三章

『卒論、書き終わった! あとは就活だけど……』
『桜井さん! さっきね、メールがきてたよ! 先に見ちゃったんだけど、内定だって!』
『ええ!? 本当に!? やった、やった! 遂に、遂にだぁ……』
 そこは桜井の自室だ。実家暮らし四畳半の部屋。
 そこにベッドと机、あとは本棚やファンシーな置物がある。
 そんな部屋に、桜井と大学の同級生女子がいた。
 二人は卒業論文を書くためにパソコンに向かい、キーボードをカタカタと動かしていた。そしてその作業も終わったようだ。
 一人暮らしをしている桜井は、実家に大学の同級生をまねいたことなどない。当たり前のように実家に友人がいるのも、メールを先に見ているのも奇妙だ。それでも、夢のなかにいる桜井は奇妙さに気が付かない。
 すると――。
『美穂、やったな』
『ありがとう! 私、内定もらえたよ』
『ああ。美穂ならいけると思ってたよ』
『えへへ。谷崎くんも、応援してくれてたもんね』
『ああ。俺も応援してた。だから、よけいに嬉しいよ。――な?』
 突如として部屋にあらわれた同級生らしき男――谷崎と呼ばれた人物。
 そして先に部屋にいた女子生徒は――。
『……なんだか、怪しいな?』
『ん? なにがだ?』
『優香、どうしたの?』
 ――いぶかしそうに谷崎の方を見ていた。
『……妙だ。お前、なぜ私に近づいてくる?』
『おいおい。優香、どうし――』
 谷崎がそう言いながら、優香に近づこうとすると――。
『――一度、ワタシは出直すとするか』
 優香と呼ばれていた女性は――黒い翼に馬の尾を持った姿に変化した。
『え!? 優香、その体どうしたの!? まるで悪魔みたいな……』
『機会はいくらでもある。また会おう。美味そうな小娘よ』
 ――バサバサと翼をはためかせ、空間にあいた穴にとび去ってしまう。
 谷崎は、その悪魔にぶらさがる馬の尾のようなものを必死につかもうとするが――。
『クッ! 間に合わなかったッ!』
『――えッ!? きょ、京極先生!?』
『監視していた者の夢に、うまいこと来てくれたのじゃがな……。やはり、優香とやらの名前もお主は知らぬ。それに、谷崎なる男もな。そんな者たちとの関係を演じて、不審に思われたのじゃろう。夢の主の記憶領域に眠るものとは、いささか異なる言動があったなどな』
『――せっかく、せっかくやつの手がかりをッ! 七年ぶりに巡ってきたチャンスだったというのにッ! 畜生、畜生ッ!』
 谷崎は――リラクゼーションサロン夢現の院長、京極怜へと姿を変え床を叩き悔しがる。
『ああ……。姉さん、ごめんなさい。千載一遇の好機を逃してしまったッ!』
『――ヤツに怪しまれてしまったな。だてに神話の時代から生き抜いているわけではない。些細な違和感でも、致命的じゃった』
『あれだけ……。あれだけ人の夢に入りこんでッ。ずっと演技も練習してきたのにッ!』
 桜井が見慣れていた部屋は一切なくなった。
 真っ白い空間。その中空に――クマの体とゾウの頭をまぜたような存在が浮いていた。
 怜は今にも泣き出しそうな痛切な表情で、床を殴り続ける。さらには削りとるように床を爪でひっかく。爪がはがれ、血が流れ出ている。その様に、桜井は思わず顔をしかめた。
 傷も痛そうだが――彼の表情の歪みは体の痛みとは違う。他のなにかが原因ではないか。
 夢のなかの桜井はそう思い、声をかけようとして――。
『……一度、この夢から出ましょう』
『ああ。ヤツは出直すと言っておった』
『ええ。チャンスはまたある。必ず。……その時こそ、ヤツを必ず――』
 爪がはがれているのに怜は拳をギュッとにぎり、ポタポタと血が滴り落ちていく。
 そうして、天を仰いだ怜が『夢から覚めます』と言うと――。

「――はぁッ。はっはっ……。なに、今の夢は?」
 桜井美穂は、ベッドからとびおきて暗い自室を見まわす。
 当然、学友はいない。怜もいない。悪魔も、謎の存在も、浮いてなどいない。
「京極先生と、悪魔。それに宙を浮く、クマとゾウをまぜたような生き物……」
 夢にしてはリアルすぎると桜井は感じた。
「あの宙を浮く生き物……。たしか」
 夢現でプレゼントされた枕を見る。洗濯した時に偶然、見つけた。普通に使っていれば、絶対に見ない部分。きれい好きで、内部を分解する桜井だからこそ見つけた。――そんな場所にプリントされていた生き物に、そっくりだった。
「それに、監視って……」
 桜井も夢の話で片づけるのが正解だとはわかっている。でも、出直すという言葉や監視という言葉がどうしても気になる。それに夢から覚めたあと――妙に元気がでない。
(まるで、献血で血をぬかれすぎて貧血になってるみたいな……。こんなの、初めて)
 ただの体調不良ならともかく、妙な違和感を覚えた。
(あの夢がなにかをあらわしてるのかな。それとも、まさか本当に私の夢に?)
 以前から怜のことを、すごいとは思っていた。でも、同時に謎も多いと思っていた。
「あの人なら……。もしかして本当に人の夢にも……。あり得そう」
 桜井は――怜に直接会って心当たりがないか聞いてみよう。
 そう思い、夢現の予約を取った。
(明日の午前、最終枠か)
 本当は桜井にそんなことをしている暇はない。
 卒業論文も終わっていない。あれだけがんばってきた就活も――いまだ内定がない。
(もうすぐ二月になるし。後輩たちも就活がスタートするしなぁ……)
 気だるくても、無理して動きまわらなければならないぐらい。尻に火が付いている状況だ。
 このままでは桜井は――本当に就職浪人してしまう。
「就職浪人なんてイヤだぁあああ……。サボってたわけじゃないのに、そんなのイヤだよぉ!……それでも、なんか放っておきたくない。確認しないと、気持ち悪い。うん、だから体も重いんだ! これで確認すれば、気持ちよく就活も卒論も書ける!」
 力強くグッと拳をにぎりながら言う。でも、やはりなぜか力が入らない。
 桜井は、再び倒れるようにベッドへと横たわった――。

 そうして翌日。
 桜井が夢現のインターホンをならすと――。
「……よ、ようこそいらっしゃいました。桜井さん」
「あの、京極先生――」
「――さあ、なかへどうぞ。施術のお話をしましょう」
 挙動不審な態度の怜が出迎えてくれた。
 いつもの爽やかな笑みも、作っているのがまるわかりだ。口の端がヒクヒク動いているのだから。
(……京極先生、怪しすぎない? 私でも、これはなにかあるってわかるよ)
 怜ならばなにか知っているかもしれない。その疑惑が、半ば確信へと変わる。
 桜井は「お邪魔します」と夢現のなかへ入った――。

 そうして、怜は妙に手早く施術の準備を済ませた。
 発言をさせる暇を与えないほど、手早く桜井をうつ伏せにしたが――。
「――京極先生。昨夜の夢のなかでのアレは、なんだったんですか?」
 ――桜井は、演技も駆け引きもできない。疑問におもっていたことを、ドストレートに聞いてしまう。
「……なんのお話ですか?」
「昨夜、私の夢に出てきましたよね。私、ちゃんと覚えてるんですよ?」
「桜井さんの夢に私が出演したのですか? それは、出演料をいただかないといけませんね」
「とぼけないでください。先生、演技が下手ですね。焦っているのまるわかりです」
「私が、焦っていると?」
「はい! 私が夢のことを聞いた瞬間、明らかに手つきが変わりました!」
「これは……。そういう手技なのです」
「嘘をつかないでください!……私、昨夜あれから妙にだるくて。まるで献血しすぎたあとのように」
「……ふむ。なるほど」
「こんなの今までなかったんです。だから怖くて戸惑ってるんですよ。……ただの夢とは思えない」
「悪夢とは、目が覚めるほどのものをさします。よほど、寝覚めが悪い。そんなイヤな夢だったのでは?」
「じゃあ、あの悪魔とか……。クマとゾウがまざったみたいな生き物のせいですかね?」
「獏は関係ないかと――」
 反射的に返したあと――怜の施術する手が固まった。
「……京極先生って、動揺を隠せないタイプなんですね」
 怜は思わず押し黙ってしまう。タオル越しに、怜の手のひらからじわりと汗が滲んできたのを桜井は感じた。そして怜は誤魔化すことを諦めて――。
「……そうですね。知っていることはあります。ですが、桜井さんには関係ありません。 本日、桜井さんが気だるいのも……。理由を知っても、仕方がないことです」 
「関係ありますし、知りたいですよ! 自分のことですよ!? それに、私の夢を監視しているとか言ってたじゃないですか!?」
「それは……。もうしわけなくは思っています。ただ、必要だったのです」
 怜の言葉からは、徐々に力が抜けていく。声は尻すぼみに小さくなっていった。
 怜をこまらせているのに罪悪感が芽生える桜井だった。でも、うやむやにしてよいことではない。
「ちゃんと、話してくれないんですか?」
「…………」
「……このお店の評価、満足じゃないにするしかないですかね。不信感を抱きましたし」
「――それは」
 うつ伏せになっていた桜井が身を起こす。
 キッと睨むような目をむけられ、怜も表情を険しいものにした。
 夢現は、店で受けるサービスの料金が安い。その代わり、睡眠関連品の通販業で利益を出している。開発費や委託業者に支払う手数料などもある。それは元をたどれば、怜の貯蓄。そして両親の保険金が元手だ。怜とて、脅すような桜井の言葉にゆずれないものがある。
「……桜井さんが言われたことは、あくまで夢のなかの話ですよね? それでは証拠になりません。悪質な業務妨害には、私も法的手段も検討せざるをえませんね」
 怜は声を低くして言った。その顔には、いつも浮かべているやさしい笑みはない。もしも、本当に桜井がそのようなことをしたら。そう考えると、とても笑えなかった。客商売のこの店にとって、たった一つでも満足じゃないという口コミが入るのはかなり痛い。
 売り文句である満足者百%が使えなくなってしまうからだ。
 やっと経営が軌道に乗り、利益がではじめた。広告もこれから。もっと増やそうかという時だ。それなのに、最大の売り文句が使えなくのは相当にキツい。
 信用を売りにしている通販で、信用を失うような悪質な口コミは放っておけなかった。
「法的!? そ、それは……。たしかに。私の言っていることには、証拠がない?」
 改めて、桜井は法廷に立っている自分を思い浮かべる。
 証拠として、そういう夢を見ました。こんなことを述べている自分が敗訴するのは――よく考えるまでもなく理解できた。
「わかっていただけたようでなによりです。――さて、お時間がきてしまいました。残念ながら、今日はここまでです」
 怜は手早く、器具を片づけはじめる。
 時間がきたのなら仕方がないと、桜井は会計を済ませ店を出た――。

「――よく考えれば、お昼休みが二時間あるのも怪しいよね」
 会計を終えた桜井は、夢現を出て近くにある電柱の陰に身をひそめていた。店の玄関はしっかりと見える。
(ここが病院とかで、午前のお客さんが押しちゃう可能性があるならわかるけど)
 夢現は時間制で、キッチリと時間通りに終わる。
(わざわざお昼休みを二時間取って……。それで夜は二十二時とか遅くまで営業してる。――このお昼に、なにかある気がする)
 桜井の勘である。もちろん、ただの勘だけではない。
 先日、夜の最終枠を取った時――片づけは非常にゆっくりとやっていた。
 それなのに、午前の最後枠を取った今日は、妙に手早く片づけていたのだ。
 今日は桜井が怜を追いつめたし、脅してしまった。それが関係して、早く帰ることを促したのかもしれない。
 でも桜井には、なにかこのあとに大切な用事がある人と同じようなしぐさだと映ったのだ。
「――出てきた!」
 私服姿の怜が、玄関から出てきた。片手にはスマホを持っていて、誰かと会話をしているようだ。そして早足でどこかに歩いていく。
(迷いのない足どり。どこか目的地があるはず!)
 時間的には、昼食を摂りに行っているのかもしれない。でも、それだけではない気がする。
(お客さんをすごく大切にしてるような京極先生が、自分のご飯のために人を急かしたりしない。そんな気がするし……)
 尾行するのは、悪いことだとは思う。
 それでも桜井は、小出しにされた情報のせいで、さらに気になって仕方がなかった――。

「……ここは、病院?」
 十分ちょっと歩いた。そうして怜が入っていった建物は――五階立ての大きな病院だった。
「受診するために、早足だったのかな?……ううん、それは違う。だって、病院もお昼休みだし。それに、病院に入るまでズッとスマホで通話してた様子もおかしかった。……口はほとんど動いてないのに、リアクションはしてた。まるで、脳内で誰かと会話しているようにこめかみに指をあててたし」
 怜に対する謎がさらに深まった。桜井は、怜の二~三分ほどあとから病院に入る。病院内に入ると、そこは外来を専門としているところではないのかもと思った。
(建物がすごい大きいのに、診察室が二つしかない。……待合室の椅子もすっごく少ない)
 キョロキョロと見まわしながらそう分析していると――。
「あの……。ご面会の方ですか?」
「あ、いえ。その……」
 受付を担当しているらしい女性職員が、ひょこっと姿をあらわした。
「どなたのご面会ですか?」
「えっと……。京極、さん?」
「京極なにさんですか?」
「え。京極……怜さん。……とか?」
「……そのような方は、入院しておりませんが?」
 しどろもどろで、見るからに焦っている桜井。病院職員は疑いの目をむけてきた。
「そ、そうなんですか!? わ、私は……その。付き添いで」
 しょんぼりする桜井を見て、対応していた職員はチラリと他の職員を見てからうなずく。
「ああ。なるほど! 京極さんって格好いいですよね」
「あ、そうですね。少し影がありますけど。いつもやさしく微笑んでますよね」
「ファンなんですか?」
「い、いえいえ! そんな、大層なものではないです!」
「そうなんですか。ここまでくるのは大変じゃなかったですか? 駅から離れてますし」
「あ、私……。歩くのは得意なんですよ」
「歩くのは健康にいいですからね。私なんてすぐ疲れてしまって。車がかかせないんですよ」
「車は運転が怖いんです。私、大学入る前に免許を取ったのはいいけどペーパーなんです」
「危険なら乗らないというのもすばらしいかと。交通事故で入院する患者さんもいますし」
「そうなんですね。やっぱり、事故は起きるものって言いますからね」
「はい。――ただ、事件は起こすものですけどね?」
「え?」
「――警備員さん。この人です」
「はい、わかりました」
「すいませんが、お話をお聞かせいただけますか?」
 ふいに聞こえた声にふりかえると、桜井の後ろに警備服を着た男性が二人立っていた。
「え、ええ!? ちょ、ちょっとお姉さん!?」
「すいません。不審な人をみかけたら通報しなければいけないんです。入院患者さんの安全を守るためなんです」
「わ、私は怪しいものではありません!」
「すごくお話しやすかったので、そうかもとは思いますけど。これも規則ですので。警備員がくるまでの時間かせぎにもしっかりノってくれて……。助かりました」
「なんのフォローにもなってないですよ!?」
 桜井が病院のロビーで泣きわめく。己の無罪を声高に主張して。
 すると、自販機コーナーの方から――。
「――すいません。そのお方は、私の連れです」
 桜井の聞き慣れた声がした。心なしか、呆れがまじっているようだ。
「京極さん。……本当ですか?」
「ええ。……桜井美穂さんと言います。私が彼女を置いて、コレを買いに行ってしまったばかりに……。ご迷惑をおかけしました」
 片手に缶ジュースを持ちながら、怜が深々と頭を下げる。
 それに合わせて桜井も九十度の礼をして、なんとか解放された――。
「――なんであとをつけてきたんですか?」
 エレベーターのなかで、怜と桜井が二人きりになる。そう問う怜の声は、冷ややかだった。
「すいません。……やっぱり、あそこまで言われたら気になって」
「……そうですよね。ですが、気にしないでください。私が、片をつけますから」
「そう言われましても……」
「――とにかく、です。病棟に着いたら、隅で待っていてください」
「はい……」
 桜井はしゅんと落ちこむ。やがてエレベーターは動きを止め、ドアが開く。
 怜は慣れたようにドアから出ていき、その後ろを桜井がトコトコとついていった。
「――すいません。京極ですが。面会をしてもいいですか?」
「はい。毎日、ありがとうございます。どうぞ」
 スタッフステーションに声をかけたあと、怜は一つの病室へと入っていった。
 大人しく廊下の隅に立っている桜井に――。
「――京極くん。偉いですよね」
「え、あ。はい」
 ナースらしき人が話しかけてきた。
「毎日、お姉さんのお見舞いとリハビリをかかさず。あれほど熱心なご家族、めったにいないですよ。おかげでお姉さんも、よくここまで無事で……」
「お姉さん?」
「あれ、ご存じじゃなかったですか?」
「い、いえ」
「彼女さんですものね。……京極くんのファンが見たら泣きますね」
 ふぅと溜め息をつくナースに、桜井が彼女じゃないと、否定しようとする。
 でも、すぐにナースコールが鳴ったようで走り去ってしまった。
(お姉さん?……京極先生の、お姉さんが入院してるの?)
 隅にいろと言われた。でも、好奇心には勝てず――病室をのぞきこむ。
 そこには、六個のベッドが並んでいた。
 その一つで、怜はベッドの高さを調節し――寝ている人を抱え、起こしている。
 そして、ベッドに座らせた。
 少しでも手を離すと倒れてしまうのか、ずっと肩を抱いて支えている。
(なんだか、大変そう。迷惑もかけちゃったし……。お手伝いがしたい)
 桜井はこれまでの罪悪感もあり、静かに室内に入る。
 そうして、怜と一緒に支えようと座っている女性に触れ――。

『――怜も今日で卒業か。早いもんだ』
『そうね。昔はなんでもイヤイヤって言ってたのに。……子供が大きくなるのなんて、あっという間ね』
『ああ。父さんも、なんだか泣きそうだ』
『怜! お姉ちゃんが写真撮ってあげるから! 決め顔でそこに立って!』
 それは、怜が高校の卒業式を終え――家族と話している場面だった。
『えっ。なにこ――』
『むっ。いかん!』
『――夢から覚めろ!』
 桜井が『なにこれ』と叫ぶ前に、その世界は消滅した――。

「――触らないでッ! 離れてくださいッ!」
「――ぇっ。ぁっ……」
 鋭い怜の声に、桜井はハッとする。
(ここ、元の病室?……さっきのは?)
 桜井があたりを見まわせば、先ほどまでと同じ。六人部屋の病室だ。
「わ、私……今!?」
「病室の外で待っているように……。私はキチンと伝えたはずですが」
 背中をむけながら顔だけを桜井にむけ、ギロリと睨む。まったく笑みのない怜のさすような瞳だ。いつもやさしい笑みを浮かべていた怜とは思えない。桜井はたまらず、身を竦めた。
「それは……すいません。大変そうだから、お手伝いできたらと思って。ご迷惑でしたよね」
「…………」
「あ、あの! 私さっき、夢みたいなの見ちゃったんです。夢のなかでは京極先生やご両親らしき人と、こちらのお姉さん。あと、宙を浮く――」
「…………」
 怜はなにもしゃべらない。沈黙が支配する病室のなかで、ジッと睨み続けている。
 まるで凍ったような病室。そして氷柱のような怜の視線。
 桜井はまたしても、バッと頭を深く下げる。
「すいません! 私、迷惑かけたぶんお返しがしたいと思って……」
「……過度なお人好し。あるいはお節介だと言われませんか?」
「はい、よく言われます。……すいません」
「……。――姉さん。横になりましょうか」
「……ぁ、すいません。また邪魔をして」
「…………」
 桜井の言葉に答えることなく、怜は姉――舞香をベッドに寝かせる。
 そして、眠っている舞香を黙って見つめる。血色も悪く細いその体は、まるで枯れ枝のようだ。だんだんと直視するのがつらくなり、怜は窓から見える外へと視線をむけた。
 窓から見えるのは、凍てつく冬の寒さで葉を落とし、湿った土のような色をした木々。
 生命の輝きとも言える葉がなく、細い枝もすべて剥きだし。その姿はまるで、ミイラのようだ。死んだように眠っている。もの寂しいその枝が――怜には舞香と重なって見えた。
 骨格ばかりで、肉が付いていないその姿が。
 怜は知らず知らずのうちに、唇をギュッと噛みしめていた。
 桜井には、怜がどのような思いを巡らせているかなどわからない。
 重い沈黙に耐えきれず、桜井は――。
「――お、お見舞いのタイミングが悪かったんですかね。気持ちよさそうに眠ってます」
「……たしかに、そうですね。本当に気持ちよさそうだ。起きる日が来たら、姉もそう言うでしょう」
「え?」
「数年ぶんの昼寝ですからね。それはもうスッキリとした顔をしてくれるでしょうね」
「――そ、そんなに長く、目を覚まされていないんですか!?」
「ええ。桜井さんの言われる通り、気持ちよさそうに眠っていて、弟としてもなによりです。苦しそうに眠るより、よほどいい。もっとも、せっかくの気持ちよい睡眠も、目覚めなければよいものだったと感じることはないでしょうけどね」
 丁寧なはずなのに、早口で轟々とまくしたてる怜の口調。
 それは桜井からすると、まるで吹雪のような冷たさを思わせるものだった。
「……きょ、京極先生。お、怒っていますか?」
「そう見えますか? 自分では笑顔でいるつもりなんですがね。それなのに桜井さんから怒っているように見えると言われるのは――」
 京極は数秒、桜井を見すえて口をつぐみ――。
「……いえ、なんでもありません」
 顔をそむけ、言葉を続けた。
「さて、桜井さんにとっても長居して楽しい場所ではないでしょう。帰るとしますか」
 その時にはもう、いつも通りの柔らかな微笑みを浮かべていた。
「は、はい」
「ご安心ください。姉がどうしてこのような状態におちいってしまったかは、帰り道でちゃんとお話しいたします。……熱っする心までも冷ますような、北風が吹くなかで」
「……はい。わかりました」
 笑顔の仮面の下に激情を隠す京極の心を察して、桜井はうなずいた。
 桜井としても、開放的な屋外で話を聞きたかった。この場所は、桜井にとっては深海のように重苦しい。
 外に出た方が、怜も落ち着いて事情を説明してくれそうだから――。

「――どうぞ。温かいココアです」
「あ、どうもありがとうございます」
 長話で冷えてはマズイですから。そう言って怜が桜井に自販機で買ったココアを渡し、桜井の横へと座る。病院の外にあるベンチに移動した時には、怜の心もいくらか落ちつきを取り戻しているようだった。
 それでも、お互いに気まずい沈黙の時間が続く。
「私には――七年間、寝たきりの姉がいます」
 沈黙をやぶったのは、怜だった。
 桜井は、うつむいて聞いている。ホクホクと温かい缶を手でこすりながら。
「好奇心旺盛で、活発で。よく笑う姉でした。……どこか、桜井さんと似ているかもしれません」
「……そう、なんですか」
「両親の死後、徐々に眠っている時間が増えていって。――ある日から、まったく動かなくなりました。夢現な表情で浮かべていた笑みさえもなく。本当に、人形のように」
 ピュウッと寒い風がふく。鼻が少し痛いほどの寒さだが――怜は微動だにしない。
「それから姉は、入院することになりました。自分で口から食事もとれないから、胃に穴を開けて栄養を流しこんで。……そうして、なんとか生きています」
「……そんなことがあったんですね」
「ええ。――この七年間、瞬きすらしてくれない。……私は、元々理学療法士だったんです。だから、昼の休憩を利用して姉にリハビリをしていました。いつか目を覚ました時、関節が固まって動けない。筋力がなくなってまったく動けない。そんなことにならないようにと」
「七年間……」
「ええ。まったく動かない――枯れ木のようになってしまった姉と、七年間。毎日、毎日。……このリハビリが報われる日がくることを祈りながら」
「…………」
「夢現の営業も、生活や人の笑顔を見る仕事がしたいという、私が抱える一つの夢。そしてもう一つの重大な夢は――姉をあんな状態にしたヤツを、つかまえるためです」
「……え?」
 真剣に話を聞いていた桜井でも、とても理解ができない。突飛な内容だった。
「人の夢に入りこみ、その者の生気を喰らう悪魔――。桜井さんも、覚えはありませんか?」
「――ま、まさか! 昨日の夢に出た悪魔って!?」
「そうです。あいつこそ、私が七年間追い続け――ズッと見つけられなかった犯人。昨日、やっとのことで見つけた敵。――メアという存在です」
「メア……」
「ヤツは、神話の時代から存在するそうです。……人の生気を喰らい、生き続けている」
「そんな……。もしかして、私も狙われているんですか?」
「そうですね。人一倍の努力をするからこそ、空回りする。そうして失敗したからと諦めたり、違う効率のよいやり方を探さない。自分に発破をかけ、もっとがんばろう。そう言い聞かせ、這いあがろうとする。そんな人間が堕ちていく夢が――人間が、メアの好む生気です」
「それは……。私、そんなつもりじゃ……」
「自覚はないのでしょうね。自覚がないからこそ、桜井さんはメアの好む人格となったのでしょう。私の相棒――獏も、同意見です。桜井さんの夢に入りこんだ時に確信しました」
「やっぱり……。昨日のことは、ただの夢ではない。そして、私の夢に入りこんだのにも……理由があったのですね」
 怜は、ゆっくりとうなずく。そして遠くを見つめながら続ける。
「まず私の相方でもある獏からですが……。獏は古くから人の悪夢を喰う幻獣として人々から敬われてきました。ある地域では、悪夢をみないために寝る前に獏を模した像を枕元に置くこともあるそうです。そして獏とメアは、求めているものが正反対ですから。彼もメアに消えて欲しいと思っているのですよ」
「その……正反対ってことは、メアさんはいい夢を見せるんですか?」
「ええ。現実に戻ってきたくなくなり、いずれは現実の肉体が死ぬほどに、いい夢をみせます」
「し、死んじゃったら、折角のいい夢が台無しじゃないですか!」
「そうです。そうやって死ぬまで生気を吸い取られるんですが、獏からすれば食事――人間の悪夢を食べられなくなります。言うなら、食糧を奪い合う敵同士ですね」
「……獏さんの方が、人にとっては嬉しい存在ですね」
「ですね。獏が桜井さんを監視していたのは、メアを見つけるため。これ以上、ヤツに生気を吸われる犠牲者をださないため。そして――獏にヤツごと夢を喰わせ、奪われた生気を取り戻すためです」
「そんなことができるんですか?」
「わかりません。懸念事項はいくつもある。……ですが、他に手はない。それが、獏と話した結論です」
「……そうなん、ですね。じゃあ、昨日は私のことを守ってくれてたのに。……本当に、すいませんでした」
「謝らないでください。――むしろ、桜井さんやみなさんに謝るべきは……私の方です」
「……え?」
「私は、夢現でメアの手がかりを見つけるために、みなさんの夢に侵入しました」
「それは、結局守るため――」
「――私には、古い神。忘れられた神から与えられた力があります」
「……はい?」
「夢現で私は、〈明晰夢〉を磨くと同時に――与えられた三つの能力を磨いてきました」
「どういう、ことですか?」
「……まず、〈明晰夢〉とは読んで字のごとく。夢を明晰に理解できる能力です。〈明晰夢〉とは、色々なものがあります。たとえば前明晰夢では、どうにもおかしい、これは夢なのかと自問します。しかし、これは夢だという真実にまではたどり着けない。そういう種類もあるんです。〈明晰夢〉のなかでは、身体行動を意識的に操作できる。物体を出現、消失させたり。そうして夢の進行を書きかえることすらもできる」
「でも、〈明晰夢〉は私も聞いたことがあります。練習すれば、普通の人にも――」
「――その通りです。ですが、ここまで自由にはいかないのが普通です。……そしてあと二つの方が重要なんです」
「あと二つの能力、ですか」
「はい。一つは――人の夢のなかに紛れこんだ異物を排除する能力です。そこで異物をつかまえ、排除することができます。体内に侵入したウイルスをつかまえる、免疫のように。……ですが、これはメアほどに強い相手では完全ではない。……以前の私では、皮膚をわずかに溶かす程度でした」
「…………」
「そして最後の一つ。それは――触れている人の夢に、入りこむ能力です」
「――え?」
「施術に取り入れながら、みなさんでズッと練習してきました。通常、夢の主役は見ている人そのものです。ですが――私は夢を見ている人物と同じだけの権限を持つ。夢の登場人物として自由に夢を進行できます。修練することで、それはさらに高まるんです」
「そ、そんなことが……」
「できるんですよ……私には。筋書きを変えたり、夢から覚めさせたり。その人の無意識的にある記憶を紡いで、ある程度は狙った夢を構築することも。……もちろん、材料として脳内になければ夢も構築できません。問診で悩みを知らなければ、筋書きも作れませんけどね」
「…………」
「メアを夢から逃がさないためには、昨日のような違和感を抱かせないようにしなければいけない。夢現で人の夢に入るのは、練習もかねてです。次々と移りかわる話題のテーマに、知らない人物でも……。演技っぽさをださず対応できるように」
 桜井は、黙って真剣な表情をしている。怜は、自嘲するようにふっと苦笑し――。
「まるで、人体実験ですよね。軽蔑してくださってけっこう――」
「――しません」
「……え?」
「だって! 京極先生にどんな目的があって。どんなことをしていたとしても! それでも……。そのおかげで、笑顔になれたんですから! みんな、みんなそうです!」
「桜井さん……」
「そうでなければ、満足者百%になんてなりません!」
「桜井さんは、私が神の力を与えられている。まるで夢のなかのような、奇妙で突拍子もないことを言っているのに……。それを、疑わしいとは思わないんですか?」
「思いません!」
「やはり、メアや獏をちゃんと見たからですか? だから信じられると?」
「それもあるかもしれません!――でも、先生が人の笑顔を大切にしてるって。そんな立派な人だって知ってるから! 口コミを見れば、感謝の声がズラッと並んでいます! それが先生のしてきたすべてじゃないですか!――違いますか!?」
 桜井は力強く、そして真剣な面持ちで言い切った。
 頭がおかしくなったんじゃないか。そう判断されてもおかしくないことを、怜は語ったつもりだ。そんな怜を――信じてくれる人がいる。
「あなたという人は……」
 怜にとっては、七年間にもわたる孤独な戦い。同時に――七年間、罪を重ね続けている。
 その罪を誰にもうち明けられず。許されることもない。
 それを――許してくれた。
 あろうことか、怜は間違っていない。その証拠があるだろう。
 そうやって、むしろ後押ししてくれた。
 そんなお人好しすぎる優しさが嬉しくて――怜は、思わず目頭が熱くなる。
「ありがとうございます。……私は、救われた気分です。これで自信を持って、また夢現で働ける。周囲を見渡して、助けてくれる人を探してみるものですね」
「そうですよ! 抱え込みすぎないでください!」
 明るく、快活な笑みが――元気な時の舞香と重なる。
 怜は目の端に涙を浮かべ、微笑み返す。
「本当に、ありがとうございました。――それでは、午後の診療が迫ってますので、これで失礼します」
 そうして一礼すると、早足で去っていく。
 そのがんばる男の背中を見送りながら、桜井は――。
「私は……。ううん、私もがんばらないと」
 自分もがんばらなくてはと思案にふける。
 もうすぐ完成する卒業論文。――そして就活について。
「就活。就職したいところ……」
 桜井の頭に、ピンと一つのことが浮かんだ――。

 そして、その日の夜。二十二時をすぎた時間に――。
「――桜井さん? このような時間にそのような格好で……。どうされたのですか?」
 閉店直後の夢現に、桜井はリクルートスーツを着てやってきた。
「就職活動です」
「そうでしたか。お疲れさまでした」
「違います。――私は、御社で働きたいと思っております!」
「……はい?」
「面接を、お願いできませんか?」
「えっと……。ちょっと、突然なことなのでよくわかりませんが。立ち話もなんです。なかにどうぞ」
「はい!」
 そうして桜井は、怜に導かれるまま夢現の店内へと入る――。
 そうしてリビングテーブルの席へ座る桜井に、怜はお茶を出す。
「粗茶ですが、よろしければどうぞ」
「ありがとうございます! こちら、履歴書になります」
 桜井は、怜にスッと履歴書を手渡す。
 怜は桜井の対面に座り、履歴書を見ながら困惑した表情を浮かべる。
「……まだ内定が一つもないんでしたか」
「お恥ずかしながら……」
 桜井はしょんぼりしたように答えたあと、キリッと表情を引きしめる。
「う~ん。そうですねぇ……。桜井さんは、医療系ではなく経済学部ですね?」
「はい! 真剣に、休むことなく講義へ参加し、学んできました!」
「それはすばらしい。ですが、ウチではせっかく学んだ知識も活かせないでしょう。……本当に、夢現で働きたいなどど思っているのですか?」
「はい。私は、どうしてもここで働きたいと思っています!」
 言い切る桜井を見て、怜は頭を押さえる。
 まるで、脳内で誰かと会話しているかのように。――時には煩わしげに。
「ウチの待遇とか……。求人を出してないですから、知らないですよね?」
「それは……。はい」
「労働基準法ギリギリだったらどうするんですか? あるいは、いわゆるブラック企業だったら」
「そう……ではないと信じています。京極先生は、そんなことはしないと!」
 なおも悩ましげに、怜はこめかみをグリグリともむ。
(い、勢いできちゃったけど……。やっぱり、求人も出してないのに迷惑だったかな!?)
 怜の一挙手一投足で、桜井はドンドンと不安になっていく。
 思わずソワソワとしてきた時――。
「そうですか。……じつは私は、年収や休暇。あらゆる条件面で夢現よりも安定しているよい会社が、求人を出しているのを知っています。急募らしいのですが……。それでも、あなたは夢現で働きたいですか?」
「……え、それはぜひ、そちらをご紹介していただきたいです!」
 怜から願ってもない言葉が出た。勢い任せだったが、とびこんで迷惑かもと思っていた桜井だ。ちゃんと求人を出していて、内定の確率が高いのなら。それは喉から手が出るほど求めていものでもある。気が付けば、食い気味に返事をしていた。
 だが、怜はくすりと笑う。
「……なるほど。あなたは嘘をつく時、本心から嘘をつけるのですね」
「え、私は嘘なんか……!」
「ええ、無意識でしょう。本人は嘘をついている自覚なんてない。なにせ、実際にそうだと心から思いこんでいるのですから」
「思いこみが激しいとは、たしかに言われますが……。これもしかして、圧迫面接ですか?」
「まさか、違いますよ。――じつは、私が好条件の求人を知っているというのは嘘なんです」
「……はい? な、なんでそんなひどい嘘つくんですか!?」
「たしかに、ひどい嘘をお互いにつきましたね。私は嘘をついた自覚があり、桜井さんは無自覚で、ですが」
「私は一つも嘘なんてついてないです!」
「ついたじゃないですか、『どうしても夢現で働きたい』という嘘を」
「あ! その、あれは……」
「目の前につきつけられたエサに、あっさり食いつきましたね。つまり、『どうしても』という言葉は――嘘でしたよね?」
「……その通り、です」
 自分からアポなしで押しかけたうえ、正論をつきつけられた。
(非常識だって怒鳴られなかっただけマシかな……。仲良くなれて、支えたいと思ったけど。……でも、安定とかにつられて失礼を重ねちゃったし)
 桜井は、うなだれながら肯定するしかない。
「……なぜ通常の就活生のように、この場では『それでも私は御社で働きたい』と言わなかったのです? ひとまず内定をもらってから、また好条件の会社を探せばいいのに。なぜ、そんな嘘のつき方はしなかったのですか?」
「え、それは……。その、なんででしょう? 失礼すぎると思ったから……かもしれません」
「後付けすれば、いくらでも理由は出てきますよね。合理的に考えれば、この面接で先ほど桜井さんがした返答は間違いです。……しかしあなたは、必死になればなるほど、不合理な言動をなさるようですね」
「……さっきの、バカ正直に答えてしまったやつですか?」
「そうです。ああしてバカ正直に答えてしまうことこそ、就活で数々のお祈りメールをだされた理由でしょうね。合理性を求める企業は、不合理な回答をする人材は求めませんから」
「はうっ!……その通り、かもしれません!」
 もう、大ダメージだった。昼、弱っている怜を見て勘違いしていた。
 怜は冷静ならば、物事を見透しているような人物なのだ。そのことを、桜井は失念してしまっていた。
「加えて言うのであれば、本気で合格したいのにアポなしで就職面接を希望する。そんな行為、不合理極まりないですからね。常識を知っているのなら、いかに筋が通っていない言動だったか理解できるのでは?」
 桜井は思い出す。
(たしかに、そうかも。企業の面接でも緊張しすぎて、一貫性のない言葉を繰りかえしていたかも。――っていうか、履歴書の志望動機と矛盾するような返答もしてたかも!?)
 怜に指摘されたことで、桜井は気が付いた。今までの就職活動で繰りかえしてきた失態に。そして一度考え出せばあれも、あれもそうかもという心当たりが脳内をうめつくした。
 今回の面接は、怜の弱みやコネにつけ込んだような罪悪感もある。
 桜井は胸がギュッとしめつけられるように痛むのを感じる。本当はすぐにでも叫びながら走って家に帰り、温かな布団に包まれたい心情だった。
「うう……すいませんでした」
 しかし、まずは嘘をついてしまったことを謝らなければいけない。
 そう反省しながら桜井は声をしぼり出し、頭を下げて――。
「――ですから、私は桜井さんを採用したいと思います」
 ――内定を告げる言葉が返ってきた。
 これまでの流れで、採用される要素なんてまったく感じなかった。
 桜井はゆっくりと頭を上げ、なにかの聞き間違いかと怜を見つめる。たった一人の面接官は、ニコニコと実に楽しげだ。
「……はい? 今、なんと?」
「私が求めていた人材はまさに『嘘を嘘だと思わない。不合理で一生懸命なバカ正直者』だったんです」
「あの……。本当にありがたいんですが、その……」
「なんでしょう? やはり、内定は辞退されますか? 残念です……」
「いえ、いえいえいえ! ぜひとも、御社の成長と発展に貢献させていただきたいのですが! そうじゃなくて、採用理由はそれでいいんですか!?」
「これでいいんですよ。桜井さんには、慎みの代わりに情熱がある。合理性の代わりに発展性がある。理論の代わりに情感がある。いずれも私にたりなくて、強く欲していた部分です。……私には、成しとげたいことがあるんです。昼にもお話した通りに。ぜひ、お力を貸してはいただけませんか?」
「成しとげたいことっていうのは……。お姉さんの目を覚ますこと、ですか?」
「……大半を占めているのはそうです。ですが、それだけではありません。それを成すには、桜井さんがいなければダメなんです」
「……では、本当に?」
「ええ。……元々、女性職員の採用を考えていたんです。やはり男性だけでは、女性のお客さんが警戒しますからね」
「う、嬉しいです! がんばります!」
「それに――メアを欺くには、桜井さんは最適です。人一倍がんばる努力から堕ちる。そういったメアを呼び寄せるエサとしてだけでなく、です」
「ほ、他にもと言いますと?」
「桜井さんは不合理に動きます。不合理が連続する夢に入っても、演技をしている自覚がなく、夢を進行させるとみました。普段からお人好しで、振りまわされても表情にはでない。そもそも気が付かない。これは昼に、病院の受付で話している時にも思いましたが」
「……あ。受付で警備員さんを呼ばれた時の会話ですか?」
「ええ、そうです。受付の方のふる話題は、不自然でした。時間かせぎをしようとテーマが次々いれかわっていた。それでも、桜井さんは気が付かずに自然体でしたね。これは、後輩さんとかに振りまわされて身に付いたのかもですが。とにかく――よいエサで、自然に不合理をおこなう。この二つの要素を持ち合わせる人物は桜井さんの他にいない」
「そ、それは……。バカにされているのかどうなのか。これは、喜んでいいんですよね?」
「ええ、唯一無二ですから。……私の頭のなかで、獏も採用しろとうるさいんですよ」
「ど、どんな理由であろうと内定は嬉しいです! どんなことでもやります!」
「ほう、それはよかった。それでは、雇用契約書なども用意しておきますね」
「はい! よろしくお願いします!」
 桜井はあと二ヶ月で、就職浪人になるところであった。
 それが遂に、回避された。ましてや、素敵な仕事だなと思っていた怜の店だ。もう踊り出しそうなぐらいの気持ちだった。
 さらに、怜は――。
「よろしければ社員雇用までの三ヶ月間も、アルバイトで働きますか? もちろん、施術に必要な知識技能取得の勉強時間も、就労時間にふくめますよ」
「い、いいんですか!? ぜひ、お願いします!」
 履歴書や面接のための交通費など、とにかく就活期間は出費がかさんだ。貯金も底が見えかけていて、卒業旅行にいけるのかも怪しくなってきた時に、京極からこの提案だ。桜井は二つ返事で受けいれた。
「よかったです。――では、まずはこの書籍をすべて覚えていただきます」
「わかりま――……」
 爽やかな笑顔で立ちあがった怜が運んできたものに、目が点になる。テーブルに数十冊もの書籍を積み上げられ、桜井は言葉を失い固まった。
「ああ、眠くなったら言ってくださいね。〈明晰夢〉を見る練習をしますので」
 桜井の目には――怜の浮かべる微笑みが、サディストや悪役の嗜虐的な笑みと重なる。
「これから楽しみになります。――どんな変化が起きるのか。よろしくお願いしますね」
「よ、よろしく……。お願い、します」
 最初の出勤日を告げられると、桜井は寒空のなか叫びながら走って家に帰った。
 その表情は、笑いながらも泣いているような。
 なんとも言えない顔だった――。