ちていく温もりを感じた。
(……動悸までしてきた。息が苦しい)
心臓の鼓動と連動するように、敷き布団がバクンバクンとゆれるようだ。優衣はそう思いながらも、早く眠りに落ちろと願う。
そんな思いとは裏腹に、脳は考えることをやめない。脳内でチカチカと明かりが灯っては消えているような錯覚におちいる。優衣はドンドンと不安がつのっていった。
(眠いはずなのに。なんで眠れないの!?)
バチッと目を開いて閉じて、深呼吸したりを繰りかえす。なんとかリラックスして眠れるようにと。しかし、その努力もむなしい結果となった。
その夜、優衣が眠ってからアラームが鳴るまでは、一時間ぐらいしかなかった――。
翌朝。
非効率な睡眠の取り方でさらに焦り、優衣はベッドから起きてすぐさま顔を洗う。
「……動悸が。息が苦しい」
階段をおりて、のぼって。そうして二階の部屋に戻ってきただけだ。それなのに、優衣はハァハァと荒い息をしながら左胸を押さえた。
「勉強……。勉強しなきゃ。落ちたくないよ……」
これまで、意図的に『落ちる』など試験での不合格を連想させる言葉はさけてきた。
しかし、あまりの体調の悪さに思わず口から漏れ出てしまう。
「第一志望……。国立……」
ぶつぶつとつぶやきながら、椅子に座ってペンをもとうとすると――。
「――ぅえっ」
たちまち手がぶるぶると震え出す。さらには耐えがたい吐き気。全身の血の気がサッと引くような感覚。急に起きて目眩がした時のような気持ち悪さがおそってくる。
「……なに、これ。私……。なにが起きちゃったの!?」
明らかに異変が生じている体に、優衣は混乱してしまう。強引にペンをにぎろうとしても――さらに涙があふれ、動悸が激しくなる。
「なんで……。なんでよ!? ペンがもてなきゃ、勉強できないじゃない! それどころか、入試も受けられないじゃない!? 動け、動いてよぉッ!?」
もはや恐慌状態におちいった優衣が叫ぶ。
すると――。
「――優衣!? どうしたの、大丈夫!?」
キッチンで朝食を作っていたのだろう。エプロンを身につけたままの母親が慌てて部屋にとびこんできた。
そんな母親を見つめ――優衣は堰を切ったようにブワッと涙をあふれさせる。そして、がくりと床に崩れ落ちた。
「――お母さん! 私、私……。ぁあああああ……っ!」
「どうしたの!? なにがあったのか言ってくれないと、お母さんもわからないわ!」
母は優衣を抱きしめ、頭をなでて落ちつけようとする。
「これだけズッと! ズッとがんばってきたのにッ!」
「そうね。優衣はがんばってるわ。だから焦ることはないのよ?」
「違うっ!――違うのッ! 私の、私の体がッ!」
「……体がどうかしたの?」
「――壊れちゃったのッ! 私の体ッ!」
「――え?」
泣き叫びながらも、なんとか優衣は伝えた。
だが――母は理解できなかった。娘がなにを言っているのかを。
「壊れちゃったって……。どこが?」
「脳もッ! 心臓も、腕もッ!――心もッ!」
「……なんでそう思ったの?」
「ペンっ! ペンを持とうとするとっ!――ダメになってッ! 震えてこうなるのッ!」
「……ぇ」
まともな文章になっていない。まるで泣きじゃくる子供のように説明をする優衣。
しかし母もやっと娘がどういった状態にあるか理解して、全身から血の気が引いた。
言葉を失い数秒固まってから――。
「――優衣。とりあえず病院にいきましょう」
「……でもっ! 勉強っ! 私は、バカだから! べんきょう、しないとッ!」
「そんなことない。優衣はバカなんかじゃないわ。しっかり症状を落ちつけないと、お勉強もできないでしょ?」
「……ぅうッ! このままじゃ、試験もッ! これだけ、これだけズッとがんばってきたのにッ! 書けなきゃ、受けられないよぉ……」
「そうね。だからこそ、今はお医者さんにいきましょう。急がば回れって言うじゃない? 賢い優衣なら知ってるわよね?」
そうして数十分間。優衣は母の腕のなかで泣きじゃくる。
思春期の娘から嫌われているため、廊下で隠れるように事情を聞いていた父親は――。
「――もしもし。すいません、一つお伺いしてもいいですか。……ありがとうございます。そちらにかかったことはないのですが、本日なるべく早めに診察してもらうことは――。……ダメですか、予約。そうですか……。ありがとうございました」
精神科がある病院に電話をかけていた。
しかし、どこも新患は予約でしか受付ていないと断られ――。
やっと診てくれる場所が見つかったのは二十件近く電話をかけてからだった。急なキャンセルで空きがあるので、特別にということのようだ。
父親は急にキャンセルしてくれた患者に感謝しつつ、車のエンジンをかけに走った――。
「――樋口優衣さんですね。それでは、こちらの問診票の方にご記入をお願いします」
「……はい」
車で数十分間の場所に、その精神科クリニックはあった。車のなかでも「私はもう終わりだ」。そう泣きじゃくっていた優衣は、両親に付きそわれながら受付をしている。
優衣はクリップボードを受け取り、待合室の椅子に座る。
そうして記入をしようとするが――。
「……なんで。勉強じゃないのに。もう、ボールペンってだけで……もてないッ!」
ボードにはさまれたボールペンをとろうとしただけで、腕がぶるぶると震える。そして全身の血の気が引いて泣きそうになった。
「――優衣。紙にはお母さんが書いてあげる。だから、回答をスマホのメモ帳に入力して?」
「……お母さん。わかった」
それならできるかもと優衣はメモ帳を開く。そうして問診票を見ながら、回答をうちこんでいく。
(スマホは大丈夫なのに……。ペンはもてないなんて。私の体、どうなってるの?)
母親は優衣のスマホディスプレイを見ながら、スラスラと紙の空白をうめていく。優衣は、しっかりとペンをにぎれて文字を書ける母を羨ましそうに見つめていた――。
そうして、受付番号が呼ばれて優衣と両親が診察室へと入る。そして白髪まじりの医師に着席を促された。症状やこれまでについて、いくつも受け答えをしたあと、医師は――。
「お話と症状をお聞きしますと、書痙や適応障害、不安神経症――今は不安障害ですが。それにふくまれるパニック発作などが強く出ている疑いがあるかと思います」
――そう診察結果を伝えた。
「これらの病気は、ストレスの原因に上手く対処できないことで症状があらわれることが多いです。また初診では明確に他の疾患と区別がつきにくいのも特徴ですね。まずはお薬を飲んでみて。その効能をみてから、正確な診断名にかわることもあります」
優衣は白衣を着ている男性からの視線というだけで、少しビクッとしてしまう。でも、勇気を出して口を開き――。
「――試験が、あるんです。大学入試の前期試験が、あと一週間ちょっとなんです。……それまでに治りますか?」
沈んだ声で、たずねた。その問いに、医師は少し迷う様子を見せてから答えた。
「……こういったお薬はだいたい二週間以上のスパンを開けて判断と調整をしていきます。即効性が高い、心が落ちつく薬も出しますので」
「……そうですか」
『間に合うか』。『間に合わないか』。明言をさけられ、治療方針を説明された。――それだけで、賢い優衣は悟ってしまった。
「……間に合わないんですね。……私はッ。試験にッ!」
体がザワつき涙がこみあげてくる優衣の背を、両親がさする。
医師は顎に片手をあてながら少しうなる。
「不安障害でしたら。……他にも、カウンセリングが治療に有効なことがあります」
「あの……。そのカウンセリングでは、どういったことをするのですか?」
母はカウンセリングという、よく耳にするが内容はよく知らない言葉についてたずねた。
「あくまで例ですが。認知行動療法という自分の思考パターンの歪みを自覚してストレスの少ない方向へ修正していく治療とか。自分の状況を理解し、適応するための感情制御をともに話し合っていくなどですね。代表的なところですと……フロイトやユングといった精神科医は、夢などをカウンセリングして心を分析し、精神疾患の治療に役立ててきた歴史があります」
「なるほど……。あの、こちらの病院ではやっていただけないのでしょうか?」
「お母さん、もうしわけありません。当院にはカウンセラーがおりませんので」
「それでしたら、どちらでやっていただけるのでしょうか?」
「保険適用じゃないので高くつきますが、民間で独立しているカウンセラーもおります。カウンセラーがいる病院に紹介状を書くこともできますが……。いずれにせよ、予約制なのですぐに受けることはむずかしいでしょう」
「そうですか……。とにかく、まず娘は即効性の高いお薬で症状が落ちつくのを祈るしかない。そういうことでしょうか?」
「試験のことを考えると、そうなります」
「……わかりました」
優衣は絶望し、もはやなにもしゃべらず涙をこぼしている。父親もむずかしい顔をしながら黙って聞いていた。
母親が医師と話を進め、その日は薬を処方してもらい帰宅した。
優衣と両親は悩んでいる。
ペンすらもてないぐらい、強いストレスと不安を抱えていることに――。
優衣が精神科を受診してから、二日が経過した。
優衣は自室で朝の薬をゴクリと飲んで、考える。
(睡眠剤はストンと眠りに落ちるけど――そのあとも頭がぼーっとするなぁ)
優衣はあいかわず、ペンがもてない。半ば諦めのような境地にいたり、椅子の上に体育座りをしている。そして参考書のページをペラリとめくっては読んでいく。
(……ペンがもてなきゃ0点。この勉強も、今までしたことも……。すべてムダなのに。私、なにやってんだろ。どうすればいいのかな。私……。こんな残酷な罰を受けるほど悪いことをしてきたのかな?)
いまでも考え出すと、すぐに涙がこみあげてくる。全身がザワついて、動悸もする。
(恨まれることは、してきたか……。別れた相手に、恨まれてるだろうな。……私が受験勉強を優先して、メッセージで一方的に別れるって言ったし)
一方的に別れを告げ、ブロックまでしてしまった元彼氏とのメッセージを見る。そして優衣は、こういう時こそ頼りたかったのに、自分が短絡的にしてしまった行動を後悔した。
優衣が自責の念にかられ、膝の間に顔を押しあてた時――。
トントンと力強いノックの音が響いた。
「……なに」
ドアを開けて入ってきたのは――母だった。
(音の強さ的に、お父さんかと思ってた)
優衣は前とは違う様子の母を、視界の端に置いたままうずくまっている。
「優衣。でかける支度をして」
「……え?」
「カウンセラーじゃないけど。午前の最終枠で予約がとれたから」
「……は? カウンセラーじゃないけどって、どういうことなの?」
「お母さんも調べたの。そうしたら――リラクゼーションサロンの口コミで見つけたの。『院長先生と話して、夢で気づかされた。育児に追われていた心が救われた』っていう口コミを」
「……リラクゼーションサロンで心が救われたとか。専門家でもないんでしょ? もしかして、お医者さんが夢でカウンセリングとか言ってたから? そんな簡単なもんじゃないよ……」
諦めてまた顔をうずめ、視界を閉ざそうとする。
――そんな優衣の肩を、母はガシッとつかんだ。
「諦めてなにも行動しないよりはいいでしょ!? お母さんは、悔しいの!――優衣が今までがんばってきたのに、試験すら受けられないのが!」
「お母さん……」
「別に結果はどっちでもいいの。浪人でもいい。――ただ、こんなしこりが残るような終わり方……。優衣は本当に納得できるの!?」
力強い母の言葉に、優衣は目を丸くする。
そして唇をギュッと噛んでから、ゆっくりと外出用の服に着がえはじめた――。
そうして優衣は母親の運転する車に揺られ、コインパーキングに車を停めてから数分ほど歩く。そうして店のドアを開け――。
「――樋口さんですね。ようこそ。私は院長の京極怜ともうします。こちらは、研修中の桜井さんです」
「本日はよろしくお願いします!」
爽やかな笑みを浮かべる若い男性の紹介に、優衣は面くらった。
優衣が母を見ると「今日はよろしくお願いします」と頭を下げている。どうやら院長が若い男性だと知っていたらしい。優衣は少し、心のなかで戸惑った。
(男性に体を触られるの?……まぁお母さんも見てるし。それに女性スタッフもいるから……。大丈夫、かな。男の人だけだったら、絶対に帰ってた。変態だったらヤバいし)
胸中ではそのように思いながら、母につづいて店内へと入っていく。
優衣と母親は、よい香りと暖色の照明で焦った気分がちょっとだけ落ちつく。
ベッドに座る優衣の横で、母は怜を見つめ、必死にうったえかける。
「先生、問診にも書かせていただきましたが。娘は試験のストレスで――」
「お母様。事前問診を拝見させていただきました。――ストレスが原因でペンがもてない。とても大変な状況のようですね。私も心身のリラックスに全力を注がせていただきます」
「はい、試験結果は別にいいんです。でも、試験は受けさせてあげたいんです。ずっとがんばってきた力を発揮させてあげたくて……。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。――樋口さん。桜井にも、少しお手伝いしてもらってもいですか?」
「はい。……女性の方が安心できますので」
「コラ、優衣。先生に失礼よ?」
軽くたしなめる母親に怜は微笑みながら首をふる。
「いえいえ。やっとお話をしてくださいましたね」
「……え?」
「――失礼ながら、事前問診。そしてこのお店に入ってきてから、お母様の気持ちと、お母様からみた情報しか伝わってこなかったもので。優衣さんの気持ちがわかりませんでした」
「え、ちょっ。あのっ! きょ、京極先生!?」
いつになく失礼な物言いに、桜井はあわあわと慌てはじめた。
「……なら、カウンセリングができるんですか? 気持ちを話せば、楽になるんですか?」
「優衣さん。ここで私が実はカウンセラーで、カウンセリングができると言えば楽になるのですか? 肩書きだけで気持ちを話して楽になるかが決めるのでしょうか?」
「それは……。肩書きだって、信頼する要素ですから」
「一要素としてはそうですね。それでは医師やカウンセラーならば。――それだけで信頼して、なにもかもを話せますか?」
「それは……」
「それはむずかしい、ですよね。肩書きは話す理由にはなりますが、信頼する理由としては薄い。信頼に大切なのは、結果の積み重ねですから。テストに臨む自信と同じです」
「…………」
「――正確な情報がないと、正しい施術も結果の判定もできません。優衣さんに――そしてお母様。優衣さんの人生の主役は、いつだって優衣さんです。……優衣さん自身がどう悩み、どう願っているのか。私が信頼できるのかテストすると思って、お聞かせいただけませんか?」
柔らかかった怜の笑みは消え、真剣な面持ちに変わっている。
そのどこまでも真剣な眼差しに優衣は少し怖じ気づきながらも――。
「――試験を受けたい。合格したいッ。進学校で、ずっと周囲の期待がプレッシャーだった! 青春も恋人も捨てて勉強してきたんですよ!?――こんな終わり方、イヤですッ!」
ポロポロと涙をながしながら、どうなりたいかのビジョンと思いをうち明けた。それを聞いた怜は深くうなずく。
「優衣さん自身の思いを話してくださり、ありがとうございます。――全身全霊をもって、心身ともにリラクゼーションできるようつとめさせていただきます」
「……京極先生」
優衣は正直、全身をマッサージされたところでなにも変わらない。リラクゼーションサロンなんて気休めにもならない。そうたかをくくっていた。
だが、瞳の奥に宿る熱意に――考えを改めさせられる。
怜の熱意にあてられたのか母親も、桜井まで涙を浮かべていた。
「――手当てというのは、文字通り手をあてて痛みを癒やすこと。世界で最古の治療と言われています。私は手を使い癒やす――セラピストです。普通の人が、ただ手をあてることとは、まったく異なりますからね」
「……まだ半信半疑ですけど、どうせ無理だろうって決めつけてました。……すいません」
怜は再び柔らかな笑みを浮かべる。
「いえいえ。――さて、それではまずうつ伏せになってください」
そうして母親が見守るなか、怜と桜井が全身をリラクゼーションしていく。
(……本当。手をあてられてるところの温かさが全然違う)
優衣は怜のプロフェッショナルの腕前、そしてやさしい――どこか特別な温もりを感じる。
そうして優衣は徐々に力が抜け――夢の世界へと落ちていった。
『――これはものすごい悪夢の予感がするのう』
『ええ、そうですね……獏』
夢の世界に入るなり――怜と桜井は燃えさかる図書館のなかにいた。
『きゃあっ! 火事、早くみんな逃げて!』
桜井はさっそく、優衣のみる夢の登場人物として逃げまどっている。優衣を逃がそうと必死に炎をよけながら出口を探しているらしい。
まだ〈明晰夢〉で夢のなかだと認識し、自分の行動をコントロールはできないようだ。
そんな様子を怜と、宙にふよふよと浮かぶクマの体とゾウの鼻や牙を持った存在――獏は冷静にながめている。
『……ほとんどの床や建物は燃えているのに、なかには燃えていない本棚がありますね。これはいったいなにを意味するのでしょうか』
怜は炎に追われるように逃げ惑う優衣の後ろをゆっくりと歩いて着いていく。
『燃え死んじゃう、助けて!――本棚が、動いた!?』
そして優衣が燃えていない本棚を押すと――隠し扉のようにスライドした。すると――。
『――優衣、本当にここでやめていいの?』
『お母さん!?――ダメ、ここは通っちゃいけない!』
優衣の母親がいた。
その姿を見て、なぜかここから逃げてはダメだと思ったのか。優衣はまた走り出す。
『……なるほど』
『お主はこの夢の意味が分析できたのか?』
『予測ですが。……しかし、この悪夢のワンシーンを――私は操作しないことにします』
『ほう。我はどちらにせよ喰らうからかまわん。だが、よいのか?』
『優衣さんの背景を考えると……。妙に変えてしまうより、夢から自分の心を知ることがよいと思いました。……それが気持ちの整理や気分の安定につながる可能性があります』
怜は顎に手をあてながら、燃えさかる火の手を気にすることなく歩む。
そして優衣が、次の火が付いていない本棚をスライドさせると――。
『進学校なんて行かないで、私たちとあそぼうよ! また中学の時みたいにさ!』
『あ……。こ、こっちにも逃げちゃダメッ!』
学生服を着た女性――かつての同級生らしき女性の言葉に、優衣はまた逃げ出す。桜井は崩れ落ちてくる建物の一部から、優衣を守っていた。
そうしていくつもの本棚をスライドしていき――。
『最後の燃えていない本棚ですね。……さて、なにが出るか』
怜が注意深く監視して――目を細くした。
『制服を着た男子高校生……ですか』
『ふむ。ただの同級生ではないようじゃな。先ほどまでの者とは対応が違う』
獏の言葉に怜はうなずき、さらに近づいてみる。
どうやら、先ほどまであらわれていた人との対応とは、様相が異なるようだ。
『あなたは私を燃やしたいぐらい憎いんでしょうけど、私には私の人生があるの!』
『その優先順位で、俺をきり捨てたんだろ。本当に自分勝手だよな』
『みんながずっとがんばってるのに、私だけ恋愛に現をぬかしてられなかったのよ!』
『だから俺は待ってるって言ったのにな。俺との記憶も、参考書と一緒に燃やすんだろ』
『違う! 私は天才じゃないから! 一つのことしか集中できないの!』
『だから俺を捨てて、自分だけ助かろうってか』
『一緒に逃げればいいじゃない! あなたこそ私を燃やしたいんでしょ!?』
『なんでそうなる?』
『だって私が燃えてても、なにも動じた顔してないじゃない! そうよ、私だって自分なんか燃えればいいと思う! 自分勝手でペンすらもてなくなった私なんてゴミ以下よ!』
『そう思ってるのは、自分だけだろ? いつも自分で勝手に完結させてんだから』
『それはッ!……もういい! もう、私なんか焼かれて死ねばいいのよ!』
男子生徒と言い合いをしていた優衣が、やけになったように身をひるがえす。そして数歩歩くと――もうどうにでもなれと言わんばかりに、床へと横たわった。追ってくる炎から逃げることをやめ、その身を焼かせようとしている。そんな行動を桜井が止めようとするが――。
『――桜井さん。こちらへ』
『京極先生!? なんでそんな見捨てるようなことを――。……あれ。京極先生が、学校の図書館にいる? これって、本当に現実?』
怜に言われるまでもなく、自分から『これは夢ではないか』。そう疑い出した。
〈明晰夢〉を見るための練習が身に付いていると、怜は満足気にうなずく。
怜が床で仰向けに眠る優衣を見ると――。
『――炎に包まれながらも、満足気で気持ちよさそうな顔をしています』
『そろそろか』
『……ええ。自発的に目が覚めてしまう前に。どうぞ、獏』
『うむ。――この悪夢を喰らうとしよう』
その言葉を最後に、夢の世界はパッと消えた――。
「――はっ!? えっ、えっ!?」
玉のように汗をかきながら、優衣がベッドからとびおきた。
あたりを見まわし、炎があがっていないことを確認してほっと一息つく。
「こちらのタオルをどうぞ!」
「あ……。桜井さん。どうもありがとうございます」
「優衣! すごくうなされていたけど、大丈夫なの!?」
「お母さん……。うん、怖い夢を見ただけ」
その言葉で、母親は安心して椅子に座りなおした。
「――優衣さん、おはようございます。……夢の内容を覚えていますか?」
「……・京極、先生。ええ、いつもは夢なんて見ないのに。けっこう、覚えてます」
「そうですか。桜井さんは忘れないうちに記録をしてきてください。ああ、記録が終わったらすぐに戻ってきてくださいね」
「は、はい! 私も忘れないうちに、ですね。すいません、失礼します!」
優衣や母親に頭を下げると、桜井はパーテ―ションの奥へと姿を消した。
(なんの記録だろ……。カルテみたいなのかな?)
そう優衣が思っていると――。
「カナダにあるモントリオール大学の心理学者、トーレ・ニールセン先生の論文報告でなんですけどね。入眠段階で起きた人は、七十五%の確率で夢を見たと自覚しているそうですよ。夢なので、日記にでも書かないと覚えていられないですが」
怜が先ほどの話を再開するように説明した。
「そうなんですか。――まさか、先生はわざと夢を見させた……とか?」
「そんなことが可能ならば、どうでしょうね」
「……それもそうですよね」
人に夢を見させる。そんな真似ができるはずがないかと優衣は笑った。
「さて。せっかく夢を見たのです。一緒に考えていきたいのですが……。優衣さんはどのような夢を見ましたか? ぜひ、私にも教えてください」
怜は優衣の斜め前にしゃがんで問いかけてきた。
(話したところで笑われる……。いや、それはないかな。この先生は、私にあんなにも真剣な瞳をむけてきたんだし)
優衣は夢の断片をゆっくりと思い出してつなぎ――。
「学校の図書館が燃えていました。建物も、本棚も。火の手はまるで私を追ってくるように広がって。……でも、不思議なことに燃えてない本棚もあったんです。その本棚は出口につながるようなスライド式で。……でも、スライドさせると母や古い友人、元交際相手がいました。……元交際相手とは口論になって。それでなんかもういいかって思ってしまい、炎に焼かれる床で眠った。そんな夢です」
そこまで語ったところで、桜井が戻ってきた。邪魔をしないように怜の少し後ろに立つ。
「なるほど。では、夢の一つ一つを分析してみましょう。――炎に追われる夢を見て、優衣さんはどのような気分になりましたか?」
優衣はなぜこんなことを聞かれるのか、少し疑問に思う。だが――プロフェッショナルである怜のことを信頼して、真剣に考えてみた。
「……すごく焦りました、息ができなくて。――でも、図書館が燃えていく。それが不思議と嬉しかったような気がします」
「では燃えていない本棚に隠れていた人は、あなたにとってどういう人です?」
「もしかしたら……。自分にとって、勉強以外の相手だったのかもしれません。日常的な話などをしたり。過去の交際相手だったりとか」
「ほう。それには、どういう意味があると思いますか?」
「……これも、もしかしたらですけど。炎に追われて焦る私にとって、休む場所だったのかもしれません。でも、怒鳴られて言い合いになりました。……現実では口論しなかったのに」
「現実と違って、口論になったのはなぜだと思います?」
「……炎に追われて死ぬと焦っていて。もう最後だしと本音を言えたんだと思います。息ができないぐらい苦しいはずなのに。言葉がスラスラと出ていましたから」
「なるほど……。では、炎は優衣さんにとって、どういう意味があると思いますか?」
「……最初は、勉強ができない自分を追いつめて。焼き殺そうとしているんだと思いました。でも、炎は温かいベッドのように気持ちよかったんです」
「なるほど。温かいベッドのように。では、この夢を見たことは、どのような意味があったと思いますか? あるいは、この夢を見てどのように思いました?」
そこで優衣は、言葉につまってしまう。
(夢全体の意味。どう思うか、か……。むずかしいなぁ)
悩んでいる優衣を見て、人が安心するような笑みを浮かべた怜が――。
「イメージリハーサル療法というんですがね。――悪夢の脚本を書きかえてみてください」
「……脚本を、書きかえる?」
「ええ。一つ一つをつなげながらも、これならいいと思える形に書きかえてください。大きく転換するのではなく、あくまでこれなら自分に馴染みやすい筋書きへ」
そう言葉をつけたされて、優衣は思索にふけった。
そうしてゆっくり。大切そうに言葉を紡ぎ始めた。
「……最初は、ただ勉強しろと炎に追いつめられてるんだと思いました。ふがいない結果しか出せないことを炎にも責められて、焼き殺されてるんだと」
「…………」
「だけど、もしかしたら違うのかもしれません。本を燃やしつくす。そのぐらい勉強したら、他のことをしていい。本音をぶつけて口論したいと思いました。責任感からも逃げて、すべてが終わったら気持ちよく寝ていいんだよ。義務なんて焼きはらって。……終わったら、最高に気持ちよくて温かいんだよ。そう夢に言われてる気分になりました」
そう、筋書きを自分なりにまとめて怜に語る。
怜は微笑みながら大きくうなずく。そして、いつもアフターサービスとして渡している手紙。そしてペンをやさしく優衣の手にぎらせた。
「――では、せっかくそんな気分になれたんです。忘れないようにメモしておきましょう。どうぞ、こちらをお使いください」
「あ、ありがとうございます」
そうして優衣は、少しつまりながらも先ほど怜に語った夢の脚本と、自分なりの解釈を書いていく。数十秒後、書き終えた優衣は――。
「終わりました。貸していただき、ありがとうございました」
そう言ってペンを怜に返そうとする。怜は口角を上げてペンを受け取りつつ――。
「いえいえ。よかったです。――ペンを持って、書けましたね」
その言葉に優衣も、優衣の母も。桜井までハッと目を丸くして驚く。
「優衣! あなた、ペンをもてたじゃない!? あんなに……。ペンをもとうとするだけでパニックになってッ。泣き出していたのにッ!」
「……本当だ。持ってた。私……ペンで文字が書けたッ!?」
優衣は自分で手紙に書いた文字を凝視している。まるでタネのわからないマジックを見た人のように。
「優衣さんのなかで、なにかが変化したのかもしれないですね。それは他ならぬ、優衣さんの努力のたまものです。悪夢と向き合い、こうして目に見えた成果が出たのかもしれません」
「成果……。私、できますかね?……あと一週間ちょっと、試験まで勉強して。本番でも……。同じようにペンをにぎってられますかね?」
「私は未来を見られるわけではないですから。確実なことはもうしあげられません」
「そう……ですよね」
また医師のように、明言をさけられた。一瞬、そう気落ちした優衣だが――。
「――ですが、この世には未来にわたって0%と百%が保証されたことなどありません。先ほど夢を解釈されたように自分を責任から解放して。終わったあとのご褒美も用意して。自分の成果を認めてあげられるなら。大丈夫な可能性が高いのではと私は思います。この成果――よい結果の積み重ねで、自分を信じてあげられるなら。優衣さんは、どう思いますか?」
怜の問いかけに、優衣は十秒ほどうつむきながら考える。
そして、憑きものが落ちたようにパッと笑みを浮かべた。
「私も、さっきのように責任から逃げていいんだ。そう思ったら、いける気がしてきました。だって、おかげさまで動悸もおさまって呼吸も楽ですし。少しなら、自分を信じられそう!」
優衣は、晴れやかにそう口にした。母は優衣の後ろで口元に両手をあてて涙を流している。
「私、先生のおかげでグッチャグチャだった自分の心を知れて……。整理できた気がするんです! 本当に、ここにきてよかったです! バカにしてて、すいませんでした!」
「その言葉。そしてその笑顔……。それこそが、セラピストとしての私の幸せです。こちらこそ、ありがとうございました。よろしければ、またいらしてください」
「はい! 桜井先生も、ありがとうございました!」
「さ、桜井先生!? わ、私はまだ研修中なんで! 先生なんて身分じゃないですよ!?」
「それでも、私は助けられたので。……男性一人だったら、パニックになって帰ってたかもしれません。だから、私が先生って呼びたいんです」
「桜井さん。いえ、桜井先生。よかったですね」
「京極先生!? からかわないでください!」
和気あいあいとしている空間。それをなごり惜しく思いつつも――優衣は立ち上がる。
そして出口へとスタスタ歩いていった。
「――では、京極先生。……あと一週間ちょっと、もう一踏ん張りしてみます!」
「先生がた、本当に娘がお世話になりました。本当に、本当にありがとうございました!」
「い、いえいえ! 頭を下げるのは京極先生に! 私は本当になにも……」
オロオロとしている桜井を残したまま、怜は玄関のドアを開ける。
そうして頭を下げている優衣と母親に返礼しながら――。
「優衣さん。どうぞ、お大事になさってください。本日はリラクゼーションサロン夢現へのご来店、ありがとうございました。落ち着いたら報告がてら、またのご来店をお待ちしています。よろしければ、口コミや寝具の通販もお願いします。――では、よい現実をつかまれることをお祈りしてます」
そう言って、ドアを閉じた。
午前中の営業はこれで終了だ。夢現の施術スペースに戻り、二人は後片づけをはじめる。
「京極先生! 今回は、いつにもましてすごかったですね! 夢を一緒に分析してるの、はじめてみました! 私、こんなのもあるんだ~って驚きましたよ!」
手はしっかりと動かしつつ、桜井は興奮しながら怜へ感想を言った。
怜は思わず、苦笑してしまう。
「――実を言うとですね。優衣さんの解釈された夢は、私の解釈とは違ったんです」
「……え? そうなんですか!?」
「はい。セラピストと患者が一緒になって夢を探究。そして解釈することをドリームワークと言うことがあります。ドリームワークでは、何十という考え方や切り口があるんですよ」
「……なる、ほど?」
「無意識の葛藤や欲望をたどろうとするフロイトの夢理論。ユングなら神話や個人の無意識や集合意識がいかに夢を構成するか。ゲシュタルト心理学なら、容認できる面と容認できない面をふくめた人格の投影が夢の要素になる。他にも多種多様です」
「あ、その名前は京極先生から渡された本に書いてありました!」
「とても有名ですからね。……本当に、夢を臨床に取り入れるのはむずかしいんです。実際の解釈はなん通りもあるし、脳は違う意味で夢を構築したのかもしれない。――動悸や呼吸が落ち着いたのもそうです。本当は医師が処方した薬が効いただけかもしれないですから」
「むむ……。そう言ってしまうと、正解がわからなくなりそうです……」
「案外、それこそが正解かもしれません」
「――え?」
「たった一つの正解なんてない。本人の精神が楽になったという結果。そういう結果につながると解釈できる要素は、すべてが正解なのかもしれないですね」
「ええ!? それでいいんですか!?」
口をあんぐりと開けながら、桜井が聞く。怜は顔に喜色を浮かべ――。
「はい。特定できれば次も同じ結果にできますが――セラピストにとっては、いま相手が納得して楽になることが一番大切。自分の理論を押しつけるのではなく。そうは思いませんか?」
怜は首をちょっとだけ傾げ、逆に問う。
そんな怜に桜井は「たしかに。納得して笑顔が一番です!」。
そうほがらかに笑みを返した。
それは怜のセラピストとしての夢――人を笑顔にする。そんな職場に相応しい。
まるで人に移るような。本当に無邪気な笑顔だった――。