四章

「――さて、今日も会社に行くか……」
 白米のみのおにぎりを一つ食べ、スーツに着がえてから疲れた声でつぶやいた。
 洗面所の鏡でネクタイがずれていないこと。名刺いれのなかに『大山聡』という名前。そして『係長』と役職名が書かれた名刺が不足していないのも確認していく。
疲れた男――大山は、そうして身だしなみをチェックして、コートを羽織った。片手には出勤用の手下げカバンがあるため、革靴を履くのに手こずっている。それでも大山は単身者むけの古い賃貸マンションのドアをなんとか開け、外に出る。
 外は暗い。まだ太陽すらのぼっていない早朝だ。
(寒いな……。四十をこえた身にはこたえる寒さだ)
 はぁと息を吐くと、白くなって消えていく。二月上旬の朝だなと、大山は文字通り肌で感じた。しかし、寒さに負けてゆったりもしていられない。
 大山は、ドアにカギをすると始発電車に乗るため歩き出した――。
 
 ――震える寒さに耐え、大山は始発の電車へ乗った。
 まだ始発だからか、車内には人がまばらのようだ。乗車ラッシュの時間には乗車率が百%をこえてくるものと同じ乗り物とは思えない。
 車内には大山と同じようにスーツを着ている人が多い。
 大山はシートに座りながら、スマホをいじる。
(母さんからのメッセージに返事をしないとな)
 大山はスマホのメッセージアプリを開く。母からは『年末年始も帰ってこなかったわね。元気にしてる?』。そうメッセージがとどいていた。
(仕事がおさまらないで、年末年始も家で仕事してたからな。……田舎に帰る余裕はないよ)
 膝の上に乗せたカバンに額をつけ、大山は悩む。
(俺は孫の顔一つ見せてやれない、親不孝者かもしれないな。……最後に親の顔を見たのは、何年前だろうか。会いたいな……)
 寂しさと切なさで、大山は涙がこみあげてきそうになる。
 しかし、泣いてもなにも変わらない。目の前にあることをしっかりやらなければと自らを鼓舞した。
 大山は、いわゆる就職氷河期世代だ。
 田舎を出て大学を卒業した時、就職はものすごい倍率だった。
(一族経営の中小企業でも、拾ってもらえただけマシ。そう思ったんだけどな)
 なんとか就職はできたものの、業務はキツいものだった。
 上司に文句や不満をいおうものなら、「きみの代わりはいくらでもいる」。そう言って退職してもかまわないと言われてきた。
(数年前は転職も考えたけど……。もう無理だな。年齢的にも、スキル的にも)
 一般的に転職のラストチャンスは三十代半ばだと言われている。
 大山はもう四十代になってしまった。さらに、過去には転職を考えて職務経歴書――自分がどこでどんな仕事をしたか。どんな成果を出してきたか。そういった経歴を書いていて――心が折れてしまった経験もある。
(あの時、痛感したよ。……自分には、売りとなるスキルもなにもないってな)
 書いているうちに言葉を失った。改めて自分にはなにもない。そう感じてしまったのだ。
 すっかり自信をなくした大山は、もうしわけなさを抱えながら転職先候補に電話をかけた。「あの……すみません。今回のことは、なかったことに」。そう口が動いていた。
(こんな俺がよその会社で通用するのか……。今の会社でも失敗だらけ。上司と部下の板ばさみ。……こんな俺なんか、どうせどこも拾ってくれないよな)
 転職活動をしていた時も、このようにドンドンと自信を失い――そして、今の会社に残っている。
 そうして電車が会社の最寄り駅へつくとアナウンスが流れた。
 大山は急いで母へ『大丈夫だよ、元気。そっちもお大事に』とメッセージを返した。そうしてスマホをポケットにしまう。いつの間にか人が増えていた電車からおりる。
 朝から人でごったがえしている駅構内。
(人とぶつかったり押されるのにも、慣れた。……いい慣れかは知らないけど)
 改札を抜け、大山は会社へむけて歩き出した――。

 そうしてまだ明かりもついておらず、誰もいない小さなオフィスビルへとつく。
 大山は慣れたようにセキュリティを解除すると、暗いオフィスへと入った。
「……さて、まずは自分のパソコンを起動してっと」
 大山は暖房をつけることもなく、オフィスの清掃をはじめる。会社によっては清掃員をやとっているのだろう。しかし、大山の勤めている会社にそんな人はいない。
「資金繰りのきびしい中小企業だもんな……。仕方ない。仕方ない。電気代も人件費も、なにもかも節約……」
 そうして部下のデスクも清掃したり。ゴミ箱のゴミを集めたりしていった。掃除が終わると、家にもちかえっていたデータを会社のパソコンへとうつす。
 そして、タイムカードも切っていないのに仕事をはじめる――。
「――そろそろか」
 コートを羽織ったままパソコンに向き合っていた大山が、ディスプレイに表示された時刻を見てつぶやく。デスクから立ち上がると、暖房を入れオフィス内のパソコンを起動していく。
「……効率化、か。俺にできるのは、みんなが出勤してすぐ作業できるようにするぐらいだ」
 三月末の決算を前にしているが、業績はかんばしくない。
 上司からは毎日のように「もっと業績を上げろ。利益を出せ」と大山は叱責されている。しかし部下に強く言えば離職してしまう。就職氷河期とは違い、今は仕事はいくらでもある。
「若者は、こんな会社じゃなくてもっといい会社に転職するのもありだよ。……何年いても、賃金なんてぜんっぜん上がらないし」
 思わずグチをこぼしてしまう。
 四十代前半で係長とは言っても、大山の年収は日本人の平均にギリギリとどかない。人件費もけずっている、苦しい中小企業だ。最新のスペックを持つ機材を導入することもできない。
 大山なりに考えた業績アップの結果が、出社してすぐ快適に仕事ができる環境を作ることだった。そのために、誰よりも早く出社している。
 しかし、そこまでしても上司には叱責される。部下からの不満のはけ口にもなっている。
「どうしたもんかねぇ……。決算前だってのに、業績アップに有効な手もない。それどころか、離職者だらけで仕事がまわらなくなりそうだ。指導しようにもパワハラにセクハラ……。こんなんで、どうやって業績を伸ばせって言うのか……」
 大山聡は悩んでいる。
 上司と部下の板ばさみになっていること。そして、パワハラやセクハラに怯え、気を遣いながら業務的な話しかできないこと。結婚どころか両親にも会えない孤独に、悩んでいる。
 やがて徐々に人が出勤してきたのに合わせ、大山も出勤のタイムカードを切る。
 そうして始業時刻になると――。
「おはようございます。では、各自の今日の予定の確認とすり合わせを――」
 課長の声に合わせ、眠そうな社員たちと事務的な会話をしていく。
 朝のミーティングが終わり、各自がわりふられている仕事をおこなっていくなか――。
「大山くん。ちょっときて」
「課長……。はい、わかりました」
 部下たちの「いつものか」という気の毒そうな視線に見送られ、大山は課長と別室に消えていく。別室に移ると、課長は目を細めながら――。
「大山くん。決算前だって言ってるよな? なんで業績が全然伸びてないんだよ。大山くんは係長なんだから、もっと下を指導しろよ!」
「……すいません。気をつけてがんばります」
「がんばるだけならいくらでもできるんだよ! 結果を上げろって言ってるんだよ! データを見たら、コイツもコイツも! ほら、こんなに空き時間があんだろ!?」
 行動を記録しているデータをタブレットで表示して、課長は烈火のごとく怒鳴りつける。
「すいません。本人たちにも、この時間を有効に使うよう指導します」
「できるならもっと早くやれよ! 毎日毎日、同じことを俺に言われてんだろ!? それでも君がやってないからこうなってるんだろ、違うか!?」
「すいません……」
 大山は頭を下げる。
(本当は課長から指導をしてもいいはずなのに……。若手にパワハラとか、自分がイヤで転職すると言われたくないから。だから押しつけているんだろうに)
 内心ではそのように思いながら。
 心で思っていることをもっと柔らかくしてだが、大山も反論したことがある。
 その時に返ってきたのは「トップダウンもわかんないのか!?」。という言葉だった。
 もちろん、大山とてトップダウンは知っている。上から順に指示をしていくというものだ。社長から部長に。部長から課長に。課長から係長にというシステムだ。
 でも、それはもっと大きな組織で使うようなものだ。課長も同じオフィス内にいるような中小企業――大山の勤務先で使うようなシステムだとは言い切れない。
 実際、大山は課長をすっとばして部長にも仕事をまかされる。社長からも呼び出しを受けることがある。
(それでも……。この歳で解雇になってもこまる。俺はどうなってもいいが。両親の老後資金のために、職を失っては……)
 老後資金は年金などの他に、一人二千万円の貯金が必要だと言われている。
 顔もおぼろげにしか思い出せない両親は、もう働いていない。とっくに定年を迎え、働きたくても体が言うことを利かない状態だ。最後に会った日がいつだったか。昔すぎて思い出せない。今はもっと、体が悪くなっているかもしれない。
 大山は両親の口座を見たことがある。そのあとから退職金なども入っただろう。それでも、夫婦合わせて四千万円の貯金は絶対にないはずだ。
 大山は食費もけずって生活して、イヤな上司に頭を下げている。
 それは育ててくれた愛する両親に、まともな老後をおくって欲しいからだ。
「大山くんがしっかり効率的に管理しないから、利益がでないんだろ。係長という自覚をもてよ! 離職率ばっかりあがって。育ててきた新人がいなくなるのがどんだけの損失かわかってんのか!? 即戦力の中堅を増やす余裕はウチにはないんだよ!」
「はい。しっかりとやりたいと思います。もうしわけございません」
「メンタルから負けてんじゃねぇのか!? まったく……」
 大山が頭を下げ続けると――課長が去っていく足音がした。
 足音が聞こえなくなってから数秒して、大山は頭を上げる。
「ふぅ……」
 課長が指摘していた、スケジュールに空きがある部下を呼び出そうとして――息を飲む。
「……別室に女性社員は呼び出せない」
 その時点でセクハラになってしまう可能性もあるからだ。かといって人前で指導をしていて、もし口調がキツくなるような指導が必要なら。それは今度はパワハラになる可能性がある。
「……女性リーダーに頭を下げながら事情を話して、同席してもらうしかないか」
 そうして大山はオフィスに戻ると、女性のリーダーに事情を説明しながら頭を下げる。
 大山からしたら部下であるはずだが、頼みごとをしている以上は仕方ない。
 大山は遠回りしながらも全員の指導を終え、やっと自分の仕事をするためデスクへ戻る。
「……中間管理職なんて、なるもんじゃないな」
 そうぼやきながら、大山は仕事をこなしていく――。
 そうして昼休みの時間になった。
 大山はカバンからバナナ一本とミックスナッツ。そして野菜ジュースを飲んで、昼休みでも仕事をこなす。決算前でいつもより忙しいのもある。しかし、上司と部下どちらからもふられる仕事の量が多すぎるからだ。
(……こんな生活、早く死ぬだろうな。死ぬまでに、両親の老後資金だけでも貯めないと)
 なんとか自分のなかでモチベーションを保つ。そうして、そのまま午後の仕事もこなし――退勤時刻になる。一応、時間としては帰ってもよい時間だ。
 それでも、帰るものはいない。重苦しい空気が広がる。大山の目に、時計を見ては小さく溜め息をつく社員が映った。
(これもおかしな話だよな。始業時間には一秒たりとも遅刻を許さないのに。それどころか、始業時間には仕事ができる状態じゃないといけないのに)
 それなのに退勤に関しては、ガバガバだ。そうして仕事をこなしていると、「お疲れさま」と部長、課長が退勤していく。それを見て、やっと平社員も帰っていく。
 仕事が終わっていても、課長以上が帰るまでは先に返れない。そんな雰囲気が大山の勤める会社にはあった。
 気を取りなおして、仕事をこなしていると――。
「――係長、ちょっといいですか?」
「うん、いいよ。どうした?」
 男性社員が大山に声をかけてきた。
「今年のウチの昇給とか、どうにかなりませんか? 物価も上がっているのに」
「……俺も上に聞いてみたんだがな。むずかしいらしい」
「それなら、僕は転職も考えます。いい仕事をしても、ここでは評価してもらえないッ!」
「……人事考課も形だけだものな。業績がアップすれば、昇給も検討するらしいんだが」
「……でも、業績は伸びてないですよね?」
「みんな、残業してまでがんばってくれてるんだけどね……。ウチみたいな中小企業だときびしいのは事実だ。……本当は寂しいし、引き留めたい。でもね、きみのように若いなら、転職するのもありかもしれない。俺には、きみの決断を止められないよ……」
「係長……。すいません、わかりました」
 部下は寂しそうに自分のデスクへ戻ると、コートとカバンを手に取って退勤していった。
 そうしてドンドンと社員が退勤していき、時刻が二十時半に近づいたころ――。
「――大山さん。わかっていると思いますが、残業は六十時間をこえないように」
「ええ、わかっています」
 最後に残っていた経理部の職員が退勤していく。
 それに合わせ、大山も退勤の準備をする。暖房などをすべて消しながら、大山は思う。
(期限に間に合わせるには、持ちかえり残業をせざるをえないよな……。割増賃金法が、中小企業にも適用されるようになったし)
 法律で残業時間が六十時間までなら、二十五%の割増賃金。六十時間以上なら五十%以上を支払わなければいけないというものだ。
 法改正により大企業では二千十年からあった。しかし、中小企業は二千二十三年三月までの猶予が与えられた。
 そうして遂に、二千二十三年を迎えた。しかし実情としては、残業しないで済むような効率化もできていないし、人員もたりていない。
「……効率化ってうるさく言うのも、わかるんだけどな」
 大山は溜め息まじりにつぶやいた。退勤にカードを切ってからオフィスの電気も消して、セキュリティを作動させる。
 問題ないことをしっかりチェックしてから、駅に向かって歩きはじめた――。

 帰りの電車に乗りながら、大山はくたびれてついグチが脳内によぎる。
(どうしてこんな世のなかになったんだろう……。出会いもお金もないから結婚できない。半額の惣菜だって、手取りからすると高い。だから家に帰ったらビタミン剤とプロテイン、おにぎりを食べてのサイクル……。孤独で、なんのために生きているのかさえわからない。自分からなにかしたいとも思えなくなってきた。なんでこんなに税金が高いんだろう……)
 税金の国民負担率は四十%後半。五公五民と言って、江戸時代なら一揆が起きるレベルらしい。
 すごく単純に考えると、五百万円かせいでも二百五十万円が税金で持っていかれる。自分が自由に使えるお金は半分というわけだ。
(もちろん、社会保障という恩恵を受けることもある。でも、独身男性は配偶者控除とかもないし。結婚している人よりも税負担は重くて、恩恵はないよな)
 大山の部下も給料が上がらないことに不満をこぼしていた。日本は三十年間にわたって賃金はほとんど上昇してない。それなのに、税金は十%上がり、物価は約二倍になった。物価が上がれば、自動的に消費税だって上がる。
(ネットではじゃあ結婚して子供を育てればいいじゃないか。そうすれば税金の恩恵にあずかれる。みたいに叩かれるけど。……そうはなれないんだよな。俺みたいなオッサンだと)
 家に帰っても、残業代として支払われない持ちかえり残業をする大山だ。そもそも、年収が低くて見た目もパッとしないと思っている。
 実際に、マッチングアプリなんかをやっても大山は相手にされなかった。
 同級生は元々付き合っていた人や、友達から恋人に。そして結婚相手になっていった。そうなれない人は、同じ会社内での出会いも期待するだろう。
 でも役職についたり年齢を重ねると、セクハラと言われるのが怖くなる。
 仕事に関係ないことで話しかけ、相手がイヤだと思えばセクハラになってしまう。交際相手がいるのかすら聞けない。性別での差別言動や体に触る。そんなことはもちろん言語道断だ。
 しかし、他愛のない日常の話すらできない。食事に誘うのすら、相手から好かれていなければセクハラなのだ。もはや、なにがハラスメントと言われるかわからず恐れている。
 そんな状態で、どう結婚しろと言うのか。
 大山は脳内でそうグチりながら、思わずスマホで癒やされるものを探す。
 すると、あるHPが目に入り――。
(リラクゼーションサロン?……こういうのって、どうせ高いんだろう)
 そう思いながら、料金を見るが――思ったほど高額ではない。
 両親の老後資金のために節約している大山からすると、出費は痛い。
(……でも、くたびれたYシャツや肌着を買いかえると思えば。そんなに高くはないかな? 決算期を乗りきる力が欲しい。……たまには、贅沢をするか)
 毎日、朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、体が悲鳴をあげている。
 たまの贅沢と思い、大山は今からでも間に合う最終枠の予約をした――。

 そうして、二十一時。リラクゼーションサロン夢現では――。
「――おお。これは……いい香りですな」
「ありがとうございます。今日は大山さんのことを考えながら、うちの新人がアロマを選んだんです」
「新人さん?」
 にこやかに説明する院長――京極怜の言葉に、大山は疑問で返した。
「は、はい! 桜井美穂です。よろしくお願いします!」
「おお。これはどうも。お若くて元気な新人さんですね。……おっと、これはセクハラですかね? もうしわけない……」
 元気にあいさつしてくる桜井を見て、大山は素直に思ったことを口にし――後悔した。これもセクハラになるのではと恐怖し、慌てて頭を下げて謝罪する。
「え!? そんな、私はそう思ってないです! 頭を上げてください!」
「大山さん。同じ男として、お気持ちは理解できますが……。どうぞ楽にしてください」
「すいません……。ありがとうございます。この年齢で係長という中間管理職だからか……。つい卑屈になってしまいます」
 大山はもはや口癖になっている「すいません」という言葉を口にする。
「係長さんなんてすごいです! 私なんて、二週間前にやっと内定が出ましたから!」
「はは。ありがとう」
 そうして案内にしたがい施術用のベッドに腰かける。すると、怜が一つの提案をした。
「もし大山さんさえよろしければ、桜井さんにも施術を手伝ってもらってもいいですか?」
「ええ。いいですが……。桜井さん。おじさんの体に触れるのは、イヤじゃないですか?」
「イヤなんてそんな! まだ研修中なんですけど……お願いします!」
「こちらこそ。よろしく」
 大山はこころよく怜の提案を受けいれ、ベッドにうつ伏せになる。
 そうして、全身の施術をされていると――。
(こびり付いていたサビが落ちていくようだ……。それに新人の子も、たどたどしくもがんばっているのが伝わってくる)
 なんとも言えない気持ちよさ。
 そして微笑ましい感情に思わず頬をゆるめながら――夢へと落ちていった。

『――あ、ゲームですね! 私もやりたい!』
『おお。よくきたね。今日はきみたちの歓迎会だ。遠慮するな!』
 場所は大きな古民家――田舎にあるだろう畳の間だ。
 夢のなかに入った怜と桜井は、楽しく宴会をしている場所に混ざりこんだ。服装は全員スーツ姿で、桜井も怜も例外はない。
 桜井はさっそく、大山に呼ばれてテレビゲームをしている。
 怜はいったん、その場を離れ――。
『――獏。いますね』
『ああ。いるとも』
 つぶやくと、クマの体にゾウのような鼻や牙を持つ存在が宙にあらわれた。
『……この夢にメアの気配はない。やはり、あの桜井という娘が夢にいてもメアは釣れんな』
『予想はしていたことでしょう。それでも、いいんです。いずれは彼女にも、夢現の施術業務を手伝っていただきますから』
『……まだ〈明晰夢〉のコントロールはできておらんようだな』
『ええ。大山さん――今回の夢の主ですが。その方の夢に入るなり登場人物となりました』
『それでは、夢をコントロールできんな』
『まだまだ、これからですよ。焦ることはありません。……今回もメアはいない。それならば、なるべく大山さんをリラックスできるようにします』
『我はいらなそうだな』
『そうですね。悪夢にはならなそうです』
『では、違う者の夢へ行くとしよう。お主も仕事が増えているじゃろうからな』
『ええ。……って、もういませんか』
 今回は獏の出番がなく、桜井の研修をおこなう。そう判断すると、すぐに姿を消してしまった。怜は『やれやれ』と言いながら、集団に近づく。
『あら。あなたも聡のところの子?』
『きみも食べなさい。ほら、なにもないところだが野菜は美味いぞ』
『ありがとうございます』
 顔はぼやけて見えない。だが声から、怜は大山の両親と判断した。
(無意識でも思い出せないぐらい、両親の記憶が遠いのですかね)
 言われるがままに畳に座り、怜は食事を口にする。夢のなかでもたまに味覚を感じたりする。しかし、今回は味覚はないようだ。口に入ったものを噛みながら怜はそう判断する。
 そしてあたりを見まわして――。
『桜井くん、やるじゃないか!』
『大山係長さんこそ! まだまだここからですよ!』
『係長も桜井さんも、少しは手加減してくださいよ。僕、なにもできなかったです……』
『私も……』
『はっはっは。よし、きみたちにも教えようじゃないか』
 酒を飲んでいるのか、少し大山の顔が赤い。
 大山は首から社員証を下げたスーツ姿の女性や男性と肩を組んで、ご機嫌な様子だ。
(新入社員歓迎会を実家でやっている。そういった奇妙さもはらんだ、願望を充足する夢ですね。しかし気になるのは……。テレビ画面が真っ暗だということですね)
 古いゲーム機がつながっているテレビは、みんなが楽しんでいるのに真っ暗だ。これがなにを意味しているのか。夢にふくまれた大山の願望などを怜は思考する。
(みんなと一緒に見ている先が真っ暗。……つまり、みんなでしているゲームは仕事と置き換えられているのですかね。そして、このままでは先が見えない。そんな思いも反映されているのかもしれません)
 夢にこれが出たからといって、確実な分析はできない。それは本人が参加して一緒に分析するなかで明らかになるものだから。
 でも、大山が事前問診に書いてくれたことからそういう理由なのではと怜は予測し――。
『楽しそうですね。係長、私もまぜてください』
『おお。京極くん、今はきみたちの仕事の相談にのっているところだ』
『そうなんですか。桜井さん、楽しそうですね』
『はい! 大山係長さんはがんばって教えてくれますから』
『ええ。係長は僕たちにいつも教えてくれるんですよ』
『私も以前、ミスを助けてもらったんです』
『はっはっは。ミスは誰にでもある。失敗は先輩がフォローして一緒に対策をするものだ』
(桜井さんは置いといて。この男性と女性は、現実でも本当に社員なのかもしれません。姿形がここまで明確なうえ、エピソードまである。そして大山さんのふるまいから考えると――)
 怜は少し考えてから、にこやかに大山へと話をふる。
『――係長。私たちはどうすれば、今みたいに係長となごやかに話せますかね』
 その言葉を聞いた大山は、表情を曇らせる。
『……そうだな。セクハラとか、ハラスメントが怖くてなぁ。私のようなおっさんが、若い子に話しかけていいんだろうか……。恥ずかしながら、怖くてたまらないんだ』
 そう言った時、二人の男性社員と女性社員は遠ざかっていく。
(大山さんは現実で距離感をはかりかねているのかもですね。それが夢にこうしてあらわれているのでは? 肩を組んで話しあいながら仕事をしたい。しかし現実は遠い存在としてみているのかもしれません。どうすればいいかわからないと迷う。だからこそ、テレビ画面も真っ暗だったのかもしれません)
 さてどうしたものかと怜が考えた時――。
『そんなの、話しかけて欲しいに決まってます!』
 桜井が笑顔でそう言い切った。
『……桜井くん、いいのかね?』
『当たり前です! そりゃ体に触られるのとか、不潔だったらイヤです。でも純粋に助けてくれよう、よくしようってことなら、気軽に話しかけて欲しいですよ! 私は面接官の壁とかもイヤでしたからね!』
 いつわりなくいう桜井に、大山だけでなく怜も驚愕する。
(桜井さんの今の発言は……。夢のなかで大山さんの作り出す物語の一人としてのもの? いえ、それにしては桜井さんしか知りえないエピソードがまじっていました。……思っていた以上に、〈明晰夢〉の習得が早いのかもしれませんね)
 怜は嬉しげに笑うと、大山の手をにぎり――。
『大山係長。聞いての通りです』
『京極くん。……ありがとう、ありがとう!』
 そのまま嬉し泣きして、畳に膝から崩れていく大山。その近くに、遠ざかっていたはずの男性社員と女性がきてなぐさめている。
 怜は桜井の袖をつかんでスッと集団から抜け出し――。
『桜井さん。これは夢だと思いますか? それとも現実だと思いますか?』
 そう問う。
『京極先生。なに言ってるんですか。これが夢?……あれ?』
 これが夢なのかと疑問に思いはじめたらしい。桜井は顎に手をあて首をひねる。
 怜は小声で『あとで夢日記をつけて、もっと〈明晰夢〉を見る力をあげましょう』とささやく。桜井の耳元で。
『京極先生。私……あれ?』
『夢には検閲官もいません。当時はハラスメントの基準も、もっとゆるかった。彼は今の若手社員と気軽にコミュニケーションがとれない現実を、窮屈に思ってるのかもしれないですね。これは大山さんの願望を充足する。補償的な夢なのでしょう』
『は? へえ?』
『逆補償というものもあるのですが……。それはこの話を覚えていたら、あとで調べてください。そして私に教えてくださいね』
『逆補償?……あとで、はい』
 なおも夢か悩む桜井に、怜は微笑みながら続けた。
(覚えていなくてもいい。これが夢か現実か考えることだけで練習になる。もし覚えていたら、夢日記にかいて〈明晰夢〉のコントロールにつながるから、なおいいです)
 首を傾げる新人を笑みで見つめながら、怜はそう思う。そして――。
『――さあ、大山さんが浸りきっても大変です。そろそろ、やさしい夢から覚めましょう』
 夢を終わらせた――。

「――大山さん。おはようございます!」
 夢から覚めた大山の耳に聞こえたのは、桜井の元気な声だった。
「……あっ。す、すいません。あまりに気持ちよくて、眠ってしまいましたか」
 慌てて起きる大山に、手紙がさしだされる。細い両手から、ほがらかな笑みをそえて。
「いいんですよ。はい、こちらをどうぞ!」
「この手紙は……?」
 手紙を受け取った大山は、不思議そうに裏表を見る。
 怜は苦笑しながら、言葉をつけたす。
「みなさんにしているサービスです。今回は桜井さんが書いたのですよ。もしよければ、お店を出てから読んであげてください。癒やしにもつながるメッセージがあるかもしれません」
「そ、そのようなアフターサービスまでしているのですか。すばらしいですね」
 大山は立ち上がり、支払いの準備をしながら感嘆の声をもらす。
 怜は数枚のお札を受けとると、代わりにハンカチを手渡した。
「……これは?」
「大山さん。……涙が出てますよ?」
「……え?」
 自分の頬に触れる。気が付かない間に流れていた涙に、大山は困惑した。
 しかし、怜の柔らかな笑みで――。
「よい夢を見られたのでしょうかね」
 そう言われて、納得した。
「ええ。まだ思い出せます。……本当に、いい夢でした」
 そうして大山は夢現から出て、自宅へと向かう。
(そうだ。あの新人さん――桜井さんからの手紙には、なんて書いてあるんだろう?)
 動きやすくなった軽い体で歩いていて、ふと思い出した。手紙を開くと、そこには――。
『上と下をつなぎ、どちらの意見も聞いてくださる。そういった人が笑顔で話しやすいと、嬉しいと思います!』
 というメッセージが書かれていた。
(俺だってそうなりたい。そうなれたら……)
 まっすぐな善意がこもっている言葉だ。
 言うは易く行うは難し。そういう言葉があるが、まさにその言葉の意味することのようだ。そう大山は思った。
(……さて、まだまだやること。やりたいことがたくさんあるな)
 帰っても大山にはやることがたくさんある。持ちかえってきた仕事。
 そして――。
「――企画書を出そう。ワールドカフェのように、お茶を飲みながらリラックスした会議を導入するんだ。気軽に意見交換できる職場にしたい。きっとそれが業績にもつながると思う」
 大山は夢現に言って、やりたいことができた。お金のためにとやらなければいけないことだけではない。やりたいことができると――気力がわいてくるらしい。そう大山は感じた。
(俺は上司からの叱責も、下からの不満もすべて自分で受け止めなければ。そう思っていたのかもしれない。忙しさに追われ、その場しのぎだった。俺は上と下をつなぐ歯車、そして緩衝材にならねばいけないのに。個別に話をするのがむずかしいなら、ミーティングで個人が特定されないようにして。対策をしながら効率化をはかろう!)
 ずっと停滞していて、つまらないと思いながら仕事をこなしていくつもりだった。
 それが、こうしたい。こういう身のふり方をしたい。
 そういう考え方ができるようになっただけでも、贅沢をしたかいがあった。大山はそう思った。
 そして駅構内に入る前に、スマホで時間を確認する。
(……少し遅いけど、でもいけるか?)
 そうして、長らく会話すらしていない母親に通話をかけ――。
『――聡!? あんた、こんな遅い時間にどうしたの?』
(ああ。おふくろの声、懐かしいな……。顔もぼやける。きっと、また老けたんだろうな)
『聡? もしもし?』
「ああ。母さん。いや……久しぶりだなって」
『本当によッ! アンタは盆暮れ正月にも顔を出さんで――ってお父さん?』
『今すぐこっちに帰ってこい。盆暮れ正月にも帰さないような会社なんて、やめてしまえ!』
『お父さん!……でもその通りよ。こっちでゆっくりしなさい。私たちの望みは、あんたが笑ってる顔を見ることなんだからね?』
 母親のまっすぐなやさしさと、父親の不器用なやさしさ。
 大山は思わず、頬を濡らしながら――。
「――大丈夫。俺さ、こっちでやりたいことができたから。だから……まだ帰れない。電話したのはさ、二人に……言いたいことがあったからだよ」
『……なぁに、そんな改まって?』
「遅くなったけど、明けましておめでとう。……来年もちゃんと伝えたいからさ、お互いに長生きしような」
 涙声で言う大山につられたのか、電話先からも――。
『……あんたに体を気づかわれるとはね。こっちの方が心配だってのに』
『おい。……俺たちはお前に気を使われるほど年寄りじゃない。早く嫁と孫の顔と……聡の笑顔を見せろ。それが最大の親孝行だ』
「ははっ。親父はむずかしいことを言うな。……でも、諦めずに行動してみるよ。こんな世のなかだけどさ。変わろうと思って行動すれば。なにか、変われるかもしんないからさ。……親父もさ、そう言ったからにはさ。孫の顔を見るまで、死んだらダメだかんな?」
 涙声でからかう大山の電話先からは、『生意気を言うようになったな』。そう返ってきた。その野太い声は、やや濡れていた。
 電話を切った大山は、スマホをポケットにしまう。
 そして自宅へ帰るため、駅構内に入っていく。朝とはまるで違う。
 大山は、軽やかな足どりで改札をくぐった――。